逃げる良い無駄
匙がモーリシャスに行きたがった理由は、かなり雑だった。
二十一世紀日本の本屋でたまたま買った『世界観光地図』のページに、青い海と白い砂浜と、いかにも「楽園です」と言いたげな写真が載っていたからである。
匙はその見出しを見て、鼻で笑った。
「楽園」
「観光販促表現である」
「楽園とか言う場所ほど、裏が臭そう」
「では行くか」
「行く。あと、この冷たい甘いものを食う」
匙は本の写真を指差した。
「アイスクリームか」
「たぶん、それ」
星船は確認した。
「目的は、観光地図の“楽園”表象の検証、および冷菓摂取」
匙は本を閉じた。
「長い。嘘の海でアイス」
「了解」
******
星船が匙を降ろしたのは、二十一世紀初期のモーリシャスだった。
星船は最初、いつものようにモーリシャスの歴史的背景を説明しようとした。
奴隷制、植民地、砂糖プランテーション、インド洋交易、移民、言語、宗教、観光産業……
半分も聞かないうちに匙は手を上げた。
「長い。楽園の裏も見る。でも今日はまず、空気とアイス」
降ろされた場所は観光客の多い海辺の町だった。
空気は湿り、潮風、日焼け止め、揚げ物、果物、車の排気、花、砂、観光客の香水の匂いが入り交じっていた。
匙は鼻を動かした。
「南の島でも、タヒチほど空気だけではない」
「観光地としての人為的匂いが多い」
「でも吸える」
遠くに青い海が見えた。世界観光地図の写真は嘘ではなかった。匙はむしろ不満そうに言った。
「写真、少し正しかった」
「よかったのでは」
「少し腹が立つ」
海辺の通りで観光客向けのアイス屋が見つかった。
ガラスケースの中に、色とりどりのアイスが並んでいた。
「冷たい飯が閉じ込められている」
「アイスクリームは主食ではない」
「冷たい甘いもの。飯ではない。よい無駄」
店員がにこやかに“What flavor?”と訊いてきた。匙は答えようとして詰まった。
味が多すぎる。
多すぎる選択肢は、匙にとってまだ少し苦手だった。
昔は選ぶより先に食うことが重要だった。
今は選べる。
でも選べるということは、時々怖くなる。
「顔なし」
「何か」
「全部少しずつはできるか」
「サンプル試食が可能な場合がある」
匙は店員を見た。
“Can I try… small?”
(試せるか。少し)
店員は笑って、小さなスプーンでマンゴー味のアイスを掬ってくれた。
匙は受け取る前に聞いた。
“Gift? Not pay yet?”
(贈り物? 払う?)
店員は一瞬きょとんとし、それから笑った。
“Sample. Free.”
(無料の試食よ)
匙は星船に聞いた。
「無料とは、罠か」
「この場合、購入促進のための試食サービス」
「罠だな」
「柔らかい罠だ」
匙はマンゴー味のアイスを試食した。冷たく濃厚な甘味が舌の上で溶けた。
匙の目の色が変わった。
「これはブルディガラには絶対に無かった」
「中世初期の西欧地域においては、類似の食品は入手困難」
「顔なし、なぜこれを今まで隠していた」
「要求がなかった」
匙は鼻を鳴らして不満を表明してから続けた。
「これは果物を冬にしたものか」
「冷凍加工による冷菓」
「果物を冬にした」
店員が、匙の表情を見て言った。
“You like mango?”
(マンゴーは気に入った?)
匙は真剣に言った。
“Yes. Mango is strong.”
(うん。マンゴーは強い)
店員は笑って、新しいスプーンでココナッツ味のアイスも掬ってくれた。
これはマンゴーとは少し違った。
甘いが味に丸みがあり、油と海辺の木の匂いがする。
色の印象でいえば、黄色ではなく白い味。
匙は眉を寄せた。
「これは静かな味」
「ココナッツ由来の脂肪分と香気が――」
「静かな味」
店員は匙の顔を見て、パッションフルーツのアイスも試食させてくれた。
甘酸っぱくて鋭く、舌に小さく噛みつく味がした。
「これは怒っているな」
次はタマリンドだった。
甘酸っぱくて、少し黒い味。どこか薬のようで、果物のようで、土のようでもある不思議な味。
「これは……古い」
「タマリンドは熱帯地域で広く利用される果実で――」
「古い味」
店員は明らかに匙の反応を面白がっていた。
“Which one?”
(どれがいい?)
匙は悩んだ。選択肢が多すぎる。
マンゴーは強い。ココナッツは静か。パッションフルーツは怒っている。タマリンドは古い。全部違う。
匙は言った。
“Two scoop. Mango. Tamarind.”
(ふたつ。マンゴーとタマリンド)
店員がカップに黄色と茶色のアイスを掬って木のスプーンを刺し、匙に渡した。
「これは弱い匙」
「使い捨て木製スプーン」
「弱い匙で強いアイスを食う」
匙は海の見えるベンチに座って、カップを両手で持った。
すぐにアイスが溶けはじめて、匙は狼狽した。
「急がないと逃げる」
「融解する」
「逃げる」
匙はアイスを食べながら、周囲を見た。
観光客と店員がいて、海で遊ぶ人と日陰で働く人がいる。
ゴミを拾う人、タクシー運転手、土産物屋、地元の子供。ホテルの白い建物と遠くの山。
「楽園でも働いている人がいる」
「観光産業の構造として――」
「長くするな」
「了解」
「アイスを売る人がいる。掃除する人もいる。魚を獲る人もいる。そういうのは、写真にはあまり写らない」
「そうだ」
「でも、アイスはうまい」
食べ終わる頃にはカップの底に溶けたマンゴーの黄色とタマリンドの茶色が混ざって、変な色になっていた。
「混ざると少し汚い」
「味は」
匙は残りをすくって食べた。
「悪くない」
「そうか」
「混ざっても見た目より悪くない。人間の町みたい」
そのあと、匙は海岸から少し離れた裏通りを歩いてみた。
このへんでは観光客向けの店が減り、地元の生活が少し見えた。
小さな食料品店。バス停に集まっている学校帰りの子供たち。
教会、寺院、モスク。クレオール語、フランス語、英語、他の言葉が入り交じった響き。
「ここは言葉が混ざる島だ」
「モーリシャスは多言語社会で、モーリシャス・クレオール、フランス語、英語、インド系諸語などが使われる」
「長い。字は?」
「英語・フランス語が標識や行政で強く、クレオールも生活言語として広く使われる。宗教や家庭によって別の文字も関わる」
匙は少し考えた。
「エミリーの字が働いてる。でも、それが全部ではないのか」
匙が店先の看板を見ると、読めるものも、読めるが意味が違うものも、読めないものもあった。
楽園の写真より、こちらの方が島の本体に近い気もした。
夕方、匙はもう一度アイス屋へ戻った。
星船が言った。
「二度目の摂取は糖分量が」
「小さいの」
「了解」
今度はココナッツのアイスだけをミニサイズで注文して、海の見えるテラスの席で、最初よりもゆっくり食べた。
「顔なし」
「何か」
「アイスは、風呂と少し似ている」
「なぜ」
「気持ちいい。慣れると危ない。溶けるから今食べるしかない」
「時間制限のある快適性」
「長い。逃げるよい無駄」
「逃げるよい無駄」
「それ」
匙はノートに書いた。
Mauritius ice.
(モーリシャスのアイス)
Mango = strong yellow.
(マンゴー=強い黄色)
Tamarind = old sour brown.
(タマリンド=古くて酸っぱい茶色)
Coconut = quiet white.
(ココナッツ=静かな白)
Paradise photo shows mango. Island also has tamarind.
(楽園の写真はマンゴーを見せる。島にはタマリンドもある)
Ice melts. Good waste runs away.
(アイスは溶ける。うまいものは逃げる)
Eat before it becomes sweet water.
(甘い水になる前に食べろ)
日本語でも書いた。
――アイスは逃げるよい無駄。
帰る前、匙はアイス屋の店員に小さく言った。
“Thank you. Mango strong.”
(ありがとう。マンゴーは強い)
店員は笑った。
“You’re welcome. Come again.”
(どういたしまして。また来てね)
匙は少し考えた。
“Try.”
店員は意味が分からずも、笑顔で手を振った。匙も小さく振った。
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星船に戻ると、匙はすぐに冷凍庫を要求した。
サルが警戒した。
「何をする気だ」
「アイスを作る」
「星船は高精度再現可能」
「顔なしが作ると完璧すぎる。失敗する機械を作れ」
「失敗する機械、とは」
「少し溶ける。少し固すぎる。味が混ざる。店の人間が笑うくらい」
星船は困った。
「顔なしはアイスも勉強しろ。完璧なアイスは、たぶんつまらない」
「了解」
「でも、マンゴーとタマリンドは混ぜすぎるな。見た目が汚い」
「味は悪くなかったのでは」
「それはそれ」




