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匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
第一部 星船の少女

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41/42

検定と電卓

匙は、昭和日本のそろばん教室に何度か通った。


最初は、五で止まり、十で驚き、足すのに引くことに怒り、九九は呪文に聞こえた。

しかし、次第に手が数を覚えるようになった。

指が先に動き、声が珠になり、数字が音と指と位置に変わった。


ある日、先生が言った。

「検定、受けてみない?」


匙は警戒した。

「けんてい、とは何だ」

「そろばんができるかどうか試すもの」

「誰が決める」

「珠算連盟とか塾とか、いろいろ」

匙は嫌な顔をした。

「できるかどうかは、私が知ってる」

先生は言った。

「他人にも分かる形にするの」

「他人に分からせる必要があるのか」

「商売や学校では必要なことも多い」

匙は不満そうに言った。

「紙の証明は、少し嫌い」

先生は頷いた。

「でも、持っていると便利なこともある」

「便利な悪い字」

「そうかもね」

先生は、匙の扱いに慣れてきていた。


匙は検定を受けた。


試験の日、匙は最初に出口を見て、次に時計を見て、それから、そろばんを置いた。

ぱち、と一つだけ珠を弾く。

試験官がチラッと見た。匙は小声で言った。

「珠を起こしただけ」


試験が始まった。

掛け算、割り算、見取り算、読み上げ算。

波のように声が来て、手が激しく動き、珠が鳴る。

途中で数が逃げかけた。

追いすぎると数は逃げる。

先生の言葉を思い出して、匙はいったん息を吐いた。

数は追わない。数は戻る。

珠を見る。今ある場所から続ける。


ぱち

ぱちぱち

しゃっ


最後の答えを書いた時、匙は少し手が震えていた。


試験が終わると、匙はそろばんを抱えて外へ出た。

「宿題より悪い」

先生が笑った。

「試験はそういうもの」

「でも終わった」

「そうね」

「答えを返した」

先生は頷いた。

「よく返しました」


合格発表の日。

匙は、教室の壁に貼られた紙を見た。

名前、級。

合格。

自分の名前は星船補正で現地用に少し変えられていたが、そこに確かにあった。


匙はしばらく紙を見た。

「これが、私ができたという紙か」

先生が言った。

「そう」

「私がやったのに、紙が言うのか」

「紙も言う。あなたも知ってる」


合格証書を渡された。匙は両手で受け取った。

「これは返すとのか」

「返さない。あなたのもの」

匙は少しだけ、口元を緩めた。

「なら、持ってる」


その日のノートには、こう書いた。

Soroban test. Passed.

(そろばんの試験。合格した)

Paper says I can. I also know I can. Both useful.

(紙は私ができると言う。私もできることを知っている。両方便利)

Certificate = useful letter, but ask who made it.

(検定=便利な字。でも誰が作ったか聞け)

Numbers did not run too far. Good.

(数は遠くまで逃げなかった。良い)

そして日本語で、


数の門を一つ通った。


と書いた。


******


その翌日、匙は言った。

「顔なし」

「何か」

「次は電卓というやつを買う」

星船はこれを少し予想していた雰囲気だった。

「そろばんを覚えた後に電卓を買うのか」

「そう」

「なぜ」

「そろばんを知らずに電卓を持つと、数が箱の中に隠れる」

「そうだな」

「でも、そろばんを少し覚えた。だから、箱の中で何が起きているか少し疑える」


今回、匙は顔なしの勧めで、同じ日本でも少し先の時代の家電量販店へ出向いた。

店内は明るく、白い光と電子音に満たされていた。棚にはスマホ、パソコン、プリンター、電池、時計が並んでいた。

匙は一歩入ってすぐ嫌な顔をした。

「字が光りすぎる。昭和ではない」

「昭和ではなく令和」

「ここの電気の市場は、声より札の方が喋ってる。うるさい」

「そうか」


売り場にはあらゆる種類の電卓があった。

小さいもの、大きいもの。

事務用、学校用簿記用、関数電卓、税率計算つき、ソーラー式、電池式。

ピンク、黒、白。

大きなボタン、小さなボタン、硬いボタン、柔らかいボタン。

匙は圧倒されて、しばらく黙った。

「数の箱が多すぎ」

「用途別に分かれている」

「これが全部、数を隠す箱か」

「計算過程を内部で処理」

「隠している」

彼女は、最初に安い小型電卓を手に取った。

軽かった。

「これは弱い」

次に大きな事務用電卓を取った。

ボタンが大きく、押すと、かち、という音がした。液晶の数字も見やすかった。

匙は押した。


1+2


即座に答えが表示された。匙はしばらく無言で画面を見てから、ひとことだけ口にした。

「速すぎ」

「電卓である」

「1と2が、どこで3になった」

「電子回路内で演算」

「箱の腹か」

「そうだ」

「数の厨房が見えない」

「そうだ」

「これは、少し顔なしの匂いがする」

「何故」

匙は少し嫌そうな顔をしつつも、もう一度ボタンを押した。

17×8

「速い」

136という数字を見て、匙はまたひとこと言った。

「そうだ」

「そろばんなら、手が疲れる」

「そうだ」

「手が疲れないと数を軽く見そう」

「その危険はある」

匙は電卓を棚に戻さなかった。

「でも買う」

「なぜ」

「危ない道具は、使い方を覚える」


店員が近づいてきた。

「何かお探しですか?」

匙は電卓を見せた。

「数の箱。速い。でも、嘘をつきにくいやつ」

店員は一瞬止まった。

「ええと、表示が見やすくて、打ち間違いに気づきやすいもの、ということですかね」

匙は少し驚いた。

「翻訳がうまい」

匙語が実用語に変換された。

店員は比較的大きな事務用の電卓をいくつか見せた。

キーが大きく、打った手応えがあり、液晶が見やすい。税込・税抜ボタンやメモリー機能など、よく分からないボタンが多く、桁数も多い。

「こういうのは後で学ぶ。今は足し算、引き算、掛け算、割り算」


結局、匙は少し大きめでボタンを押した感触が手に残る電卓を選んだ。

「これ」

「理由は」

「押した時に数が少し鳴る。そろばんほどではないが完全に黙らない」

箱に入った電卓を抱えて、匙は店を出た。


******


星船に戻ると、匙は自室の机にそろばんと電卓を並べ、最初にそろばんで計算した。

23 + 48

匙の指の下で音が鳴った。

71


次に電卓を叩いた。

23 + 48 =

71


同じだった。

匙は少し安心して、次を試した。


136 × 7

そろばんでは少し時間がかかった。

電卓は一瞬で答えを出した。

952、という数字を見て匙は頷いた。

「今日は嘘をついてない」

「通常、正しく入力すれば正しく計算する」

「正しく入力すれば、だろ」

「そうだ」

「人間が間違えたら、箱は間違いを速くする」

「正しい」


匙はノートに書いた。

Calculator does not know I pressed wrong. It makes mistake fast. Dangerous.

(電卓は私が間違って押したことを知らない。速く間違える。危ない)


匙はさらに試した。

1÷3

0.333333333

画面に3が並んだ。匙は固まった。

「数が終わらない」

「循環小数」

「箱が途中で勝手に切った」

「表示桁数に限界がある」

「電卓も嘘をつくのか」

「有限表示」

「全部は見せないのか。顔なしだ」

「その評価には異論」

匙は顔をしかめた。

「そろばんも全部は見せない。電卓も全部は見せない。紙も全部は見せない。道具は、どれも全部を見せない」


匙は合格証を見て、そろばんを一度だけ弾いた。


ぱち


次に電卓を押した。


かち


匙は言った。

「ぱち、と、かち。どちらも数の音だ」

「そうだな」

「でも、ぱちの方が、少し手に近い」

「そうだな」

「だから、そろばんは捨てない」

「記録」

「電卓も捨てない」

「記録」

「どちらも、私の道具」

星船は答えた。

「そうだ」


匙は枕元にそろばん、電卓、合格証を並べた。

その夜、星船の匙の部屋では時々小さく、


ぱち

かち

ぱち

かち


という音が鳴った。

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