偉い鍋とただの鍋
ある日、顔なしは言った。
「春秋時代の宋へ行く」
匙は干した果物を噛みながら聞いた。
「春と秋だけの場所か」
「時代名である」
「冬はあるのか」
「ある」
「なら変な名だ」
「そうかもしれない」
顔なしは反論しなかった。
「どこ」
「宋の都に近い地域。商丘周辺」
「商売の丘?」
「字面上はそう見えるが――」
「商売の丘でいい」
「正確ではない」
「覚えやすい」
顔なしは黙った。匙が勝った。
転移の前に、顔なしは注意事項を述べた。
「青銅礼器に触れないこと」
「れいき、とは何だ」
「儀礼に用いる器」
「食べ物も入れるのか」
「入れる場合がある」
「鍋か」
「鍋ではない」
「食べ物を入れて、火にかけるなら鍋だ」
「鼎は煮炊きの起源を持つが、この時代の青銅鼎は身分秩序、祖先祭祀、饗宴、政治的権威と深く関わる」
「長い。偉い鍋か」
「……偉い鍋に近似する」
「最初からそう言え。偉い鍋なら、鍋の博物館より良い」
顔なしは何かを訂正したそうだったが、やめた。
次の瞬間、匙は土の匂いのする場所にいた。
******
足の裏に、乾いた土と細かい砂がつく。風が少し冷たい。遠くに壁が見えた。人の声、牛の声、車輪の音、木を打つ音。何かを煮ている匂いもする。
匙はまず息を吸った。
「煙」
「都市周辺である」
「飯の匂いがある」
「市場も近い」
「よい場所かもしれない」
「判断が早い」
「飯の匂いがする場所は、悪くても少しはまし」
顔なしは答えなかった。
城壁の門の近くには人が多かった。布を巻いた男、荷を背負う人、車を押す人、犬を蹴る子ども、何かを叫ぶ商人。匙は背を低くして、人の流れの横を歩いた。
顔なしが言った。
「今回の目的は、青銅鼎を見ること」
「なぜ」
「匙が、鍋、器、食物、所有、儀礼の関係に強い関心を示しているため」
「長い。私が鍋を見るからか」
「そう」
「なら市場の鍋でいい」
「今回は普通の鍋ではない」
「偉い鍋か」
「そう」
匙は少し楽しみになった。
偉い鍋。
どれほど大きいのだろう。何を煮るのだろう。誰が食べるのだろう。
匙は、まず中身を見たくなった。
匙は歩きながら聞いた。
「その鍋を叩くと飯が出るのか」
「叩いてはならない」
「なら弱い」
「叩くためのものではない」
「音がしない鍋は少し弱い」
「音以外の力を持つ」
「鍋なのに?」
「鍋なのに」
顔なしがそう言ったので、匙はますます気になった。
******
市の端を抜けると、土の道が少し広くなった。
高い塀に囲まれた建物が見えた。門の前には人が立ち、出入りする者の衣は市場で見たものより整っている。
匙は小声で言った。
「ここは偉い人の場所?」
「宋の公室の宗廟である」
「そうびょう?」
「祖先を祀る場所」
「死んだ人の家か」
「そういうわけではない」
「生きてる人もいる」
「祭祀を行うためだ」
匙は門を見た。
「嫌な場所かもしれない」
「なぜ」
「偉い人の場所は、飯があっても勝手に食べると怒られる」
「正しい」
「正しいのか」
「かなり正しい」
匙は少し得意になった。
門の内側へ入る前、顔なしが周囲の人々の目を少し逸らした。
「顔なし、今何か変なことをしたな」
「安全確保のため」
「ずるい」
そう言いながら、匙は中へ入った。
建物の奥には広い庭があり、その向こうに柱の並ぶ堂があった。
床は掃き清められ、柱の間には青銅の器が並んでいる。人々は声を落として話していた。
匙は奥へ進んだ。
そして堂の薄暗い一角に、それがあった。
鼎。
匙は思わず立ち止まった。
最初に思ったのは、大きい、だった。
次に、重そう。
その次に、足がある。
三つの足、腹のような丸い胴、耳のような持ち手。
表面には、角のある獣の顔にも見える模様が浮き出ていた。大きな目が二つあり、その周りに細かな線が渦を巻いている。
周囲に並ぶ青銅器とは少し違う。縁はところどころすり減り、胴には黒ずんだ跡がある。
青銅の色は星船の金属とは違った。古い水と煙と土を混ぜたような色をしていた。
匙は小さく言った。
「これは鍋ではない。鍋の王」
「殷王朝の時代に鋳造された鼎である」
「いん?」
「宋という国ができるより前」
「国より鍋の方が年上か」
「そうだ」
匙はもう一度、鼎を見上げた。
「長生きだな」
匙はゆっくりと近づいた。
触らない。触らないが近づく。
火にかけるには重そうだ。でも火にかけられないほどではないかもしれない。
中には何があるのか。肉か、粥か、穀物か、臓物か。
足があるなら地面に直接置ける。耳があるなら棒を通して動かせる。ただし一人では無理だ。これは、一人用の鍋ではない。
「何人の飯が入る」
「用途による」
「何人で持つ」
「複数人」
「誰のもの」
「貴族層、宗族、祭祀主体」
「長い。偉い家のもの」
「そう」
「食べるのは誰」
「生者の饗宴にも、祖先への供献にも関わる」
匙は鼎を見上げた。
「死んだ人にも飯を出すのか」
「祖先に供える」
「死んだ人は食べるのか」
「人々は供える」
「食べるか聞いた」
「物理的には食べない」
「なら、なぜ出す」
顔なしが黙った。
匙は、鼎の模様を見た。
目のようなものがある。こちらを見ているようにも見える。匙は少しだけ後ろへ下がった。
「死んだ人が怒らないようにか?」
「それも含む場合がある。敬意、記憶、家の連続性、秩序――」
「飯を忘れないためか」
******
奥で人が動いた。
匙はすぐ柱の影へ寄った。顔なしの視線逸らしが少し強くなった。
二人の男が鼎のそばへ来た。一人は年を取っていて細い。もう一人は若いが衣が良い。若い男は緊張している。細い男は緊張していないふりをしている。
彼らは匙の知らない言葉で話した。翻訳が耳の奥で遅れて動いた。
「……数……合わぬ……」
「……客……見せるだけ……」
「……祖霊……」
「……軽々しく……」
匙は眉を寄せた。
「数が問題なのか」
顔なしが答えた。
「鼎や簋などの数は、身分秩序と関わる」
「多いほど偉い?」
「おおむね、そうした制度化が進む」
「飯を入れる器の数で偉さを決めるのか」
「単純ではない」
「でも、そう」
「一部そう」
匙は若い男を見た。
若い男は鼎を見つめている。
匙と同じように見ているのではない。怖がっているようにも、欲しがっているようにも見えた。
彼にとって、鼎はただの鍋や飯の器ではないようだった。
匙は小声で言った。
「偉い鍋を持つ人は、偉い鍋に見張られるのか」
顔なしが黙った。
匙は続けた。
「鍋が小さければ隠せる。叩ける。逃げる時に捨てるか持つか決められる。でもこれは無理。持って逃げられない。捨てても捨てたことが残る。重い鍋は持ち主も重くする」
「匙の観察は興味深い」
「興味深いとか言うな」
「なぜ」
「捕まえた虫を見る時の言い方」
「修正」
若い男が鼎に手を触れようとした。
細い男が低い声で何か言った。若い男は即座に手を止めた。
匙はそれを見て、思わず笑いそうになった。
「触りたいのに触れない」
「儀礼上の制約がある」
「私と同じだ」
「どこが」
「私も触るなと言われた」
「匙は部外者」
「同じ」
顔なしは黙った。
匙は柱の影から、さらに鼎を見た。
表面の模様は、ただの飾りではない気がした。匙には読めない。字かもしれない。
顔なしなら読めるのだろうが、今は聞かなかった。
聞くと、顔なしはきっと長く説明する。説明されると鼎が少し軽くなる気がした。
読めないものでも、重いものは重い。
しばらくすると男たちは去った。
匙はまた少し鼎に近づいた。
「中身を見たい」
「接触禁止」
「触らない。見る」
「視認のみなら可能」
匙は背伸びした。
届かない。鼎の腹は高かった。
「見えない」
「視点補助を行うか」
「持ち上げるな」
「映像補助である」
「嫌」
匙は周りを見た。
小さな台があった。乗っていいかは分からない。たぶん駄目だ。でも、今は誰も見ていない。
顔なしは見ているが、顔なしはいつも見ているので数に入れない。
匙は台を引き寄せようとした。重かった。
「顔なし」
「何か」
「少しだけ」
「台を移動する」
「顔なしは動かすな。私が動かす」
「なぜ」
「私が見るから」
「了解」
匙はもう一度台を引いた。さっきより軽い。
「顔なし」
「何か」
「軽くしたな」
「台は動かしていない」
「ずるい」
匙はそのまま台を鼎の横へ引いていった。
上に乗ると、台がぐらついた。匙はすぐ膝を曲げて重心を低くした。
そして鼎の中を見た。
空だった。
「飯がない」
「現在は使用前、または保管状態である」
「偉い鍋なのに空」
「空であることにも意味がある場合がある」
「空腹、という意味か」
「違う可能性が高い」
匙は鼎の内側を見た。
大きく、暗い。底には古い色がある。昔、何かが入った跡かもしれない。
この鼎から、昔は湯気が立ったことがあるのか。肉が煮えたことがあるのか。穀物が入ったことがあるのか。血の匂いがしたことがあるのか。
今は何もない。
しかし、何もないのに、ただの空ではない気がした。
少し嫌な感じがした。
「空なのに、何か入っているみたい」
「象徴的内容と記憶の蓄積――」
「長い」
「昔の飯が残っているように見える、ということか」
「そう」
「物理的には残っていない」
「顔なしは黙れ」
「了解」
匙は鼎の縁を見た。
たぶん、昔はここに手を置いた人がいる。
肉を入れた人がいる。火を見た人がいる。祖先の名を言った人がいる。偉そうにした人もいる。
腹を減らした人もいたかもしれない。食べられなかった人もいたかもしれない。偉い鍋は、全員に飯をくれるわけではない。
なんとなく、それが分かった。
匙は台から降りた。
「顔なし」
「何か」
「これは、飯を出すための鍋じゃない」
「そうである」
「飯を誰に出してよいか決める鍋だ」
顔なしは少し間を置いた。
「かなり良い近似である」
「近似と言うな」
「かなり良い」
「よし」
匙は鼎から少し離れた。
******
そのとき、通路の向こうから小さな足音がした。
匙より小さな男の子だった。髪を結い、袖の長い衣を着ている。歩きにくそうに裾を持ち上げていたが、匙に気づくと手を下ろした。
二人は顔を見合わせた。
「……誰?」
匙は少し考えた。
「鍋を見に来た」
子どもは目を丸くした。
「鍋じゃない、鼎だ」
「偉い鍋」
子どもは一瞬口を開け、それから閉じた。
「そんなことを言ったら怒られる」
「誰に」
「大人に決まってる」
匙は鼎を振り返った。
「なら、小さい声で言う」
男の子は口元を緩めたが、すぐに真面目な顔に戻った。
「ここは勝手に入ってはいけない場所だよ」
「お前も勝手に来たんだろ」
「私は……」
男の子は口ごもった。
「私は、入ってもいい時がある」
「今は?」
「今は、いけない」
匙は少し笑った。
「同じだ」
男の子は納得しなかったらしい。
「同じじゃない。私は、入る前に許しをもらわなかったのがいけないんだ」
「入ったのは同じ」
「でも、違う」
匙はこの子が面倒なことを言うと思った。
「これは誰の鍋」
「鼎だってば」
「じゃあ、誰の鼎」
「家のもの。祖のもの。誰か一人のものじゃない」
「お前の家?」
「……うん」
匙は男の子の衣を見た。
「偉い家か」
「そういう言い方はしない」
男の子は袖を引っ張って整えた。
「飯は入れる?」
「入れる時もある」
「お前も食べる?」
「私は、まだ」
「まだ?」
「席が違うから」
匙は子どもを見た。
偉い鍋は飯を出さないかわりに、座る席を決めるものらしい。
「腹は減るのに?」
子どもは最初、匙が何を言っているのか分からない顔をした。
「それは……減るよ」
「なら変だ」
「変でも、決まりは決まりだ」
匙はその言葉を噛んだ。
変でも、決まりは決まり。
男の子は少し考え、付け加えた。
「でも、間違った決まりなら、父上に申し上げてもいいと思う」
匙は男の子を見た。
「言ったことあるのか」
「まだない」
「じゃあ、言ってみろ」
「今すぐには無理だよ」
匙は笑った。男の子は少しむっとした。
「死んだ人は鼎で煮た飯を食べるのか?」
匙がまた聞くと、子どもは眉を寄せて少し考えてから、小声で言った。
「祖は食べないかもしれない。でも、出さないと、いなくなる気がする」
匙はその子を見た。
「いなくなると困る?」
「困る」
「会ったことあるのか」
「ない人もいる」
「会ってないのに?」
「名がある」
匙は少し黙った。
名。
呼ばれれば振り向くもの。
呼ばれなくなれば遠くなるもの。
鼎は、死んだ人の名を置くための鍋なのかもしれない。
匙はそう思ったが、言わなかった。そういうことを言うと、すぐに顔なしが喜んで記録しそうだった。
遠くで大人の声がした。
「公子!」
男の子がびくっとした。
「もう行かないと」
「怒られる?」
「たぶん」
また声がした。今度は、もう少し近い。
「茲甫さま!」
「走るな。足音でばれる」
匙がそう言うと、男の子は匙を見た。
「君、よく怒られるの?」
「怒られる前に逃げる方が多い」
「それはよくないよ」
「じゃあ、ここで待ってろ」
男の子は困った顔をした。
「……それも、よくない」
匙は笑った。
男の子は袖を押さえながら小走りで去った。
走るなと言ったのに走った。匙は少し呆れた。逃げるのに慣れていなさそうだった。
その直後、顔なしが言った。
「撤収を推奨する」
「なぜ」
「先ほどの大人が近づいている」
「どっちから」
「右手奥」
匙は左へ動いた。
柱の影を抜け、低い壁の横を通って外へ出た。
外に出ると食べ物の匂いがした。
本物の飯の匂い。鼎ではなく、普通の釜か鍋で作っている匂いだ。
匙は立ち止まった。
「顔なし」
「撤収を推奨する」
「飯の匂い」
「危険度が上がる」
「少しだけ」
顔なしはまた負けた。
市場の端で匙は小さな焼き餅のようなものを手に入れた。焼き餅は熱くて少し固かった。でも噛むと香ばしい。
匙は鼎のあった方を振り返った。
「偉い鍋より、こっちの方が飯」
「用途が異なる」
「知ってる」
「鼎より焼き餅がよいのか」
匙は焼き餅を噛んだ。
「腹が減っている時は、こっち」
「腹が減っていない時は?」
「分からない」
「鼎は?」
「腹が減っていない人が、腹の減り方を決める鍋」
顔なしは黙った。
匙はもう一口食べた。
「でも、少しきれいだった」
「鼎が?」
「うん」
「なぜ」
「重そうだったから」
「重いものは美しいのか」
「違う。捨てられないものは、時々きれいに見える」
顔なしは何も言わなかった。
帰る直前に、顔なしが聞いた。
「鼎をもう一度見るか」
匙は首を振った。
「今日はいい」
「なぜ」
「見すぎると、触りたくなる」
「触ってはならない」
「だから見ない」
「よい判断」
「顔なしに褒められると、少し腹立つ」
「了解」
転移の光が来る前、匙は最後に商丘の空をもう一度見た。
煙が上がっている。壁がある。人がいる。
飯の匂いがある。偉い鍋がある。普通の飯もある。
ここには席が違う子どももいる。触りたいのに触れない若い男もいる。そして、死んだ人のために食べない飯を出す人たちもいる。
不思議な場所だった。
******
星船に戻ると白い床だった。匙はしばらく黙っていた。顔なしが言った。
「感想を聞いてもよいか」
「後で」
匙は厨房区画へ行って自分の鍋を出した。
星船の鍋は鼎ほど大きくない。三本足でもないし、模様もないし、祖先も王も身分も入らない。
でも、水を入れれば水が温まる。米を入れれば粥になる。塩を入れすぎるとしょっぱくなる。セイロンの香辛料を入れすぎると大変になる。
もし誰かが来たら、中身を分けられる。鍋を叩けば顔なしが来る。
匙は鍋の縁を軽く叩いた。
こん
「食物要求か」
顔なしがすぐ聞いた。匙は少し笑った。
「違う」
「では何か」
「鼎ではない音」
顔なしは黙った。
匙は鍋に水を入れた。
「今日は粥」
「具材は」
「少し肉。野菜も。塩は少し」
「了解」
匙は鍋を火にかけた。
しばらくすると、底から小さな泡が上がってきた。
匙は米を入れて、木匙で中をかき混ぜた。
取っ手を握ると熱くなっていたので、すぐに離した。
「熱い」
布を取って握り直す。
「偉い鍋は、こんなこともできないな」
「何が」
「自分で持って、好きな場所へ運ぶ」
匙は鍋を少し持ち上げ、また火の上に戻した。
「こっちの方が便利だ」
「鼎とは用途が異なる」
「知ってる」
匙は粥をかき混ぜた。
「でも、あれも少し欲しい」
「鼎を?」
「小さいやつ。私が持てるくらいの」
「何に使う」
「粥を作る」
顔なしはしばらく答えなかった。




