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匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
第一部 星船の少女

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紐の男

ある日、匙はノートを閉じて言った。

「顔なし」

「何か」

「字につかれた。字がないところに行きたい」


星船は少し考えた。

「“字がない”の定義を確認する必要がある」

「面倒な声を出すな」

「候補は」

「インカ帝国」

星船は慎重に言った。

「インカ帝国には、アルファベットや漢字のような書記体系は存在しない。ただし、キープと呼ばれる結び紐による記録体系がある。これは数、徴税、人口、物資、労働義務などを管理する重要な記録装置」

匙は眉をひそめた。

「長い。字がないのに記録はある」

「そうだ」

「紐で?」

「紐で」

匙はしばらく黙ってから、真剣な顔で言った。

「字より面白そう」


******


顔なしは十五世紀後半、都のクスコではなく道沿いのタンボ、つまり街道沿いの宿駅・倉庫のような場所の近くを選んだ。

王の近くは、息抜きには向かないと判断したらしい。


そこは、アンデスの高地だった。

空気の薄さを最初に感じた。匙は一歩歩いた途端に顔をしかめた。

「空気が少ない。息苦しい」

「標高が高い。酸素分圧が低い」

「長い。空気が少ない」

「了解」

「ロンドンは汚い。タヒチは吸える。ここは薄い。空気も場所で違いすぎる」


風は冷たく、その冷たさの割には日差しが強烈で、空は近いようで遠い。

変な場所だった。

高い山々が間近くそびえ、斜面は段々畑に覆われ、その間を石の道が縫うように続いている。

遠くにリャマかアルパカの群れが放牧され、道の先には荷を運ぶ人がいた。


匙は少し前屈みで呼吸を整えながら言った。

「ここは、足と肺を試す場所だ」

「高地環境への順応が必要」

「顔なし、今日はとくに短くしろ」

「了解」

星船は匙の身体を勝手に少し補助した。匙は不自然に呼吸が楽になったことに気づいて怒った。

「勝手に触るな。苦しいままにしろ。死なないくらいで」

「了解」

「楽にしすぎると、この場所が嘘くさくなる」

「了解」


星船は、しばらく黙ってから言った。


「現地通行者集団の末尾に配置した。離れるな」

「つまり、私は迷子?」

「随伴者に見える。配給を受け取れる可能性が高まる」

「でも迷子だな」


街道は、ここに来る前の匙の想像よりも整っていた。

敷石、階段、道幅、排水、斜面を行く道。

インカの道は橋で谷を渡り、山腹をめぐり、遠くの峠に向かっていた。


「字がなくても道は強い」

「インカ帝国は広大な道路網で知られる」

匙は頷いた。

「字がなくても、ちゃんと帝国」

「そうだ」

「怖い。よい」

怖いものの方が見ごたえがある。



そのとき、匙の脇を若い男が走り抜けていった。荷は持たず、伝令のような身軽さだった。

星船が小さく言う。

「チャスキ、伝令走者の可能性」

匙はその走り方を見た。

「この帝国は字はなくても人間の脚で喋るのか」

「非常に良い要約」

「褒めるな。少しならいい」

「少し良い要約」



匙は近くのタンボに到着すると、倉庫に引き寄せられた。そこには食べ物の気配があった。

穀物と芋。干し肉。それと布や、用途がよく分からないいろいろな道具。


「飯が集められている」

「インカ帝国では倉庫制度により、食糧や物資を蓄積し、再分配している」

「長い」

「飯を集めて配っている」

「なるほど」


役人らしい男がいた。

紙に線を並べる人ではないかもしれないが、立ち方も話し方も権威を感じさせた。匙はローマの禿げた男を思い出して、少し嫌な気分になった。


その隣に紐を持つ男がいた。

いた。

これだ。

匙は凝視した。


多色の布のような、織物のようなもの。そこから垂れた結び目の多い紐。

男はそれを手で繰り、指で紐をまさぐり、何かを唱えているようだった。


星船が言った。

「キープカマヨク、キープを扱う専門家の可能性」

「では、紐の男」

「その呼称は誤解を招く可能性がある」

「本人には言わない」



紐の男は、匙をちらっと見た。

変な娘だと思われた気配があった。星船が衣服を調整しているが、おそらく現地人から見ればどこかに違和感がある。

男が短く何か言った。星船の翻訳が遅れて届いた。


「何を見ている」


匙は答えた。

「字がないところを見に来た。でも紐があった」


男は眉を上げた。

「字とは何だ」


匙は困って、自分のノートを出した。男はそれを見て、かなり不思議そうな顔をした。

「虫の足か」

匙は少し傷ついた。

「違う。私の目の跡」

男は自分のキープを持ち上げた。

「これは手の跡だ」


紐の男はひと仕事終えたところらしく、簡単な例を見せてくれた。

紐の結び目。その位置と数。

一の位、十の位、百の位。


匙は目で見て指で追った。

「下が小さい数、上が大きい数か」

男が頷いた。

「結び方で数が違うのか」

「そうだ」

「色は何」

「芋、布、人、獣を意味する」


匙はキープをじっくりと眺めた。数字が紙でも声でもなく、紐にいるのは少し不思議な感じがした。


「数字が結ばれている」

「そうだ」

「逃げないのか」

紐の男が答えた。

「紐をほどかなければな」


匙は自分のノートに書こうとして、やめた。キープを見ながら紙に書くのは少し変な気がして、ノートを閉じた。



紐の男は短い紐を一本出した。練習用か、余りの紐かもしれない。

「結んでみるか」

匙は受け取った。


指で触ると柔らかく、少しざらついた。紙よりも身体に近い感じがした。

男は、結び方を一つ教えてくれた。匙が真似しようとすると、紐は逃げ、指がもつれた。男は笑い、匙は睨んだ。


「初めてだ」

「そうだろうな」

「もう一回」

「そう言うと思った」

これで、匙は少しこの男を気に入った。



匙は集団の末尾で、芋の籠を少し運ばされた。誰の子かは曖昧なままだったが、働いた子には食わせるらしかった。

その後、倉庫の近くで簡単な食事を受け取った。

ジャガイモとトウモロコシと干し肉。少し酸味のある謎の飲み物。それに香草と塩。


「インカの飯は山を上る飯」

紐の男が、ちらっと匙の食べ方を見て言った。

「よく食う子供だ」



午後は段々畑を見た。

山の斜面を切り、石を積み、土を支え、水を回して作物を植えている。


「山を畑にしている」

「アンデスの段々畑は高地農業に重要」

「山に棚を作って飯を置いているのか」

「そうだな」

「つまり、山の飯箱」

「記録する」

「するな」



夕方、紐の男の手が空いていそうなタイミングで練習紐を見せた。不格好だが、一応結び目ができた。


「これは、三」

男は見た。

「たぶん三」

「たぶん?」

「汚い三」

匙は怒った。

「三は三だ」

「結び目が汚いと、あとで迷う」

匙は黙って結び直した。男は頷いた。

「少しましな三」


******


帰還後、匙は紙のノートをすぐには開かずに、練習紐を机に置き、自分で結んだ三つの不格好な結び目をしばらく見た。


星船が聞いた。

「また行くか」

匙は紐を指で触った。

「行く。紐の男のところ」

「キープを学びたいのか」

「少し」

「キープは特殊技能であり、国家機密に関わるため、本格的な学習は拒否される可能性が高い」

「三を汚く結ばないくらいにはなりたい」

「了解」

「でも」と匙は続けた。

「紐より文字の方が、少し面倒さが少ない」

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