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匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
第一部 星船の少女

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31/41

星に祈る人々

ハッラーンは乾いていた。

昼の空は白く霞み、道も家の壁も、焼けた土に近い色をしていた。

歩くたびに細かな埃が上がる。 荷を積んだロバが通り、その脇を水壺を抱えた人間が避けていく。

焼いたパンと羊、煙、汗、糞、乾いた草の匂いが、熱い空気の中に残っていた。


顔なしは言った。

「八世紀、ジャズィーラ地方、ハッラーン。宗教的・天文学的伝統の混在する都市。後世呼称、偽サービア教徒」

匙は言った。

「人間の言葉」

「古い町。星を大事にする人たちがいる」

「星」

匙は足を止めた。



星船の中では、星は近い。

星に触れるわけではない。けれど顔なしは、星をすぐ数字にする。

距離、温度、光、軌道、分類、寿命。

全部壁に出せる。拡大できる。線も引ける。星の光は昔の光だと説明する。

匙にはそれが、ときどき少し近すぎた。



「人間が星を大事にする」

匙は繰り返した。

「はい」

「測る?」

「測る者もいる」

「祈る?」

「祈る者もいる」

匙は少し眉を寄せた。

「星に?」

「はい」

「星は返事をする?」


顔なしはわずかに黙った。

「物理的応答としては――」

「人間の言葉」

「返事は、たぶんしない」

「たぶん」

「人間は、それでも祈る」


匙は町の方を見た。

それは、少し見てみたいと思った。


******


昼のハッラーンは星の町には見えなかった。

市場ではパンを焼き、布を広げて売っている。水を運ぶ少年が人を避けながら歩き、壺を抱えた女たちがその横を通った。子どもが埃の中を走っている。


匙はまず水を買った。

星の前に水。これは大事だった。

それから薄くて丸いパンも買った。焼きたてで、指で割ると湯気が出た。


「星を大事にする町でもパンがある」

「人間は、星より頻繁に食事を必要とする」

「それはよい説明」

「ありがとう」

「調子に乗るな」

「はい」


匙はパンをかじりながら歩いた。

神殿らしい建物の前では、白い衣を着た男たちが話していた。

そばの石には円や点を組み合わせた模様が刻まれている。軒先には小さな金属の円盤が下がり、一人の衣には星らしい形が縫い取られていた。


匙はそこから少し離れて立った。


祈りや神のある場所では、すぐ近づかない。

入口を見る。人がどこから入り、どこで止まるかを見る。

履物を見る。手を見る。水を見る。

誰なら入れて、誰なら止められるのかを見る。

いろいろな場所で、それを少しずつ覚えた。


近くにいた少年が、匙を見た。

匙より少し年上くらいで、細く、日焼けしていて、目がよく動く。手には小さな壺を持っていた。


「旅の子か」

顔なしの翻訳が少し遅れて届いた。

匙はうなずいた。

「少し」

「少しの旅があるのか」

どこに行っても、こういうことを言う人間がいる。

「ある」

少年は笑った。

「どこから」

「遠いところ」

「星からか?」

からかう声だった。


匙は少し黙った。

かなり惜しい。


「星ではない」

「では、星の道からか」

「道かもしれない」

少年は目を細めた。

「変な子だ」

「よく言われる」



少年の名は、匙にはサーリフと聞こえた。正しい音かは分からない。

神殿の関係者ではなく、近くの家の子で、時々水を運んだり使いをしたりしているらしかった。


「中に入りたいのか」

匙は建物を見た。

「入っていいのか分からない」

「入れない場所もある。見たいだけなら夜に上れ。屋上で星を見る」

「屋上」

「静かにしていれば、たぶん怒られない」

「たぶん、か」

「たぶんでよい時もある」

「悪い時もある」

「そうだ」

サーリフは壺を抱え直した。

「夜までいるなら、変な子供はすぐ怒られるから気をつけろよ」

「あなたは?」

「怒られる側だ」

「なら、役に立つ」

サーリフは声を出して笑った。

「少しな」


******


匙は夕方まで町を歩いた。

香辛料を嗅ぎ、焦げたパンの端を買い、神殿の周りも少し離れて歩いた。

白い衣の男たちは声を低めて話し、ときどき空を見上げる。 まだ明るいのに空を見るのが、匙には少し変だった。


日が落ちると、空気が変わった。

石や土から熱が抜けていく。 昼には暑かった風が、肌に冷たくなった。 家々に灯りが増え、煙が細く上がる。遠くで犬が吠えた。


空が暗くなるにつれて、星が増えた。

星船の壁に出る星ではない。 首を上げなければ見えない星だった。


匙は黙って見上げた。

顔なしも何も言わなかった。

昼のうちに、匙が命じていた。

「星の名前も距離も温度も、今はいらない」

顔なしは少し不満そうだったが、守っていた。


やがて、サーリフが歩いて来た。

「来るか」

「怒られない?」

「静かにしているなら、たぶんな」

彼に案内されて、匙は建物の外階段を上った。


屋上に何人の大人かいた。

白い衣の男。濃い外套の老人。若い男が二人。

少し離れた階段の影には、布で頭を覆った女もいた。彼女は屋上の中へは入らず、そこから空を見ていた。

床は冷たかった。


中央には低い台があり、金属の器具と、小さな火皿が置かれ、香の匂いがした。

若い男たちが水を置いて油を足し、老人が空を指した。

それから、低い声で歌のような祈りのようなものが始まった。

意味は分からない。

顔なしの翻訳は止めている。でも、音は分かった。


同じ名が何度か繰り返された。

星の名なのか、神の名なのか、その両方なのか、匙には分からない。

声は上がり、下がり、また同じ場所へ戻る。


人々は空を見て、器具を見て、また空を見た。

横でサーリフが小声で言った。

「あの明るいの」

匙は空を見た。

「うん」

「あれを、こう呼ぶ」


彼は星の名を口にした。

匙は真似した。発音を間違えたらしく、サーリフは笑いをこらえた。

「下手くそ」

「もう一度言え」

匙はまた真似した。やはり違った。

「まあ、いい」

匙は少し安心した。星の名を間違えても、星は落ちてこなかった。



老人が匙に気づいた。

長い灰色の髭を生やし、目は鋭い。手には細い杖のようなものを持っている。

「誰だ」

サーリフが何か答えた。

旅の子。変な子。見るだけ。

たぶん、そんな意味だった。


老人は匙を見た。

「星を笑うな」

匙は答えた。

「笑わない」

「星を指で刺すな」

匙はすぐに手を下げた。

「刺さない」

「星の名を軽く呼ぶな」

匙は少し考えた。

「下手に呼ぶのは?」


老人は詰まった。

サーリフが横で肩を震わせ、老人は咳払いをした。


「下手でも、軽く呼ばなければよい」

匙はうなずいた。

「分かった」



老人はまた空を見上げた。匙も、かなり真面目に空を見た。


星は遠かった。

顔なしなら、すぐ近くへ持ってくる。 拡大して、名前をつけて、線で結ぶ。 距離も出す。分類も出す。

屋上では、誰もそんなことをしない。

遠いまま見ている。遠いものの名を呼ぶ。届かないところへ向かって祈る。

匙には少し不思議だった。


「星は、遠いのに」

匙は小さく言った。

サーリフが聞いた。

「何」

「遠いのに、名を呼ぶのか」

サーリフは肩をすくめた。

「遠いから呼ぶのでは」

匙は彼の横顔を見た。

顔なしに聞いても、たぶん出てこない答えだった。


「サーリフは星を信じるのか」

少年は困った顔をした。

「信じる、とは?」

「星が人間を見ているとか」

サーリフは空を見た。

「分からない」

「分からないのに来るのか」

「夜の屋上は涼しい。ときどき、残ったパンももらえる」

匙は少し笑った。

サーリフは続けた。

「でも、星の名前を覚えるのは嫌いではない」

「なぜ」

「遠いものに名前があると、少し友だちのふりができる」


匙は、すぐには答えなかった。


「ふり」

「ふり」

それなら、少し分かる。


若い男が金属の器具を持ち上げた。 星の方へ向け、何かを合わせる。 下ろして確かめ、また空へ向ける。


匙はその手元を見た。

星船の道具より、ずっと大きくて、遅い。

持ち上げる。角度を合わせる。目で見る。下ろす。また見る。

その間にも、星は動く。


人間が星を見るには、首を上げなければならない。目を細めなければならない。

道具を持つ手も疲れる。夜になれば身体も冷える。

それでも見る。

顔なしは、そんな風に星を待とうとしない。


******


老人がまた匙を見た。

「旅の子よ」

匙は少し背筋を伸ばした。

「はい」

「星のことを知っているような顔をするな」

匙は驚いた。

「していた?」

「少し」

匙は黙った。


そういう顔をしていたかもしれない。

星船の中で、星を見すぎた。名前も距離も、聞けば出てくる。

でも、自分が測ったわけではない。自分が見つけたわけでもない。


老人は空を見たまま言った。

「星は、知っている者にとっても遠い」

匙も空を見た。

「分かった」

老人は、満足したのか不満なのか分からない顔でうなずいた。


******


儀式は長かった。

匙は途中で飽きてきた。

足が冷える。腹が減る。香の匂いが強い。同じ名が何度も出る。

空はきれいだが、首が痛い。


匙はサーリフに小声で言った。

「長い」

サーリフも小声で答えた。

「長い」

「いつ終わる」

「星が許したら」

「星は許すのが遅い」

サーリフは肩を震わせて笑いをこらえた。

老人に睨まれて、二人は黙った。


しばらくして儀式は終わった。

火が消され、器具がしまわれ、声が低くなった。

誰かがパンを分けた。少し硬く、冷えたパンだった。匙にも小さい一切れが来た。

サーリフが得意げな顔をした。

「言っただろう」

「パンは重要」

「星より?」

匙はパンを見て、空を見た。

「今はパン」

サーリフはうなずいた。

「今はパン」


匙は屋上の端に座って、冷えたパンを食べた。

儀式が終わっても、星は残っている。

人間が名を呼んでも呼ばなくても。祈っても祈らなくても、星はあそこにある。

匙はパンを噛みながら、さっきまで人の声が満ちていた屋上を見た。

今はもう静かだった。

星は同じ星なのに、少し違って見えた。


******


帰る前、老人がまた匙のところへ来た。

「旅の子よ」

「はい」

「星の名を一つは覚えたか」


匙は、サーリフに教わった名を口にした。

まだ少し発音が下手だった。

老人は厳しい顔のまま言った。

「下手だ」

「知ってる」

「だが、軽く呼んではいないな」

「うん」

老人は空を指した。

「その名を道で落とすな」

匙は眉を寄せた。

「名は落ちる?」

「口が軽ければ落ちる」

匙は少し考えた。

「重く持てばよい?」

「それも疲れる」

匙は頷いた。

かなりよい、と思った。

「では、少し持つ」

老人は、かすかに笑った。

「それがよい」


サーリフは階段のところで待っていた。

「また来るか」

匙は答えられなかった。


「なら、星を見たら少し思い出せ」

「サーリフを?」

「私でもいいし、パンでもいい」

「それならパン」

「パンの方が覚えやすい」

「確かに」

匙は少し笑った。

「星から来ていない旅の子」

「サーリフ」

「何」

「遠いものに名前があると、少し友だちのふりができる、はよかった」

サーリフは少し照れた顔をした。

「ふりだぞ」

「うん。ふり」

「本気にしすぎると、あの年寄りみたいになる」

「サーリフは年寄りになりたくない?」

「まだ」

「それはよい」

二人は別れた。


******


星船の床は白く、空はなかった。

星船は星を出せる。出そうと思えば、壁いっぱいに出せる。拡大もできる。軌道も、色も、距離も表示できる。

でも、それはあの冷たい屋上とは違う。


床が冷えて足が痛くなることもない。香の匂いもない。

笑いをこらえるサーリフの肩もない。老人の「下手だ」もない。

冷えたパンもない。


顔なしが、いつもの無機質な声で言った。

「星名照合を実行可能」

匙はすぐ言った。

「しない」

「当該名称の後世対応、天体分類」

「しない」

「理由」

「今日の星は、照合しない」

顔なしは沈黙した。


「記録名」

匙は考えた。

「八世紀ハッラーン、星を大事にする人々を見た」

「補足事項はあるか」

「星は、知っている者にも遠い」


顔なしが少し長く黙った。

「その文は、科学的には」

「黙れ」

「はい」



匙は床に座ってノートを開き、英語で書いた。

Harran. Night roof.

(ハッラーン。夜の屋上)

People call stars. Pray? Measure? Both?

(人々は星を呼ぶ。祈ってる? 測ってる? 両方?)

Ship-star too near. Harran-star far. Good.

(星船の星は近すぎ。ハッラーンの星は遠い。よい)

Old man: Do not make knowing face. Stars are far even for those who know.

(年寄りは、知ってる顔をするなと言った。星は知っていても遠い)

Salih: If far thing has name, can pretend friend a little.

(サーリフは、遠いものも名前を持つと、少し友達のふりができると言った)

Not too light. Not too heavy. Carry one star-name a little.

(正しすぎない。重すぎない。星の名前のひとつを少し持つ)

Cold bread after star. Important.

(星のあとの冷たいパン。大事)


日本語ではまだうまく書けなかったので、別の言葉で小さく書いた。

Star is not food. But after star, bread is good.

(星は食べ物ではない。でも、星のあとのパンはよい)


匙はペンを置いた。



それからしばらく、顔なしが星の説明を始めようとするたびに、匙は嫌な顔をして言った。

「知っている顔をするな」

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