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匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
第一部 星船の少女

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32/42

メルッハの海

夜明け前の砂浜は、まだ暗かった。


海は黒かった。遠くの空の端だけが、わずかに青みを帯び始めている。

波の音が規則的に続き、湿った砂が足の裏に冷たい。潮の匂いが濃い。

魚と塩と、腐った藻と、どこかで焚かれている薪の煙が混ざっていた。



船は、砂浜に腹を伏せていた。

木でできている。船腹には何度も直した跡があり、板の隙間には黒いものが塗り込められていた。

帆はまだ畳まれ、柱の根元に束ねられている。太いロープは朝露と海水を吸って、触るとざらざらした。


「これが、船か」

匙が言うと、顔なしが答えた。

「船。この地域で使用されている沿岸航行用の――」

「長い」

「船だ」

「それでいい」


船のそばには、六人ほどの男たちが集まっていた。

腰に布を巻いただけの者もいれば、薄い布を肩に掛けている者もいる。一人だけ少し違う布をまとった男が、船首の近くから短い声で指示を出していた。

匙には、何を言っているのか分からなかった。


「顔なし」

「翻訳を試みる」

「遅い」

「資料が少ない」

匙は海から目を離した。

「資料が少ないと、分からないのか」

「推定はできる。正確性は保証できない」

「つまり、知らない」


少し間があった。


「……知らない部分がある」

匙は顔なしの気配がするあたりを見た。

「顔なしが知らない」

「この時代、この地域の言語については記録が不足している」

「知らないんだな」

「そうとも言う」

匙は少し笑った。

顔なしが知らないことがある。それは、なぜか少し安心した。



やがて、男たちが船を動かし始めた。

何人かが船腹に肩を当て、声を合わせる。大きな船体が砂を削りながら、少しずつ海へ進んだ。

ざり、ざり、と重い音がする。


匙は一歩下がった。


船が水に触れた途端に、音が変わった。

砂を擦る音が消え、水が船腹を叩く音になる。男たちがさらに押すと、船体が少し傾き、それからゆっくり持ち上がった。


「浮いた」

「浮力による」

「それは知ってる」

星船の学習区画で聞いたことがある。

だが、理屈を知っているのと、目の前で大きな木の塊が浮くのを見るのは、かなり違った。


「地面がないのに」

「水が支えている」

「水は踏めない」

「踏む必要はない」

「変だ」


船には男たちの手で次々に荷物が運び込まれていった。

大きな壺。布の包み。籠。石や金属らしい重そうなもの。水を入れた袋。

そうしたものが人から人へ渡され、船の中へ収まっていく。

男たちは荷を渡すたびに短い言葉を交わしていた。匙にはほとんど分からなかったが、同じ言葉が何度か聞こえた。


「顔なし」

「何か」

「いまの」

「キエンギ、に近い音」

「知ってる?」

顔なしの声が一瞬途切れ、また匙の耳元で流れた。

「――同定の候補は、ある」

「どこ」

「西」

「遠い?」

「かなり」

匙は荷物を見た。

「これは、そこへ行く?」

「不明。この船が直接行くとは限らない」

「荷物だけ行くか」

「可能性はある」

匙は、もう一度荷物を見た。

人より遠くへ行く荷物もあるらしい。



船首にいた男が匙を見下ろした。

匙の服を見て、腰に下げた小さな金属匙を見た。それから何か言った。

顔なしの声が少し遅れて重なった。


「誰だ、と言っていると思われる」

「旅をしている」

匙が答えると、顔なしがその声を現地の言葉らしい音に直した。

男がまた何か言った。

「一人か」

「うん」

「ここで何をしている」

「船を見ている」


男は船を振り返った。

「見た」

「乗ってみたい」

男の目が匙へ戻った。

何かを尋ねた。

「船に乗ったことがあるか」

「ない」

「一度もないのか」

「ない」


男は匙をしばらく見ていた。


「陸の子か」

匙は少し考えた。

「たぶん」

男の口元が動いた。

今度は笑ったのだと分かった。

「乗れ」

「いいのか」

「端に座れ。勝手に動くな。荷に触るな」

「分かった」

男はさらに何か言った。

顔なしが訳した。

「海に落ちても助けられるとは思うな」

「助けないのか」

「助けるための船ではない」


匙は海を見た。

黒い水が、船の向こうで上下している。

匙は、泳げない。


「落ちないようにする」

「それがいい」

男は船尾の隅を指した。

ロープの束と壺の間に、人が一人座れるくらいの場所がある。匙はそこへ入った。

膝を抱えるようにして座る。すぐ横に太いロープがあった。握ってみると湿って固く、手のひらに細い繊維が刺さった。



やがて船が岸を離れた。

男たちが長い櫂を使って浅瀬を抜けると、砂浜が少しずつ遠ざかった。

帆が上げられ、畳まれていた布が風を受けて膨らんだ。

何人かの男がロープを引き、船が傾いた。


「うわ」


匙は慌ててロープを掴んだ。


船が戻る。


また傾く。


「顔なし」

「何か」

「止めろ」

「止められない」

「船を」

「星船には、この船を止める権限はない」

「役に立たない」

「緊急時には回収できる」

「落ちてからか」

「落ちる前でも可能」

「では落ちそうになったら頼む」

「了解」


岸が遠くなった。

匙は船べりから海を見た。

足は木の板の上にある。その下には海がある。板は揺れている。

陸では、足を置けば地面はそこにいる。

船では、足を置いても、その下まで動いている。


「地面がない」

匙はもう一度言った。

「船底がある」

「その下」

「海」

「やっぱり地面がない」


しばらくすると気持ちが悪くなった。

胃の中が持ち上がる。頭を動かすと、もっと悪くなる。


「顔なし」

「乗り物酔いと思われる」

「短く」

「揺れているから」

「知ってる」


目を閉じると、揺れが大きくなった。

目を開けると、海が動いた。

膝を見ることにした。膝は、海よりは動かなかった。


どれくらいそうしていたのか分からない。

やがて少しだけ楽になった。


「治った」

「乗船から三十分程度しか経過していない」

「三十分も乗った」

「航海は数日を予定しているようだ」

匙は驚いて顔を上げた。

「数日」

「おそらく」

「聞いてない」

「聞かなかった」

「顔なしも言わなかった」

「尋ねられなかった」


匙はしばらく黙り込んだ。


「帰るか」

「帰れるのか」

「希望するなら星船へ回収できる」


匙は遠くなった陸を見た。

もう砂浜は細い線になっている。

船長が何かを怒鳴り、男たちがロープを動かした。

帆の形が変わり、船がまた少し傾いた。

ここで匙が突然消えたら、かなり変なことになる。


「まだいい」

「了解」


昼になると、日差しが強くなった。

海の上には日陰がほとんどない。匙は布を頭から被った。

昼の飯は、固く焼いた穀物の食べ物と水だった。

船長が匙にも一つ渡した。


匙はかじった。

硬かった。


もう一度かじる。

やはり硬い。


「これだけか」

船長が匙を見た。

「何が」

「飯」

「水もある」

「飯は」

「それだ」


匙は手の中の食べ物を見た。

「いつまで」

「次の港まで」

「どれくらい」

船長は指を三本立てた。


顔なしが補った。

「三日程度を意味する可能性が高い」


「三日、これか」

船長は匙の顔を見て笑った。

「嫌なら食べなくていい」


匙はもう一口かじった。

「食べる」


硬い。

噛んでいると顎が疲れた。

だが、腹には入る。


******


夕方になって、海の色が変わった。


夜になると、陸が見えなくなった。


匙は目をこらして何度も岸を探したが、どちらを見ても黒い海しかなかった。

船には小さな火があった。その明かりの外は暗い。

空には星が出ていた。多すぎるくらいあった。

匙は船尾に座り、上を見た。


少し前に、別の土地でもこんなふうに星を見た。

乾いた町の冷たい屋上。香の匂い。白い衣の男たち。星の高さを測る道具。冷えたパン。

星を知っている顔をするな、と老人に言われた。

星は、知っている者にも遠い。

あのときは、顔なしに星の名前を調べさせなかった。サーリフに教わった名前を一つだけ、下手なまま持って帰った。


匙は海の上の星を見た。

ここにも、名前があるのだろうか。


「顔なし」

「何か」

匙は空の明るい星を指した。

「あれは、ここでは何という」

少し間があった。

「分からない」

匙は顔なしのいる方を見た。

「知らない?」

「恒星そのものは特定できる」

「それは聞いていない」

「この時代のこの地域の人々が使用している名称について、確実な情報がない」

「では、知らない」

「そうだ」


匙はもう一度、星を見た。

ハッラーンでは、名前を知っている顔をするなと言われた。ここでは、本当に名前を知らない。

それが少し面白かった。


「よい」

「なぜ」

「知らない顔をしている」

「顔はない」

「そうだった」



船長がやってきた。彼も匙の隣に腰を下ろし、同じように空を見上げた。

匙はさっきの星を指した。

「これは何という」


船長は答えた。

顔なしは沈黙した。


「何と言った」

「音は取得した。ただし既知の語彙と対応させられない」


匙は船長を見る。もう一度、星を指す。

船長は同じ言葉を言った。

匙も真似した。

うまく言えなかったらしく、船長が笑った。


「下手?」


船長には通じなかった。けれど笑っているので、たぶん下手だった。

匙はもう一度言った。

船長がゆっくり言い直した。匙も真似した。

今度は船長が頷いた。


ハッラーンの老人なら、まだ下手だと言うかもしれない。でも、軽くは呼んでいない。


匙は星を見た。

「顔なし」

「何か」

「分かった」

「発音を記録した」

「記録じゃなくて」

少し間があった。

「覚える」

「よい」


船長は別の星を指した。それから海の向こうを指した。もう一つの星を指し、別の方向を示した。

匙は船長の身振りと指の動きを見た。

ハッラーンでは、人間は星を呼び、祈り、測っていた。

この船では、星を見て、帰る。同じ星なのに、使い方が違う。


「星を見て、行くのか」

船長が頷いた。

「夜は星を見る」

「昼は」

「太陽。風。波。鳥。水の色」

「たくさん見る」

「見ないと帰れない」


匙は海を見た。

暗くて、何も分からない。


「顔なしなら帰れる」

船長には翻訳させなかった。

「そうだ」

顔なしだけが答えた。

匙は少し考えた。

「でも、この人は顔なしがなくても帰れる」

「そうだ」


それから船長と二人で、しばらく静かに星を見た。


******


翌日、風が弱くなった。


帆が張らなくなり、船の進み方が遅くなった。

男たちは空を見たり、海を見たりしていた。

匙も空を見た。

何も分からない。


「風がない」

「弱い」

「どうする」

「待つ」


船長も同じことを言った。

待つ。


匙は船の中を見た。

帆につながったロープが、男の手の中にある。


風は見えない。

触れない。

捕まえられない。

でも、風が来れば帆が動く。

男たちはそのたびにロープを引き、緩め、結び直した。

匙はしばらくそれを見ていた。


「風は持てない」

「そうだ」

「でも、ロープは持てる」

顔なしは答えなかった。


船長が匙を見た。

匙はロープを指し、それから風の来る方を指した。

「風は持てない。これは持てる」

翻訳を聞いた船長は笑った。

「だから、これを持つ」

匙はロープを見た。

「なるほど」


******


三日目の夕方、陸が見えた。


最初は細い線だった。やがて土の色が見えた。煙が上がっている。もっと近づくと、人の声が聞こえた。動物の鳴き声もする。

岸にはほかの船がいた。大きさも形も少しずつ違う。

荷を下ろしている者がいる。壺を運ぶ者がいる。籠を抱えて走る者がいる。子供が船の間を走り、犬がそのあとを追っている。


「ここは」

匙が聞いた。

船長が地名を言った。

顔なしは少し待ってから答えた。

「対応する地名を特定できない」

「またか」


匙は船長に、もう一度尋ねた。

「この土地は、何という」

船長は今いる港ではなく、岸の向こうを指した。それから、自分の胸を指して、一言だけ言った。


「メルッハ」



顔なしが沈黙した。


匙は船長を見る。

「メルッハ」

船長は頷いた。

匙も同じように、岸の向こうを指した。

「メルッハ」

「そうだ」


今度は顔なしに聞いた。

「知っているか」

「知っている」

「さっき知らないと言った」

「この港の名称は分からない。メルッハは別だ」

「何だ」


少し間があった。


「後世、メソポタミアの記録に現れる地名。インダス文明圏を指すと推定されている」


匙は船長を見た。

船長はもう匙を見ていなかった。男たちに何かを言い、荷を下ろし始めている。

「推定」

「そうだ」

「でも、この人は今、そう言った」

「そうだ」

「では、合っていた」

顔なしはしばらく答えなかった。


「少なくとも、この人物はこの土地をそう呼んだ」

匙は頷いた。

「覚えろ」

「記録する」

「覚えろ」

「……覚える」



匙は船を降りた。

三日ぶりに地面を踏んだ。

足元が動かない。それだけで、妙な感じがした。


「地面が止まっている」

「通常の状態だ」

「変だ」


船長が匙を見て笑った。

匙は船長に向き直った。


「ありがとう」

顔なしが訳した。

船長は片手を上げて、それから船に戻った。

男たちはもう荷を下ろし始めている。

匙の航海が終わっても、船の仕事は終わっていなかった。


******


星船に戻ったとき、服にも髪にも潮の匂いがついていた。

「体表および衣服に塩分が付着している」

「海の匂い」

「洗浄を推奨する」

「あとで」


匙はノートを開いたところで、声を出した。

「顔なし」

「何か」

「メルッハはいつのどこだった」

「紀元前二十二世紀、インダス文明圏、グジャラート地方……」

「長い。メルッハでいい」


そして、ノートに書いた

──メルッハの海。初めて船に乗った。

──地面がない。三日は長い。飯は硬い。顔なしにも、知らない言葉がある。

──船乗りは、顔なしが知らない星の名前を知っていた。星を見て帰る。


少し考えて、もう一行書いた。

──風は持てない。ロープは持てる。


匙はそこまで書いて、ペンを置いた。

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