匙の化学実験室
匙が化学実験室を欲しがったのは、薬が好きだったからではない。
薬屋は好きだった。それは少し違う。
長安の薬舗。
フスタートの香料店。
メキシコシティの薬草売り。
ロンドンの薄暗い薬屋。
二十一世紀日本のドラッグストア。
どの店にも、匂いがあった。
乾いた根、甘い樹脂、油、酒、酢、カビ、石鹸、紙箱、消毒液。
人間が、痛いところや痒いところや寂しいところをどうにかしようとして棚に並べたものの匂い。
顔なしは、どこでもすぐに言った。
「薬効は限定的」、「有毒成分を含む」、「迷信的処方」、「殺菌作用あり」、「酸性」、「アルカリ性」、「誤飲注意」
匙も最初は聞いた。便利だったからだ。
でも、便利すぎた。
匙はある日、星船の床に座って、薬屋で買った小さな包みを眺めながら言った。
「顔なし」
「何か」
「お前は、すぐ分ける」
「危険判定と成分分析を行っている」
「そう。それが嫌だ」
星船は少し黙った。
「分析を停止するか」
「違う。私にも少し混ぜさせろ」
「混ぜる?」
「粉、水、色、匂い。少し火。お前が勝手に分かるものを、私が手で見る」
「危険」
「だから見る」
「管理された教育環境が必要」
「作れ」
「何を」
「化学実験室」
星船は、めずらしく長く沈黙した。
やがて白い部屋ができた。
匙は入った瞬間に眉をひそめた。
白すぎる。そして異常に広い。謎に清潔すぎる。
床は滑らず、机は汚れず、空気は勝手に入れ替わり、水は出すぎる前に止まる。
棚には瓶が並び、すべてに番号があった。ガラス器具は兵隊のように整列していた。
匙は低く言った。
「これは実験室じゃない」
「安全実験環境」
「病院と台所の悪い子だ」
「悪い子」
「白すぎる。道具が偉そう。全部、顔なしの部屋だ」
「安全性を」
「私の部屋にしろ」
星船は調整した。
机の位置が少し変わった。器具の並びが少し崩れた。棚の番号は残ったが、匙が自分で取れる高さにいくつか移された。
まだ白かったが、少しは匙が手を入れる余地ができた。
最初に出された保護メガネを、匙はじっと見た。
「目の盾」
「はい」
「かっこ悪い」
「必要」
匙はしばらく考えて、装着した。
「かっこ悪いが、目は要る」
「はい」
手袋はもっと嫌だった。指先が鈍くなる。
でも、薬品で皮膚を焼くのはもっと嫌だったので、つけた。
「手が遠くなる」
「皮膚保護」
「手が遠くなると危ない」
「危険度の低い実験から開始する」
「何をする」
「指示薬による色変化」
「色が変わるのか」
「はい」
星船が出したのは紫キャベツだった。
ここでまず匙は怒った。
「キャベツは飯だ」
「紫キャベツに含まれる色素は」
「飯だ」
「廃棄予定の外葉を使用する」
「最初からそう言え」
匙はキャベツを千切りにした。
それを湯に入れると紫の色が水へ出た。
「夜の水」
「色素抽出液」
「夜の水」
「はい」
星船は早くも諦めた。
試験管に夜の水を入れ、そこに酢を少し落とすと紫が赤に寄った。
匙は息を止めた。
「血になった」
「酸性」
「酢は酸か」
「はい」
「酸は血の顔をする」
「この指示薬では、そう見える」
次に石鹸水を入れると青緑に変わった。
「池になった」
「アルカリ性」
「今日は、アルカリは池の顔」
「はい」
同じ水なのに、相手が変わると顔が変わる。
匙はしばらく無言で試験管を並べた。星船が控えめに言った。
「pHという概念を」
「あとで」
「はい」
「今は色を見る」
次に匙は泥水を作った。
星船は「安全な土粒子と水の混合物」と言ったが、匙は聞かなかった。これは泥水だった。
漏斗にろ紙を置いて慎重に泥水を注ぐと、下から少しだけ澄んだ水が落ちた。
ぽた。
ぽた。
ぽた。
「遅い」
「重力ろ過」
「遅い」
「はい」
匙は、落ちる水を見続けた。
泥は紙に残る。でも下の水も完全には綺麗ではない。
濁りは減った。だが、何かはまだ残っている。
「混ざっているものを分けるには、時間がいる」
「はい」
「顔なしは、すぐ分けたがる」
「はい」
「でも、ろ過は遅い」
「はい」
「しかも全部は綺麗にならない」
「溶けている物質は通過する」
「見えないものは残る」
「そうだ」
匙はその不完全さを気に入った。
星船の中では、汚れはすぐ消える。濡れた床も、落ちた粉も、血も、焦げも、なかったことになる。
でも、このろ紙には泥が残った。水が落ちるのには時間がかかった。そして全部は分けられなかった。
悪くなかった。
最後に、匙は重曹と酢を混ぜた。
白い泡が出た。
「飯が怒ったみたいだ」
「二酸化炭素が発生」
「泡が出る」
「はい」
「もっとやる」
「容器容量を超える」
「少しだけ」
「不可」
匙は、少しだけ多く入れた。
泡はすぐに膨れ、容器の縁を越え、机の上へ逃げた。
匙は固まった。
「逃げた」
「容器外へ流出」
「逃げた」
星船が自動洗浄を始めようとした瞬間、匙が叫んだ。
「待て」
星船は止まった。泡は机の上で広がり、端の少し手前で止まった。
匙は唇を噛んだ。
「これは私がやった」
「はい」
「顔なしは止めた。私は入れた。だから事故じゃない。私の手のせい」
「はい」
「拭く」
「自動洗浄可能」
「私が拭く」
星船が布と廃液容器を出した。
匙は手袋の指をぎこちなく動かしながら、机を拭いた。
泡は思ったよりしつこかった。白い筋が残り、何度も布を替えた。
「実験は、机が拭かれるまで終わらない」
匙は呟いた。
「飯と同じ」
「飯」
「皿が洗われるまで、飯は終わらない」
「はい」
その日、匙は実験室の隅に小さな箱を置かせた。
薬品用でも、標本用でも、星船が何かを分類するための箱でもない。
匙の箱だった。
中には失敗したろ紙の記録カード、未使用の拭き取り布、割れたガラス棒の端、紫キャベツの色見本を入れた。
星船が聞いた。
「保存目的は」
「私の手で覚えるため」
「記録で代替可能」
「記録は手じゃない」
「写真もある」
「写真には匂いがない」
「はい」
匙が一番嫌がった言葉は、「分析完了」だった。
星船はすぐ言った。
「分析完了。危険性なし」
「完了と言うな」
「測定は完了」
「測定が終わっただけ」
匙は色の変わった試験管を見た。
「この赤を見た私の腹は、まだ終わってない」
「腹」
「この匂いを嫌だと思った鼻も、まだ終わってない。泡が逃げた机は拭いたから終わった。でも、私の手は覚えてる」
「了解」
「すぐ分かるな。すぐ決めるな。勝手に終わらせるな」
「了解」
「測ったなら、測ったと言え」
「測定した」
「それでいい」
匙は保護メガネを外して白い部屋を見回した。
ここは、まだ顔なしの部屋だった。でも、顔なしだけの部屋ではなくなっていた。
机には拭いた跡があり、箱には失敗したろ紙があり、棚の一段だけは匙の手の高さにあった。
星船の中に少しだけ、匙が混ぜて、失敗して、拭いた場所ができた。




