南の水路の島
八世紀だった。
匙は船に乗っていた。
船と言っても星船ではない。
木でできていて飛沫で濡れ、波に揺れ、臭い、飯の時間になると全員が本当に嬉しそうな顔をする船だった
匙はその点が気に入っていた。
星船の床はいつも乾いている。どこから水が来て、どこへ消えるのか分からない。濡れた布も、濡れた足跡も、放っておくといつの間にか無くなる。
だがこの船では、海水は海水として甲板に残った。
魚の血も残った。椰子の殻も、縄のささくれも、米粒も、誰かが踏めば潰れ、誰かが払えば横へ行った。
匙は朝から甲板の端に座っていた。
「そこに座ると邪魔だ」
小柄な男が、匙の横を通りながら言った。
男は匙を「小さい通訳」と呼んでいた。名前を覚える気がないというより、そもそも船の上では人の名より役目の方が先に来るらしかった。
匙は少し横へずれた。
「ここ?」
「そこも邪魔だ」
「ここ?」
「それは縄の場所だ」
匙は縄を見た。縄にも決まった場所がある。
「人より縄が偉い?」
男は笑った。
「海の上では、時々そうなる」
匙は納得した。
この船は、シュリーヴィジャヤの商人の船だと聞いていた。
ただし船の上にいる者たちが、毎回同じ言い方をするわけではなかった。
ある者は「パレンバンの舟」と言い、ある者は「王の印を受けた船」と言い、ある者は「香を運ぶ船」と言った。
年長の舵取りだけが、たまに偉そうに「これはただの船ではない」と言った。
匙には、その違いがまだよく分からなかった。
積んでいるものは分かった。
樟脳、沈香、蝋、亀甲、布。中身がよく分からない黒っぽい壺、乾いた魚、小さな金属の塊。
何に使うのか分からないが、大事そうに包まれた石。
匙はその包みを指して聞いた。
「これ、食べるもの?」
「食べたら腹が石になる」
「薬?」
「薬ではない。売れば金になる」
「食べられないのに金になるのか」
「お前は商人になれないな」
男たちは笑った。
船では匙の扱いは雑だった。
小さい、細い、よく食べる、変な言葉をすぐ覚える、櫂を漕ぐには軽すぎる、荷を担ぐには頼りない、鳥の名前と地名を聞き取るのは早い。
その程度の評価だった。
匙は、それも悪くないと思っていた。
昼近く、船は細い水の道へ入った。
海が折れ曲がっていくような場所で、左右に低い陸が見えた。
緑が濃く、湿っていて、岸辺のところどころには白い鳥が立っていた。
水は青くない。泥と潮が混ざって、重たく光っている。
「ここは?」
匙が聞くと、舵取りは顎だけで前を示した。
「南の端だ」
「何の?」
「陸の」
「陸はいっぱいある」
「だからおまえは面倒だ」
舵取りはそう言って歯を見せた。
別の若い水夫が、少し考えてから言った。
「ウジョン」
「うじょん」
匙は真似した。
「端、ということだ」
「端の島?」
「そう。端にある島。水の道のところ」
別の者が割り込んだ。
「そのうち町になるかもしれん。ここは水路の喉だ」
「じゃあ、まだ町じゃない町」
「おまえは本当に面倒だ」
水夫たちはまた笑った。
船は島の近くで速度を落とした。
港というほど整ったものはなかった。木の杭に小舟が一艘繋がれて揺れていた。
岸の近くに人影があり、林の奥で煙が上がっていた。何かを焼いている匂いがした。
匙は鼻をひくつかせた。
「魚」
「魚以外も焼く」
「鳥?」
「たぶん」
「蜥蜴?」
「おまえは何を食べて育った」
匙は答えに詰まった。
「いろいろ」
「その顔は、変なものを食べている顔だ」
「私は普通のものも食べる」
「普通とは何だ」
匙は少し考えた。
「飯。魚。果物。汁。硬くない肉。逃げる良い無駄」
「硬くない肉は贅沢だ。逃げる良い無駄とは何のことだ」
「硬い肉は疲れる。逃げる良い無駄のことは聞くな」
「肉は食うのに疲れるから飯になる」
匙はまだその理屈が分からなかった。
岸に近づくと、小舟が寄ってきた。
三人の男が乗っていた。肌は日に焼け、髪は短く、腰布の端に貝の飾りをつけている。
槍のようなものも見えたが、すぐに構えたわけではなかった。
商人の一人が前に出て、言葉を投げた。
匙は聞き取ろうとした。音はマレー語に近いが、船の上で聞いていた言葉とは少し違った。
顔なしの翻訳は、匙の耳の奥で遅れて動くことがあったが、この日はなぜか半分だけしか助けてくれなかった。
「……潮……待つ……上流……鳥……」
「鳥?」
匙が小さく言うと、隣の男が肘でつついた。
「黙っていろ、小さい通訳」
「鳥って言った」
「たぶん言っていない」
「言った」
「商いの話で鳥だけ聞くな」
匙は黙った。
しばらくして、船の荷の一部が小舟へ移された。
代わりに岸から籠が来た。
中には果物、干した魚、貝、水を入れた竹筒、そして細かく編んだ敷物があった。
匙は敷物を見て、少し目を細めた。
星船の床にも敷物が出る。だが、それはいつも妙に清潔で、誰かの手の癖がない。
この敷物には、編み目のゆがみがあった。
端の方で一度間違えて、戻さずにそのまま編んだようなところもあった。
匙はそこを指でなぞった。
「これ、いい」
岸の男の一人が匙を見て、何かを言った。
今度は翻訳が少しだけ追いついた。
「小さい者、女か、男か」
匙は顔を上げた。
船の男たちが笑いそうになるのを、商人が目で止めた。
匙は自分の胸元を見て、それから相手を見た。
「私は匙」
相手は分からない顔をした。
「サジ?」
「そう」
「それは何の子だ」
匙は返事に困った。
何の子。
それは難しい。
フランク人の子。星船の子。誰の子でもない子。
小さい通訳。荷を担ぐには軽い子。飯はよく食べる子。
いろいろある。
匙は結局、いちばん船で通じやすい答えにした。
「この船の子ではないけど、この船に乗っている」
岸の男は少し考え、それで納得したらしかった。
「なら船の子だ」
匙は驚いた。そんなに簡単でいいのか。
水夫が小声で言った。
「よかったな。今日だけ船の子だ」
匙は少しむっとした。
「明日は?」
「明日は潮次第だ」
「潮で子どもが変わるのか」
「海ではだいたい変わる」
夕方、匙は岸へ降りることを許された。
若い水夫と、腕の太い男と、船主の商人の甥だという少年が一緒だった。
少年は匙より少し年上で、匙を最初から少し下に見ていた。
「走るな」
「走らない」
「触るな」
「何を」
「全部だ」
「全部は無理」
「じゃあ高いもの」
「高いものがどれか分からない」
「分からないなら全部触るな」
匙は納得しなかったが、黙った。
岸辺には、まだ町と呼ぶには小さすぎる集まりがあった。
小屋、火、魚を干す棚、丸木舟。犬と子ども。貝殻と濡れた網。
そして、島の奥へ入っていく細い道。
「奥に何がある?」
少年が答えた。
「木」
「木以外」
「もっと木」
「人は?」
「いる。いない。日による」
匙は眉を寄せた。
「島なのに、日によって人がいる?」
「船もそうだろ」
言われてみれば、そうだった。
水夫たちは岸の男たちと何かを交渉していた。
商人の甥は退屈したのか、匙に小さな貝を投げてよこした。
「拾え」
匙は拾った。
「これは?」
「貝」
「見れば分かる」
「なら聞くな」
「名前」
少年は面倒そうに言った。
「知らない」
「知らないのに投げたのか」
「投げるのに名はいらない」
貝は白くて端が少し欠けていた。
「きれい」
「売れない」
「売れないものは、きれいじゃないのか」
少年は匙を見た。
匙も無言で見返した。
しばらくして、少年は鼻で笑った。
「おまえ、本当に商人になれないな」
匙は貝を手の中に入れた。
「ならなくていい」
「何になる」
「まだ決めてない」
「十三で?」
「十三で」
「遅い」
「あなたは?」
「叔父の船に乗る。荷を見る。帳面を覚える。嘘を聞き分ける。風を読む」
「やることが多い」
「だから忙しい」
少年はそう言って、少し誇らしげに胸を張った。
匙は、その横顔を見た。
この少年は、きっと星船を見てもあまり驚かないだろう。
いや、驚くかもしれない。
しかし、そのあとたぶん、星船の床が何でできているか、何を運べるか、どこへ行けるか、誰に売れるかを聞く。
そういう顔をしていた。
匙は少し笑った。
「何だ」
「あなたは星も売ろうとしそう」
「星?」
「夜の上にある光」
少年は空を見た。まだ明るい。
「売れるなら売る」
「落ちてこない」
「落とせる者を探す」
匙は、かなり感心した。
「商人だ」
「当たり前だ」
その夜、船は島のそばで潮を待った。
甲板では火が使えないので、飯は岸で作ったものを運んできた。米に魚の汁をかけたものだった。
香草の匂いが強く、辛みもあった。匙は最初むせたが、二口目で慣れた。
「辛い」
「食べられないか」
「食べる」
「辛いのに?」
「辛いけど、うまい」
腕の太い男が満足そうに頷いた。
「そうだ。それが飯だ」
夜になると水路の向こうにいくつか火が見えた。
船の火か、岸の火か、島の火か、匙には分からなかった。
星船なら説明をつけたかもしれない。
推定集落。
推定泊地。
推定小型船。
推定危険度低。
だがこの船では、誰もそんな表示を出さなかった。
見張りの男が一度だけ言った。
「あの火は近い」
それで十分らしかった。
匙は甲板に寝転がって空を見た。
湿った風が吹いていた。
縄が軋み、水が船体を叩いた。虫の声も聞こえた。陸が近いからだ。
「小さい通訳」
声をかけられた。舵取りだった。
「起きているか」
「起きてる」
「今日の島の名、覚えたか」
「ウジョン」
「それは端だ」
「海の町」
「まだ町ではない」
「じゃあ、陸の端の、まだ町じゃない海の場所」
舵取りは少し笑った。
「まあ、それでいい」
匙は空を見たまま言った。
「町になったら、ここは違う名前になる?」
舵取りは答えるまでに少し間を置いた。
「場所は、船が増えると名が増える」
「人も?」
「人もだ」
「名が増えると、どれが本当か分からなくなる」
「本当なのは、腹が減った時に飯をもらえる名だ」
舵取りは少し眠そうだった。
「私は匙」
「知っている」
「それは飯をもらえる名?」
「今日の飯は、その名で受け取っただろう」
匙は考えた。
確かに、飯の時に呼ばれた。
「サジ、食え」と言われた。
だから匙は食べた。
たぶんそれで十分だった。
翌朝、船は潮に乗って島を離れた。
島はすぐに緑の塊になった。
林の奥から空に立ち上る煙が一本だけ見え、それもやがて見えなくなった。
商人の甥が、昨日の続きをするように言った。
「おまえ、あの貝を持っているのか」
匙は手の中を見せた。
「持ってる」
「売れないぞ」
「売らない」
「何にする」
「覚える」
少年は意味が分からない顔をした。
「貝を?」
「うん」
「変なやつ」
「あなたは帳面を覚える」
「それは商いだ」
「私は貝」
「だから商人になれない」
匙は頷いた。
「うん」
その答えがあまりに素直だったので、少年は少し困った顔をした。
船は北へ向かった。
水路は広くなったり狭くなったりした。
雨が降り、すぐに止んだ。帆が濡れ、また膨らんだ。
匙は貝を腰の袋に入れた。袋の中には、ほかにもよく分からないものが入っていた。
割れたガラス玉、乾いた種、誰かにもらった小さな骨。
どれも星船では不要物と判断されそうなものばかりだった。
でも匙には、それぞれの場所があった。
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十三歳の匙はまだ、ここがいつか大きな街になり、ずっと後の時代に別の名前で呼ばれ、高い建物と白い空港と冷たい店の光を持つ島になることを知らなかった。
知らなかったが、少しだけ覚えた。
潮で子どもが変わること。縄にも場所があること。辛いけどうまい飯があること。
売れない貝でも、場所を覚えるには足りること。
そして、南の端にある、まだ町ではない海の場所。
そこで一晩だけ、匙は船の子だった。




