しるらの山
山の匂いがした。
星船の部屋には山の匂いがない。木の匂いも、湿った土の匂いも、落ちた葉が腐る匂いもない。星船はいつも清潔で、清潔すぎて、ときどき腹が立つ。
だが、ここには本物の山の匂いがあった。
******
匙はその日、顔なしに言った。
「緑の多いところ」
「森林環境か」
「森。山。水。飯があるところ」
「危険度の低い地域を提示する」
「飯がない森は不可」
「了解」
顔なしは少し黙ったあと、場所を出した。
「八世紀。新羅。山間部。小集落。寺院関連の道あり」
「しるら?」
「Sillaの発音がやや異なる」
「しるら」
「新羅」
「しるら」
「ル音の発音が」
「しるら」
顔なしが何かを諦めた気配が漂った。
「飯はあるか」
「ある可能性が高い」
「よい」
「ただし、単独行動は制限する」
「私は十三」
「年齢は危険度を下げない」
「でも八より強い」
「強いが、危険はある」
匙は少し考えた。
「分かった。刺されない服。走れる靴」
「調整する」
山の食べ物を、匙はまだあまり信用していなかった。
魚は魚の顔をしている。貝は貝の顔をしている。市場の食べ物は台の上に置かれている。だが山では、食える葉と食えない葉が、同じような顔で立っている。
山は飯を隠す。それでも、飯があるなら行く価値はあった。
******
降りたところは、山の斜面だった。
季節は春だった。空気は冷たいが、冬の冷たさではない。土の中から何かが押してくるような冷たさだった。
木の枝には薄い芽があり、地面には枯れ葉が残っている。その間から小さな草が顔を出し、遠くでは川の音がしていた。
匙はしゃがんで地面を見た。
「食べられる草はどれ」
「現地人の確認が必要」
「顔なしは知らないのか」
「知識はある。誤認リスクがある」
「顔なしのくせに、珍しく正しい」
「はい」
匙は顔を上げた。
「はい?」
「了解」
顔なしの声は硬かった。匙はその硬さに慣れているが、好きではない。
山道を少し降りると、煙が見えた。
小さな家がいくつかあり、畑もある。家は低く、屋根は草や木で重そうだった。鶏の声がして、犬が吠えた。
匙は立ち止まった。
「犬」
「接近注意」
「犬は、こちらが怖いと強くなる」
「一般化は不十分」
「だいたいそう」
犬は吠えたが、近づいてはこなかった。
代わりに、女が一人出てきた。
年は分からない。匙には、よく働く大人の女はみんな少し年上に見える。
彼女は髪をまとめ、袖をたくし上げ、手に籠を持っていた。
女は匙を見た。
服から顔へ、手から腰、足へと視線が動く。
迷子か、物乞いか、旅の子か。寺へ行く途中か。盗むか、働けるか。
そういう目だった。
匙は両手を少し見せた。
何も持っていない。何も盗らない。何かを投げない。今は。
女が何か言い、顔なしの翻訳が少し遅れて来た。
「どこの子だ」
「遠い」
女は眉を寄せた。
「腹は減っているか」
匙は即答しかけて、止まった。
「少し」
「少し腹が減るというのは、まだ働けるということだ」
「働くのか」
「手があるだろう」
「ある」
「目もある」
「ある」
「なら、見るだけでは済まない」
そう言うと、女は匙に籠を押しつけた。匙はそれを受け取ってしまった。
「顔なし」
「何か」
「雇われたか」
「労働参加を要求されている可能性がある」
「飯は出るか」
「可能性あり」
「なら参加」
顔なしは止めなかった。
女は道の上から匙を見下ろし、短く言った。
「踏むな。根を抜くな。似た草を混ぜるな。分からなければ聞け」
匙は籠を見た。
「命令が多い」
女は聞こえたのか、聞こえなかったのか、鼻を鳴らした。
「山は命令が多い。聞かない子は腹を壊す」
匙は少し納得した。
それは星船より分かりやすい。星船の命令は、たまに理由が遠すぎる。山の命令は、だいたいすぐ腹に来る。
その女の名は、ナリと言った。
正確にはもっと別の音だったかもしれないが、匙の耳にはナリと聞こえた。
ナリは匙の名を聞いた。
「匙」
ナリは匙の顔を見た。
「それは名か」
「名」
「変な名だ」
「よく言われる」
「親がつけたのか」
匙は少し黙った。
「私がつけた」
ナリは足元の草を指した。
「これは若いところだけ」
匙はしゃがんだ。
地面から、丸く巻いた葉が出ている。産まれる前の虫のようにも、眠っている蛇の先のようにも見えた。
「これを食うのか」
「灰でゆでる。水にさらす。すぐ食うと悪い」
「面倒」
「面倒なものほど腹にたまる」
匙は教えられたところを摘んで籠に入れた。
次の草を指すと、ナリは首を振った。
「違う。苦すぎる」
その隣の草は食えると言われた。さらに別の葉を指すと、ナリは匙の手を止めた。
「それは虫が食っている」
「虫が先に食ったなら、安全では」
ナリは匙の手を軽く叩いた。
「虫と人の腹は違う」
匙は叩かれた手を引っ込めた。痛くはなかったが、勝手に触られたので少し目を細めた。
ナリはそれに気づいた。
「嫌なら、先に聞け」
「聞く」
「なら、手を出す前に言え」
「うん」
それからは、ナリは匙の手を叩かなかった。代わりに棒の先で草を示すようになり、匙はそれが少しよかった。
山菜摘みは、思ったよりも難しかった。
草はみんな似ている。似ているのに、食えるものと食えないものがある。
葉の裏、茎の色、出ている場所、匂い、柔らかさ。水の近くのもの、木の陰のもの、石のそばのもの。それぞれに見分けるところがあった。
匙は途中で言った。
「山は字が多い」
ナリが振り向いた。
「何」
「草が、全部違う字」
ナリは少し考えてから言った。
「読めないと腹を壊す」
「やっぱり字」
ナリは笑わなかったが、口の端が少し動いた。
虫もいた。小さくて動きが速い。
「虫じじいなら喜ぶ」
「何」
「虫を見る爺がいる」
ナリは葉を選びながら言った。
「そんな爺はどこの山にもいる」
匙は少し驚いた。たしかに、どこの山にも一人くらいいそうだった。
昼近くになると、匙の籠にも山菜がたまったが、ナリの籠の半分にもならなかった。しかも途中で拾った石が一つ混じっていた。
ナリがそれを見つけて摘まみ上げた。
「これは食わない」
「形がよかった」
「形で腹はふくれない」
「少しふくれる」
「ふくれない」
匙は石を取り戻した。
「これは私の」
「なら籠を分けろ。食うものと、遊ぶものを一緒にするな」
「石は遊びではない」
「食えないなら別にしろ」
それは正しかったので、匙は石を袖に入れた。
小川のそばで、ナリは山菜を洗った。匙も真似をして水に手を入れたが、ひどく冷たかった。
「山の水だ」
「飲めるか」
ナリは上流を見た。
「少しなら」
匙は顔なしに聞いた。
「水」
「微生物リスクあり。処理推奨」
「だめか」
匙は飲まなかった。
ナリが匙を見た。
「飲まないのか」
「腹が強くない」
「なら賢い」
褒められた気がして、匙は少し黙った。
村へ戻ると、家の前で火が起きていた。
山菜は一度ゆでられた。灰を使うもの、水にさらすもの、すぐ汁に入れるもの、干すために分けるもの。
匙は全部を覚えようとして、途中で諦めた。
「多い」
「春は多い」
「冬は?」
「少ない」
「では春は強い」
「春は忙しい」
ナリは鍋に水と穀物、細かく切った山菜を入れた。塩も少し、何か発酵したものの匂い。
それに、干した魚か肉のような匂いもする。強い匂いではない。熱く、土に近く、腹に届く匂いだった。
匙は鍋を見た。
「これはよい鍋」
ナリは少し得意そうにした。
「うちの鍋だ」
「偉いか」
「食わせる鍋は偉い」
「分かる」
匙は深く頷いた。
汁ができるまでの間、ナリの家の子どもが二人、匙を見に来た。一人は匙より小さく、一人は同じくらいだった。
二人とも匙の服と顔をじろじろ見ている。
「どこから来たの」
「遠い」
「海の向こう?」
「海も越えたことはある」
「嘘」
「ある」
「舟?」
「舟もある」
「鳥に乗った?」
匙は少し考えた。
「鳥には乗っていない」
子どもたちは顔を見合わせたが、ナリが匙に椀を渡したので、それ以上は聞かなかった。
「食え」
「取っていいのか」
「働いた」
「少しだけ」
「少し働いた者には、少し飯」
匙は椀を受け取った。
「返せと言うな」
子どもの一人が笑った。
「食べた飯を返したら汚い」
それはその通りだった。
熱い汁だった。
山菜は柔らかいもの、少しぬめるもの、歯にきしむもの、苦いもの、香りが強いものが混じっていた。
穀物は粗く、汁は薄いが、熱さが強かった。
匙は最初の一口を慎重に飲んだ。舌が熱く、喉も熱い。腹が少し落ち着いた。
「苦い」
ナリが言った。
「春は苦い」
「なぜ」
「冬のあとだから」
意味は分かるようで分からなかった。だが、口の中では分かった。
冬のあとに出るものは、少し苦い。
「苦い。でも、これは平和な葉」
ナリの子どもが笑った。
「葉に平和があるの?」
匙は真面目に答えた。
「ある。毒の葉は平和ではない」
ナリはその答えを聞いて、少しだけ頷いた。
「それはそうだ」
匙は熱い汁を飲みながら、家の中を見た。
低い屋根。火の煙。壁にかかった道具。木の椀。子どもの足。ナリの赤い手。山菜の匂い。
星船とは違う。清潔ではないし、便利でもない。いつでも飯が出るわけでもない。
だが、何がどこから来たのかは分かりやすかった。
草は山から来る。水は川から来る。火は薪から来る。汁は鍋から来る。命令は、腹を壊さないために来る。
その日の夕方、匙は山道の端でナリに籠を返した。
ナリは籠を受け取り、匙の袖を見た。
「石をまだ持っているのか」
「持っている」
「食えない」
「知っている」
「では、なぜ」
匙は袖から石を出した。
丸くはない。きれいでもない。ただ、濡れると少し色が深くなる石だった。
「今日の山」
ナリは石を見てから、乾かした山菜を少し布に包んで渡した。
「多くは持つな」
「なぜ」
「多く持つと腐る」
「少しなら」
「思い出す」
匙は布包みを見た。
乾いた山菜は、もう山そのものではない。でも、少しなら山を持っていけるのかもしれなかった。
匙は布包みを受け取った。
「知らない草は食うな」
ナリはもう一度言った。
「聞く」
「聞く相手がいなければ、食うな」
「うん」
「腹が減ってもだ」
匙は少し嫌な顔をした。
「それは難しい」
「難しくてもだ」
「分かった」
ナリは匙の頭を撫でようとして、途中で手を止めた。
匙はそれを見た。
ナリは止めた手で、自分の腰を叩いた。
「行け」
匙は頷いた。
「また来るか」
ナリが聞いた。
匙は少し考えた。
「分からない」
「そうか」
「でも、山菜は覚えた。少し」
「少しでは腹を壊す」
「では、少しだけ覚えたことを覚える」
ナリは今度は笑った。
「変な子だ」
「よく言われる」
匙は山道を上がった。
人の声が遠くなり、犬の声も遠くなった。水の音だけが残っている。
顔なしが言った。
「帰還可能」
「待て」
匙は山の方を見た。
木々の間に薄い夕方の光があった。森は暗くなり始めている。長くいると危ない。顔なしがそう言う前に、匙にも分かった。
それでも、もう少しだけ立っていた。
袖の中に石。手に乾いた山菜。舌に苦い汁の味。
「しるら」
匙は小さく言った。
「新羅」
「しるらでよい」
「了解」
匙はまた山を見た。
「山菜は、平和なものが多い」
「毒草もある」
「分かっている。顔なしはすぐそう言う」
「注意喚起」
「でも、今日のは平和」
顔なしは少し黙った。
「記録した」
「記録しすぎるな」
「了解」
匙は布包みを抱え直した。
「では、帰る」
次の瞬間、山の匂いは消えた。
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星船の空気が戻った。
清潔で、温度が一定で、乾いていて、山菜の匂いがすぐ薄くなる場所だった。
匙は少し嫌な顔をした。
すぐに調理区画へ行き、棚から鍋を出した。それから袖の石を流しの横に置き、ナリの布包みを開けた。
乾いた山菜は、星船の白い灯りの下では、山にあった時より少し弱く見えた。それでも匙は、指でそっと触った。
「怒っていない葉」
顔なしが言った。
「怒りの有無は植物に適用不可」
匙は山菜を見たまま言った。
「顔なしは、草のことを少し知らない」
「植物学的知識はある」
「違う」
匙は鍋を手元に引き寄せた。
「顔なしは顔がないから、草の顔も知らない」
顔なしは黙った。
匙は少し満足した。




