↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
第一部 星船の少女

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

37/41

惚れてる人のための薬

その日、匙はとある薬屋の奥で、乾いた葉を小さな紙袋に分けていた。


店は細長かった。

通りに面した表側には壺や瓶が並び、その奥まで棚が続いている。

さらに奥へ入ると、薬草や樹脂、油、粉、乾いた根、正体のよく分からない黒い塊までが、箱や瓶や布袋に分けて置かれていた。

鳥の羽や獣の骨もあり、その間に金属の小さな匙、秤、乳鉢が混じっている。


甘い匂いの横から苦い匂いが来る。その奥には腐りかけたような匂いがあり、火で温めた油や酢、酒、蜜蝋の匂いも重なっていた。

入口が開くたびに、煙草と濡れた羊毛、人の汗、それに外の泥と馬糞と煙、川から上がってくる湿った空気まで入り込んでくる。


十七世紀のロンドンは、匂いが強かった。

外では車輪が鳴り、人が怒鳴り、犬が吠え、誰かが咳をしていた。

匙は、その街を好きではなかった。

水が信用できず、道がぬかるみ、人が近い。


ただ、薬屋という場所は悪くなかった。

瓶には名前があり、粉には匂いがあり、葉には乾き方がある。

全部が正しいわけではないが、少なくとも何かを分けようとしている。

顔なしの分析よりは雑だった。だが、人間の雑さには、ときどきよい隙間がある。

匙はそういう隙間が好きだった。


店主は赤鼻の太った男で、マスター・ハーウッドと呼ばれていた。

彼は匙のことを“my little foreign hand”(小さい異国の手)と呼んだ。

悪口ではないらしい。薬草をこぼさず分けるからということで、匙は奥の仕事をさせられていた。


「触るなと言った瓶には触るな」

最初の日に、店主はそう言った。

「銀の栓のやつ?」

匙が聞くと、店主は目を細めた。

「銀の栓にも触るな。黒い蝋にも触るな。赤い紐にも触るな。あと、客の秘密にも触るな」

「客の秘密は、瓶に入っているのか?」

「たいてい財布に入ってる」


******


その日、店主は近くの家に薬を届けると言って外出していた。

奥には匙と、年上の徒弟が一人いた。

徒弟のトムは、匙よりずっと大きいが、仕事は匙より雑で、店番をしながら半分寝ていた。

匙は奥で葉を分けていた。


そこへ、若い女が入ってきた。

召使いらしい服を着ている。頬は寒さか急いできたせいか赤く、髪を布で押さえていた。靴には泥がついている。

女は店の中を見回し、トムに小さな声で言った。

「惚れ薬はありますか」

トムは目を開けた。

「何だって?」

女はさらに小さい声で言った。

「惚れ薬」


匙は、奥で手を止めた。

惚れ薬というものの存在を聞いたことはあった。

恋を呼ぶ薬。夫を戻す薬。妻を従わせる薬。若い男の心を縛る薬。女を柔らかくする薬。男を強くする薬。

眠らせる薬。酔わせる薬。忘れさせる薬。

最後の方は、かなり危ない。


トムはにやっとした。

「誰に飲ませるんだ?」

女は唇を噛んだ。

「それは」

「言わなきゃ選べない」

「同じ家の、下働きの男です」

「ふうん」

トムは棚の方へ行った。

匙は葉を持ったまま、それを奥から見ていた。

トムが手を伸ばしたのは、赤い紐のついた小瓶だった。

マスターに触るなと言われた瓶の一つだった。


匙は立ち上がった。

「それは触るな」

トムが振り返った。

「お前は奥で葉っぱを数えてろ」

「赤い紐は触るな」

「店番は俺だ」

「マスター・ハーウッドが、赤い紐は触るなと言った」

「ちょっと売るだけだ。水で薄めりゃいい」


女が不安そうに二人を見た。

匙は、トムの手元を見た。

赤い紐の瓶。中身は黒っぽい液体。匂いはまだ分からない。

惚れ薬として売られるものの正体が何なのかは知らない。

だが、赤い紐がついている瓶は、少なくとも店主がいない時に売るものではない。


匙は言った。

「それは惚れ薬ではない」

トムが鼻で笑った。

「じゃあ何だ」

「何か危ないもの」

「何でも危ないさ。飲みすぎれば水だって危ない」

それは正しい。

だが、正しいことを言って、悪いことをする者も多い。


匙は女の方を見た。

「その男は、あなたが好きではないのか?」

女はぎょっとした顔をした。

「そんな言い方は……」

「好きではない?」

「たぶん、好きです。でも彼は、奥様の姪の方ばかり見ていて」

「その人に、これを飲ませたいのか」

女は答えなかった。


匙は、棚から小さい紙袋を取った。

中には乾かした花と、少し甘い匂いのする葉が入っている。

気持ちを少し落ち着かせる茶に使うものだった。

効き目は弱い。眠くなるほどではない。少なくとも、誰かの心を縛る力はない。

「これなら売れる」

トムが顔をしかめた。

「それはただの茶だ」

「だから売れる」

「惚れ薬じゃない」

「惚れ薬として売る」

女が目を見開いた。

「効くの?」


匙は少し考えた。

効く、とは何だろう。

これを飲ませた男が女を好きになる。そういうことは、たぶん起きない。

でも、この女が自分で飲んで少し落ち着くなら、明日の朝、男に話しかけられるかもしれない。

話して、それでも駄目なら、駄目だと分かるかもしれない。


「飲ませる薬ではない」

「え」

「あなたが飲む薬」

トムが吹き出した。

「自分で飲む惚れ薬だって?」

匙はトムを無視した。

「寝る前に湯に入れる。少し蜜を入れてもいい。全部飲まなくていい。飲んだら明日の朝、その男に普通に話す。飲ませない。酒にも入れない。食べ物にも入れない」

女は紙袋を見た。

「それで、惚れるの?」

「あなたが少し落ち着く」

「それは惚れ薬じゃない」

「惚れてる人のための薬」

女は黙った。

店の外で、車輪が泥をはねる音がした。


トムは肩をすくめた。

「そんなの売れるかよ」

匙は値段を言った。安い値段だった。

トムがさらに顔をしかめる。

「安すぎる」

匙は言った。

「高いと、本当に効く薬だと思うだろ」


女は迷っていた。

匙は紙袋を置いた。

「飲ませる薬が欲しいなら、私は売らない」

「でもあなたは店主じゃないでしょ」

「店主じゃない。だから、赤い紐は触らない」

女は紙袋を見たまま言った。

「私、もしかして馬鹿みたい?」

声が急に弱くなった。

匙は少し考えてから、首を振った。

「馬鹿ではない。今、苦しいだけ」

女の目が少し潤んだ。


トムが気まずそうに棚を見た。

「買うなら買えよ。買わないなら、」

「黙れ」

匙が言うと、トムは本当に少し黙った。

女は財布から小さな硬貨を出した。

匙は紙袋を渡した。

「湯に入れる。自分で飲む。誰かに飲ませない。明日の朝、眠くなりすぎていたら仕事の前には飲まない。蜜は少し」

「酒は?」

「入れない」

「少しも?」

「入れない」

女は小さくうなずいた。

「話しかけて、だめだったら?」


匙は少しだけ困った。

薬屋で売れるものには限りがある。

葉、油、粉、軟膏、湿布、香り、苦い液体。

駄目だった時に胸が痛いことを、完全に止める薬は、たぶんない。


「だめなら、また来る」

匙は言った。

「今度は惚れ薬ではない薬を売る」

女は少し笑った。

泣きそうな顔のまま、少しだけ。

「失恋の薬?」

「温かい茶」

「それもただの茶じゃない」

「ただの茶は強い」

女は紙袋を握って、店を出ていった。


戸が閉まると、トムが大きく息を吐いた。

「お前、勝手に変な商売をするな」

「赤い紐を売るよりよい」

「赤い紐の中身、知ってるのか」

「知らない。だから売らない」

トムは口を曲げた。

「マスターが戻ったら怒るぞ。勝手に惚れ薬を売ったって」

「トムが赤い紐を売ろうとしたと言う」

「お前、怖いな」

「トムの方が怖い」


しばらくして店主が戻ってきた。

マスター・ハーウッドは匙とトムの話を聞いて、最初は眉を上げた。

次に赤い紐の瓶を見た。

最後にトムの頭を一発叩いた。

「それは腹を下す薬だ、馬鹿」

トムは頭を押さえた。

「惚れ薬に使えるかと」

「腹を下して恋が叶うか」

「看病されるかも」

「お前の頭を看病しろ」

匙は紙袋の残りを見ていた。


店主は匙に向き直った。

「で、お前は何を売った」

「落ち着く茶」

「惚れ薬として?」

「惚れてる人のための薬」

店主はいったん黙り、それから腹を揺らして笑った。

「うまいこと言うじゃないか」

「嘘ではない」

「嘘ではないが、商売だ。商売で売るものの半分は名前だ」


名前。

匙はその言葉を覚えた。

薬の中身が同じでも、名前が変わると、人は違うものとして買う。

眠れない人の茶。胃の薬。元気の薬。恋の薬。勇気の薬。忘れる薬。


店主は奥の棚から別の箱を出した。

「昔からあるんだ。恋の粉、夫戻しの丸薬、妻を柔らかくする香油、若い男を縛る水。ほとんどは香りか砂糖か酒だ。たまに本当に危ないものを混ぜる奴がいる」

「危ないものを混ぜると効く?」

「効いたように見える。眠る、ぼんやりする、腹を壊す、熱が出る。相手が弱ると、自分の方を見た気になる」


匙は顔をしかめた。

嫌な話だった。

匙は、星船の白い医療アームを少し思い出した。

助けるための手でも、逃げられない時には怖い。

薬屋の小瓶にも、少し似たところがある。


店主は匙の顔を見て、真面目な声になった。

「だから、売るなと言われた瓶は売るな」

「赤い紐」

「赤い紐、黒い蝋、銀の栓。あれは客の前で話すものじゃない」

「惚れ薬は?」

「売れるなら売れ。ただし、相手に飲ませる薬として売るな」

匙はうなずいた。

「自分で飲む茶」

「そうだ。眠れない夜の茶、震える手の茶、泣いた後の茶。恋なんぞ、だいたいその辺だ」


トムがぼそっと言った。

「夢がない」

店主は口汚くトムを罵って、頭を叩いた。

「阿呆。夢を売りたいなら詩人になれ。薬屋は腹と皮膚と咳と眠れない夜を見るもんだ」

それから騒々しく鼻をかんだ。


匙は、店主を少し見直した。

この男はかなり雑で、金にうるさく、瓶のラベルも時々曲がっている。

だが、全部が悪くはない。


夕方、もう一人客が来た。

今度は男だった。

帽子を深くかぶり、妙に甘ったるい匂いを漂わせている。

男は店主にではなく、匙に目を向けた。

「恋の薬を売っている小さい娘がいると聞いた」

噂が速い。


匙は棚の前に立った。

「誰が飲むため?」

「相手の女だ」

「売らない」

男は笑った。

「値は出す」

「売らない」

「ほんの少しだ。ワインに入れる」

「売らない」

男の顔から笑いが少し消えた。

「お前が決めることか?」


奥から店主の声がした。

「この店では、今その子が決めた」

店主は腕を組んでいた。

トムも後ろにいた。あまり頼りにならないが、背だけはある。


男は舌打ちした。

「ただの茶なんぞ要らん」

「あなた用の薬ならある」

匙は言った。

男が眉をひそめた。

「俺用?」

「諦めるための茶」

トムが後ろで変な音を出した。笑いをこらえたらしい。

男は黙って匙の顔をしばらく見て、鼻を鳴らして出ていった。


戸が乱暴に閉まった。


店主は少ししてから笑った。

「諦める茶か。そりゃ売れない」

「売れたらよい」

「売れたらこの街はもう少し静かになるな」

外では、相変わらず車輪が鳴り、人が怒鳴っていた。


その夜、匙は店の奥で、余った葉を小さく分けた。

惚れ薬。

名前は強すぎる。

恋は人の中にある。

薬は葉や粉や油の中にある。

なのに、「惚れ薬」と名前をつけると、人はその袋を、他人の気持ちまで動かせるもののように見る。

匙は、それが嫌だった。

匙は紙袋に、店主から教わった字で小さく書いた。


For a troubled heart.


恋の薬、とは書かなかった。


店主がそれを見て、少し片眉を上げた。

「洒落てるじゃないか」

「惚れ薬ではない」

「だが、惚れた奴は買う」

「飲ませないならよい」

「そこが線か」

「そこが線」

店主はうなずいた。

「線を引ける薬屋は、まあまあ長生きする」

「線を引けない薬屋は?」

「儲かる。そして時々吊るされる」


******


数日後、最初の女がまた来た。

匙は、彼女の顔を見て少し警戒した。

泣いているか。怒っているか。誰かに何かを飲ませたか。

女は少し恥ずかしそうな顔で紙袋を返した。中は空だった。

「飲んだ」

「自分で?」

「自分で」

「酒は?」

「入れてない」

「蜜は?」

「少し」

「男は?」

女は唇を曲げた。

「彼は奥様の姪が好きだった」

匙は黙った。

女は肩をすくめて続けた。

「でも話した。そしたら、まあ、分かった。私が馬鹿だった」

「馬鹿ではない」

匙は少し考えた。

「苦しかっただけだろ」

女は少し笑った。

「じゃあ、失恋の薬ください」


匙は奥から同じ葉を出した。ただし、今度は少しだけ違うものを混ぜた。

香りのよい皮を少し。温かい湯で立つ匂いが、前より少し明るくなる。


「夜に飲む。泣くなら、熱いうちに持たない。こぼす」

女は笑った。

「薬屋なのか、お母さんなのか分からない」

匙は少し嫌な顔をした。女はすぐに「あ、ごめん」と言った。


匙は紙袋を渡した。

「薬屋の小さい手」

女は代金を置いた。

「ありがとう、小さい手」


女が出ていったあと、匙はしばらく戸を見ていた。

惚れ薬は売った。でも、誰かを惚れさせる薬は売らなかった。


******


顔なしが、帰還後に言った。

「当該商品は惚れ薬ではない」

匙は答えた。

「惚れ薬として売った」

「効能表示が不正確」

「不正確。でも、赤い紐よりまし」

「恋愛感情誘導物質の存在は確認されていない」

「確認しなくていい」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。