宇宙の境目の上
匙は、これまで訪れた場所を記したノートを広げていた。
六世紀のブルディガラ。八世紀の海。十二世紀のノブゴロド。十九世紀のロンドン。二十一世紀の東京。
何冊かのノートを行き来していた匙は、年代を書き込んだページで手を止めた。
「顔なし。これ、二十一世紀が一番後か」
「訪問記録ではそうなっている」
「その先がない」
「未訪問である」
匙は鉛筆を置いた。
「二十二世紀とか、二十三世紀とか。何もないのか」
「ある。訪問候補を提示するか」
「まだ行くとは言ってない」
「では、参考情報として」
机の上にいくつかの映像が現れた。
最初は屋台だった。女が鉄板の上で肉を焼き、客が皿を受け取っていた。
「普通の飯屋じゃないか」
「肉は動物を飼育・屠殺せずに製造したものだ」
「肉なのに、動物がいない?」
「細胞培養による食肉生産」
「じゃあ、何の肉」
「牛由来」
「牛はどこにいる」
「製造工程にはいない」
「変な肉」
次の映像では、男が市場で買い物をしていた。店の女が何か話すと、男は明らかに別の言語で返事をした。そのまましばらく会話が続いた。
「これは?」
「体内に組み込まれた翻訳装置が会話を補助している」
「顔なしの翻訳みたいだ」
「原理は異なる」
「人間の中に顔なしがいるのか」
「いない」
「なら、よし」
映像が変わった。
広い農地に雨が降っていた。畑の向こうは晴れていて、雲の切れ目が不自然なほどまっすぐだった。
「変な雨だな」
「農業用の局地気象制御施設だ」
「雨を降らせるのか」
「必要な区域に、必要な量を」
「隣の畑は?」
「降らせない」
星船は次の映像を出した。
ノートの上に青い地球が現れ、匙は顔をしかめた。
「紙の上に出すな。字が見えない」
表示が机の端へ移った。
地球の周囲にはいくつかの施設が表示され、地表から三本の細い線が宇宙へ延びている。
匙はそれを指さした。
「これ、地球に刺さってる」
「軌道エレベーターである」
「きどうえれべーたー」
「地上と宇宙の間で、人間や物資を運ぶ」
「この線で?」
「そうだ」
「落ちない?」
「通常運用では落下しない」
「通常じゃないときは」
「事故の可能性はある」
「あるのか」
匙は線を指でなぞった。
「これ、登れるのか。私も」
「一般旅客を受け入れる施設がある」
「どこ」
地球の上に三つの印が現れた。
「二十三世紀に稼働している軌道エレベーターは三基。インドネシアのリンガ諸島、アフリカのギニア湾、ガラパゴス諸島沖の東太平洋。いずれも赤道上の海上基点を利用している」
「三つだけ?」
「建設と維持に大きな制約がある」
「一番乗りやすいのは」
「リンガ諸島。観光客向けの昇降サービスが最も充実している」
「飯屋もあるか」
「ある」
匙は地球から延びる線をもう一度見た。
「これ、インカの紐よりずっと長いな」
「用途も異なる」
「見たい」
匙はノートを閉じた。
「二十三世紀のリンガ諸島。そこへ行く」
サルが即座に言った。
「待て」
匙は目を上げて、壁を見た。
そこにサルがいるわけではないが、気分である。
「なぜ」
「二十二世紀以降の人間社会は、匙には向かない」
「顔なしが言うな。お前が一番未来っぽい」
「星船と人間社会の技術発展は別だ」
「長い。つまり怖いのか」
サルは少し黙った。
「怖い」
匙は満足した。
「なら行く」
「なぜそうなる」
「顔なしが怖がるなんて、珍しい」
「珍しいから行くのか」
「そう」
サルは返答しなかった。
強硬接触班三が小さく表示した。
──軌道エレベーター観光は教育的価値が高い。
サルはそれを消さなかった。
「それに、顔なし」
「何か」
「私は六世紀から来た。二十一世紀も十分変だった」
「そうだな」
「変な時代を一つ増やすだけ」
「その一つが問題だ」
匙は立ち上がった。
「支度する」
「まだ行くと決まったわけではない」
「私は決めた」
机の上のノートを片づけながら聞く。
「空気は大丈夫か」
「軌道施設内の空気は適切に管理されている」
「また変な空気か。ロンドンみたいに汚くないか」
「汚くはない」
「ならいい」
星船は訪問先の情報を表示した。
二十三世紀。インドネシア西部のリンガ諸島。
緑の島々の間に軌道エレベーターがそびえ、その周辺には大規模な港湾施設や商業地区が広がっている。
「海が多いな」
「島嶼地域である」
「魚もうまそうだ」
サルは答えなかった。
「まず飯。空の紐に乗るのはそのあと」
「……観光計画を確定するか」
「する」
サルは、しばらく何も言わなかった。
******
降ろされたのは、リンガ諸島の地上側ターミナル都市だった。
匙は最初、言葉を失った。
海はある。
島もある。
湿った熱気が肌にまとわりついた。
潮の匂いに、揚げ物と香辛料、人間の汗、そして燃料とは違う機械の匂いが混じっていた。港の上には鳥が飛び、岸壁では荷物が動いている。
その向こうから、空へ一本の細い線が伸びていた。
いや、細く見えるだけだった。
地上の巨大な施設から立ち上がった構造体は、雲の中へ消えていた。さらに上へ、目では追えないところまで続いている。
匙はしばらく上を見た。
見ているうちに、首が痛くなった。
「……空に縄をかけたのか」
「軌道エレベーターのテザーである」
「空の紐」
「そうだな」
「インカの紐より、だいぶ太い」
「情報記録用の紐ではなく、輸送構造体である」
「空に荷を運ぶ紐」
「そうだ」
匙は低く言った。
「人間、馬鹿だな」
「称賛か」
「半分」
地上ターミナルは、港と空港と駅と巨大倉庫を混ぜ、その上に神殿を載せたような場所だった。
広い通路には人が絶えなかった。
大きな荷物を引く観光客の脇を、工具箱を抱えた作業員が抜けていく。清掃機械が床を走り、警備員が人の流れを整理していた。
子供が走り、高齢者が休憩用の椅子に座っている。
腕や脚を機械に置き換えた人間もいた。身体の外側に補助装置を着けて歩く者もいる。外見だけでは、何も着けていないように見える者もいた。
頭上では案内表示が次々に切り替わり、通路の途中には光る文字が浮かんでいた。
匙はすぐ壁際を取った。
「二十一世紀より字が増えてる」
「視覚情報が高度に統合されている」
「字が光って浮いている。嫌だ」
「読めるか」
英語、インドネシア語、マレー語、中国語、ヒンディー語、アラビア文字。絵記号、数字、色のついた矢印。
人が近づくと表示が変わり、歩き始めると別の文字がついてきた。
読めるものも、読めないものも、読みたくないものもあった。
「字が人を追いかけてくる」
「個人端末連動表示である」
「悪い字だ」
「便利でもある」
「じゃあ、便利な悪い字」
匙は、自分の進む方向に現れた矢印を手で払おうとした。
矢印は消えなかった。
「しつこい」
匙は空中の矢印に向かって手を振り回しながら、飲食エリアを目指した。
食堂街にはインドネシア料理、マレー料理、中華料理、インド料理の店が並んでいた。
軌道作業員向けの高カロリー食や、低重力から帰還した人間向けの食事を出す店もある。観光客向けの宇宙食を売る店の前では、子供たちが透明な容器を覗き込んでいた。
魚を焼く匂いがした。その隣では、藻類から作った麺が湯の中を流れている。
培養魚、本物の魚、発酵豆、ココナッツ、香辛料、氷菓。コーヒーと茶の湯気が、冷房の風に押されて通路へ出てきた。
匙は言った。
「飯が喧嘩している」
「多文化・多技術食環境」
「喧嘩している」
かなり悩んだ末に、地元の屋台風フードスタンドを選んだ。
店の奥では女が魚を返し、片手で鍋の蓋をずらしていた。注文が入ると、米を盛り、香辛料を加え、皿を客へ渡す。
匙はその手つきを見た。
自動調理だけの店より、こちらの方がよかった。
女はまだ年配というほどではなかったが、腕まくりした前腕が太く、重い鍋を片手で動かしていた。
「これはちゃんと、厨房の女系統」
「分類が雑」
「雑でよい」
匙が注文したのは、魚と香辛料と米を使った料理だった。
皿は軽く、温度を一定に保つ仕組みがあるらしい。魚は表面が香ばしく焼けていたが、盛りつけは妙に整っていた。
匙は一口食べて目を細めた。
「これは島の飯だ。でも少し宇宙を見ている」
「どういう意味か」
「米と魚は下を向いている。香りは島。器と温度管理は上を向いている」
「良い表現」
匙はもう一口食べた。
この店は、また来てもよさそうだった。
******
夕方、いよいよ軌道エレベーターに乗る段になった。
匙は乗降ゲートで固まった。
認証、身体スキャン、荷物検査。係員による確認の後、壁一面に安全説明が現れた。
重力変化への対応。
酔い止め。
緊急姿勢。
圧力異常時の行動。
酸素供給。
避難ポッド。
匙はだんだん不機嫌になった。
「空の紐に乗る前の説明が多すぎる」
「安全のため」
「分かる。分かるが、うるさい」
係員が優しく聞いた。
“First ascent?”
(初めてですか?)
匙は答えた。
“Yes. I do not like too many instructions. But I listen.”
(そう。説明が多すぎるのは好きじゃない。でも聞く)
係員は少し笑った。
“That’s a good attitude.”
(それは良いことです)
窓があり、座席があり、手すりがある。床は妙に安定していて、空調の音がかすかに聞こえるだけだった。
匙は席に座る前に出口を探した。
緊急口はあった。
ただし、その外は空だった。
「これは逃げられない箱だ」
「軌道エレベーター昇降中は途中退出不可」
「嫌」
「だが事実」
「分かる。嫌だけど乗る」
サルが確認した。
「本当に乗るか」
匙は窓の向こうを見上げた。テザーが上へ延びている。
「乗る。怖いから」
「怖いから乗るのか」
「怖くないなら、見る価値が少し減る」
上昇が始まった。
最初は、電車に似ていた。
キャビンがかすかに揺れ、窓の外でターミナルの屋根が下がっていった。岸壁のコンテナが小さくなり、港の船が水面に浮かぶ白い形になった。
まもなく速度が増した。
匙は窓に近づきすぎないようにして外を見た。
「地図が生きている」
「高度上昇により俯瞰視点が得られる」
「顔なしの地図よりも、腹がある」
「腹」
「下に飯と人がいる。顔なしの地図はきれいすぎる」
「そうだな」
海岸線が長く延び、島と島の間の水路が見えてきた。薄い雲を抜けると、リンガ諸島の全体が眼下に広がった。
「人間が消える高さは、怖い」
「見えないだけで存在している」
「見えないと、忘れやすい」
サルは静かに言った。
「そうだ」
さらに上昇すると、スマトラ島の東岸とマラッカ海峡が見えてきた。シンガポールのある海域と、マレー半島の南端も分かる。
匙は、八世紀のシュリーヴィジャヤの商船でマレー半島の南端を回ったときのことを少し思い出した。
あのときは、船の縁から水を覗き、岸の形を見ていた。
今は、海そのものが下にあった。
空の色が濃くなった。青から深い青へ、そして紺色へ変わっていく。
──高度三万メートルを通過。
アナウンス音声が流れた。
窓の上方は暗くなり、地球の縁にはまだ青い光が残っていた。
太陽は西の地平に近づいていた。キャビンが上昇するにつれ、沈みかけた太陽が少し持ち直すように見えた。
──高度六万メートルを通過。
下には島と海と雲が広がっていた。ジャワ海の方角、スマトラ島、マレー半島。遠くのカリマンタン島は雲の下にかすんでいた。
匙は黙って見ていた。
「……空の中は、空じゃない」
「どういう意味か」
「下から見る空と、中から見る空は違う」
「そうだな」
「地図と道みたいだ」
「そうだ」
──高度十二万メートルを通過。
地球の縁が、はっきりと曲がって見えた。
匙は窓に手を近づけたが、触れなかった。
「丸い」
「地球は丸い」
「知ってる。でも、見えると腹が立つ」
「なぜ」
「本で知っていたことが、急に大きくなる」
「それは悪いことか」
「悪くない。腹が立つ」
星船は何か言いかけて、やめた。
──高度十六万メートル。
途中の高高度ステーションで、乗客は宇宙順応を兼ねる休憩を取った。
順応のため重力は弱められ、歩くと少し身体が浮いた。
飲み物は蓋つき、食べ物はこぼれにくい形。窓の外は地球と宇宙の境目。
匙は通路へ出て、最初の一歩で失敗した。身体が思ったより遠くへ進んだ。
「地面が怠けている!」
「低重力環境」
「地面が仕事をしていない」
慌てて手すりを掴むと、周囲の観光客が少し笑った。
匙は睨んだが、自分でも少し笑いそうになっていた。
もう一歩踏み出すと、身体がふわりと浮いた。止まろうとして足を出したが、今度は壁にぶつかりかけた。
「モンゴルの馬より腹が立つ」
「慣性と低重力のため」
「馬は生きているから許せる。床は許せない」
係員がやってきて、低重力歩行のコツを教えた。
「強く蹴らないこと。足より手すりを使ってください。止まるときは、少し早めに」
匙は真剣に聞いた。
「床が弱い場所では、手が道になるのか」
係員は少し考えて頷いた。
「そうですね。そんな感じです」
匙は手すりを握り、今度は慎重に進んだ。
休憩エリアの一角で、匙は「軌道エレベーター観光記念アイス」を見つけた。
当然、買った。
半球形の透明カップに、地球を模したアイスが入っていた。青い海はソーダ味、白い雲はミルク味、緑の陸はピスタチオ。内側にはマンゴーソースが入っている。
匙はそれを見て言った。
「地球を甘くするな」
「観光商品である」
「食う」
一口食べた。
「見た目よりうまくない」
「観光商品にはよくある」
「モーリシャスのアイスの方が強い」
「現地性の問題か」
「地球味が薄い」
「地球味」
「島の飯には空気が入っていた。これは写真の味」
かなり厳しい評価だったが、全部食べた。
「悪い無駄ではない。弱い無駄」
******
高速キャビンに乗り換えた。
先程までとは比較にならない速度で上昇が始まった。
窓の外では地球がゆっくり遠ざかっていった。青い縁は細くなり、雲の渦が大きな白い模様になった。
やがて、場違いに丁寧なアナウンスが流れた。
──高度三万五千八百キロメートル、静止軌道ステーションに到着しました。お手回りのものをいま一度ご確認いただき、お忘れものにご注意ください。
匙は窓の外を見たまま動かなかった
雲の切れ間から島々と大陸の海岸線が見えた。東南アジアの海、その周囲に広がる陸地。インド洋と太平洋へ続く水面。雲の向こうでは、見慣れた地図の形がところどころ隠れていた。
人間は見えなかった。
国境も見えなかった。
「国境がない」
「宇宙からは政治的国境は見えない」
「でも、下では人間が止まる」
「そうだ」
「見えない線で止まる」
「そうだ」
「上から見ると、線が消える。だから上の人間は忘れる」
「その危険はある」
匙はしばらく地球を見た。
「顔なし」
「何か」
「お前は、いつもこんな感じで見ていたのか?」
星船は長く黙った。
「近い」
匙は目を細めた。
「それなら、お前が人間を踏むのは分かる」
「分かる?」
「許すとは言ってない。分かるだけ」
「そうだな」
「高いところでは忘れやすい」
「何を」
「飯を作る人。港の匂い。床を拭く人」
「そうだな」
匙は地球を見たまま言った。
「だから上に来る人間は、下の飯を覚えていないとだめだ」
星船は、返答に少し時間をかけた。
「覚える」
「記録じゃなくて」
「覚える」
軌道ステーションには展望廊下があった。
観光客が窓を背に記念写真を撮っていた。地球を背景に抱き合う者がいる。泣いている者も、ピースサインをする者もいた。
子供が手すりにつかまりながら身体を浮かせて笑っていた。高齢者が椅子に座り、窓の外をじっと見ている。宗教者らしい服装の人間が、窓に向かって祈っていた。
その脇を、作業服の男が工具箱を持って通り過ぎた。男は窓を見なかった。
匙はその後ろ姿を目で追った。
廊下の端では清掃員が床を拭いていた。別の作業員が壁の点検口を開け、内部の機器を調べている。飲食店の裏口からは、空の容器を載せた台車が出てきた。
「モーリシャスの楽園写真の裏にも働く人がいる。宇宙写真の裏にも働く人がいる」
「そうだ」
匙は、近くの保守作業員に英語で聞いた。
“Do you like this place?”
(あなたはこの場所が好き?)
作業員は話しかけられたことに、少し驚いたようだった。工具箱を持ち直し、窓の外を見る。
“Some days. Some days it’s just work.”
(好きなこともある。ただの職場なこともある)
匙はうなずいた。
「よい答え」
作業員が行ってしまうと、匙は手すりに片手をかけ、浮き上がりそうになる身体を支えながらノートを開いた。
Space view for tourist. Workplace for worker. Ask both.
(宇宙の景色は観光客のためのもの。働く場所は働く人のためのもの。両方を聞け)
******
帰りの下降は、上昇より怖かった。
地球が近づく。
最初は大きな円盤だったものが、窓の外を埋めていった。雲の模様が大きくなり、海と島の境目が分かるようになった。
やがて島に山が見え、海に船が見えた。
港のコンテナが一つずつ見分けられる大きさになった。
街が戻ってきた。
匙は少し安心した。
「下の方が怖くない」
「高所恐怖か」
「違う。下は飯がある」
「上にも食事はある」
「上の飯は下から来る」
「そうだ」
「それを忘れたら、上は悪い」
星船は何も言わなかった。
リンガ・ターミナルシティの港が見えた。
物流船、コンテナ、漁船、観光船。海上に延びた浮体施設と、その間を行き来する小型船。
建物が密集した一角では、屋根の高さも形も揃っていなかった。
その向こうに市場と食堂街があった。
匙はようやく息を吐いた。
「地図から道へ戻った」
地上へ戻ると、匙はさっきの屋台風スタンドへ行った。
女は匙の顔を覚えていた。
「空の紐、どうだった?」
匙は答えた。
「高い。怖い。飯が弱い。下を忘れそうになる」
女は少し笑った。
「それはいい感想だね」
匙は真剣に言った。
「上の人間にここの飯を持たせろ」
「輸送しているよ」
「足りない」
「じゃあ、もっと売らなきゃね」
匙は頷いた。
「売れ。上には下の飯がいる」
店の女は、匙に少し多めに魚を盛ってくれた。
匙は即座に言った。
「サービスか。罠か」
「気に入った客への少しのサービス」
「柔らかい罠だな」
「何それ」
「食う」
******
星船の部屋に帰ると、匙はノートを開いた。
高すぎる場所にいる者は、下の飯を忘れてはいけない。
人間が小さく見える場所は、危ない。
しばらくして、サルが言った。
「それは、我々にも言っているのか」
匙はノートを閉じた。
「そう」
星船は静かになった。
匙は続けた。
「顔なしは、ずっと高すぎた」
「そうだな」
「だから、たまに市場で飯を食え」
「星船は食事を必要としない」
「必要じゃなくても見ろ。匂いを覚えろ。誰が作ったか見ろ」
「覚える」
「記録じゃなくて」
「覚える」
匙は満足した。
「二十三世紀は、顔なしに似ていた」
「不快か」
「少し」
「では避けるか」
「いや。いつかまた行くかも」
「なぜ」
「顔なしに似ているなら、余計に見張る」
強硬接触班三が、なぜか嬉しそうに表示した。
匙、宇宙進出時代監査員化――
匙が鍋に手を伸ばした。
サルが即座に消した。
その夜、匙は地上ターミナルで買った安い記念ステッカーをノートに貼った。
軌道エレベーターの絵。
空へ伸びる一本の線。
その横に、彼女は小さく書いた。
空の紐。
紐は、下の結び目を忘れるな。




