豆腐は弱い食べ物ではない
星船には四季がない。
気温も湿度も常に一定、快適、健康的。
それはときどきひどく窮屈だった。だから匙は、たまに真夏や真冬を感じたくなる。
その日、匙は「寒い町」を見たがった。
顔なしが提示したのは十九世紀初頭の京都だった。
「きょうと?」
「京都。日本の江戸時代における文化・宗教・商業・工芸の中心地の一つ」
「長い」
「古い町。積雪の可能性。食べ物がある」
「それでよい」
匙は、日本を「ときどき行く場所」として見ていた。
顔なしは、日本を比較的安全な行き先として扱っていた。
戦や飢えがないわけではない。だが、匙を一人で降ろしてすぐ殺される可能性は、顔なしの計算では低いらしい。
匙は、その計算をあまり信用していない。
顔なしは匙に日本語も少し教えた。
匙は、二十一世紀の東京で迷子になったことがある。
二十一世紀の日本は水が飲めて食べ物が買えてトイレがあり、夜が明るい。便利で強い。
しかし、匙の中では日本というものは、まだ一枚の地図や年表になってはいない。時代の前後も地名もあやふやだった。
顔なしは警告した。
「身分・言語・服装・移動範囲・寺社地・町人地・女性単独行動への視線に注意」
「私は子ども」
「子どもでも目立つ可能性がある」
「目立たない服」
「調整する」
「髪は?」
「調整する」
「顔は?」
「大きくは調整できない」
「困る」
「はい」
******
京都は、寒かった。
空気が白い。雪が降っているわけではないが、遠くの屋根や山の方に白さがある。道は湿り、家の軒が低く見える。
木の格子と暖簾。小さな声、下駄の音、水の音、遠くの鐘。薪の煙、味噌と醤油と湿った木の匂い。
「この町は、音が細い」
「音環境は場所により異なる」
「細い」
「了解」
もちろん人はいて、商いもあり、寺社へ行く人も、荷を運ぶ人もいる。女たちの声も、子どもの声もある。
だが、匙には、この町では音が建物の間を細く通っていくように感じられた。
寒い。
本当に寒い。
顔なしは布を調整していたが、足元から冷える。
「寒い」
「追加防寒可能」
「現地で浮く?」
「可能性あり」
「なら少し我慢」
「低体温に注意」
「うん」
匙は、現地に馴染むために無駄な我慢をする癖がある。
顔なしはそれを嫌がっていた。
そこは珍しく、顔なしが正しかった。
たぶん。
どこかの寺に近い坂の途中で、匙は半分家のような店を見かけた。
暖簾、湯気、木の戸、奥に囲炉裏の火。
人の声、湯の中に浮かぶ何か白いものと、だしの匂い。そして炭。
匙は、湯気に引き寄せられた。
完全に引き寄せられた。
寒い日の湯気は危険である。
人間を簡単に動かす。
匙が入口のあたりで立ち止まっていると、中から小柄な年配の女が出てきた。背中は曲がっておらず、手は赤く、目が細い。
彼女は匙を見た。
服。顔。足。手。寒そうか。
金を持っていそうか。迷子か。客か。怪しいか。
女は匙をかなり長く見た。
たぶん、怪しいと判断している目だった。
匙は、両手を少し見せた。
何も盗らない。何も刺さない。何も持ち込まない。
女は言った。
「どこの子や」
匙は少し困った。
「遠い」
女は眉を上げた。
「遠いとこから、寒うなって来たんか」
「うん」
「親は」
「いない」
女は、そこで少し顔を変えた。
この「いない」は、どこの土地でも、何度も場の温度を変えてきた。
親がいない子ども。それは、場所によって危険にも同情にも、利用にも保護にもなる。
女は匙をしばらく見たあと、言った。
「中、入り」
匙はすぐには動かなかった。
「払う」
女は少し笑った。
「まず温まり。金の話はあとや」
匙は中へ入った。
中は温かかった。
完璧な温かさではない。隙間風はあるし、足元はまだ冷える。店の奥と入口でも温度が違う。
しかし、店の中には湯気と火があった。そして、湯の中で何か白くて四角いものが揺れていた。
匙は、その白さを見て、少し驚いた。
肉でも魚でも米でもない。パンでもないし、芋でもない。
白い。
弱そう。
女は匙を座らせた。
「手、温め」
匙は手を出し、火に近づけすぎて、すぐ引いた。
女が笑った。
「火は近すぎたら噛むえ」
匙は火を見た。
「火は噛む」
「そうや」
店には他にも何人かの客がいた。
男二人、年配の女性が一人。若い職人風の人。静かに食べている人。少し喋っている人。
匙は目立っている。しかし、湯気が匙を少し隠してくれた。
女は、小さな器に四角いものをよそった。
「熱いで」
匙は頷いて、箸を持った。
匙は、箸を使うのが上手くない。白くて弱そうなものは柔らかい。箸で持ったら崩れそう。
匙は緊張した。
「そない力入れたら、豆腐が泣く」
「とうふ」
匙は白いものの名前を知った。
「豆腐は泣くのか」
店の客の一人が軽く吹き出した。女も笑った。
「泣かんけど崩れる。急いて持ったら崩れる」
匙は、真剣に頷いた。
豆腐は急ぐと崩れる。
匙はゆっくり豆腐を持ち上げた。少し崩れたが、器に入った。
口に入れてみた。
熱い。
やわらかい。
水、豆、温かさ、たれ、薬味。
湯豆腐は、静かだった。弱くはなかった。
寒い体の中へ入って、ゆっくりと効いた。
匙は目を少し見開いた。
「これは強い」
女は笑った。
「豆腐が?」
「うん」
「豆腐は強いえ」
「弱そうなのに」
「弱そうやから、強いんやろ」
匙は混乱した。
「弱そうだから強い」
「そうや。強そうなもんは、わざわざ強い言わんでもええ。豆腐は崩れるくせに、腹に入ったらちゃんと温める」
匙は豆腐を見た。
白い。崩れる。温める。
これは強い。
匙は、器に移した豆腐を真剣な顔をして食べた。女がそれを見て言った。
「変わった子やな」
「よく言われる」
「豆腐に負けそうな顔して食べる子は、あんまりおらん」
「負けてない」
「ほな、勝ってる?」
匙は考えた。
「勝つものではない」
女は少し目を細めた。
「そうやな。豆腐に勝つ人は、たぶんあほや」
客の一人がまた笑った。
匙は少しむっとしたが、豆腐が熱いので怒りが続かなかった。
「熱い」
「せやろ」
「白い」
「見たら分かる」
「崩れる」
「せやから、そっとや」
「そっと食べると、強い」
女はしばらく匙を見て、言った。
「それは、ええ覚え方や」
食べ終わると、匙は金を出そうとした。女は、その手を見て、少し考えた。
金を取るか、取らないか。
客として扱うか、迷子として扱うか。乞う子として扱うか、変な子として扱うか。
女は結局、ほんの少しだけ受け取った。
「これでええ」
「少ない」
「子どもから大人の分は取らん」
「でも、食べた」
「食べたな」
「足りない?」
「足りるようにしとく」
この言い方は、匙に少し刺さった。
足りるようにしておく。
客と施しの間。完全なただ飯にしないが、取りすぎもしない。
「ありがとう」
「道、気いつけ」
「うん」
「火は噛む。雪も噛む。人もたまに噛む」
「豆腐は?」
女は笑った。
「豆腐は噛まへん。噛むんはこっちや」
匙は、店を出た。
外はまだ寒かったが、体の中に湯豆腐がいた。
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星船に戻ると、匙はノートに書いた。
Edo Kyoto. Cold. Tofu hot.
(江戸時代。京都。寒い。豆腐は熱い)
Woman said fire bites. Tofu cries if hurry? Not exactly. Tofu breaks.
(女の人は、火は噛むと言った。豆腐は急ぐと泣く? 本当ではない。豆腐は壊れる)
Soft food strong.
(柔らかい飯、強い)
She took small money. Not all. Good. I could sit.
(彼女は少しだけ金をとった。全部ではない。よい。私は座れた)
それから日本語でも追記した。
――強い食べ物は、必ず硬いわけではない。




