白樺の絵
最近、匙は、文字や記録の素材に少し興味を持ち始めていた。
星船には灰色の板と、黒い線が出る棒がある。
壁に表示があり、保存もできる。消せる。戻せる。複製できる。
つまり、便利すぎる。
星船の外へ出ると、字はもっと面倒だった。
粘土に押しつける。石を削る。羊皮紙に書く。陶器の欠片に残す。
紙のない土地もある。書くものも書かれるものも、時代と場所によって違う。
その中で、匙が引っかかったものがあった。
白樺の皮。
「木の皮に手紙?」
「はい」
「紙がないから?」
「紙・羊皮紙等とは異なる素材利用。地域環境と実用性が関係」
「木の皮が紙になる」
「近似的には」
「行く」
顔なしは警告した。
――寒冷環境。言語リスク。都市社会。宗教・商業・身分差。未成年単独行動への注意。
「木の皮を見る」
「木の皮を見るだけで済まない可能性」
「少しだけ」
「またか」
「うん」
******
十二世紀のルーシ北部。
ノブゴロドの街は、匙が想像していたより湿っていた。
寒い。
寒いだけではなく、水の気配がある。
足を下ろすと泥に沈んだ。
雨のあとらしく、道はぬかるんでいた。板を渡したところもあるが、その脇には黒い水が溜まっている。
川に船がつき、市場の方から魚と煙の匂いが来る。鐘が鳴ると、毛皮を抱えた男が匙の横を急いで通った。
匙は周囲を見渡した。
家も、柵も、足元の板も木だった。
「この町は燃えそう」
顔なしが答えた。
「木造建築が多く、火災リスクは高い」
「やはり」
「火に近づきすぎるな」
「火は噛む」
言葉はかなり難しかった。
古い東スラヴ語系の音。匙には耳で掴める部分もあるが、二十一世紀の英語や六世紀の俗ラテン語からはかなり遠い。顔なしの補助は働いていたが、完全ではない。
――翻訳精度、中程度以下。 固有名詞、商取引語、教会関連語、方言差に注意。
「長い」
「よく分からない時は、頷くな」
「大事」
これは匙も覚え始めていた。 分からないのに頷くと、ろくなことにならない。
とはいえ、十二歳の匙はまだそれを完全には守れなかった。
******
白樺の皮を見つけたのは、市場から少し離れたところだった。
大人たちの仕事場の脇に、木材や道具を置く場所があった。切った木、布、革、使いかけの木片。その隙間に子どもたちが集まっている。
匙より少し幼く見える男の子が一人、白樺の皮を膝の上に置いていた。
尖った道具を押しつけ、線を引く。
匙はそれを見て足を止めた。
文字らしきものがある。
その横には人がいた。馬もいた。剣を持った人間もいる。船か橇か分からないものもある。
馬の脚は、数が怪しい。
匙が近づくと子どもが顔を上げ、目が合った。
「オトン」
その子は自分の胸を指した。
「オトン」
匙は繰り返した。
オトンは白樺の皮を匙の方へ突き出した。見ろ、という顔だった。
匙はしばらく見た。
「よい」
言葉は通じていないが、顔で通じたらしい。
オトンはまた何か描いた。今度は人が馬らしきものに乗っていた。
匙は馬の脚を指で数えようとした。
ぱし、と手を叩かれた。
匙はすぐ手を引いた。
「ごめん」
オトンはそれで満足したらしく、また描き始めた。
白樺の皮は、紙とは違っていた。
紙なら、墨や炭を上に置く。
これは違う。
尖ったものを押しつけ、表面を引っかいて跡を残す。
線そのものに色がつくわけではない。だが、皮の表面に刻まれた溝が、光の向きで見える。
匙はしゃがみこんだ。
「顔なし」
「はい」
「これは、木の記憶か」
「樹皮表面への刻線記録」
「木の記憶でよい」
「比喩として可」
オトンが匙に、尖った道具と別の白樺の皮の切れ端を渡した。
匙は道具を見て、皮を見て、オトンを見た。
描け、ということらしい。
匙は少し緊張した。
これは星船の表示ではない。失敗しても、元に戻せない。
尖った道具を慎重に皮に当てる。
皮の上に線を置くのではない。皮の表面を押して、引っかいて跡を残す。
「傷を描くのか」
「刻線です」
「違う。傷を描く」
最初の一本は曲がった。
オトンが笑った。
匙はむっとした。
「初めてだ」
伝わらない。オトンは遠慮なく笑っている。
匙はもう一本引いた。
今度は力を入れすぎて、道具の先が皮の繊維に引っかかった。
また笑われた。
「うるさい」
馬は難しい。人も難しい。文字はもっと難しい。
匙は少し考えた。
それから、自分の名前を描いた。
小さな柄。丸い先。
匙。
単純な絵だった。
オトンは見た瞬間に笑った。
周りにいた子どもたちも寄ってきた。
「匙」
匙は自分を指してから、絵を指した。
誰かが発音を真似した。
「サジ?」
別の子が、匙の絵と、近くにあった食事に使う道具を交互に指して何か言った。
顔なしが薄く補助した。
「食べる道具、あるいは、すくうものを指している可能性」
「そう。私」
それはたぶん通じなかった。
オトンが匙の描いた匙の横に、何かを描き始めた。
丸。
口らしい。
さらに手を描いた。手が匙を持って、その口へ突っ込んでいる。
子どもたちが笑った。
匙は眉を寄せた。
「それは私を食べてる」
誰も分からない。
「食べるな」
さらに笑われた。
少し腹が立った。
でも、自分の描いた線の続きに、他人の線が増えていくのは悪くなかった。
******
その後、子どもたちは次々に絵を足した。
匙が魚を描けば、誰かが魚に人間を食わせた。人間を描けば、その手に匙を持たされた。
馬。犬。船。誰かを殴る人。教会らしき建物。長い鼻の怪物。
匙で魚をすくおうとしている人。魚に食べられる人。
何が通じているのかは分からない。
でも、次に何を足せば面白いかだけは、だいたい通じた。
匙はそれに気づいて、しばらく絵を見た。
「絵は、言葉より雑に通る」
顔なしが答えた。
「視覚表現は言語差を部分的に越えるが、解釈差も――」
「長い。雑に通る」
「はい」
いつの間にか白樺の皮の切れ端が増えていた。
子どもたちは新しいものを使い、描き損じたものを脇へ置き、また別のものを引き寄せる。匙には惜しげもなく使っているように見えた。
しばらくすると、大人の男が来た。
声が飛び、子どもが二人逃げた。一人は皮を置いたまま走った。
オトンは逃げなかった。
男は散らばった白樺の皮を指して何か言った。
顔なしの訳は曖昧だった。
――無駄にするな。また落書きしている。仕事をしろ。
そのあたりらしい。
男は白樺の皮を何枚か拾い上げて、文字や絵を眺めた。
匙。口。魚。魚に食われる人間。
男の口元が一度だけ崩れた。
男はすぐ顔を戻し、オトンの頭を軽く叩いた。何か言って、散らかったものを指す。
それから仕事場の方へ戻っていった。
オトンは男の背中が見えなくなるまで待って、また描き始めた。
匙も描いた。
******
しばらくして、オトンが別の白樺の皮を匙に渡した。
今度は、さっきよりきれいなものだった。
「私に?」
オトンは自分の胸を叩き、匙を指し、白樺の皮を指した。
匙は少し考えた。
何を描くか。
今度は顔を描くことにした。
顔なしの顔。
ただし、顔なしには顔がない。
匙は丸を描いた。
中は空白にした。
オトンが覗きこんで首をかしげた。
空白の丸を指す。
匙を見る。
それから尖った道具を持ち、目を描こうとした。
匙は慌ててオトンの手を押さえた。
「ない」
オトンが眉を寄せた。
「ない」
匙は空白を指した。
それから耳のあたりを指して、何か聞く仕草をした。
顔はない。でも声は聞こえる。
伝わらない。
匙は丸の横に線を何本か引いた。声のつもりだった。
オトンはますます分からない顔をして、しばらく空白の丸を見た。
そして、その両側に大きな耳を描いた。
子どもたちが笑った。
匙も笑った。
「顔なし」
「何か」
「似た」
「本船に顔はない」
「耳が大きい」
「耳もない」
「うるさい」
オトンはさらに、その空白の顔の横に匙を描いた。
顔のない丸。大きな耳。その横に匙。
匙はかなり気に入った。
******
帰る時、オトンはその白樺の皮を匙に押しつけた。
軽くて薄い。曲げれば簡単に折れそうだった。
「現地有機物の持ち帰りは非推奨」
「小さい」
「大きさは関係ない」
「私も描いた」
「それも関係ない」
「オトンも描いた」
「さらに持ち帰るべきではない理由になる」
「うるさい」
匙は皮を裏返した。
顔なしの大きな耳が見える。自分の匙もある。
オトンはもう別の切れ端を拾っていた。
匙は白樺の皮を握ったまま、少し立っていた。
「……持って帰れない」
オトンが顔を上げた。
匙は皮を差し出したが、オトンは受け取らなかった。
匙がもう一度押し出すと、オトンも押し返した。
「困る」
伝わらない。
しばらく考えてから、オトンの尖った道具を借りた。
白樺の皮の隅に、小さな点を一つ刻む。
匙は自分の胸を指してから、その点を指した。
「いた」
オトンは点を見た。
匙を見る。
もう一度、点を見る。
意味が通じたかどうかは分からなかった。
それでもやがて、オトンは皮を取って、ほかの白樺の皮と一緒にしまった。
匙はそれを見てから立ち上がった。
オトンが何か言ったが、翻訳は間に合わなかった。
匙は片手を振ってオトンと別れた。
******
星船に戻ったあと、匙はノートを開いて英語で書いた。
Novgorod. Birch bark.
(ノヴゴロド。白樺の皮)
Drew spoon. Children laughed. Then drew mouth eating spoon. Very rude. Good.
(匙を描いた。子どもたちが笑った。匙を食べている口を描いた。ひどい。よい)
Drew no-face. Oton added ears. Correct.
(顔なしを描いた。オトンが耳を足した。正しい)
Could not take bark. Made dot.
(皮は持ち帰れない。点を打った)
I was there dot.
(私がいた点)
匙は最後の一行をしばらく見て、その下に一つ点を打った。




