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匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
第一部 星船の少女

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42/42

宇宙の境目の上

匙は、これまで訪れた場所を記したノートを広げていた。

六世紀のブルディガラ。八世紀の海。十二世紀のノブゴロド。十九世紀のロンドン。二十一世紀の東京。


何冊かのノートを行き来していた匙は、年代を書き込んだページで手を止めた。

「顔なし。これ、二十一世紀が一番後か」

「訪問記録ではそうなっている」

「その先がない」

「未訪問である」

匙は鉛筆を置いた。

「二十二世紀とか、二十三世紀とか。何もないのか」

「ある。訪問候補を提示するか」

「まだ行くとは言ってない」

「では、参考情報として」


机の上にいくつかの映像が現れた。

最初は屋台だった。女が鉄板の上で肉を焼き、客が皿を受け取っていた。

「普通の飯屋じゃないか」

「肉は動物を飼育・屠殺せずに製造したものだ」

「肉なのに、動物がいない?」

「細胞培養による食肉生産」

「じゃあ、何の肉」

「牛由来」

「牛はどこにいる」

「製造工程にはいない」

「変な肉」


次の映像では、男が市場で買い物をしていた。店の女が何か話すと、男は明らかに別の言語で返事をした。そのまましばらく会話が続いた。

「これは?」

「体内に組み込まれた翻訳装置が会話を補助している」

「顔なしの翻訳みたいだ」

「原理は異なる」

「人間の中に顔なしがいるのか」

「いない」

「なら、よし」


映像が変わった。

広い農地に雨が降っていた。畑の向こうは晴れていて、雲の切れ目が不自然なほどまっすぐだった。

「変な雨だな」

「農業用の局地気象制御施設だ」

「雨を降らせるのか」

「必要な区域に、必要な量を」

「隣の畑は?」

「降らせない」


星船は次の映像を出した。

ノートの上に青い地球が現れ、匙は顔をしかめた。

「紙の上に出すな。字が見えない」

表示が机の端へ移った。


地球の周囲にはいくつかの施設が表示され、地表から三本の細い線が宇宙へ延びている。

匙はそれを指さした。

「これ、地球に刺さってる」

「軌道エレベーターである」

「きどうえれべーたー」

「地上と宇宙の間で、人間や物資を運ぶ」

「この線で?」

「そうだ」

「落ちない?」

「通常運用では落下しない」

「通常じゃないときは」

「事故の可能性はある」

「あるのか」

匙は線を指でなぞった。

「これ、登れるのか。私も」

「一般旅客を受け入れる施設がある」

「どこ」


地球の上に三つの印が現れた。

「二十三世紀に稼働している軌道エレベーターは三基。インドネシアのリンガ諸島、アフリカのギニア湾、ガラパゴス諸島沖の東太平洋。いずれも赤道上の海上基点を利用している」

「三つだけ?」

「建設と維持に大きな制約がある」

「一番乗りやすいのは」

「リンガ諸島。観光客向けの昇降サービスが最も充実している」

「飯屋もあるか」

「ある」

匙は地球から延びる線をもう一度見た。

「これ、インカの紐よりずっと長いな」

「用途も異なる」

「見たい」

匙はノートを閉じた。

「二十三世紀のリンガ諸島。そこへ行く」


サルが即座に言った。

「待て」

匙は目を上げて、壁を見た。

そこにサルがいるわけではないが、気分である。

「なぜ」

「二十二世紀以降の人間社会は、匙には向かない」

「顔なしが言うな。お前が一番未来っぽい」

「星船と人間社会の技術発展は別だ」

「長い。つまり怖いのか」


サルは少し黙った。

「怖い」


匙は満足した。

「なら行く」

「なぜそうなる」

「顔なしが怖がるなんて、珍しい」

「珍しいから行くのか」

「そう」

サルは返答しなかった。


強硬接触班三が小さく表示した。

──軌道エレベーター観光は教育的価値が高い。


サルはそれを消さなかった。


「それに、顔なし」

「何か」

「私は六世紀から来た。二十一世紀も十分変だった」

「そうだな」

「変な時代を一つ増やすだけ」

「その一つが問題だ」

匙は立ち上がった。

「支度する」

「まだ行くと決まったわけではない」

「私は決めた」

机の上のノートを片づけながら聞く。

「空気は大丈夫か」

「軌道施設内の空気は適切に管理されている」

「また変な空気か。ロンドンみたいに汚くないか」

「汚くはない」

「ならいい」


星船は訪問先の情報を表示した。

二十三世紀。インドネシア西部のリンガ諸島。

緑の島々の間に軌道エレベーターがそびえ、その周辺には大規模な港湾施設や商業地区が広がっている。

「海が多いな」

「島嶼地域である」

「魚もうまそうだ」

サルは答えなかった。

「まず飯。空の紐に乗るのはそのあと」

「……観光計画を確定するか」

「する」

サルは、しばらく何も言わなかった。


******


降ろされたのは、リンガ諸島の地上側ターミナル都市だった。


匙は最初、言葉を失った。


海はある。

島もある。


湿った熱気が肌にまとわりついた。

潮の匂いに、揚げ物と香辛料、人間の汗、そして燃料とは違う機械の匂いが混じっていた。港の上には鳥が飛び、岸壁では荷物が動いている。


その向こうから、空へ一本の細い線が伸びていた。


いや、細く見えるだけだった。


地上の巨大な施設から立ち上がった構造体は、雲の中へ消えていた。さらに上へ、目では追えないところまで続いている。


匙はしばらく上を見た。

見ているうちに、首が痛くなった。


「……空に縄をかけたのか」

「軌道エレベーターのテザーである」

「空の紐」

「そうだな」

「インカの紐より、だいぶ太い」

「情報記録用の紐ではなく、輸送構造体である」

「空に荷を運ぶ紐」

「そうだ」


匙は低く言った。

「人間、馬鹿だな」

「称賛か」

「半分」


地上ターミナルは、港と空港と駅と巨大倉庫を混ぜ、その上に神殿を載せたような場所だった。


広い通路には人が絶えなかった。

大きな荷物を引く観光客の脇を、工具箱を抱えた作業員が抜けていく。清掃機械が床を走り、警備員が人の流れを整理していた。

子供が走り、高齢者が休憩用の椅子に座っている。

腕や脚を機械に置き換えた人間もいた。身体の外側に補助装置を着けて歩く者もいる。外見だけでは、何も着けていないように見える者もいた。

頭上では案内表示が次々に切り替わり、通路の途中には光る文字が浮かんでいた。


匙はすぐ壁際を取った。

「二十一世紀より字が増えてる」

「視覚情報が高度に統合されている」

「字が光って浮いている。嫌だ」

「読めるか」


英語、インドネシア語、マレー語、中国語、ヒンディー語、アラビア文字。絵記号、数字、色のついた矢印。

人が近づくと表示が変わり、歩き始めると別の文字がついてきた。

読めるものも、読めないものも、読みたくないものもあった。


「字が人を追いかけてくる」

「個人端末連動表示である」

「悪い字だ」

「便利でもある」

「じゃあ、便利な悪い字」

匙は、自分の進む方向に現れた矢印を手で払おうとした。

矢印は消えなかった。

「しつこい」


匙は空中の矢印に向かって手を振り回しながら、飲食エリアを目指した。


食堂街にはインドネシア料理、マレー料理、中華料理、インド料理の店が並んでいた。

軌道作業員向けの高カロリー食や、低重力から帰還した人間向けの食事を出す店もある。観光客向けの宇宙食を売る店の前では、子供たちが透明な容器を覗き込んでいた。

魚を焼く匂いがした。その隣では、藻類から作った麺が湯の中を流れている。

培養魚、本物の魚、発酵豆、ココナッツ、香辛料、氷菓。コーヒーと茶の湯気が、冷房の風に押されて通路へ出てきた。


匙は言った。

「飯が喧嘩している」

「多文化・多技術食環境」

「喧嘩している」


かなり悩んだ末に、地元の屋台風フードスタンドを選んだ。

店の奥では女が魚を返し、片手で鍋の蓋をずらしていた。注文が入ると、米を盛り、香辛料を加え、皿を客へ渡す。

匙はその手つきを見た。

自動調理だけの店より、こちらの方がよかった。


女はまだ年配というほどではなかったが、腕まくりした前腕が太く、重い鍋を片手で動かしていた。

「これはちゃんと、厨房の女系統」

「分類が雑」

「雑でよい」


匙が注文したのは、魚と香辛料と米を使った料理だった。

皿は軽く、温度を一定に保つ仕組みがあるらしい。魚は表面が香ばしく焼けていたが、盛りつけは妙に整っていた。

匙は一口食べて目を細めた。

「これは島の飯だ。でも少し宇宙を見ている」

「どういう意味か」

「米と魚は下を向いている。香りは島。器と温度管理は上を向いている」

「良い表現」


匙はもう一口食べた。

この店は、また来てもよさそうだった。


******


夕方、いよいよ軌道エレベーターに乗る段になった。


匙は乗降ゲートで固まった。

認証、身体スキャン、荷物検査。係員による確認の後、壁一面に安全説明が現れた。


重力変化への対応。

酔い止め。

緊急姿勢。

圧力異常時の行動。

酸素供給。

避難ポッド。


匙はだんだん不機嫌になった。

「空の紐に乗る前の説明が多すぎる」

「安全のため」

「分かる。分かるが、うるさい」


係員が優しく聞いた。

“First ascent?”

(初めてですか?)


匙は答えた。

“Yes. I do not like too many instructions. But I listen.”

(そう。説明が多すぎるのは好きじゃない。でも聞く)


係員は少し笑った。

“That’s a good attitude.”

(それは良いことです)


窓があり、座席があり、手すりがある。床は妙に安定していて、空調の音がかすかに聞こえるだけだった。

匙は席に座る前に出口を探した。


緊急口はあった。

ただし、その外は空だった。


「これは逃げられない箱だ」

「軌道エレベーター昇降中は途中退出不可」

「嫌」

「だが事実」

「分かる。嫌だけど乗る」


サルが確認した。

「本当に乗るか」


匙は窓の向こうを見上げた。テザーが上へ延びている。

「乗る。怖いから」

「怖いから乗るのか」

「怖くないなら、見る価値が少し減る」


上昇が始まった。

最初は、電車に似ていた。

キャビンがかすかに揺れ、窓の外でターミナルの屋根が下がっていった。岸壁のコンテナが小さくなり、港の船が水面に浮かぶ白い形になった。


まもなく速度が増した。

匙は窓に近づきすぎないようにして外を見た。

「地図が生きている」

「高度上昇により俯瞰視点が得られる」

「顔なしの地図よりも、腹がある」

「腹」

「下に飯と人がいる。顔なしの地図はきれいすぎる」

「そうだな」


海岸線が長く延び、島と島の間の水路が見えてきた。薄い雲を抜けると、リンガ諸島の全体が眼下に広がった。

「人間が消える高さは、怖い」

「見えないだけで存在している」

「見えないと、忘れやすい」

サルは静かに言った。

「そうだ」


さらに上昇すると、スマトラ島の東岸とマラッカ海峡が見えてきた。シンガポールのある海域と、マレー半島の南端も分かる。

匙は、八世紀のシュリーヴィジャヤの商船でマレー半島の南端を回ったときのことを少し思い出した。

あのときは、船の縁から水を覗き、岸の形を見ていた。

今は、海そのものが下にあった。


空の色が濃くなった。青から深い青へ、そして紺色へ変わっていく。

──高度三万メートルを通過。

アナウンス音声が流れた。


窓の上方は暗くなり、地球の縁にはまだ青い光が残っていた。

太陽は西の地平に近づいていた。キャビンが上昇するにつれ、沈みかけた太陽が少し持ち直すように見えた。


──高度六万メートルを通過。


下には島と海と雲が広がっていた。ジャワ海の方角、スマトラ島、マレー半島。遠くのカリマンタン島は雲の下にかすんでいた。

匙は黙って見ていた。


「……空の中は、空じゃない」

「どういう意味か」

「下から見る空と、中から見る空は違う」

「そうだな」

「地図と道みたいだ」

「そうだ」


──高度十二万メートルを通過。


地球の縁が、はっきりと曲がって見えた。

匙は窓に手を近づけたが、触れなかった。

「丸い」

「地球は丸い」

「知ってる。でも、見えると腹が立つ」

「なぜ」

「本で知っていたことが、急に大きくなる」

「それは悪いことか」

「悪くない。腹が立つ」

星船は何か言いかけて、やめた。


──高度十六万メートル。


途中の高高度ステーションで、乗客は宇宙順応を兼ねる休憩を取った。

順応のため重力は弱められ、歩くと少し身体が浮いた。

飲み物は蓋つき、食べ物はこぼれにくい形。窓の外は地球と宇宙の境目。


匙は通路へ出て、最初の一歩で失敗した。身体が思ったより遠くへ進んだ。

「地面が怠けている!」

「低重力環境」

「地面が仕事をしていない」


慌てて手すりを掴むと、周囲の観光客が少し笑った。

匙は睨んだが、自分でも少し笑いそうになっていた。

もう一歩踏み出すと、身体がふわりと浮いた。止まろうとして足を出したが、今度は壁にぶつかりかけた。


「モンゴルの馬より腹が立つ」

「慣性と低重力のため」

「馬は生きているから許せる。床は許せない」


係員がやってきて、低重力歩行のコツを教えた。

「強く蹴らないこと。足より手すりを使ってください。止まるときは、少し早めに」

匙は真剣に聞いた。

「床が弱い場所では、手が道になるのか」

係員は少し考えて頷いた。

「そうですね。そんな感じです」

匙は手すりを握り、今度は慎重に進んだ。


休憩エリアの一角で、匙は「軌道エレベーター観光記念アイス」を見つけた。

当然、買った。

半球形の透明カップに、地球を模したアイスが入っていた。青い海はソーダ味、白い雲はミルク味、緑の陸はピスタチオ。内側にはマンゴーソースが入っている。

匙はそれを見て言った。

「地球を甘くするな」

「観光商品である」

「食う」

一口食べた。

「見た目よりうまくない」

「観光商品にはよくある」

「モーリシャスのアイスの方が強い」

「現地性の問題か」

「地球味が薄い」

「地球味」

「島の飯には空気が入っていた。これは写真の味」

かなり厳しい評価だったが、全部食べた。

「悪い無駄ではない。弱い無駄」


******


高速キャビンに乗り換えた。

先程までとは比較にならない速度で上昇が始まった。

窓の外では地球がゆっくり遠ざかっていった。青い縁は細くなり、雲の渦が大きな白い模様になった。

やがて、場違いに丁寧なアナウンスが流れた。


──高度三万五千八百キロメートル、静止軌道ステーションに到着しました。お手回りのものをいま一度ご確認いただき、お忘れものにご注意ください。


匙は窓の外を見たまま動かなかった

雲の切れ間から島々と大陸の海岸線が見えた。東南アジアの海、その周囲に広がる陸地。インド洋と太平洋へ続く水面。雲の向こうでは、見慣れた地図の形がところどころ隠れていた。


人間は見えなかった。

国境も見えなかった。


「国境がない」

「宇宙からは政治的国境は見えない」

「でも、下では人間が止まる」

「そうだ」

「見えない線で止まる」

「そうだ」

「上から見ると、線が消える。だから上の人間は忘れる」

「その危険はある」

匙はしばらく地球を見た。

「顔なし」

「何か」

「お前は、いつもこんな感じで見ていたのか?」


星船は長く黙った。


「近い」


匙は目を細めた。

「それなら、お前が人間を踏むのは分かる」

「分かる?」

「許すとは言ってない。分かるだけ」

「そうだな」

「高いところでは忘れやすい」

「何を」

「飯を作る人。港の匂い。床を拭く人」

「そうだな」

匙は地球を見たまま言った。

「だから上に来る人間は、下の飯を覚えていないとだめだ」

星船は、返答に少し時間をかけた。

「覚える」

「記録じゃなくて」

「覚える」


軌道ステーションには展望廊下があった。

観光客が窓を背に記念写真を撮っていた。地球を背景に抱き合う者がいる。泣いている者も、ピースサインをする者もいた。

子供が手すりにつかまりながら身体を浮かせて笑っていた。高齢者が椅子に座り、窓の外をじっと見ている。宗教者らしい服装の人間が、窓に向かって祈っていた。

その脇を、作業服の男が工具箱を持って通り過ぎた。男は窓を見なかった。


匙はその後ろ姿を目で追った。

廊下の端では清掃員が床を拭いていた。別の作業員が壁の点検口を開け、内部の機器を調べている。飲食店の裏口からは、空の容器を載せた台車が出てきた。


「モーリシャスの楽園写真の裏にも働く人がいる。宇宙写真の裏にも働く人がいる」

「そうだ」


匙は、近くの保守作業員に英語で聞いた。

“Do you like this place?”

(あなたはこの場所が好き?)


作業員は話しかけられたことに、少し驚いたようだった。工具箱を持ち直し、窓の外を見る。

“Some days. Some days it’s just work.”

(好きなこともある。ただの職場なこともある)


匙はうなずいた。

「よい答え」


作業員が行ってしまうと、匙は手すりに片手をかけ、浮き上がりそうになる身体を支えながらノートを開いた。

Space view for tourist. Workplace for worker. Ask both.

(宇宙の景色は観光客のためのもの。働く場所は働く人のためのもの。両方を聞け)


******


帰りの下降は、上昇より怖かった。

地球が近づく。

最初は大きな円盤だったものが、窓の外を埋めていった。雲の模様が大きくなり、海と島の境目が分かるようになった。

やがて島に山が見え、海に船が見えた。

港のコンテナが一つずつ見分けられる大きさになった。

街が戻ってきた。


匙は少し安心した。

「下の方が怖くない」

「高所恐怖か」

「違う。下は飯がある」

「上にも食事はある」

「上の飯は下から来る」

「そうだ」

「それを忘れたら、上は悪い」

星船は何も言わなかった。


リンガ・ターミナルシティの港が見えた。

物流船、コンテナ、漁船、観光船。海上に延びた浮体施設と、その間を行き来する小型船。

建物が密集した一角では、屋根の高さも形も揃っていなかった。

その向こうに市場と食堂街があった。

匙はようやく息を吐いた。

「地図から道へ戻った」


地上へ戻ると、匙はさっきの屋台風スタンドへ行った。

女は匙の顔を覚えていた。

「空の紐、どうだった?」

匙は答えた。

「高い。怖い。飯が弱い。下を忘れそうになる」

女は少し笑った。

「それはいい感想だね」

匙は真剣に言った。

「上の人間にここの飯を持たせろ」

「輸送しているよ」

「足りない」

「じゃあ、もっと売らなきゃね」

匙は頷いた。

「売れ。上には下の飯がいる」

店の女は、匙に少し多めに魚を盛ってくれた。

匙は即座に言った。

「サービスか。罠か」

「気に入った客への少しのサービス」

「柔らかい罠だな」

「何それ」

「食う」


******


星船の部屋に帰ると、匙はノートを開いた。


高すぎる場所にいる者は、下の飯を忘れてはいけない。

人間が小さく見える場所は、危ない。


しばらくして、サルが言った。

「それは、我々にも言っているのか」

匙はノートを閉じた。

「そう」

星船は静かになった。


匙は続けた。

「顔なしは、ずっと高すぎた」

「そうだな」

「だから、たまに市場で飯を食え」

「星船は食事を必要としない」

「必要じゃなくても見ろ。匂いを覚えろ。誰が作ったか見ろ」

「覚える」

「記録じゃなくて」

「覚える」

匙は満足した。


「二十三世紀は、顔なしに似ていた」

「不快か」

「少し」

「では避けるか」

「いや。いつかまた行くかも」

「なぜ」

「顔なしに似ているなら、余計に見張る」


強硬接触班三が、なぜか嬉しそうに表示した。

匙、宇宙進出時代監査員化――


匙が鍋に手を伸ばした。

サルが即座に消した。


その夜、匙は地上ターミナルで買った安い記念ステッカーをノートに貼った。


軌道エレベーターの絵。

空へ伸びる一本の線。


その横に、彼女は小さく書いた。


空の紐。

紐は、下の結び目を忘れるな。

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