惚れてる人のための薬
その日、匙はとある薬屋の奥で、乾いた葉を小さな紙袋に分けていた。
店は細長かった。
通りに面した表側には壺や瓶が並び、その奥まで棚が続いている。
さらに奥へ入ると、薬草や樹脂、油、粉、乾いた根、正体のよく分からない黒い塊までが、箱や瓶や布袋に分けて置かれていた。
鳥の羽や獣の骨もあり、その間に金属の小さな匙、秤、乳鉢が混じっている。
甘い匂いの横から苦い匂いが来る。その奥には腐りかけたような匂いがあり、火で温めた油や酢、酒、蜜蝋の匂いも重なっていた。
入口が開くたびに、煙草と濡れた羊毛、人の汗、それに外の泥と馬糞と煙、川から上がってくる湿った空気まで入り込んでくる。
十七世紀のロンドンは、匂いが強かった。
外では車輪が鳴り、人が怒鳴り、犬が吠え、誰かが咳をしていた。
匙は、その街を好きではなかった。
水が信用できず、道がぬかるみ、人が近い。
ただ、薬屋という場所は悪くなかった。
瓶には名前があり、粉には匂いがあり、葉には乾き方がある。
全部が正しいわけではないが、少なくとも何かを分けようとしている。
顔なしの分析よりは雑だった。だが、人間の雑さには、ときどきよい隙間がある。
匙はそういう隙間が好きだった。
店主は赤鼻の太った男で、マスター・ハーウッドと呼ばれていた。
彼は匙のことを“my little foreign hand”(小さい異国の手)と呼んだ。
悪口ではないらしい。薬草をこぼさず分けるからということで、匙は奥の仕事をさせられていた。
「触るなと言った瓶には触るな」
最初の日に、店主はそう言った。
「銀の栓のやつ?」
匙が聞くと、店主は目を細めた。
「銀の栓にも触るな。黒い蝋にも触るな。赤い紐にも触るな。あと、客の秘密にも触るな」
「客の秘密は、瓶に入っているのか?」
「たいてい財布に入ってる」
******
その日、店主は近くの家に薬を届けると言って外出していた。
奥には匙と、年上の徒弟が一人いた。
徒弟のトムは、匙よりずっと大きいが、仕事は匙より雑で、店番をしながら半分寝ていた。
匙は奥で葉を分けていた。
そこへ、若い女が入ってきた。
召使いらしい服を着ている。頬は寒さか急いできたせいか赤く、髪を布で押さえていた。靴には泥がついている。
女は店の中を見回し、トムに小さな声で言った。
「惚れ薬はありますか」
トムは目を開けた。
「何だって?」
女はさらに小さい声で言った。
「惚れ薬」
匙は、奥で手を止めた。
惚れ薬というものの存在を聞いたことはあった。
恋を呼ぶ薬。夫を戻す薬。妻を従わせる薬。若い男の心を縛る薬。女を柔らかくする薬。男を強くする薬。
眠らせる薬。酔わせる薬。忘れさせる薬。
最後の方は、かなり危ない。
トムはにやっとした。
「誰に飲ませるんだ?」
女は唇を噛んだ。
「それは」
「言わなきゃ選べない」
「同じ家の、下働きの男です」
「ふうん」
トムは棚の方へ行った。
匙は葉を持ったまま、それを奥から見ていた。
トムが手を伸ばしたのは、赤い紐のついた小瓶だった。
マスターに触るなと言われた瓶の一つだった。
匙は立ち上がった。
「それは触るな」
トムが振り返った。
「お前は奥で葉っぱを数えてろ」
「赤い紐は触るな」
「店番は俺だ」
「マスター・ハーウッドが、赤い紐は触るなと言った」
「ちょっと売るだけだ。水で薄めりゃいい」
女が不安そうに二人を見た。
匙は、トムの手元を見た。
赤い紐の瓶。中身は黒っぽい液体。匂いはまだ分からない。
惚れ薬として売られるものの正体が何なのかは知らない。
だが、赤い紐がついている瓶は、少なくとも店主がいない時に売るものではない。
匙は言った。
「それは惚れ薬ではない」
トムが鼻で笑った。
「じゃあ何だ」
「何か危ないもの」
「何でも危ないさ。飲みすぎれば水だって危ない」
それは正しい。
だが、正しいことを言って、悪いことをする者も多い。
匙は女の方を見た。
「その男は、あなたが好きではないのか?」
女はぎょっとした顔をした。
「そんな言い方は……」
「好きではない?」
「たぶん、好きです。でも彼は、奥様の姪の方ばかり見ていて」
「その人に、これを飲ませたいのか」
女は答えなかった。
匙は、棚から小さい紙袋を取った。
中には乾かした花と、少し甘い匂いのする葉が入っている。
気持ちを少し落ち着かせる茶に使うものだった。
効き目は弱い。眠くなるほどではない。少なくとも、誰かの心を縛る力はない。
「これなら売れる」
トムが顔をしかめた。
「それはただの茶だ」
「だから売れる」
「惚れ薬じゃない」
「惚れ薬として売る」
女が目を見開いた。
「効くの?」
匙は少し考えた。
効く、とは何だろう。
これを飲ませた男が女を好きになる。そういうことは、たぶん起きない。
でも、この女が自分で飲んで少し落ち着くなら、明日の朝、男に話しかけられるかもしれない。
話して、それでも駄目なら、駄目だと分かるかもしれない。
「飲ませる薬ではない」
「え」
「あなたが飲む薬」
トムが吹き出した。
「自分で飲む惚れ薬だって?」
匙はトムを無視した。
「寝る前に湯に入れる。少し蜜を入れてもいい。全部飲まなくていい。飲んだら明日の朝、その男に普通に話す。飲ませない。酒にも入れない。食べ物にも入れない」
女は紙袋を見た。
「それで、惚れるの?」
「あなたが少し落ち着く」
「それは惚れ薬じゃない」
「惚れてる人のための薬」
女は黙った。
店の外で、車輪が泥をはねる音がした。
トムは肩をすくめた。
「そんなの売れるかよ」
匙は値段を言った。安い値段だった。
トムがさらに顔をしかめる。
「安すぎる」
匙は言った。
「高いと、本当に効く薬だと思うだろ」
女は迷っていた。
匙は紙袋を置いた。
「飲ませる薬が欲しいなら、私は売らない」
「でもあなたは店主じゃないでしょ」
「店主じゃない。だから、赤い紐は触らない」
女は紙袋を見たまま言った。
「私、もしかして馬鹿みたい?」
声が急に弱くなった。
匙は少し考えてから、首を振った。
「馬鹿ではない。今、苦しいだけ」
女の目が少し潤んだ。
トムが気まずそうに棚を見た。
「買うなら買えよ。買わないなら、」
「黙れ」
匙が言うと、トムは本当に少し黙った。
女は財布から小さな硬貨を出した。
匙は紙袋を渡した。
「湯に入れる。自分で飲む。誰かに飲ませない。明日の朝、眠くなりすぎていたら仕事の前には飲まない。蜜は少し」
「酒は?」
「入れない」
「少しも?」
「入れない」
女は小さくうなずいた。
「話しかけて、だめだったら?」
匙は少しだけ困った。
薬屋で売れるものには限りがある。
葉、油、粉、軟膏、湿布、香り、苦い液体。
駄目だった時に胸が痛いことを、完全に止める薬は、たぶんない。
「だめなら、また来る」
匙は言った。
「今度は惚れ薬ではない薬を売る」
女は少し笑った。
泣きそうな顔のまま、少しだけ。
「失恋の薬?」
「温かい茶」
「それもただの茶じゃない」
「ただの茶は強い」
女は紙袋を握って、店を出ていった。
戸が閉まると、トムが大きく息を吐いた。
「お前、勝手に変な商売をするな」
「赤い紐を売るよりよい」
「赤い紐の中身、知ってるのか」
「知らない。だから売らない」
トムは口を曲げた。
「マスターが戻ったら怒るぞ。勝手に惚れ薬を売ったって」
「トムが赤い紐を売ろうとしたと言う」
「お前、怖いな」
「トムの方が怖い」
しばらくして店主が戻ってきた。
マスター・ハーウッドは匙とトムの話を聞いて、最初は眉を上げた。
次に赤い紐の瓶を見た。
最後にトムの頭を一発叩いた。
「それは腹を下す薬だ、馬鹿」
トムは頭を押さえた。
「惚れ薬に使えるかと」
「腹を下して恋が叶うか」
「看病されるかも」
「お前の頭を看病しろ」
匙は紙袋の残りを見ていた。
店主は匙に向き直った。
「で、お前は何を売った」
「落ち着く茶」
「惚れ薬として?」
「惚れてる人のための薬」
店主はいったん黙り、それから腹を揺らして笑った。
「うまいこと言うじゃないか」
「嘘ではない」
「嘘ではないが、商売だ。商売で売るものの半分は名前だ」
名前。
匙はその言葉を覚えた。
薬の中身が同じでも、名前が変わると、人は違うものとして買う。
眠れない人の茶。胃の薬。元気の薬。恋の薬。勇気の薬。忘れる薬。
店主は奥の棚から別の箱を出した。
「昔からあるんだ。恋の粉、夫戻しの丸薬、妻を柔らかくする香油、若い男を縛る水。ほとんどは香りか砂糖か酒だ。たまに本当に危ないものを混ぜる奴がいる」
「危ないものを混ぜると効く?」
「効いたように見える。眠る、ぼんやりする、腹を壊す、熱が出る。相手が弱ると、自分の方を見た気になる」
匙は顔をしかめた。
嫌な話だった。
匙は、星船の白い医療アームを少し思い出した。
助けるための手でも、逃げられない時には怖い。
薬屋の小瓶にも、少し似たところがある。
店主は匙の顔を見て、真面目な声になった。
「だから、売るなと言われた瓶は売るな」
「赤い紐」
「赤い紐、黒い蝋、銀の栓。あれは客の前で話すものじゃない」
「惚れ薬は?」
「売れるなら売れ。ただし、相手に飲ませる薬として売るな」
匙はうなずいた。
「自分で飲む茶」
「そうだ。眠れない夜の茶、震える手の茶、泣いた後の茶。恋なんぞ、だいたいその辺だ」
トムがぼそっと言った。
「夢がない」
店主は口汚くトムを罵って、頭を叩いた。
「阿呆。夢を売りたいなら詩人になれ。薬屋は腹と皮膚と咳と眠れない夜を見るもんだ」
それから騒々しく鼻をかんだ。
匙は、店主を少し見直した。
この男はかなり雑で、金にうるさく、瓶のラベルも時々曲がっている。
だが、全部が悪くはない。
夕方、もう一人客が来た。
今度は男だった。
帽子を深くかぶり、妙に甘ったるい匂いを漂わせている。
男は店主にではなく、匙に目を向けた。
「恋の薬を売っている小さい娘がいると聞いた」
噂が速い。
匙は棚の前に立った。
「誰が飲むため?」
「相手の女だ」
「売らない」
男は笑った。
「値は出す」
「売らない」
「ほんの少しだ。ワインに入れる」
「売らない」
男の顔から笑いが少し消えた。
「お前が決めることか?」
奥から店主の声がした。
「この店では、今その子が決めた」
店主は腕を組んでいた。
トムも後ろにいた。あまり頼りにならないが、背だけはある。
男は舌打ちした。
「ただの茶なんぞ要らん」
「あなた用の薬ならある」
匙は言った。
男が眉をひそめた。
「俺用?」
「諦めるための茶」
トムが後ろで変な音を出した。笑いをこらえたらしい。
男は黙って匙の顔をしばらく見て、鼻を鳴らして出ていった。
戸が乱暴に閉まった。
店主は少ししてから笑った。
「諦める茶か。そりゃ売れない」
「売れたらよい」
「売れたらこの街はもう少し静かになるな」
外では、相変わらず車輪が鳴り、人が怒鳴っていた。
その夜、匙は店の奥で、余った葉を小さく分けた。
惚れ薬。
名前は強すぎる。
恋は人の中にある。
薬は葉や粉や油の中にある。
なのに、「惚れ薬」と名前をつけると、人はその袋を、他人の気持ちまで動かせるもののように見る。
匙は、それが嫌だった。
匙は紙袋に、店主から教わった字で小さく書いた。
For a troubled heart.
恋の薬、とは書かなかった。
店主がそれを見て、少し片眉を上げた。
「洒落てるじゃないか」
「惚れ薬ではない」
「だが、惚れた奴は買う」
「飲ませないならよい」
「そこが線か」
「そこが線」
店主はうなずいた。
「線を引ける薬屋は、まあまあ長生きする」
「線を引けない薬屋は?」
「儲かる。そして時々吊るされる」
******
数日後、最初の女がまた来た。
匙は、彼女の顔を見て少し警戒した。
泣いているか。怒っているか。誰かに何かを飲ませたか。
女は少し恥ずかしそうな顔で紙袋を返した。中は空だった。
「飲んだ」
「自分で?」
「自分で」
「酒は?」
「入れてない」
「蜜は?」
「少し」
「男は?」
女は唇を曲げた。
「彼は奥様の姪が好きだった」
匙は黙った。
女は肩をすくめて続けた。
「でも話した。そしたら、まあ、分かった。私が馬鹿だった」
「馬鹿ではない」
匙は少し考えた。
「苦しかっただけだろ」
女は少し笑った。
「じゃあ、失恋の薬ください」
匙は奥から同じ葉を出した。ただし、今度は少しだけ違うものを混ぜた。
香りのよい皮を少し。温かい湯で立つ匂いが、前より少し明るくなる。
「夜に飲む。泣くなら、熱いうちに持たない。こぼす」
女は笑った。
「薬屋なのか、お母さんなのか分からない」
匙は少し嫌な顔をした。女はすぐに「あ、ごめん」と言った。
匙は紙袋を渡した。
「薬屋の小さい手」
女は代金を置いた。
「ありがとう、小さい手」
女が出ていったあと、匙はしばらく戸を見ていた。
惚れ薬は売った。でも、誰かを惚れさせる薬は売らなかった。
******
顔なしが、帰還後に言った。
「当該商品は惚れ薬ではない」
匙は答えた。
「惚れ薬として売った」
「効能表示が不正確」
「不正確。でも、赤い紐よりまし」
「恋愛感情誘導物質の存在は確認されていない」
「確認しなくていい」




