星に祈る人々
ハッラーンは乾いていた。
昼の空は白く霞み、道も家の壁も、焼けた土に近い色をしていた。
歩くたびに細かな埃が上がる。 荷を積んだロバが通り、その脇を水壺を抱えた人間が避けていく。
焼いたパンと羊、煙、汗、糞、乾いた草の匂いが、熱い空気の中に残っていた。
顔なしは言った。
「八世紀、ジャズィーラ地方、ハッラーン。宗教的・天文学的伝統の混在する都市。後世呼称、偽サービア教徒」
匙は言った。
「人間の言葉」
「古い町。星を大事にする人たちがいる」
「星」
匙は足を止めた。
星船の中では、星は近い。
星に触れるわけではない。けれど顔なしは、星をすぐ数字にする。
距離、温度、光、軌道、分類、寿命。
全部壁に出せる。拡大できる。線も引ける。星の光は昔の光だと説明する。
匙にはそれが、ときどき少し近すぎた。
「人間が星を大事にする」
匙は繰り返した。
「はい」
「測る?」
「測る者もいる」
「祈る?」
「祈る者もいる」
匙は少し眉を寄せた。
「星に?」
「はい」
「星は返事をする?」
顔なしはわずかに黙った。
「物理的応答としては――」
「人間の言葉」
「返事は、たぶんしない」
「たぶん」
「人間は、それでも祈る」
匙は町の方を見た。
それは、少し見てみたいと思った。
******
昼のハッラーンは星の町には見えなかった。
市場ではパンを焼き、布を広げて売っている。水を運ぶ少年が人を避けながら歩き、壺を抱えた女たちがその横を通った。子どもが埃の中を走っている。
匙はまず水を買った。
星の前に水。これは大事だった。
それから薄くて丸いパンも買った。焼きたてで、指で割ると湯気が出た。
「星を大事にする町でもパンがある」
「人間は、星より頻繁に食事を必要とする」
「それはよい説明」
「ありがとう」
「調子に乗るな」
「はい」
匙はパンをかじりながら歩いた。
神殿らしい建物の前では、白い衣を着た男たちが話していた。
そばの石には円や点を組み合わせた模様が刻まれている。軒先には小さな金属の円盤が下がり、一人の衣には星らしい形が縫い取られていた。
匙はそこから少し離れて立った。
祈りや神のある場所では、すぐ近づかない。
入口を見る。人がどこから入り、どこで止まるかを見る。
履物を見る。手を見る。水を見る。
誰なら入れて、誰なら止められるのかを見る。
いろいろな場所で、それを少しずつ覚えた。
近くにいた少年が、匙を見た。
匙より少し年上くらいで、細く、日焼けしていて、目がよく動く。手には小さな壺を持っていた。
「旅の子か」
顔なしの翻訳が少し遅れて届いた。
匙はうなずいた。
「少し」
「少しの旅があるのか」
どこに行っても、こういうことを言う人間がいる。
「ある」
少年は笑った。
「どこから」
「遠いところ」
「星からか?」
からかう声だった。
匙は少し黙った。
かなり惜しい。
「星ではない」
「では、星の道からか」
「道かもしれない」
少年は目を細めた。
「変な子だ」
「よく言われる」
少年の名は、匙にはサーリフと聞こえた。正しい音かは分からない。
神殿の関係者ではなく、近くの家の子で、時々水を運んだり使いをしたりしているらしかった。
「中に入りたいのか」
匙は建物を見た。
「入っていいのか分からない」
「入れない場所もある。見たいだけなら夜に上れ。屋上で星を見る」
「屋上」
「静かにしていれば、たぶん怒られない」
「たぶん、か」
「たぶんでよい時もある」
「悪い時もある」
「そうだ」
サーリフは壺を抱え直した。
「夜までいるなら、変な子供はすぐ怒られるから気をつけろよ」
「あなたは?」
「怒られる側だ」
「なら、役に立つ」
サーリフは声を出して笑った。
「少しな」
******
匙は夕方まで町を歩いた。
香辛料を嗅ぎ、焦げたパンの端を買い、神殿の周りも少し離れて歩いた。
白い衣の男たちは声を低めて話し、ときどき空を見上げる。 まだ明るいのに空を見るのが、匙には少し変だった。
日が落ちると、空気が変わった。
石や土から熱が抜けていく。 昼には暑かった風が、肌に冷たくなった。 家々に灯りが増え、煙が細く上がる。遠くで犬が吠えた。
空が暗くなるにつれて、星が増えた。
星船の壁に出る星ではない。 首を上げなければ見えない星だった。
匙は黙って見上げた。
顔なしも何も言わなかった。
昼のうちに、匙が命じていた。
「星の名前も距離も温度も、今はいらない」
顔なしは少し不満そうだったが、守っていた。
やがて、サーリフが歩いて来た。
「来るか」
「怒られない?」
「静かにしているなら、たぶんな」
彼に案内されて、匙は建物の外階段を上った。
屋上に何人の大人かいた。
白い衣の男。濃い外套の老人。若い男が二人。
少し離れた階段の影には、布で頭を覆った女もいた。彼女は屋上の中へは入らず、そこから空を見ていた。
床は冷たかった。
中央には低い台があり、金属の器具と、小さな火皿が置かれ、香の匂いがした。
若い男たちが水を置いて油を足し、老人が空を指した。
それから、低い声で歌のような祈りのようなものが始まった。
意味は分からない。
顔なしの翻訳は止めている。でも、音は分かった。
同じ名が何度か繰り返された。
星の名なのか、神の名なのか、その両方なのか、匙には分からない。
声は上がり、下がり、また同じ場所へ戻る。
人々は空を見て、器具を見て、また空を見た。
横でサーリフが小声で言った。
「あの明るいの」
匙は空を見た。
「うん」
「あれを、こう呼ぶ」
彼は星の名を口にした。
匙は真似した。発音を間違えたらしく、サーリフは笑いをこらえた。
「下手くそ」
「もう一度言え」
匙はまた真似した。やはり違った。
「まあ、いい」
匙は少し安心した。星の名を間違えても、星は落ちてこなかった。
老人が匙に気づいた。
長い灰色の髭を生やし、目は鋭い。手には細い杖のようなものを持っている。
「誰だ」
サーリフが何か答えた。
旅の子。変な子。見るだけ。
たぶん、そんな意味だった。
老人は匙を見た。
「星を笑うな」
匙は答えた。
「笑わない」
「星を指で刺すな」
匙はすぐに手を下げた。
「刺さない」
「星の名を軽く呼ぶな」
匙は少し考えた。
「下手に呼ぶのは?」
老人は詰まった。
サーリフが横で肩を震わせ、老人は咳払いをした。
「下手でも、軽く呼ばなければよい」
匙はうなずいた。
「分かった」
老人はまた空を見上げた。匙も、かなり真面目に空を見た。
星は遠かった。
顔なしなら、すぐ近くへ持ってくる。 拡大して、名前をつけて、線で結ぶ。 距離も出す。分類も出す。
屋上では、誰もそんなことをしない。
遠いまま見ている。遠いものの名を呼ぶ。届かないところへ向かって祈る。
匙には少し不思議だった。
「星は、遠いのに」
匙は小さく言った。
サーリフが聞いた。
「何」
「遠いのに、名を呼ぶのか」
サーリフは肩をすくめた。
「遠いから呼ぶのでは」
匙は彼の横顔を見た。
顔なしに聞いても、たぶん出てこない答えだった。
「サーリフは星を信じるのか」
少年は困った顔をした。
「信じる、とは?」
「星が人間を見ているとか」
サーリフは空を見た。
「分からない」
「分からないのに来るのか」
「夜の屋上は涼しい。ときどき、残ったパンももらえる」
匙は少し笑った。
サーリフは続けた。
「でも、星の名前を覚えるのは嫌いではない」
「なぜ」
「遠いものに名前があると、少し友だちのふりができる」
匙は、すぐには答えなかった。
「ふり」
「ふり」
それなら、少し分かる。
若い男が金属の器具を持ち上げた。 星の方へ向け、何かを合わせる。 下ろして確かめ、また空へ向ける。
匙はその手元を見た。
星船の道具より、ずっと大きくて、遅い。
持ち上げる。角度を合わせる。目で見る。下ろす。また見る。
その間にも、星は動く。
人間が星を見るには、首を上げなければならない。目を細めなければならない。
道具を持つ手も疲れる。夜になれば身体も冷える。
それでも見る。
顔なしは、そんな風に星を待とうとしない。
******
老人がまた匙を見た。
「旅の子よ」
匙は少し背筋を伸ばした。
「はい」
「星のことを知っているような顔をするな」
匙は驚いた。
「していた?」
「少し」
匙は黙った。
そういう顔をしていたかもしれない。
星船の中で、星を見すぎた。名前も距離も、聞けば出てくる。
でも、自分が測ったわけではない。自分が見つけたわけでもない。
老人は空を見たまま言った。
「星は、知っている者にとっても遠い」
匙も空を見た。
「分かった」
老人は、満足したのか不満なのか分からない顔でうなずいた。
******
儀式は長かった。
匙は途中で飽きてきた。
足が冷える。腹が減る。香の匂いが強い。同じ名が何度も出る。
空はきれいだが、首が痛い。
匙はサーリフに小声で言った。
「長い」
サーリフも小声で答えた。
「長い」
「いつ終わる」
「星が許したら」
「星は許すのが遅い」
サーリフは肩を震わせて笑いをこらえた。
老人に睨まれて、二人は黙った。
しばらくして儀式は終わった。
火が消され、器具がしまわれ、声が低くなった。
誰かがパンを分けた。少し硬く、冷えたパンだった。匙にも小さい一切れが来た。
サーリフが得意げな顔をした。
「言っただろう」
「パンは重要」
「星より?」
匙はパンを見て、空を見た。
「今はパン」
サーリフはうなずいた。
「今はパン」
匙は屋上の端に座って、冷えたパンを食べた。
儀式が終わっても、星は残っている。
人間が名を呼んでも呼ばなくても。祈っても祈らなくても、星はあそこにある。
匙はパンを噛みながら、さっきまで人の声が満ちていた屋上を見た。
今はもう静かだった。
星は同じ星なのに、少し違って見えた。
******
帰る前、老人がまた匙のところへ来た。
「旅の子よ」
「はい」
「星の名を一つは覚えたか」
匙は、サーリフに教わった名を口にした。
まだ少し発音が下手だった。
老人は厳しい顔のまま言った。
「下手だ」
「知ってる」
「だが、軽く呼んではいないな」
「うん」
老人は空を指した。
「その名を道で落とすな」
匙は眉を寄せた。
「名は落ちる?」
「口が軽ければ落ちる」
匙は少し考えた。
「重く持てばよい?」
「それも疲れる」
匙は頷いた。
かなりよい、と思った。
「では、少し持つ」
老人は、かすかに笑った。
「それがよい」
サーリフは階段のところで待っていた。
「また来るか」
匙は答えられなかった。
「なら、星を見たら少し思い出せ」
「サーリフを?」
「私でもいいし、パンでもいい」
「それならパン」
「パンの方が覚えやすい」
「確かに」
匙は少し笑った。
「星から来ていない旅の子」
「サーリフ」
「何」
「遠いものに名前があると、少し友だちのふりができる、はよかった」
サーリフは少し照れた顔をした。
「ふりだぞ」
「うん。ふり」
「本気にしすぎると、あの年寄りみたいになる」
「サーリフは年寄りになりたくない?」
「まだ」
「それはよい」
二人は別れた。
******
星船の床は白く、空はなかった。
星船は星を出せる。出そうと思えば、壁いっぱいに出せる。拡大もできる。軌道も、色も、距離も表示できる。
でも、それはあの冷たい屋上とは違う。
床が冷えて足が痛くなることもない。香の匂いもない。
笑いをこらえるサーリフの肩もない。老人の「下手だ」もない。
冷えたパンもない。
顔なしが、いつもの無機質な声で言った。
「星名照合を実行可能」
匙はすぐ言った。
「しない」
「当該名称の後世対応、天体分類」
「しない」
「理由」
「今日の星は、照合しない」
顔なしは沈黙した。
「記録名」
匙は考えた。
「八世紀ハッラーン、星を大事にする人々を見た」
「補足事項はあるか」
「星は、知っている者にも遠い」
顔なしが少し長く黙った。
「その文は、科学的には」
「黙れ」
「はい」
匙は床に座ってノートを開き、英語で書いた。
Harran. Night roof.
(ハッラーン。夜の屋上)
People call stars. Pray? Measure? Both?
(人々は星を呼ぶ。祈ってる? 測ってる? 両方?)
Ship-star too near. Harran-star far. Good.
(星船の星は近すぎ。ハッラーンの星は遠い。よい)
Old man: Do not make knowing face. Stars are far even for those who know.
(年寄りは、知ってる顔をするなと言った。星は知っていても遠い)
Salih: If far thing has name, can pretend friend a little.
(サーリフは、遠いものも名前を持つと、少し友達のふりができると言った)
Not too light. Not too heavy. Carry one star-name a little.
(正しすぎない。重すぎない。星の名前のひとつを少し持つ)
Cold bread after star. Important.
(星のあとの冷たいパン。大事)
日本語ではまだうまく書けなかったので、別の言葉で小さく書いた。
Star is not food. But after star, bread is good.
(星は食べ物ではない。でも、星のあとのパンはよい)
匙はペンを置いた。
それからしばらく、顔なしが星の説明を始めようとするたびに、匙は嫌な顔をして言った。
「知っている顔をするな」




