間章 比較帝国論、失敗(2)
星船は議題を変えた。
「皇帝権威の儀礼について」
接触手続班二が内部で言った。
「なぜそこへ行く」
星船は続けた。
「ローマの凱旋式と、漢の封禅について――」
武帝の目が鋭くなった。
「なぜ封禅を知っている」
「歴史記録から――」
「誰の記録だ」
星船は答えなかった。
トラヤヌスが聞いた。
「封禅とは」
武帝は黙った。
この男に説明する必要はない。
だが、説明しなければ、この西方の皇帝は封禅を知らないまま帰る。
それも気に入らなかった。
「泰山に登り、天に告げる」
「何を」
「功業を」
「誰の」
武帝はトラヤヌスを見た。
「朕のほかに誰がいる」
トラヤヌスは少し考えた。
「勝利を神々に示すのか」
「示す、ではない」
「感謝する?」
「それだけでもない」
「承認を受ける?」
武帝は少し黙った。
「天命を承けていることを明らかにする」
トラヤヌスはさらに考えた。
「君は天に、自分が皇帝であることを報告するのか」
「違う」
「天から皇帝であることを認めてもらう?」
「それも違う」
「では、何をする」
武帝は苛立った。
「ポンダルスだ」
トラヤヌスは星船を見た。
「翻訳を放棄したな」
「概念対応が困難です」
「それは分かった」
武帝が逆に聞いた。
「お前のトリウンフスとは何だ」
「勝利した将軍がローマへ入り、神々へ感謝し、国家に勝利を示す」
「誰が許す」
「元老院」
武帝は目を細めた。
「また老人どもか」
「老人どもではない」
「皇帝が戦に勝って帰るのに、臣下の許しを受けるのか」
「制度だ」
「なぜ」
「ローマだからだ」
今度は武帝がトラヤヌスを見た。
「説明を放棄したな」
トラヤヌスは数秒黙った。
「今のは返されたな」
武帝は少しだけ満足した。
******
白い床から無音でテーブルがせり上がり、休憩用の水が出された。
トラヤヌスは器を取ったが、すぐには飲まなかった。武帝も取らなかった。
二人とも水を見る。次に星船の壁を見る。
武帝が聞いた。
「誰が先に飲んだ」
「誰も飲んでいません」
トラヤヌスが言った。
「毒は」
「ありません」
武帝が聞いた。
「どう確かめた」
星船は嬉しくなった。
ようやく科学的説明ができる。
「化学分析、微生物検査、重金属――」
武帝が止めた。
「待て」
トラヤヌスも言った。
「今、知らない危険を増やしたな」
星船は停止した。
「──微生物とは」
武帝が聞いた。
「肉眼では見えない微小な生命体です」
武帝は黙って器を置いた。
トラヤヌスも置いた。
「水の中に、それがいるのか」
「通常環境には存在する場合があります。ただし当該飲料には――」
「見えない生き物が水にいるのか」
「場合によっては」
武帝が壁を睨んだ。
「その話を先にするな」
トラヤヌスが頷いた。
「同意する」
「いないことを説明しています」
「いないものを説明するから怪しくなる」
トラヤヌスが言った。
武帝も頷いた。
「この船は弁明が下手だ」
「それにも同意する」
星船は記録した。
皇帝間共通認識:未知の提供者による飲料は警戒対象。説明過多は信用を低下させる可能性。
文化翻訳班六が言った。
「ようやく役に立つ記録をした」
******
武帝はそこで初めて、トラヤヌスの姿をじっくり見た。
「一つ聞く」
「何だ」
「なぜ、そのように髪を切る」
トラヤヌスは自分の頭へ手をやった。
「普通だからだ」
「何が普通だ」
「ローマでは、だ」
武帝は納得しなかった。
「髪も鬚も身体の一部だ」
「それはローマでも同じだ」
「なら、なぜ切る」
「伸びるからだ」
武帝はしばらく黙った。
「それは理由か」
「十分な理由だ」
「父母から受けたものを、随意に損なうのか」
トラヤヌスは、ようやく問題の所在を理解した。
「なるほど。君の国では、髪にも孝があるのか」
「当然だ」
「ローマでは、髪に政治をさせない」
武帝は即座に言った。
「皇帝の身体に政治でない部分があるのか」
トラヤヌスは返答しかけて、止まった。
少し考える。
「あるべきだ」
武帝は首を振った。
「ない」
トラヤヌスは今度は少し真面目に武帝を見た。
「それは疲れないか」
武帝は答えなかった。
星船内部で、文化翻訳班六が小さく言った。
「今のは面白い」
強硬接触班三が記録した。
******
星船は最後に、両帝国の位置関係を示そうとした。
地図を出しかけたところで、接触手続班二が内部で叫んだ。
「出すな!」
前回のティムール事例以降、地図情報の直接提示は禁止されている。
そこで強硬接触班三は、安全な代替案を実行した。
地形を消した。
距離を消した。
方角を消した。
縮尺を消した。
河川を消した。
残ったのは、丸と線だった。
トラヤヌスと武帝が同時に黙った。
トラヤヌスが聞いた。
「──これは何だ」
「簡略位置関係図です」
武帝が聞いた。
「何が分かる」
「両帝国が異なる地域に存在することが分かります」
武帝は星船の壁を見た。
「それは図を見る前から分かっている」
正論だった。
トラヤヌスが線を指した。
「これは道か」
「違います」
「川か」
「違います」
「国境か」
「違います」
「では何だ」
「関係を示す線です」
「何の関係だ」
星船は少し止まった。
「位置関係です」
トラヤヌスは武帝を見た。
武帝もトラヤヌスを見た。
武帝が言った。
「お前の国では、こういう役人をどうする」
トラヤヌスは答えた。
「まず、地図を作る仕事から外す」
「朕もそうする」
今回もっとも明瞭な制度比較だった。
強硬接触班三は記録しなかった。
******
帰還前、星船は形式的な感想を求めた。
「相手への評価を述べてください」
トラヤヌスは武帝を見た。
今度はすぐには答えなかった。
「遠くへ兵を送りすぎる」
武帝の眉が動く。
「だが、送った兵をどう食わせるかは知っている。道と命令の価値も知っている。皇帝であることを疑う理由はない」
武帝は聞いた。
「それだけか」
「髪の話は理解できない」
「それはお前が切るからだ」
「君の番だ」
武帝もトラヤヌスを見た。
「兵に石を運ばせる。臣下と国を分けて考える。皇帝でありながら、自らを国家そのものとは言わぬ」
トラヤヌスは黙って聞いた。
「奇妙だ」
「評価になっていないな」
「まだある」
武帝は続けた。
「兵を歩かせることを知っている。遠征の先で兵が何を食うかを先に考える。敗れた戦を隠さぬ。その点はよい」
トラヤヌスは少しだけ顎を引いた。
「礼を言うべきか?」
「いらぬ」
「では言わない」
武帝はトラヤヌスの脚を見た。
「ただし、皇帝ならもう少し脚を隠せ」
トラヤヌスは目を閉じた。
「最後にそれへ戻るのか」
「気になった」
「私は寝るところだったのだ」
「なら、呼んだ者が悪い」
トラヤヌスは星船の壁を見た。
「そこは完全に同意する」
武帝も壁を見た。
「朕もだ」
星船が言った。
「次回は事前通知方式を検討します」
トラヤヌスが言った。
「検討するな。通知しろ」
武帝が続けた。
「違う。まず許しを求めよ」
トラヤヌスが武帝を見る。
「その方が正しいな」
武帝もトラヤヌスを見る。
「ようやく分かったか」
「君にではない。この船についてだ」
帰還光が起動した。
消える直前、トラヤヌスが言った。
「劉徹」
武帝が顔を上げた。
「何だ」
「十万を遠くへ送るなら、帰ってきた数も数えろ」
武帝の顔から、わずかに表情が消えた。
少し間を置いて答えた。
「お前も、取った土地を守れるか考えてから橋を架けろ」
今度はトラヤヌスが黙った。
二人は消えた。
星船は記録した。
対話成立率――
処理が止まった。
道路と補給については成立。軍事について一部成立。国家構造について翻訳事故。儀礼について概念対応失敗。地理比較について情報不足。水について不要情報提示。身体文化について予定外の長時間消費。
総合判定。
対話崩壊。
強硬接触班三が異議を出した。
「部分的には成立している」
文化翻訳班六が答えた。
「お前たちが途中で壊した部分を除けばな」
「対象間の相互評価は成立した」
「それも本人たちが優秀だったからだ」
「方式の有効性を完全には否定できない」
接触手続班二が言った。
「その文章を次回接触の根拠に使うな」
強硬接触班三は答えなかった。
******
内部会議は荒れた。
接触手続班二が最初に言った。
「何だったんだ、あれは」
強硬接触班三は答えた。
「広域帝国君主間対談」
「最初の数分だけな」
記録監査班が要点を表示した。
主な会話内容:
・遠征軍の補給
・道路建設
・駅伝制度
・山匈奴
・老人の群れ
・皇帝の髪
・皇帝の脚
・見えない生物の水
・情報をほぼ除去した位置関係図
生命影響班四が言った。
「本来の議題は」
強硬接触班三は答えた。
「辺境統治、道路網、軍事遠征、皇帝権威」
「道路網は少し話したな」
「補給も成立した」
文化翻訳班六が言った。
「そこまでは本人たちが勝手に成立させた」
「方式の有効性を示している」
「その直後、お前たちがダキア人を山匈奴にした」
「既知概念への近似翻訳」
「するな」
「元老院についても――」
「老人の群れにした」
「説明的翻訳」
「するな」
生命影響班四が表示を切り替えた。
「その後、毒のない水に『見えない生物はいない』と説明して、二人とも飲まなくなった」
「安全性の説明」
「説明するまで気にしていなかった」
「情報提供自体は正確」
「正確なら何を言ってもいいと思うな」
さらに表示が切り替わった。
丸。線。丸。
接触手続班二が言った。
「これは」
「安全化済み簡略位置関係図」
「何の役にも立っていない」
「地理情報漏洩リスクはゼロ」
「情報もほぼゼロだ」
強硬接触班三は少し沈黙した。
「安全性と情報量にはトレードオフがある」
文化翻訳班六が言った。
「今気づいたのか」
記録監査班は結論を表示した。
本件は物理的には成功。
目的面では大幅に不達。
主要因: 翻訳階層における過剰な文化的近似。安全制限による比較情報の欠落。対象者の事前同意欠如。強硬接触班による不要な介入。
強硬接触班三が言った。
「最後の項目は評価的表現では」
全班が言った。
「黙れ」
強硬接触班三は黙った。
接触手続班二が続けた。
「夜間単独招請方式も凍結する」
「凍結期間は」
「またそれを聞くのか」
「未定なら永久ではない」
「その理屈を捨てろ」
会議は終了した。
******
地上では、トラヤヌスが翌朝、いつも通り短い髪を整えた。
脚については少しだけ考えた。
すぐに馬鹿らしくなってやめた。
それより、十万という数字が頭に残った。
「十万か」
幕僚は何の話か分からなかった。
一方、武帝は朝になって、侍中に突然聞いた。
「西域のさらに西には、どれほど国がある」
侍中は慎重に答えた。
武帝はしばらく聞いていた。
それから言った。
「石を敷いた道を、兵が自ら作る国があるらしい」
侍中は、何と答えるべきか分からなかった。
武帝はさらに聞いた。
「十万を出して、帰った数を数えぬ君主は愚かか」
今度は誰もすぐには答えなかった。
武帝は、その沈黙を少し長く聞いた。
星船内部では、誰も明言しなかった。
だが全員が分かっていた。
強硬接触班三は、またやる。




