デリーの王の行列
匙が初めて「王」というものを見たとき、彼女は十二歳になっていた。
たぶん。
その日、デリーは暑かった。
暑いというだけでは足りない。空気が身体にまとわりついてくる。
乾いた土埃の上を、人と獣が行き交っていた。汗と糞と革の匂いに、油と香辛料、何かを焼く匂いが混じる。
鉄を打つ音の向こうから祈りの声が聞こえ、その上を怒鳴り声と値切る声が行き来していた。
匙は道の端で水袋を抱えていた。水袋は自分のものではない。持たされていた。
飲むためではなく運ぶためだった。
これは大事なことだった。
水は目の前にある。でも自分のものではない。
「顔なし」
耳の奥で、星船が返事をした。
「はい」
「この町は、喉が多い」
「人口密度が高く、気温も高いため――」
「説明ではない」
「はい」
「喉が多い町」
「はい」
デリーは喉が多い町だった。
水を売る者がいる。運ぶ者がいる。
井戸の前では人が順番を待ち、水をこぼした子どもが怒鳴られている。
器を差し出して水を求める者の横を、見向きもせずに通り過ぎる者もいる。
匙は、水袋の紐を肩に食い込ませながら歩いていた。
すでにいろいろな場所へ行っていた。
オーストラリアの学校にも潜った。アレクサンドリアにもロンドンにも南の島にも行った。ほかにもいろいろな時代のいろいろな市場や港を歩いた。
そして今日は十四世紀初頭のインドのデリーで、水売りの仕事の手伝いをしていた。
星船は水を出す。綺麗すぎて少し嘘くさい。
この町の水は嘘ではない。
汚れている。重い。少ない。人が怒る。
だから本物だった。
「今日は王が通る」
水を売る男が言った。
匙は顔を上げた。
「王」
男は、匙の発音を笑った。
「王じゃない。スルターンだ」
星船が耳の奥で補った。
「デリー・スルターン朝の君主。現在の支配者はアラーウッディーン・ハルジー。1296年に即位し、強い軍事・行政支配を敷いた人物」
「偉いのか」
「大きな権力と威信を持つ」
「どのくらい」
「非常に」
「非常には、どのくらい」
星船は少し考えたらしい。
「この都市で、多くの人間の首の角度を変えられる程度」
匙は少し黙った。星船にしては、今の説明は分かりやすかった。
多くの人間の首の角度を変えられる。それは、偉い、というより、危ない。
匙は水売りの男を見上げた。
「スルターンが通ると、何が起きる」
男は水袋を調整しながら言った。
「道が空く。役人が怒鳴る。兵が来る。馬が来る。象も来るかもしれん。見たけりゃ端に寄れ。近づくな。目を合わせるな。邪魔なら叩かれる」
「なぜ通る」
「王だからだ」
「王は道を持っているのか」
男は笑った。
「道どころか、市場も持ってる顔をしてる」
「市場を?」
「値段まで決めるからな、あの方は」
星船がまた補った。
「アラーウッディーンは市場統制で知られ、穀物、布、馬などの価格を管理し、監督官や密偵を置いている。大軍を維持するため、物価を抑えようとする政策である。違反者には厳罰もある」
匙はそれを聞いて、顔をしかめた。
「王が、飯の値段を決めるのか」
「そうだ」
「飯を食べる人が決めるのではなく」
「統治上の価格管理」
「顔なし。今の言い方は、王の味がする」
「修正。王が、飯の値段に手を入れる」
匙は水袋を持ち直した。
「嫌だ」
「価格統制には都市生活者や兵士への供給安定という側面も――」
「嫌だ」
星船は黙った。
匙は市場を見渡した。
穀物を量る秤が動き、布を広げた商人が客と言い合っている。馬の口を開けて歯を見る男がいる。
油、塩、水、野菜。荷を運ぶ手。金を渡す手。
この中へ、ここにいない一人の手が入る。
それが匙には嫌だった。
王が飯の値段を決める。
それで助かる者もいるのかもしれない。
兵は食べる。町も少し静かになるのかもしれない。
だが、値段を決めれば、それを守らせる者が来る。隠す者が出れば探す者が来る。秤をごまかせば、秤を見る者が来る。
飯のそばにまで王が来る。
匙はそれが気に入らなかった。
******
最初に来たのは兵だった。
人の流れが変わった。
市場はうるさい。だが、そのうるささが、急に同じ方向へ押された。
「退け!」
「道を空けろ!」
「荷を下げろ!」
「そこに立つな!」
棒を持った者が先に走り、槍を持った兵が続いた。馬上から怒鳴る者もいる。徒歩の兵の間を、役人らしい男たちが通っていく。
人々が道の端へ寄った。
匙も水袋を抱えて壁際へ寄った。
寄らされたのではなく、自分で寄った。だが、その「自分で」は、ほとんど嘘だった。
寄らなければ叩かれる。踏まれる。水袋を破られる。刃物が来るかもしれない。
自分で寄るしかない。
匙は壁に背中をつけた。
暑い壁だった。水袋が膝に当たり、肩が痛んだ。星船に帰ったら湯の部屋が必要になる。
隣にいた女が、子どもの頭を押さえた。
「見るな」
小声だった。
「見るな、見るな」
子どもは顔を上げようとしたが、女の手がまた頭を押した。
匙はそれを見た。
王が来ると、子どもの頭が下がる。
「顔なし」
「はい」
「王は、人の首を使う」
星船は返事をしなかった。
馬の蹄が近づいた。
そのあとから、獣の重い匂いが来た。
象だった。
匙は象を見たことがある。
だが、デリーの行列の象はセイロンで見た象とは違って見えた。
背に布と飾りを載せ、その上に人を乗せている。大きな身体が、一歩ごとに高い座席を運んでくる。
匙は象より、人間の背中を見た。
みんな少し低い。
深く頭を下げる者もいれば、端へ寄っただけの者もいる。伏せた目を一瞬だけ上げる者もいる。
王はまだ見えない。
だが、道はもう空いている。声も変わっている。
水売りの男は、いつもより強く水袋の口を握っていた。
まだ来ていないのに、もういる。
「顔なし」
「はい」
「まだ王はいない」
「はい」
「でも、みんなもう王を見てる」
星船は何も言わなかった。
******
アラーウッディーン・ハルジーは、思ったほど大きくなかった。
それが、匙には一番腹立たしかった。
もっと大きければよかった。
マンモスのように、恐竜のように、大きくて重いならまだ分かる。だが、目の前の王は、普通の人間だった。
だが、目の前を通る王は普通の人間だった。
浅黒い肌で、濃い髭のある男が馬上にいる。身につけた布や装身具は、周囲の兵とは明らかに違った。
頭上には大きな日除けがあり、その周囲を武器を持った者たちが囲んでいる。
人間一人。
なのに、道が止まる。町が少し息を止める。
匙は、それが嫌だった。
王は黙って前を見ていた。
道の端に押し込まれた匙など見ていない。
誰かが自分のために道を空けることも、兵が怒鳴ることも、馬の前から人間が退くことも、毎日見ているのだろう。
怒っているわけではない。笑っているわけでもない。
ただ馬に乗って通っていく。そのために、周りの人間が動く。
「顔なし」
匙は小さく言った。
「はい」
「あれは、何だ」
「スルターンである」
「でも人間だ」
「そうだ」
「人間なのに、なぜ道が曲がる」
「政治権力、軍事力、宮廷儀礼、強制力――」
「多い」
星船は少し黙った。
「多くの人間が、彼を中心に動くよう強制されている」
匙は王を見た。
アラーウッディーンの視線は、匙の上をかすめもしなかった。
それでも背中が固くなる。
「嫌だ」
思わず声に出た。
隣の女が、ぎょっとして匙を見た。
「黙って」
匙は黙った。
行列は長く続いた。
兵が通り、馬が通り、象が通る。旗が揺れるたびに日が遮られ、金属が光る。蹄と足が土埃を上げる。
やがて王も、その後ろの者たちも見えなくなった。
道には踏まれた泥と、ずらされた荷と、人間の息が残った。
しばらく、誰も動かなかった。
それから、一気に市場が戻った。
「どけ!」
「荷を戻せ!」
「水をくれ!」
「いくらだ!」
「さっきの値段じゃない!」
「監督がいるぞ!」
「嘘つくな!」
「秤を見せろ!」
市場は、また市場になった。
でも匙は、すぐには動けなかった。
水袋が重い。
王はもういない。
なのに、水売りの男が乱れた荷を直している。子どもの頭を押さえていた女が周囲を確かめてから手を離した。
道の端では、誰かが踏まれたものを拾っている。
「顔なし」
「はい」
「王は、去ったあとも残る」
「はい」
「嫌だ」
「はい」
「王は、小さいのに、みんなを重くする」
星船は黙った。
匙はその言葉を、まだうまく持てなかった。
小さいのに、みんなを重くする。十二歳の匙は、まだ水袋を持ち直すだけだった。
水売りの男が戻ってきた。
「おい、小さいの。立ってるだけで金は出んぞ」
匙はむっとした。
「小さいのではない」
男は笑った。
「じゃあ何だ」
「匙」
「変な名だな」
「うるさい」
男は匙の水袋を見た。
「持てるか」
「持てる」
「なら行け。王を見たからって、腹は膨れん」
それは正しかった。
王を見ても腹は膨れない。むしろ、腹が減った。
匙は水袋を担ぎ直した。
肩が痛い。首も痛い。壁に押しつけた背中も汗で気持ち悪い。
でも、歩いた。
市場ではもう秤が動いている。鍋から湯気が出ている。さっき頭を押さえられていた子どもも、また何かを見ようとして女に叱られていた。
王が通っても、飯は止まらない。
匙はそれを見ながら、水を運んだ。
******
その夜、星船に戻ると、匙はかなり不機嫌だった。
白い保護区画に入っても、肩にはまだ水袋の紐の跡が残っていた。
医療アームが出かけた。匙はすぐに噛む構えをした。
アームは止まった。
「許可なく接触しない」
「よし」
「肩に軽度の圧迫痕を確認」
「知っている」
「冷却または温熱処置を――」
「あとで」
「了解」
匙は寝台ではなく床に座った。
「水」
匙が言った。
星船は水を出した。
透明で、清潔で、温度もちょうどいい。
匙はそれを見て、少し嫌な顔をした。
「この水は軽い」
「成分的には――」
「違う」
「はい」
「デリーの水は重かった」
「水袋の重量、希少性、労働――」
「うん」
匙は水を飲んだ。
星船の水は身体に入った。
喉も楽になった。
それでも、昼間に運んだ水とは違った。
「顔なし」
「何か」
「王は、嫌いだ」
「そうか」
「偉そうな人間は、嫌いだ」
「そうか」
「もし王がいなくても、別の偉そうな人間が来るのか」
星船は少し黙った。
「歴史上、多くの場合――」
「言わなくていい」
匙は膝を抱えた。
「偉そうな人間は、道を曲げる」
「そうだ」
「水の値段も、飯の値段も、首の角度も、決めたがる」
「そういう権力者は多い」
「自分で水を運べ」
星船は少し遅れて答えた。
「アラーウッディーン本人が水袋を運ぶ可能性は極めて低い」
匙は怒った顔をした。
「分かっている」
「すみません」
「顔なしも、偉そう」
星船は黙った。
匙は続けた。
「お前も、道を曲げる」
「はい」
「私を拾った」
「はい」
「助かった。でも曲がった」
「はい」
「王も、町を助ける時があるのかもしれない。でも曲げる」
「はい」
「助けると曲げるは、一緒にいる」
星船は、また黙った。
匙は床に寝転がって、白い天井を見た。
暑くもなく、臭くなく、安全。腹立たしいほど安全。
「顔なし」
「はい」
「王は、人間のくせに場所のふりをする」
星船は、今度は何も言わなかった。




