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匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
第一部 星船の少女

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43/47

偉い鍋とただの鍋

ある日、顔なしは言った。

「春秋時代の宋へ行く」

匙は干した果物を噛みながら聞いた。

「春と秋だけの場所か」

「時代名である」

「冬はあるのか」

「ある」

「なら変な名だ」

「そうかもしれない」

顔なしは反論しなかった。


「どこ」

「宋の都に近い地域。商丘《しょうきゅう》周辺」

「商売の丘?」

「字面上はそう見えるが――」

「商売の丘でいい」

「正確ではない」

「覚えやすい」

顔なしは黙った。匙が勝った。


転移の前に、顔なしは注意事項を述べた。

「青銅礼器に触れないこと」

「れいき、とは何だ」

「儀礼に用いる器」

「食べ物も入れるのか」

「入れる場合がある」

「鍋か」

「鍋ではない」

「食べ物を入れて、火にかけるなら鍋だ」

「鼎《かなえ》は煮炊きの起源を持つが、この時代の青銅鼎《せいどうてい》は身分秩序、祖先祭祀、饗宴、政治的権威と深く関わる」

「長い。偉い鍋か」

「……偉い鍋に近似する」

「最初からそう言え。偉い鍋なら、鍋の博物館より良い」

顔なしは何かを訂正したそうだったが、やめた。


次の瞬間、匙は土の匂いのする場所にいた。


******


足の裏に、乾いた土と細かい砂がつく。風が少し冷たい。遠くに壁が見えた。人の声、牛の声、車輪の音、木を打つ音。何かを煮ている匂いもする。


匙はまず息を吸った。

「煙」

「都市周辺である」

「飯の匂いがある」

「市場も近い」

「よい場所かもしれない」

「判断が早い」

「飯の匂いがする場所は、悪くても少しはまし」

顔なしは答えなかった。


城壁の門の近くには人が多かった。布を巻いた男、荷を背負う人、車を押す人、犬を蹴る子ども、何かを叫ぶ商人。匙は背を低くして、人の流れの横を歩いた。


顔なしが言った。

「今回の目的は、青銅鼎を見ること」

「なぜ」

「匙が、鍋、器、食物、所有、儀礼の関係に強い関心を示しているため」

「長い。私が鍋を見るからか」

「そう」

「なら市場の鍋でいい」

「今回は普通の鍋ではない」

「偉い鍋か」

「そう」


匙は少し楽しみになった。


偉い鍋。


どれほど大きいのだろう。何を煮るのだろう。誰が食べるのだろう。

匙は、まず中身を見たくなった。


匙は歩きながら聞いた。

「その鍋を叩くと飯が出るのか」

「叩いてはならない」

「なら弱い」

「叩くためのものではない」

「音がしない鍋は少し弱い」

「音以外の力を持つ」

「鍋なのに?」

「鍋なのに」

顔なしがそう言ったので、匙はますます気になった。


******


市の端を抜けると、土の道が少し広くなった。


高い塀に囲まれた建物が見えた。門の前には人が立ち、出入りする者の衣は市場で見たものより整っている。


匙は小声で言った。

「ここは偉い人の場所?」

「宋の公室の宗廟である」

「そうびょう?」

「祖先を祀る場所」

「死んだ人の家か」

「そういうわけではない」

「生きてる人もいる」

「祭祀を行うためだ」


匙は門を見た。

「嫌な場所かもしれない」

「なぜ」

「偉い人の場所は、飯があっても勝手に食べると怒られる」

「正しい」

「正しいのか」

「かなり正しい」

匙は少し得意になった。



門の内側へ入る前、顔なしが周囲の人々の目を少し逸らした。


「顔なし、今何か変なことをしたな」

「安全確保のため」

「ずるい」

そう言いながら、匙は中へ入った。


建物の奥には広い庭があり、その向こうに柱の並ぶ堂があった。

床は掃き清められ、柱の間には青銅の器が並んでいる。人々は声を落として話していた。

匙は奥へ進んだ。

そして堂の薄暗い一角に、それがあった。


鼎。


匙は思わず立ち止まった。


最初に思ったのは、大きい、だった。

次に、重そう。

その次に、足がある。


三つの足、腹のような丸い胴、耳のような持ち手。

表面には、角のある獣の顔にも見える模様が浮き出ていた。大きな目が二つあり、その周りに細かな線が渦を巻いている。

周囲に並ぶ青銅器とは少し違う。縁はところどころすり減り、胴には黒ずんだ跡がある。

青銅の色は星船の金属とは違った。古い水と煙と土を混ぜたような色をしていた。


匙は小さく言った。

「これは鍋ではない。鍋の王」


「殷王朝の時代に鋳造された鼎である」

「いん?」

「宋という国ができるより前」

「国より鍋の方が年上か」

「そうだ」

匙はもう一度、鼎を見上げた。

「長生きだな」


匙はゆっくりと近づいた。

触らない。触らないが近づく。


火にかけるには重そうだ。でも火にかけられないほどではないかもしれない。

中には何があるのか。肉か、粥か、穀物か、臓物か。

足があるなら地面に直接置ける。耳があるなら棒を通して動かせる。ただし一人では無理だ。これは、一人用の鍋ではない。


「何人の飯が入る」

「用途による」

「何人で持つ」

「複数人」

「誰のもの」

「貴族層、宗族、祭祀主体」

「長い。偉い家のもの」

「そう」

「食べるのは誰」

「生者の饗宴にも、祖先への供献《きょうけん》にも関わる」


匙は鼎を見上げた。

「死んだ人にも飯を出すのか」

「祖先に供える」

「死んだ人は食べるのか」

「人々は供える」

「食べるか聞いた」

「物理的には食べない」

「なら、なぜ出す」

顔なしが黙った。


匙は、鼎の模様を見た。

目のようなものがある。こちらを見ているようにも見える。匙は少しだけ後ろへ下がった。

「死んだ人が怒らないようにか?」

「それも含む場合がある。敬意、記憶、家の連続性、秩序――」

「飯を忘れないためか」


******


奥で人が動いた。

匙はすぐ柱の影へ寄った。顔なしの視線逸らしが少し強くなった。


二人の男が鼎のそばへ来た。一人は年を取っていて細い。もう一人は若いが衣が良い。若い男は緊張している。細い男は緊張していないふりをしている。

彼らは匙の知らない言葉で話した。翻訳が耳の奥で遅れて動いた。


「……数……合わぬ……」

「……客……見せるだけ……」

「……祖霊……」

「……軽々しく……」


匙は眉を寄せた。

「数が問題なのか」

顔なしが答えた。

「鼎や簋《き》などの数は、身分秩序と関わる」

「多いほど偉い?」

「おおむね、そうした制度化が進む」

「飯を入れる器の数で偉さを決めるのか」

「単純ではない」

「でも、そう」

「一部そう」


匙は若い男を見た。

若い男は鼎を見つめている。

匙と同じように見ているのではない。怖がっているようにも、欲しがっているようにも見えた。

彼にとって、鼎はただの鍋や飯の器ではないようだった。


匙は小声で言った。

「偉い鍋を持つ人は、偉い鍋に見張られるのか」

顔なしが黙った。

匙は続けた。

「鍋が小さければ隠せる。叩ける。逃げる時に捨てるか持つか決められる。でもこれは無理。持って逃げられない。捨てても捨てたことが残る。重い鍋は持ち主も重くする」

「匙の観察は興味深い」

「興味深いとか言うな」

「なぜ」

「捕まえた虫を見る時の言い方」

「修正」


若い男が鼎に手を触れようとした。

細い男が低い声で何か言った。若い男は即座に手を止めた。

匙はそれを見て、思わず笑いそうになった。

「触りたいのに触れない」

「儀礼上の制約がある」

「私と同じだ」

「どこが」

「私も触るなと言われた」

「匙は部外者」

「同じ」

顔なしは黙った。


匙は柱の影から、さらに鼎を見た。

表面の模様は、ただの飾りではない気がした。匙には読めない。字かもしれない。

顔なしなら読めるのだろうが、今は聞かなかった。

聞くと、顔なしはきっと長く説明する。説明されると鼎が少し軽くなる気がした。

読めないものでも、重いものは重い。


しばらくすると男たちは去った。

匙はまた少し鼎に近づいた。

「中身を見たい」

「接触禁止」

「触らない。見る」

「視認のみなら可能」


匙は背伸びした。

届かない。鼎の腹は高かった。

「見えない」

「視点補助を行うか」

「持ち上げるな」

「映像補助である」

「嫌」


匙は周りを見た。

小さな台があった。乗っていいかは分からない。たぶん駄目だ。でも、今は誰も見ていない。

顔なしは見ているが、顔なしはいつも見ているので数に入れない。


匙は台を引き寄せようとした。重かった。

「顔なし」

「何か」

「少しだけ」

「台を移動する」

「顔なしは動かすな。私が動かす」

「なぜ」

「私が見るから」

「了解」


匙はもう一度台を引いた。さっきより軽い。

「顔なし」

「何か」

「軽くしたな」

「台は動かしていない」

「ずるい」

匙はそのまま台を鼎の横へ引いていった。


上に乗ると、台がぐらついた。匙はすぐ膝を曲げて重心を低くした。

そして鼎の中を見た。


空だった。


「飯がない」

「現在は使用前、または保管状態である」

「偉い鍋なのに空」

「空であることにも意味がある場合がある」

「空腹、という意味か」

「違う可能性が高い」


匙は鼎の内側を見た。

大きく、暗い。底には古い色がある。昔、何かが入った跡かもしれない。

この鼎から、昔は湯気が立ったことがあるのか。肉が煮えたことがあるのか。穀物が入ったことがあるのか。血の匂いがしたことがあるのか。

今は何もない。

しかし、何もないのに、ただの空ではない気がした。

少し嫌な感じがした。


「空なのに、何か入っているみたい」

「象徴的内容と記憶の蓄積――」

「長い」

「昔の飯が残っているように見える、ということか」

「そう」

「物理的には残っていない」

「顔なしは黙れ」

「了解」


匙は鼎の縁を見た。

たぶん、昔はここに手を置いた人がいる。

肉を入れた人がいる。火を見た人がいる。祖先の名を言った人がいる。偉そうにした人もいる。

腹を減らした人もいたかもしれない。食べられなかった人もいたかもしれない。偉い鍋は、全員に飯をくれるわけではない。

なんとなく、それが分かった。


匙は台から降りた。

「顔なし」

「何か」

「これは、飯を出すための鍋じゃない」

「そうである」

「飯を誰に出してよいか決める鍋だ」

顔なしは少し間を置いた。

「かなり良い近似である」

「近似と言うな」

「かなり良い」

「よし」

匙は鼎から少し離れた。


******


そのとき、通路の向こうから小さな足音がした。

匙より小さな男の子だった。髪を結い、袖の長い衣を着ている。歩きにくそうに裾を持ち上げていたが、匙に気づくと手を下ろした。


二人は顔を見合わせた。


「……誰?」


匙は少し考えた。


「鍋を見に来た」


子どもは目を丸くした。

「鍋じゃない、鼎だ」

「偉い鍋」

子どもは一瞬口を開け、それから閉じた。

「そんなことを言ったら怒られる」

「誰に」

「大人に決まってる」

匙は鼎を振り返った。

「なら、小さい声で言う」

男の子は口元を緩めたが、すぐに真面目な顔に戻った。

「ここは勝手に入ってはいけない場所だよ」

「お前も勝手に来たんだろ」

「私は……」

男の子は口ごもった。

「私は、入ってもいい時がある」

「今は?」

「今は、いけない」


匙は少し笑った。

「同じだ」


男の子は納得しなかったらしい。

「同じじゃない。私は、入る前に許しをもらわなかったのがいけないんだ」

「入ったのは同じ」

「でも、違う」

匙はこの子が面倒なことを言うと思った。


「これは誰の鍋」

「鼎だってば」

「じゃあ、誰の鼎」

「家のもの。祖のもの。誰か一人のものじゃない」

「お前の家?」

「……うん」

匙は男の子の衣を見た。

「偉い家か」

「そういう言い方はしない」

男の子は袖を引っ張って整えた。


「飯は入れる?」

「入れる時もある」

「お前も食べる?」

「私は、まだ」

「まだ?」

「席が違うから」


匙は子どもを見た。

偉い鍋は飯を出さないかわりに、座る席を決めるものらしい。


「腹は減るのに?」

子どもは最初、匙が何を言っているのか分からない顔をした。

「それは……減るよ」

「なら変だ」

「変でも、決まりは決まりだ」


匙はその言葉を噛んだ。

変でも、決まりは決まり。


男の子は少し考え、付け加えた。

「でも、間違った決まりなら、父上に申し上げてもいいと思う」

匙は男の子を見た。

「言ったことあるのか」

「まだない」

「じゃあ、言ってみろ」

「今すぐには無理だよ」

匙は笑った。男の子は少しむっとした。


「死んだ人は鼎で煮た飯を食べるのか?」

匙がまた聞くと、子どもは眉を寄せて少し考えてから、小声で言った。

「祖は食べないかもしれない。でも、出さないと、いなくなる気がする」

匙はその子を見た。

「いなくなると困る?」

「困る」

「会ったことあるのか」

「ない人もいる」

「会ってないのに?」

「名がある」

匙は少し黙った。


名。


呼ばれれば振り向くもの。

呼ばれなくなれば遠くなるもの。

鼎は、死んだ人の名を置くための鍋なのかもしれない。

匙はそう思ったが、言わなかった。そういうことを言うと、すぐに顔なしが喜んで記録しそうだった。



遠くで大人の声がした。

「公子!」


男の子がびくっとした。

「もう行かないと」

「怒られる?」

「たぶん」


また声がした。今度は、もう少し近い。

「茲甫《じほ》さま!」


「走るな。足音でばれる」

匙がそう言うと、男の子は匙を見た。

「君、よく怒られるの?」

「怒られる前に逃げる方が多い」

「それはよくないよ」

「じゃあ、ここで待ってろ」

男の子は困った顔をした。

「……それも、よくない」

匙は笑った。


男の子は袖を押さえながら小走りで去った。

走るなと言ったのに走った。匙は少し呆れた。逃げるのに慣れていなさそうだった。



その直後、顔なしが言った。

「撤収を推奨する」

「なぜ」

「先ほどの大人が近づいている」

「どっちから」

「右手奥」


匙は左へ動いた。

柱の影を抜け、低い壁の横を通って外へ出た。

外に出ると食べ物の匂いがした。

本物の飯の匂い。鼎ではなく、普通の釜か鍋で作っている匂いだ。

匙は立ち止まった。

「顔なし」

「撤収を推奨する」

「飯の匂い」

「危険度が上がる」

「少しだけ」

顔なしはまた負けた。


市場の端で匙は小さな焼き餅のようなものを手に入れた。焼き餅は熱くて少し固かった。でも噛むと香ばしい。


匙は鼎のあった方を振り返った。

「偉い鍋より、こっちの方が飯」

「用途が異なる」

「知ってる」

「鼎より焼き餅がよいのか」

匙は焼き餅を噛んだ。

「腹が減っている時は、こっち」

「腹が減っていない時は?」

「分からない」

「鼎は?」

「腹が減っていない人が、腹の減り方を決める鍋」

顔なしは黙った。


匙はもう一口食べた。

「でも、少しきれいだった」

「鼎が?」

「うん」

「なぜ」

「重そうだったから」

「重いものは美しいのか」

「違う。捨てられないものは、時々きれいに見える」

顔なしは何も言わなかった。


帰る直前に、顔なしが聞いた。

「鼎をもう一度見るか」

匙は首を振った。

「今日はいい」

「なぜ」

「見すぎると、触りたくなる」

「触ってはならない」

「だから見ない」

「よい判断」

「顔なしに褒められると、少し腹立つ」

「了解」


転移の光が来る前、匙は最後に商丘の空をもう一度見た。

煙が上がっている。壁がある。人がいる。

飯の匂いがある。偉い鍋がある。普通の飯もある。

ここには席が違う子どももいる。触りたいのに触れない若い男もいる。そして、死んだ人のために食べない飯を出す人たちもいる。

不思議な場所だった。


******


星船に戻ると白い床だった。匙はしばらく黙っていた。顔なしが言った。

「感想を聞いてもよいか」

「後で」


匙は厨房区画へ行って自分の鍋を出した。

星船の鍋は鼎ほど大きくない。三本足でもないし、模様もないし、祖先も王も身分も入らない。

でも、水を入れれば水が温まる。米を入れれば粥になる。塩を入れすぎるとしょっぱくなる。セイロンの香辛料を入れすぎると大変になる。

もし誰かが来たら、中身を分けられる。鍋を叩けば顔なしが来る。


匙は鍋の縁を軽く叩いた。


こん


「食物要求か」

顔なしがすぐ聞いた。匙は少し笑った。

「違う」

「では何か」

「鼎ではない音」

顔なしは黙った。


匙は鍋に水を入れた。

「今日は粥」

「具材は」

「少し肉。野菜も。塩は少し」

「了解」

匙は鍋を火にかけた。


しばらくすると、底から小さな泡が上がってきた。

匙は米を入れて、木匙で中をかき混ぜた。

取っ手を握ると熱くなっていたので、すぐに離した。


「熱い」


布を取って握り直す。


「偉い鍋は、こんなこともできないな」

「何が」

「自分で持って、好きな場所へ運ぶ」

匙は鍋を少し持ち上げ、また火の上に戻した。

「こっちの方が便利だ」

「鼎とは用途が異なる」

「知ってる」

匙は粥をかき混ぜた。

「でも、あれも少し欲しい」

「鼎を?」

「小さいやつ。私が持てるくらいの」

「何に使う」

「粥を作る」


顔なしはしばらく答えなかった。

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