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匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
第一部 星船の少女

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40/41

匙、そろばん教室に行く

匙は、インカのキープを見た日から数日後、ふと星船に訊いた。


「顔なし」

「何か」

「数を文字なしに残せるなら、計算もそういうふうにできないのか」


どの時代に行っても、港でも市場でも船の上でも、どこかの店の手伝いをするときも、ものを数えることは必要だった。

何かを買ったり値切ったりするときも、手早く計算したい。匙にとって、これはかなり大事なことだった。


星船は、たちまち嬉しそうに反応した。

「候補多数。算木、算盤、アバカス、そろばん、計算尺、機械式計算機、電卓――」

匙は手を上げた。

「長い。電気がない時代でも使えるやつ。持ち運びやすいやつ」

「そろばんを推奨する」

「ソロバン」

「十六世紀から二十世紀後期までの日本列島で広く使われる珠算用具。珠を指で動かして計算する」

匙は目を細めた。

「紐より速いのか」

「用途によるが、四則計算では非常に速い」

「顔なしなしで使えるか」

「使える。効率的な習得を希望であれば、昭和期日本のそろばん教室への通学を推奨」

匙は即決した。

「覚えたい。通う」


星船は具体的な時期について検討した。

昭和日本といっても戦前、戦中、戦後、高度成長期、昭和末期とで、かなり世相が違う。

匙は言った。

「戦争の匂いが濃すぎる時は嫌だ」

「では戦後の高度成長期、昭和四十年代前後」

匙は少しだけ警戒した。

「宿題は出るか」

「ある可能性が高い」

匙は顔をしかめた。

「宿題は悪い」

「計算操作の反復継続により習熟効果の向上を期待し得る」

「長い。悪い」

匙は嫌そうな顔をしたまま、昭和四十年代くらいの日本のどこかの町に降ろされた。


******


冬の夕方の商店街だった。

匙は以前、二十一世紀の東京で迷子になったときに歩いた商店街を思い出したが、道を歩く人の髪型も服装も違う。

全員、髪が黒い。子供の髪は短い。スマートフォンを持っている人もいない。

匙の髪の色は黒に近いが、顔立ちはこの時代の日本では少し違和感を持たれそうだった。もっとも、匙はいつの時代のどこの国でも少し変だった。


通りの向こうから、背の高い金髪の男が二人歩いてきた。どちらも厚い上着を着て、一人は紙袋を抱えている。

角の店から出てきた男が英語で声をかけると、二人は笑って何か答えた。


「外国人がいる」

「近くにアメリカ海軍の施設がある」

「軍人か」

「その可能性が高い」

「戦争は?」

「この時期、日本国内は戦時下にない。ただし、アメリカ軍はベトナム戦争に従事している」

匙は二人の後ろ姿を見た。

「遠くで戦争してるのか」

「そうだ」

「嫌な時代だな」

「戦争のない時代は、選択が難しい」

「知ってる」


八百屋、魚屋、肉屋、文房具屋、駄菓子屋。

自転車、ランドセルの子供。

夕飯と石油ストーブの匂い。電柱とホーローの看板。木塀に貼られた手書きのポスター。町内会の掲示。曇ったガラス戸。

店と店の隙間から、灰色の海も少し見えた。


「疲れた味噌汁の東京より匂いが古い」

「昭和中期」

「紙と油と夕飯の匂いが強い」

「そうだな」


通りの角には、英語の文字が並んだ小さな店があった。ガラス戸の内側から、ピアノと金管楽器の音が漏れてくる。

匙が立ち止まった。


「変な音楽」

「ジャズ」

「音が勝手に歩いてる」

「即興演奏を含む音楽形式だ」

「長い。好きに歩く音楽」

「そういう場合もある」


匙はもう少し聞いていたかったが、そろばん教室の時間が近づいていた。


商店街から奥に少し入ると、音楽は聞こえなくなった。表通りは舗装されていたが、裏路地にはまだ土が見えていた。

そろばん教室は、短い坂を上がったところにあった。

縦書きで「珠算塾」と墨書きされた木の札があり、曇りガラスの引戸の向こうから音が聞こえていた。


ぱち

ぱちぱち

ぱちぱちぱち


匙は立ち止まった。

「これは虫の音か?」

「そろばんの珠を弾く音」

「数が鳴っている!」

この時点で、匙はかなり気に入った。


中に入ると、少しくたびれた畳の部屋に低い机が並び、子供たちが問題用紙と鉛筆を脇に置いてそろばんを弾いていた。

壁には級位や合格者の紙が貼られ、黒板があり、その上に時計が掛かっている。


ぱちぱちぱち

ぱち

しゃっ

ぱちぱち


鉛筆で答えを書く音もする。

音が良かった。数が人の手で鳴っていた。


そろばん教室の先生は、髪をきちんとまとめた眼鏡の中年女性だった。

声がよく通り、指の動きが速く、子供の姿勢をよく見ている。間違えると容赦ないが、手は出さない。

匙は即分類した。

数の女。強い。


先生は匙を見た。

「見学? 外国の子?」


星船の認識補正で、匙は「海外から来た少し年長の生徒、短期で珠算を習いたい」という形になっていた。


「そろばんを覚えたい」

先生は頷いた。

「まず、座りなさい」

匙はすぐに壁側の席を選ぼうとした。

横や後ろを取られるのは避けるのは、ブルディガラの時代からの匙の半ば無意識の癖だった。

先生は何も言わず壁側の空席を示した。

匙は少し安心した。この先生は、ちゃんと生徒を見ている。


最初に渡されたそろばんを、匙はじっと見た。

枠、梁、珠、桁、木の手触り。

相当に使い込まれ、珠に指の脂が馴染んでいた。

先生が横から言った。

「上の珠が五。下の珠が一。ここが一の位。左へ十、百、千」

匙は聞いた。

「上が五?」

「そう」

「下が一?」

「そう」

「上の一つが、下の五つ分のふりをするのか」

先生は少し止まった。

「まあ、そうね」


匙は珠を動かした。

ぱち

いい感じの音がした。

「よい」

もう一つ動かした。

ぱち

「数が手に入る」


先生は言った。

「まず姿勢。左手でそろばんを押さえる。右手の親指と人差し指で入れる、払う」

「指にも規則があるのか」

「ある。勝手にやると速くならない」

「勝手にやるとだめなのか」

「最初はね」

匙は頷いた。

「最初だけなら」

先生は笑った。

「慣れた頃に勝手をする人が一番間違える」


まず一から九まで珠を動かした。

一。

下の珠を一つ上げる。

ぱち。

二。

もう一つ上げる。

ぱち。

三。

四。

五。

ここで下の珠を払って、上の珠を下げる。

匙は少し混乱した。

「五で形が変わる」

「そう。五は上」

「五は偉いのか」

「偉いというより、まとめる」

「五は小さい群れの長か」

先生は少し考えた。

「そう言ってもいい」


六。

これは五と一。

七。

八。

九。

匙は珠を見て、少し笑った。

「数が並んでいるのに、紙の字より身体に近い」


十。

一の位を払って、十の位へ一を入れる。

匙は止まった。

「右の数が消えて、左へ移る」

先生は頷いた。

「繰り上がり」

「数が隣の家へ引っ越すのか」

「そうね」

匙は真剣になった。

「字の家も引っ越す。数も引っ越す」

先生には何の話かよく分からなかったが、匙が匙なりに、そろばんを理解しようとしていることは伝わった。


「十になったら、次の桁へ行く」

匙は練習した。

九。

十。

十一。

十九。

二十。


ぱち

しゃっ

ぱち

ぱち


音が増える。

匙はこれを気に入った。

「そろばんは小さい市場みたいだ」

先生が聞いた。

「市場?」

「珠が行ったり来たりして、値段が決まる」

先生は少し笑った。

「商売にも使うからね」

匙はさらに気に入った。


子供たちは、最初は匙をちらちら見ていた。

変な年長の女で日本語が少し変。たぶんガイジン。そろばん初心者。五で止まって、十で驚いてる。

一人の男の子が笑った。

「十でびっくりしてる」

匙は一瞬、睨みかけたが、オーストラリアの学校やノブゴロドの白樺の絵を思い出した。

笑い方にも種類がある。

この笑いは攻撃半分、面白がり半分。噛むほどではない。

匙は言った。

「お前は紐で三を結べるか」

男の子は固まった。

「え?」

「なら笑うな。私も十は初めてだ」

男の子は少し負けた顔をした。その後、少し親切になった。

「五を入れる時は、上の珠を下げるんだよ」

匙は言った。

「知ってる。今知った」


次は足し算を習った。

3 + 2。

入れる。

入れる。

答え。

5。

これは分かる。


7 + 4。

七を置く。

四を足したい。

しかし一の位が足りない。

十へ繰り上げる。


匙は止まった。

先生は言った。

「10を足して6を引く」

匙は顔をしかめた。

「足すのに引くのか」

「そういう時もある」

「商人みたいだな」

先生は笑った。

「計算は商人より厳しいわよ」


匙はかなり苦戦した。

足す。

引く。

繰り上げる。

五珠。

十珠。

桁。

何度も間違えた。他の子供たちは速かった。

ぱちぱちぱち

匙だけが遅かった。

ぱち……ぱち……しゃっ……違う。

先生が何度も言う。

「違う。戻して」

匙は少し苛立った。

「数が逃げた」

「逃げたんじゃない。あなたが追いすぎた」

「数も追いすぎると逃げるのか」

「そう」

これは少し名言のような気がした。いつものノートに書きたくなったが、授業中なので我慢した。


休憩時間になった。

子供たちは鉛筆を転がしたり消しゴムで遊んだり、水を飲んだりした。匙がひとりでそろばんを見ていると、さっきの男の子が話しかけてきた。

「お姉さん、外国の人?」

「だいたい」

「どこの国?」

「いろいろ」

「変なの」

「よく言われる」


別の女の子が、匙のそろばんの持ち方を直した。

「こう持つと動かないよ」

匙は素直に直した。

「よい」

「和子、匙ちゃんに少し教えてあげて」

先生が声をかけた。

「はーい」

和子は少し得意そうだった。

「そろばん、初めて?」

「初めて」

「じゃあ、十は難しいよね」

「難しい」

「でも九九の方がもっと嫌だよ」

嫌な予感がした。

「ククとは何だ」

和子は目を輝かせた。

「いんいちがいち、いんにがに、いんさんがさん――」

匙はすぐ先生を見た。

「呪文?」

先生は笑った。

「掛け算の歌みたいなもの」

「数に歌があるのか」

「ある」


この日の授業の後半は読み上げ算だった。

先生が数字を読み上げ、生徒たちがそろばんを弾く。

「三円なり、五円なり、二円なり……」

ぱちぱちぱちぱち。

匙は最初から出遅れた。

数字が声で来る。手が追う。珠が鳴る。紙に残らない。顔なしの表示もない。

これは、思った以上にインカのキープに近かった。

声、手、記憶、数。

匙は必死だった。

「待て」

先生は止まらなかった。

「四円なり、六円なり、八円なり……」

ぱちぱちぱち

匙は途中で迷子になった。

「数が多い!」

先生は言った。

「だからたくさん練習するの」


匙は唇を結び、もう一度やった。

二回目には少し追えた。

三回目には少しだけ、声が珠に変わる感じがした。

匙は目を見開いた。

「今、声が珠になった」

先生は頷いた。

「そう。それが大事」

匙は感動した。


授業の終わり、先生は小さな宿題プリントを渡した。匙は露骨に嫌な顔をした。

「宿題は悪い」

「悪くてもやる」

「学校の先生と同じだ」

「よく言われる」

「顔なしも同じことを言う」

「その顔なしさんは、偉いのね」

「うるさい。偉くない」

先生は笑った。

「じゃあ、これだけ。十問。次までにやってきなさい」

匙は手書きの問題用紙を見た。

足し算だった。

簡単そうに見える。たぶん簡単ではない。

「十問だけか」

「十問だけ」

「増えないな」

「増やしてほしい?」

「いらない」

「なら、十問」


帰る前、匙は先生に聞いた。

「そろばんを買えるか」

「買えるわよ。文房具屋にある」

「自分のものにできるか」

「もちろん」

匙はその足で近くの文房具屋へ行って、手に馴染みそうな小さめの木のそろばんを選んだ。

「これ」

店の人が包もうとしたが、匙は言った。

「包まなくていい。すぐ持つ」


******


星船に戻ると、匙は床に座って膝の上にそろばんを置き、さっそく宿題に取りかかった。

1 + 4

3 + 2

8 + 7

12 + 5

19 + 6

途中で怒った。

「足すのに引くな!」

「繰り上がりの処理だ」

「知ってる!」

「では」

「黙れ!」


サルが星船を黙らせ、匙は自分で珠を戻した。

もう一度。

ぱち

ぱち

しゃっ

ぱち

間違える。

直す。

またやる。

かなり時間がかかったが、匙は問題を全部解き終えて大きく息を吐いた。

「宿題は悪い」

「終わった」

「悪い。でも終わった」

「よくやった」

匙は睨んだ。

「少しなら褒めて良い」

「少しよくやった」

「よし」


ノートにはこう書いた。

Showa Japan. Soroban school.

Numbers make sound: pachi pachi. Good.

Soroban = small market for numbers. Beads move, price appears.

Five bead is little chief. Ten means number moves house.

Adding sometimes needs taking away. Suspicious but works.

If chase number too hard, number runs. Teacher said. Good.

Voice can become bead. Reading numbers by ear and hand.


日本語でも書いた。

数が鳴る。声が珠になる。追いすぎると、数も逃げる。


夜に星船が聞いた。

「通い続けるか」

匙はそろばんの珠を一つ弾いた。

「通う」

「どれくらい」

「九九という呪文を少し覚えるまで」

「かなりかかるかもしれない」

「顔なし、手を出すな」

「了解」

「答えは私が返す」

「そうだな」

匙はそろばんを枕元の近くに置き、十をもう一度作ってから寝た。

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