メルッハの海
夜明け前の砂浜は、まだ暗かった。
海は黒かった。遠くの空の端だけが、わずかに青みを帯び始めている。
波の音が規則的に続き、湿った砂が足の裏に冷たい。潮の匂いが濃い。
魚と塩と、腐った藻と、どこかで焚かれている薪の煙が混ざっていた。
船は、砂浜に腹を伏せていた。
木でできている。船腹には何度も直した跡があり、板の隙間には黒いものが塗り込められていた。
帆はまだ畳まれ、柱の根元に束ねられている。太いロープは朝露と海水を吸って、触るとざらざらした。
「これが、船か」
匙が言うと、顔なしが答えた。
「船。この地域で使用されている沿岸航行用の――」
「長い」
「船だ」
「それでいい」
船のそばには、六人ほどの男たちが集まっていた。
腰に布を巻いただけの者もいれば、薄い布を肩に掛けている者もいる。一人だけ少し違う布をまとった男が、船首の近くから短い声で指示を出していた。
匙には、何を言っているのか分からなかった。
「顔なし」
「翻訳を試みる」
「遅い」
「資料が少ない」
匙は海から目を離した。
「資料が少ないと、分からないのか」
「推定はできる。正確性は保証できない」
「つまり、知らない」
少し間があった。
「……知らない部分がある」
匙は顔なしの気配がするあたりを見た。
「顔なしが知らない」
「この時代、この地域の言語については記録が不足している」
「知らないんだな」
「そうとも言う」
匙は少し笑った。
顔なしが知らないことがある。それは、なぜか少し安心した。
やがて、男たちが船を動かし始めた。
何人かが船腹に肩を当て、声を合わせる。大きな船体が砂を削りながら、少しずつ海へ進んだ。
ざり、ざり、と重い音がする。
匙は一歩下がった。
船が水に触れた途端に、音が変わった。
砂を擦る音が消え、水が船腹を叩く音になる。男たちがさらに押すと、船体が少し傾き、それからゆっくり持ち上がった。
「浮いた」
「浮力による」
「それは知ってる」
星船の学習区画で聞いたことがある。
だが、理屈を知っているのと、目の前で大きな木の塊が浮くのを見るのは、かなり違った。
「地面がないのに」
「水が支えている」
「水は踏めない」
「踏む必要はない」
「変だ」
船には男たちの手で次々に荷物が運び込まれていった。
大きな壺。布の包み。籠。石や金属らしい重そうなもの。水を入れた袋。
そうしたものが人から人へ渡され、船の中へ収まっていく。
男たちは荷を渡すたびに短い言葉を交わしていた。匙にはほとんど分からなかったが、同じ言葉が何度か聞こえた。
「顔なし」
「何か」
「いまの」
「キエンギ、に近い音」
「知ってる?」
顔なしの声が一瞬途切れ、また匙の耳元で流れた。
「――同定の候補は、ある」
「どこ」
「西」
「遠い?」
「かなり」
匙は荷物を見た。
「これは、そこへ行く?」
「不明。この船が直接行くとは限らない」
「荷物だけ行くか」
「可能性はある」
匙は、もう一度荷物を見た。
人より遠くへ行く荷物もあるらしい。
船首にいた男が匙を見下ろした。
匙の服を見て、腰に下げた小さな金属匙を見た。それから何か言った。
顔なしの声が少し遅れて重なった。
「誰だ、と言っていると思われる」
「旅をしている」
匙が答えると、顔なしがその声を現地の言葉らしい音に直した。
男がまた何か言った。
「一人か」
「うん」
「ここで何をしている」
「船を見ている」
男は船を振り返った。
「見た」
「乗ってみたい」
男の目が匙へ戻った。
何かを尋ねた。
「船に乗ったことがあるか」
「ない」
「一度もないのか」
「ない」
男は匙をしばらく見ていた。
「陸の子か」
匙は少し考えた。
「たぶん」
男の口元が動いた。
今度は笑ったのだと分かった。
「乗れ」
「いいのか」
「端に座れ。勝手に動くな。荷に触るな」
「分かった」
男はさらに何か言った。
顔なしが訳した。
「海に落ちても助けられるとは思うな」
「助けないのか」
「助けるための船ではない」
匙は海を見た。
黒い水が、船の向こうで上下している。
匙は、泳げない。
「落ちないようにする」
「それがいい」
男は船尾の隅を指した。
ロープの束と壺の間に、人が一人座れるくらいの場所がある。匙はそこへ入った。
膝を抱えるようにして座る。すぐ横に太いロープがあった。握ってみると湿って固く、手のひらに細い繊維が刺さった。
やがて船が岸を離れた。
男たちが長い櫂を使って浅瀬を抜けると、砂浜が少しずつ遠ざかった。
帆が上げられ、畳まれていた布が風を受けて膨らんだ。
何人かの男がロープを引き、船が傾いた。
「うわ」
匙は慌ててロープを掴んだ。
船が戻る。
また傾く。
「顔なし」
「何か」
「止めろ」
「止められない」
「船を」
「星船には、この船を止める権限はない」
「役に立たない」
「緊急時には回収できる」
「落ちてからか」
「落ちる前でも可能」
「では落ちそうになったら頼む」
「了解」
岸が遠くなった。
匙は船べりから海を見た。
足は木の板の上にある。その下には海がある。板は揺れている。
陸では、足を置けば地面はそこにいる。
船では、足を置いても、その下まで動いている。
「地面がない」
匙はもう一度言った。
「船底がある」
「その下」
「海」
「やっぱり地面がない」
しばらくすると気持ちが悪くなった。
胃の中が持ち上がる。頭を動かすと、もっと悪くなる。
「顔なし」
「乗り物酔いと思われる」
「短く」
「揺れているから」
「知ってる」
目を閉じると、揺れが大きくなった。
目を開けると、海が動いた。
膝を見ることにした。膝は、海よりは動かなかった。
どれくらいそうしていたのか分からない。
やがて少しだけ楽になった。
「治った」
「乗船から三十分程度しか経過していない」
「三十分も乗った」
「航海は数日を予定しているようだ」
匙は驚いて顔を上げた。
「数日」
「おそらく」
「聞いてない」
「聞かなかった」
「顔なしも言わなかった」
「尋ねられなかった」
匙はしばらく黙り込んだ。
「帰るか」
「帰れるのか」
「希望するなら星船へ回収できる」
匙は遠くなった陸を見た。
もう砂浜は細い線になっている。
船長が何かを怒鳴り、男たちがロープを動かした。
帆の形が変わり、船がまた少し傾いた。
ここで匙が突然消えたら、かなり変なことになる。
「まだいい」
「了解」
昼になると、日差しが強くなった。
海の上には日陰がほとんどない。匙は布を頭から被った。
昼の飯は、固く焼いた穀物の食べ物と水だった。
船長が匙にも一つ渡した。
匙はかじった。
硬かった。
もう一度かじる。
やはり硬い。
「これだけか」
船長が匙を見た。
「何が」
「飯」
「水もある」
「飯は」
「それだ」
匙は手の中の食べ物を見た。
「いつまで」
「次の港まで」
「どれくらい」
船長は指を三本立てた。
顔なしが補った。
「三日程度を意味する可能性が高い」
「三日、これか」
船長は匙の顔を見て笑った。
「嫌なら食べなくていい」
匙はもう一口かじった。
「食べる」
硬い。
噛んでいると顎が疲れた。
だが、腹には入る。
******
夕方になって、海の色が変わった。
夜になると、陸が見えなくなった。
匙は目をこらして何度も岸を探したが、どちらを見ても黒い海しかなかった。
船には小さな火があった。その明かりの外は暗い。
空には星が出ていた。多すぎるくらいあった。
匙は船尾に座り、上を見た。
少し前に、別の土地でもこんなふうに星を見た。
乾いた町の冷たい屋上。香の匂い。白い衣の男たち。星の高さを測る道具。冷えたパン。
星を知っている顔をするな、と老人に言われた。
星は、知っている者にも遠い。
あのときは、顔なしに星の名前を調べさせなかった。サーリフに教わった名前を一つだけ、下手なまま持って帰った。
匙は海の上の星を見た。
ここにも、名前があるのだろうか。
「顔なし」
「何か」
匙は空の明るい星を指した。
「あれは、ここでは何という」
少し間があった。
「分からない」
匙は顔なしのいる方を見た。
「知らない?」
「恒星そのものは特定できる」
「それは聞いていない」
「この時代のこの地域の人々が使用している名称について、確実な情報がない」
「では、知らない」
「そうだ」
匙はもう一度、星を見た。
ハッラーンでは、名前を知っている顔をするなと言われた。ここでは、本当に名前を知らない。
それが少し面白かった。
「よい」
「なぜ」
「知らない顔をしている」
「顔はない」
「そうだった」
船長がやってきた。彼も匙の隣に腰を下ろし、同じように空を見上げた。
匙はさっきの星を指した。
「これは何という」
船長は答えた。
顔なしは沈黙した。
「何と言った」
「音は取得した。ただし既知の語彙と対応させられない」
匙は船長を見る。もう一度、星を指す。
船長は同じ言葉を言った。
匙も真似した。
うまく言えなかったらしく、船長が笑った。
「下手?」
船長には通じなかった。けれど笑っているので、たぶん下手だった。
匙はもう一度言った。
船長がゆっくり言い直した。匙も真似した。
今度は船長が頷いた。
ハッラーンの老人なら、まだ下手だと言うかもしれない。でも、軽くは呼んでいない。
匙は星を見た。
「顔なし」
「何か」
「分かった」
「発音を記録した」
「記録じゃなくて」
少し間があった。
「覚える」
「よい」
船長は別の星を指した。それから海の向こうを指した。もう一つの星を指し、別の方向を示した。
匙は船長の身振りと指の動きを見た。
ハッラーンでは、人間は星を呼び、祈り、測っていた。
この船では、星を見て、帰る。同じ星なのに、使い方が違う。
「星を見て、行くのか」
船長が頷いた。
「夜は星を見る」
「昼は」
「太陽。風。波。鳥。水の色」
「たくさん見る」
「見ないと帰れない」
匙は海を見た。
暗くて、何も分からない。
「顔なしなら帰れる」
船長には翻訳させなかった。
「そうだ」
顔なしだけが答えた。
匙は少し考えた。
「でも、この人は顔なしがなくても帰れる」
「そうだ」
それから船長と二人で、しばらく静かに星を見た。
******
翌日、風が弱くなった。
帆が張らなくなり、船の進み方が遅くなった。
男たちは空を見たり、海を見たりしていた。
匙も空を見た。
何も分からない。
「風がない」
「弱い」
「どうする」
「待つ」
船長も同じことを言った。
待つ。
匙は船の中を見た。
帆につながったロープが、男の手の中にある。
風は見えない。
触れない。
捕まえられない。
でも、風が来れば帆が動く。
男たちはそのたびにロープを引き、緩め、結び直した。
匙はしばらくそれを見ていた。
「風は持てない」
「そうだ」
「でも、ロープは持てる」
顔なしは答えなかった。
船長が匙を見た。
匙はロープを指し、それから風の来る方を指した。
「風は持てない。これは持てる」
翻訳を聞いた船長は笑った。
「だから、これを持つ」
匙はロープを見た。
「なるほど」
******
三日目の夕方、陸が見えた。
最初は細い線だった。やがて土の色が見えた。煙が上がっている。もっと近づくと、人の声が聞こえた。動物の鳴き声もする。
岸にはほかの船がいた。大きさも形も少しずつ違う。
荷を下ろしている者がいる。壺を運ぶ者がいる。籠を抱えて走る者がいる。子供が船の間を走り、犬がそのあとを追っている。
「ここは」
匙が聞いた。
船長が地名を言った。
顔なしは少し待ってから答えた。
「対応する地名を特定できない」
「またか」
匙は船長に、もう一度尋ねた。
「この土地は、何という」
船長は今いる港ではなく、岸の向こうを指した。それから、自分の胸を指して、一言だけ言った。
「メルッハ」
顔なしが沈黙した。
匙は船長を見る。
「メルッハ」
船長は頷いた。
匙も同じように、岸の向こうを指した。
「メルッハ」
「そうだ」
今度は顔なしに聞いた。
「知っているか」
「知っている」
「さっき知らないと言った」
「この港の名称は分からない。メルッハは別だ」
「何だ」
少し間があった。
「後世、メソポタミアの記録に現れる地名。インダス文明圏を指すと推定されている」
匙は船長を見た。
船長はもう匙を見ていなかった。男たちに何かを言い、荷を下ろし始めている。
「推定」
「そうだ」
「でも、この人は今、そう言った」
「そうだ」
「では、合っていた」
顔なしはしばらく答えなかった。
「少なくとも、この人物はこの土地をそう呼んだ」
匙は頷いた。
「覚えろ」
「記録する」
「覚えろ」
「……覚える」
匙は船を降りた。
三日ぶりに地面を踏んだ。
足元が動かない。それだけで、妙な感じがした。
「地面が止まっている」
「通常の状態だ」
「変だ」
船長が匙を見て笑った。
匙は船長に向き直った。
「ありがとう」
顔なしが訳した。
船長は片手を上げて、それから船に戻った。
男たちはもう荷を下ろし始めている。
匙の航海が終わっても、船の仕事は終わっていなかった。
******
星船に戻ったとき、服にも髪にも潮の匂いがついていた。
「体表および衣服に塩分が付着している」
「海の匂い」
「洗浄を推奨する」
「あとで」
匙はノートを開いたところで、声を出した。
「顔なし」
「何か」
「メルッハはいつのどこだった」
「紀元前二十二世紀、インダス文明圏、グジャラート地方……」
「長い。メルッハでいい」
そして、ノートに書いた
──メルッハの海。初めて船に乗った。
──地面がない。三日は長い。飯は硬い。顔なしにも、知らない言葉がある。
──船乗りは、顔なしが知らない星の名前を知っていた。星を見て帰る。
少し考えて、もう一行書いた。
──風は持てない。ロープは持てる。
匙はそこまで書いて、ペンを置いた。




