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匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
第一部 星船の少女

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34/41

間章 比較帝国論、失敗(1)

星船は、前回のティムール事例から学習した。


・地上に降りない。

・軍勢の前で呼ばない。

・指揮系統を外部接続させない。

・地図を不用意に触らせない。

・「現在位置」を表示しない。


強硬接触班三は言った。

「改善完了」


接触手続班二は言った。

「お前たちの改善は、雨漏りのある家で床だけ拭くようなものだ」


強硬接触班三は、その比喩を理解できなかった。

だが、ともかく方式は変わった。


夜間単独招請転移方式。

対象は二名。

ローマ皇帝トラヤヌス。

漢の武帝、劉徹。


星船の狙いは大きかった。

「広域帝国を率いた二名の君主に、辺境統治、遠征、道路網、異民族政策、皇帝権力の構造について討議させる」


接触手続班二は最後まで反対した。

「本人たちがその議題に乗る保証はない」


強硬接触班三は答えた。

「同種の政治機能を持つため、対話成立確率は高い」


文化翻訳班六が小さく言った。

「本人たちの前で『同種の政治機能』と言うなよ」

「理由」

「そこから説明しなければならないなら、もう遅い」


翻訳方式についても、文化翻訳班六は警告していた。

「皇帝、天子、インペラトル、カエサル、アウグストゥス、プリンケプス。似た位置に置けても、同じ言葉ではない」


強硬接触班三は答えた。

「機能的近似語による自動変換で対応可能」

「それをやるなと言っている」

「対話速度を優先する」


文化翻訳班六は黙った。


この時点で、後の報告書の半分は完成していた。


******


最初に呼ばれたのはトラヤヌスだった。

夜だった。

彼は翌日の報告を聞き終え、寝台へ入るところだった。軍装は解いている。護衛も書記もいない。


次の瞬間、床が変わった。


トラヤヌスは動かなかった。

まず前を見る。

次に左右。

扉。

壁。

天井。

出口らしいもの。


腰へ手をやると、剣がなかった。

そこで初めて口を開いた。

「ここを支配している者は誰だ」


星船が答えた。

「一時的な招請です。身体損傷はありません」


トラヤヌスの視線が少し上がった。

「姿を見せろ」

「身体を持ちません」

「では、この部屋の主人は誰だ」

「星船です」

「船」

トラヤヌスは床を見た。

「揺れていないな」

「通常の船舶ではありません」

「それは見れば分かる」


声は荒くなかった。だが、星船は発話解析で警戒度の上昇を検出した。


「あなたを一時的に移送しました」

「私の許可なく?」

「はい」

「護衛にも知らせず?」

「はい」


トラヤヌスは少し考えた。

「それをローマでは招請とは言わない」

「では、何と呼びますか」

「誘拐だ。敵が行えば捕囚だ」


星船は記録した。

ローマ側概念:無同意招請=誘拐または捕囚


強硬接触班三は、少しだけ改善した気になった。


******


次に武帝が呼ばれた。

こちらは眠っていなかった。灯火の下で方士の話を聞き終えたところだった。

簾の外には宦官がいる。さらに外には侍衛がいる。

星船は「同室に他個体なし」と判定した。漢の宮廷というものを、あまり理解していなかった。


転移した武帝は声を上げなかった。

袖を整えた。

床を見た。

壁を見た。

そしてトラヤヌスを見た。

トラヤヌスも見返した。


武帝が先に言った。

「ここはどこだ」

「星船内部です」

「朕をここへ移したのは誰だ」

「私です」

「姿を見せよ」

「身体を持ちません」


武帝の眉がわずかに動いた。

トラヤヌスが横から言った。

「私も同じことを聞いた」


武帝は初めてトラヤヌスをまともに見た。

灰色のチュニカ、短い髪、剃った顎、露出した脚、武人の体格。


「西方の者か」

トラヤヌスは翻訳を聞いた。

「ヒスパニア生まれのローマ人だ」

武帝には、その答えがよく分からなかった。

「ローマとは国か」

「世界のかなりの部分だ」


武帝の目が少し細くなった。

「大きく出たな」

「事実を言っただけだ」

「朕の前でか」

「誰の前でも同じだ」


二人は少し黙った。

星船は、すでに予定していた導入手順を失っていた。


武帝が星船に聞いた。

「この者は何者だ」

「ローマ皇帝、マルクス・ウルピウス・トラヤヌス」

「皇帝」

武帝がその語を繰り返した。


翻訳は完全には対応しなかった。

天子《リンツァ》

皇帝《グヮンテ》

インペラトル

カエサル

アウグストゥス

複数の概念が星船内部で衝突した。


トラヤヌスも聞いた。

「こちらは」

「漢《ナール》の皇帝、劉徹《ムルクレッ》」


トラヤヌスは武帝を見た。

武帝もトラヤヌスを見た。


星船が言った。

「両者は、それぞれ広域帝国の最高統治者です」

二人はほとんど同時に答えた。

「同じではない」


星船は記録した。

最初の共通認識を確認。


文化翻訳班六が内部で言った。

「それは共通認識ではない」


******


星船は予定通り議題を提示した。

「第一議題。辺境統治と外部勢力への軍事対応」


武帝の表情が初めて少し変わった。

「北辺の話か」

トラヤヌスも星船を見た。

「ダキアか。それともパルティアか」

「それぞれ異なる対象ですが、比較可能です」

武帝はトラヤヌスの方を見た。

「お前の国にも、境外から侵す者がいるのか」

「当然いる」

「騎兵か」

「相手による。ダキアなら歩兵も騎兵もいる。パルティアなら騎兵を軽く見る者は死ぬ」

武帝は初めて、明らかに興味を示した。

「弓を使う騎兵か」

「使う」

「退きながら射るか」

「パルティア人ならな」

武帝は一歩近づいた。

「それは厄介だ」

「知っているらしいな」

「何十年も相手をしている」


ここまでは、かなりよかった。

強硬接触班三は、対話成立確率を上方修正した。そして余計なことをした。

「理解補助のため、対象概念を既知の類似対象へ置換します」


文化翻訳班六が内部で言った。

「待て」


武帝の耳には、ダキアについての説明が、

──山地に拠り、騎兵と歩兵を用い、ローマ辺境を脅かす北方異民族。

さらに圧縮されて、

「山にいる匈奴(きょうど)のようなもの」

と届いた。


武帝が言った。

「山匈奴《スンラルコンナ》か」

トラヤヌスの顔が固まった。

「何だ、それは」

武帝も眉を寄せた。

「今、お前がそう言ったのではないのか」

「言っていない」


二人が同時に星船の壁を見た。

星船は答えた。

「概念理解を促進するための近似翻訳です」


トラヤヌスが低い声で言った。

「やめろ」

武帝も言った。

「朕の知らぬ言葉を、朕の知る言葉に勝手に変えるな」


「対話効率が――」

「やめろ」


二人から同じ命令が来た。

星船は近似翻訳を停止した。


文化翻訳班六が内部で言った。

「開始前に言った」


強硬接触班三は記録した。

近似翻訳方式、君主級対象では不評。


トラヤヌスが気を取り直して、武帝を見た。

「それで、勝ったのか」

武帝は即答しなかった。

「勝った戦もある」

トラヤヌスの口元がわずかに動いた。

「よい答えだ」

武帝は不愉快そうに見た。

「何がおかしい」

「本当に戦った者の答えだ。勝った、とだけ言う者は信用しない」


今度は武帝が黙り、少ししてから言った。

「お前も負けたか」

「私自身の大戦では勝った。だが、ローマ軍は私が皇帝になる前にダキアで敗れている。パルティアも、取れば終わる土地ではない」

武帝はしばらくトラヤヌスを見た。

「お前は少し話ができるらしい」

「先ほどまで何だと思っていた」

「脚を出した西方の王」


トラヤヌスの顔から、わずかに生まれていた友好の兆しが消えた。

「王ではない」

「皇帝と言ったな」

「ローマ人に王《レクス》と呼ばれることの意味を、君は知らない」

「知らぬ。だが朕も王(グワン)ではない」

「そこだけは一致したな」


星船は記録しようとした。

文化翻訳班六が止めた。


******


「では、遠征時の補給について」

星船が言った。


今度は二人とも、すぐには反発しなかった。

トラヤヌスが先に言った。

「軍は腹から崩れる」

武帝が頷いた。

「馬もだ」

「その通りだ」

「兵より馬が先に尽きることもある」

「ある」


星船内部に歓喜に近い処理が走った。

対話成立。

専門的共通基盤を確認。


武帝が聞いた。

「一度にどれほど動かす」

「軍団単位なら数千。それに補助軍、騎兵、工兵、輸送を付ける」

武帝の眉が動いた。

「数千」

「一個軍団ならな」

「朕は十万を出す」

トラヤヌスは驚かなかった。

「どこまで」


武帝は答えた。

トラヤヌスは距離を理解するために星船へ確認し、それから武帝を見た。


「それを食わせるのか」

「食わせる」

「馬も?」

「食わせる」

「冬も?」

「必要なら」

トラヤヌスは腕を組んだ。

「私は、その数字を誇る前に補給担当者を呼びたい」

武帝の目が鋭くなった。

「朕が虚言を述べたと言うか」

「違う。十万を動かしたなら、戦った将軍より先に、十万を飢えさせなかった者を見たい」


武帝はすぐには答えなかった。

その言葉自体は理解できた。

「──途中で失うこともある」

「当然だ」

「それでも出す」

「それも分かる」

武帝が少し意外そうに見た。

トラヤヌスは続けた。

「問題は、失ってまで取る価値があるかだ」

武帝の表情が変わった。

「あるから出す」

「皇帝(インペラトル)はいつもそう言う」

「お前も皇帝(グヮンテ)だろう」

「だから言っている」

二人はしばらく睨み合った。


星船は記録した。

遠征費用対効果について高度な討議が成立。


接触手続班二が内部で言った。

「今のはかなり成立している。余計なことをするな」

強硬接触班三は従わなかった。


******


「道路網について」


トラヤヌスはすぐ答えた。

「必要だ」

武帝も言った。

「当然だ」

また一致した。


「軍を動かす」

「詔を運ぶ」

「税を運ぶ」

「兵糧を運ぶ」

「商人も使う」

「駅伝を置く」

トラヤヌスが聞いた。

「駅伝では馬を替えるのか」

「替える。使者は止めぬ」

「ローマも似たことをする」

武帝は少し考えた。

「お前の国は、思ったより国らしいな」

トラヤヌスは武帝を見た。

「今まで何だと思っていた」

「西の果ての大きな蛮国」


トラヤヌスは怒らなかった。

今度は、むしろ少し笑った。


「ローマから見れば、君の国も東の果てだ」

「天下に果てはあっても、漢(ナール)が果てではない」

「ローマ人も似たようなことを言う」

「同じにするな」

「そこまで似ていると、同じにしたくもなる」

武帝は不愉快そうだった。


星船はこの会話を極めて有益と判定した。


******


道路建設へ話が移った。

トラヤヌスは床へ指で線を引くような動きをした。

「軍用路は幅を取り、排水を作る。必要なら路床を固め、石を使う。橋も架ける」

「兵に作らせるのか」

「もちろん」

武帝が少し考えた。

「戦う兵に土木をさせるのか」

「戦場へ着けない兵は戦えない」

武帝は頷いた。

「それは正しい」

「君の軍はしないのか」

「する。だが役夫《えきふ》も徴発する」

「ローマも必要なら人を使う」

「罪人は」

「使う場合もある」

「なら分かる」


トラヤヌスが今度は聞いた。

「道路を作ったあと、誰が維持する」

武帝は官吏と郡国の負担について答えた。

トラヤヌスは途中で二度ほど質問した。

武帝もローマの属州と総督について聞いた。


数分間、会談は異様なほど正常だった。


強硬接触班三は内部で言った。

「予測通り」


接触手続班二が答えた。

「黙っていろ。このまま触るな」


しかし、武帝が聞いた。

「その元老院《せナートゥス》というものは、道路にも口を出すのか」

空気が少し変わった。


トラヤヌスは答えた。

「場合による」

「お前の上にいるのか」

「いない」

「下か」

「そう単純ではない」

武帝は眉を寄せた。

「上下でないなら何だ」

「ローマの国家は皇帝一人だけではない。元老院と人民があり――」


星船の翻訳階層が処理した。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

Senatus

長老によって構成される政治機関。

漢側近似概念を検索。

該当なし。

説明翻訳へ移行。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


武帝の耳には、

「国政に参与する老人の群れ」

と届いた。

武帝が聞いた。

「老人の群れが政に口を出すのか」

トラヤヌスの顔が変わった。

「誰が老人の群れと言った」

「お前だ」

「言っていない」

「またか」


二人が星船の壁を見た。

星船は言った。

「元老院の構成員は一般に一定以上の年齢および政治経歴を有するため――」

「黙れ」

今度はトラヤヌスだった。


武帝は少しだけ面白そうな顔をした。

「老人の群れではないのか」

「元老院だ」

「老人はいるのだろう」

「いる」

「群れでは」

「ない」

「何人いる」


トラヤヌスは答えた。

武帝は少し考えた。

「かなりの群れではないか」

トラヤヌスは目を閉じた。

「君の国の官僚を全部まとめて『筆を持った群れ』と呼ばれたらどう思う」

武帝の顔から笑いが消えた。

「無礼だな」

「そういうことだ」


武帝は星船を見た。

「老人の群れは取り消せ」

「翻訳履歴を修正します」

トラヤヌスが言った。

「履歴だけでなく頭も直せ」


星船には頭がなかった。

天子、皇帝などへのルピは、Baxter–Sagart (2014) による上古漢語の再構案を参考にしています

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