↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
第一部 星船の少女

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

30/41

白樺の絵

最近、匙は、文字や記録の素材に少し興味を持ち始めていた。


星船には灰色の板と、黒い線が出る棒がある。

壁に表示があり、保存もできる。消せる。戻せる。複製できる。

つまり、便利すぎる。


星船の外へ出ると、字はもっと面倒だった。

粘土に押しつける。石を削る。羊皮紙に書く。陶器の欠片に残す。

紙のない土地もある。書くものも書かれるものも、時代と場所によって違う。


その中で、匙が引っかかったものがあった。


白樺の皮。


「木の皮に手紙?」

「はい」

「紙がないから?」

「紙・羊皮紙等とは異なる素材利用。地域環境と実用性が関係」

「木の皮が紙になる」

「近似的には」

「行く」


顔なしは警告した。


――寒冷環境。言語リスク。都市社会。宗教・商業・身分差。未成年単独行動への注意。


「木の皮を見る」

「木の皮を見るだけで済まない可能性」

「少しだけ」

「またか」

「うん」


******


十二世紀のルーシ北部。

ノブゴロドの街は、匙が想像していたより湿っていた。


寒い。

寒いだけではなく、水の気配がある。


足を下ろすと泥に沈んだ。

雨のあとらしく、道はぬかるんでいた。板を渡したところもあるが、その脇には黒い水が溜まっている。

川に船がつき、市場の方から魚と煙の匂いが来る。鐘が鳴ると、毛皮を抱えた男が匙の横を急いで通った。


匙は周囲を見渡した。

家も、柵も、足元の板も木だった。


「この町は燃えそう」

顔なしが答えた。

「木造建築が多く、火災リスクは高い」

「やはり」

「火に近づきすぎるな」

「火は噛む」


言葉はかなり難しかった。

古い東スラヴ語系の音。匙には耳で掴める部分もあるが、二十一世紀の英語や六世紀の俗ラテン語からはかなり遠い。顔なしの補助は働いていたが、完全ではない。


――翻訳精度、中程度以下。 固有名詞、商取引語、教会関連語、方言差に注意。


「長い」

「よく分からない時は、頷くな」

「大事」


これは匙も覚え始めていた。 分からないのに頷くと、ろくなことにならない。

とはいえ、十二歳の匙はまだそれを完全には守れなかった。


******


白樺の皮を見つけたのは、市場から少し離れたところだった。

大人たちの仕事場の脇に、木材や道具を置く場所があった。切った木、布、革、使いかけの木片。その隙間に子どもたちが集まっている。

匙より少し幼く見える男の子が一人、白樺の皮を膝の上に置いていた。

尖った道具を押しつけ、線を引く。

匙はそれを見て足を止めた。


文字らしきものがある。

その横には人がいた。馬もいた。剣を持った人間もいる。船か橇か分からないものもある。

馬の脚は、数が怪しい。


匙が近づくと子どもが顔を上げ、目が合った。

「オトン」

その子は自分の胸を指した。

「オトン」

匙は繰り返した。

オトンは白樺の皮を匙の方へ突き出した。見ろ、という顔だった。

匙はしばらく見た。

「よい」

言葉は通じていないが、顔で通じたらしい。


オトンはまた何か描いた。今度は人が馬らしきものに乗っていた。

匙は馬の脚を指で数えようとした。

ぱし、と手を叩かれた。

匙はすぐ手を引いた。

「ごめん」

オトンはそれで満足したらしく、また描き始めた。


白樺の皮は、紙とは違っていた。

紙なら、墨や炭を上に置く。

これは違う。

尖ったものを押しつけ、表面を引っかいて跡を残す。

線そのものに色がつくわけではない。だが、皮の表面に刻まれた溝が、光の向きで見える。


匙はしゃがみこんだ。

「顔なし」

「はい」

「これは、木の記憶か」

「樹皮表面への刻線記録」

「木の記憶でよい」

「比喩として可」


オトンが匙に、尖った道具と別の白樺の皮の切れ端を渡した。

匙は道具を見て、皮を見て、オトンを見た。

描け、ということらしい。


匙は少し緊張した。

これは星船の表示ではない。失敗しても、元に戻せない。

尖った道具を慎重に皮に当てる。

皮の上に線を置くのではない。皮の表面を押して、引っかいて跡を残す。


「傷を描くのか」

「刻線です」

「違う。傷を描く」


最初の一本は曲がった。

オトンが笑った。

匙はむっとした。


「初めてだ」


伝わらない。オトンは遠慮なく笑っている。


匙はもう一本引いた。

今度は力を入れすぎて、道具の先が皮の繊維に引っかかった。

また笑われた。

「うるさい」


馬は難しい。人も難しい。文字はもっと難しい。

匙は少し考えた。

それから、自分の名前を描いた。


小さな柄。丸い先。

匙。


単純な絵だった。

オトンは見た瞬間に笑った。

周りにいた子どもたちも寄ってきた。


「匙」


匙は自分を指してから、絵を指した。


誰かが発音を真似した。

「サジ?」


別の子が、匙の絵と、近くにあった食事に使う道具を交互に指して何か言った。

顔なしが薄く補助した。

「食べる道具、あるいは、すくうものを指している可能性」

「そう。私」

それはたぶん通じなかった。


オトンが匙の描いた匙の横に、何かを描き始めた。


丸。

口らしい。


さらに手を描いた。手が匙を持って、その口へ突っ込んでいる。


子どもたちが笑った。

匙は眉を寄せた。

「それは私を食べてる」

誰も分からない。


「食べるな」

さらに笑われた。


少し腹が立った。

でも、自分の描いた線の続きに、他人の線が増えていくのは悪くなかった。


******


その後、子どもたちは次々に絵を足した。

匙が魚を描けば、誰かが魚に人間を食わせた。人間を描けば、その手に匙を持たされた。

馬。犬。船。誰かを殴る人。教会らしき建物。長い鼻の怪物。

匙で魚をすくおうとしている人。魚に食べられる人。

何が通じているのかは分からない。

でも、次に何を足せば面白いかだけは、だいたい通じた。

匙はそれに気づいて、しばらく絵を見た。


「絵は、言葉より雑に通る」

顔なしが答えた。

「視覚表現は言語差を部分的に越えるが、解釈差も――」

「長い。雑に通る」

「はい」


いつの間にか白樺の皮の切れ端が増えていた。

子どもたちは新しいものを使い、描き損じたものを脇へ置き、また別のものを引き寄せる。匙には惜しげもなく使っているように見えた。


しばらくすると、大人の男が来た。

声が飛び、子どもが二人逃げた。一人は皮を置いたまま走った。

オトンは逃げなかった。

男は散らばった白樺の皮を指して何か言った。


顔なしの訳は曖昧だった。

――無駄にするな。また落書きしている。仕事をしろ。


そのあたりらしい。


男は白樺の皮を何枚か拾い上げて、文字や絵を眺めた。

匙。口。魚。魚に食われる人間。

男の口元が一度だけ崩れた。


男はすぐ顔を戻し、オトンの頭を軽く叩いた。何か言って、散らかったものを指す。

それから仕事場の方へ戻っていった。

オトンは男の背中が見えなくなるまで待って、また描き始めた。

匙も描いた。


******


しばらくして、オトンが別の白樺の皮を匙に渡した。

今度は、さっきよりきれいなものだった。

「私に?」

オトンは自分の胸を叩き、匙を指し、白樺の皮を指した。


匙は少し考えた。

何を描くか。

今度は顔を描くことにした。


顔なしの顔。

ただし、顔なしには顔がない。


匙は丸を描いた。

中は空白にした。


オトンが覗きこんで首をかしげた。


空白の丸を指す。

匙を見る。

それから尖った道具を持ち、目を描こうとした。


匙は慌ててオトンの手を押さえた。


「ない」


オトンが眉を寄せた。


「ない」


匙は空白を指した。

それから耳のあたりを指して、何か聞く仕草をした。


顔はない。でも声は聞こえる。


伝わらない。


匙は丸の横に線を何本か引いた。声のつもりだった。

オトンはますます分からない顔をして、しばらく空白の丸を見た。

そして、その両側に大きな耳を描いた。


子どもたちが笑った。

匙も笑った。


「顔なし」

「何か」

「似た」

「本船に顔はない」

「耳が大きい」

「耳もない」

「うるさい」


オトンはさらに、その空白の顔の横に匙を描いた。

顔のない丸。大きな耳。その横に匙。

匙はかなり気に入った。


******


帰る時、オトンはその白樺の皮を匙に押しつけた。

軽くて薄い。曲げれば簡単に折れそうだった。


「現地有機物の持ち帰りは非推奨」

「小さい」

「大きさは関係ない」

「私も描いた」

「それも関係ない」

「オトンも描いた」

「さらに持ち帰るべきではない理由になる」

「うるさい」


匙は皮を裏返した。

顔なしの大きな耳が見える。自分の匙もある。

オトンはもう別の切れ端を拾っていた。


匙は白樺の皮を握ったまま、少し立っていた。


「……持って帰れない」


オトンが顔を上げた。

匙は皮を差し出したが、オトンは受け取らなかった。

匙がもう一度押し出すと、オトンも押し返した。


「困る」


伝わらない。

しばらく考えてから、オトンの尖った道具を借りた。


白樺の皮の隅に、小さな点を一つ刻む。

匙は自分の胸を指してから、その点を指した。


「いた」


オトンは点を見た。

匙を見る。

もう一度、点を見る。


意味が通じたかどうかは分からなかった。

それでもやがて、オトンは皮を取って、ほかの白樺の皮と一緒にしまった。

匙はそれを見てから立ち上がった。


オトンが何か言ったが、翻訳は間に合わなかった。

匙は片手を振ってオトンと別れた。


******


星船に戻ったあと、匙はノートを開いて英語で書いた。

Novgorod. Birch bark.

(ノヴゴロド。白樺の皮)

Drew spoon. Children laughed. Then drew mouth eating spoon. Very rude. Good.

(匙を描いた。子どもたちが笑った。匙を食べている口を描いた。ひどい。よい)

Drew no-face. Oton added ears. Correct.

(顔なしを描いた。オトンが耳を足した。正しい)

Could not take bark. Made dot.

(皮は持ち帰れない。点を打った)

I was there dot.

(私がいた点)


匙は最後の一行をしばらく見て、その下に一つ点を打った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。