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匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
第一部 星船の少女

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29/41

デリーの王の行列

匙が初めて「王」というものを見たとき、彼女は十二歳になっていた。

たぶん。


その日、デリーは暑かった。

暑いというだけでは足りない。空気が身体にまとわりついてくる。

乾いた土埃の上を、人と獣が行き交っていた。汗と糞と革の匂いに、油と香辛料、何かを焼く匂いが混じる。

鉄を打つ音の向こうから祈りの声が聞こえ、その上を怒鳴り声と値切る声が行き来していた。



匙は道の端で水袋を抱えていた。水袋は自分のものではない。持たされていた。


飲むためではなく運ぶためだった。


これは大事なことだった。

水は目の前にある。でも自分のものではない。


「顔なし」

耳の奥で、星船が返事をした。

「はい」

「この町は、喉が多い」

「人口密度が高く、気温も高いため――」

「説明ではない」

「はい」

「喉が多い町」

「はい」



デリーは喉が多い町だった。


水を売る者がいる。運ぶ者がいる。

井戸の前では人が順番を待ち、水をこぼした子どもが怒鳴られている。

器を差し出して水を求める者の横を、見向きもせずに通り過ぎる者もいる。


匙は、水袋の紐を肩に食い込ませながら歩いていた。

すでにいろいろな場所へ行っていた。

オーストラリアの学校にも潜った。アレクサンドリアにもロンドンにも南の島にも行った。ほかにもいろいろな時代のいろいろな市場や港を歩いた。

そして今日は十四世紀初頭のインドのデリーで、水売りの仕事の手伝いをしていた。


星船は水を出す。綺麗すぎて少し嘘くさい。

この町の水は嘘ではない。

汚れている。重い。少ない。人が怒る。

だから本物だった。



「今日は王が通る」

水を売る男が言った。

匙は顔を上げた。

「王《らーじゃ》」

男は、匙の発音を笑った。

「王《ラージャ》じゃない。スルターンだ」


星船が耳の奥で補った。

「デリー・スルターン朝の君主。現在の支配者はアラーウッディーン・ハルジー。1296年に即位し、強い軍事・行政支配を敷いた人物」

「偉いのか」

「大きな権力と威信を持つ」

「どのくらい」

「非常に」

「非常には、どのくらい」

星船は少し考えたらしい。

「この都市で、多くの人間の首の角度を変えられる程度」

匙は少し黙った。星船にしては、今の説明は分かりやすかった。

多くの人間の首の角度を変えられる。それは、偉い、というより、危ない。


匙は水売りの男を見上げた。

「スルターンが通ると、何が起きる」

男は水袋を調整しながら言った。

「道が空く。役人が怒鳴る。兵が来る。馬が来る。象も来るかもしれん。見たけりゃ端に寄れ。近づくな。目を合わせるな。邪魔なら叩かれる」

「なぜ通る」

「王だからだ」

「王は道を持っているのか」

男は笑った。

「道どころか、市場も持ってる顔をしてる」

「市場を?」

「値段まで決めるからな、あの方は」


星船がまた補った。

「アラーウッディーンは市場統制で知られ、穀物、布、馬などの価格を管理し、監督官や密偵を置いている。大軍を維持するため、物価を抑えようとする政策である。違反者には厳罰もある」

匙はそれを聞いて、顔をしかめた。

「王が、飯の値段を決めるのか」

「そうだ」

「飯を食べる人が決めるのではなく」

「統治上の価格管理」

「顔なし。今の言い方は、王の味がする」

「修正。王が、飯の値段に手を入れる」

匙は水袋を持ち直した。

「嫌だ」

「価格統制には都市生活者や兵士への供給安定という側面も――」

「嫌だ」

星船は黙った。


匙は市場を見渡した。

穀物を量る秤が動き、布を広げた商人が客と言い合っている。馬の口を開けて歯を見る男がいる。

油、塩、水、野菜。荷を運ぶ手。金を渡す手。

この中へ、ここにいない一人の手が入る。

それが匙には嫌だった。


王が飯の値段を決める。

それで助かる者もいるのかもしれない。

兵は食べる。町も少し静かになるのかもしれない。


だが、値段を決めれば、それを守らせる者が来る。隠す者が出れば探す者が来る。秤をごまかせば、秤を見る者が来る。

飯のそばにまで王が来る。

匙はそれが気に入らなかった。


******


最初に来たのは兵だった。

人の流れが変わった。

市場はうるさい。だが、そのうるささが、急に同じ方向へ押された。


「退け!」

「道を空けろ!」

「荷を下げろ!」

「そこに立つな!」


棒を持った者が先に走り、槍を持った兵が続いた。馬上から怒鳴る者もいる。徒歩の兵の間を、役人らしい男たちが通っていく。

人々が道の端へ寄った。

匙も水袋を抱えて壁際へ寄った。


寄らされたのではなく、自分で寄った。だが、その「自分で」は、ほとんど嘘だった。

寄らなければ叩かれる。踏まれる。水袋を破られる。刃物が来るかもしれない。

自分で寄るしかない。


匙は壁に背中をつけた。

暑い壁だった。水袋が膝に当たり、肩が痛んだ。星船に帰ったら湯の部屋が必要になる。


隣にいた女が、子どもの頭を押さえた。

「見るな」

小声だった。

「見るな、見るな」

子どもは顔を上げようとしたが、女の手がまた頭を押した。

匙はそれを見た。

王が来ると、子どもの頭が下がる。


「顔なし」

「はい」

「王は、人の首を使う」

星船は返事をしなかった。


馬の蹄が近づいた。

そのあとから、獣の重い匂いが来た。

象だった。


匙は象を見たことがある。

だが、デリーの行列の象はセイロンで見た象とは違って見えた。

背に布と飾りを載せ、その上に人を乗せている。大きな身体が、一歩ごとに高い座席を運んでくる。


匙は象より、人間の背中を見た。

みんな少し低い。

深く頭を下げる者もいれば、端へ寄っただけの者もいる。伏せた目を一瞬だけ上げる者もいる。

王はまだ見えない。

だが、道はもう空いている。声も変わっている。

水売りの男は、いつもより強く水袋の口を握っていた。

まだ来ていないのに、もういる。


「顔なし」

「はい」

「まだ王はいない」

「はい」

「でも、みんなもう王を見てる」

星船は何も言わなかった。


******


アラーウッディーン・ハルジーは、思ったほど大きくなかった。

それが、匙には一番腹立たしかった。

もっと大きければよかった。

マンモスのように、恐竜のように、大きくて重いならまだ分かる。だが、目の前の王は、普通の人間だった。


だが、目の前を通る王は普通の人間だった。

浅黒い肌で、濃い髭のある男が馬上にいる。身につけた布や装身具は、周囲の兵とは明らかに違った。

頭上には大きな日除けがあり、その周囲を武器を持った者たちが囲んでいる。


人間一人。


なのに、道が止まる。町が少し息を止める。

匙は、それが嫌だった。



王は黙って前を見ていた。

道の端に押し込まれた匙など見ていない。

誰かが自分のために道を空けることも、兵が怒鳴ることも、馬の前から人間が退くことも、毎日見ているのだろう。


怒っているわけではない。笑っているわけでもない。

ただ馬に乗って通っていく。そのために、周りの人間が動く。


「顔なし」

匙は小さく言った。

「はい」

「あれは、何だ」

「スルターンである」

「でも人間だ」

「そうだ」

「人間なのに、なぜ道が曲がる」

「政治権力、軍事力、宮廷儀礼、強制力――」

「多い」


星船は少し黙った。


「多くの人間が、彼を中心に動くよう強制されている」


匙は王を見た。

アラーウッディーンの視線は、匙の上をかすめもしなかった。

それでも背中が固くなる。


「嫌だ」

思わず声に出た。

隣の女が、ぎょっとして匙を見た。

「黙って」

匙は黙った。


行列は長く続いた。

兵が通り、馬が通り、象が通る。旗が揺れるたびに日が遮られ、金属が光る。蹄と足が土埃を上げる。

やがて王も、その後ろの者たちも見えなくなった。

道には踏まれた泥と、ずらされた荷と、人間の息が残った。



しばらく、誰も動かなかった。

それから、一気に市場が戻った。

「どけ!」

「荷を戻せ!」

「水をくれ!」

「いくらだ!」

「さっきの値段じゃない!」

「監督がいるぞ!」

「嘘つくな!」

「秤を見せろ!」


市場は、また市場になった。

でも匙は、すぐには動けなかった。


水袋が重い。


王はもういない。

なのに、水売りの男が乱れた荷を直している。子どもの頭を押さえていた女が周囲を確かめてから手を離した。

道の端では、誰かが踏まれたものを拾っている。


「顔なし」

「はい」

「王は、去ったあとも残る」

「はい」

「嫌だ」

「はい」

「王は、小さいのに、みんなを重くする」


星船は黙った。


匙はその言葉を、まだうまく持てなかった。

小さいのに、みんなを重くする。十二歳の匙は、まだ水袋を持ち直すだけだった。


水売りの男が戻ってきた。

「おい、小さいの。立ってるだけで金は出んぞ」

匙はむっとした。

「小さいのではない」

男は笑った。

「じゃあ何だ」

「匙」

「変な名だな」

「うるさい」

男は匙の水袋を見た。

「持てるか」

「持てる」

「なら行け。王を見たからって、腹は膨れん」

それは正しかった。

王を見ても腹は膨れない。むしろ、腹が減った。


匙は水袋を担ぎ直した。

肩が痛い。首も痛い。壁に押しつけた背中も汗で気持ち悪い。

でも、歩いた。


市場ではもう秤が動いている。鍋から湯気が出ている。さっき頭を押さえられていた子どもも、また何かを見ようとして女に叱られていた。

王が通っても、飯は止まらない。

匙はそれを見ながら、水を運んだ。


******


その夜、星船に戻ると、匙はかなり不機嫌だった。

白い保護区画に入っても、肩にはまだ水袋の紐の跡が残っていた。


医療アームが出かけた。匙はすぐに噛む構えをした。

アームは止まった。


「許可なく接触しない」

「よし」

「肩に軽度の圧迫痕を確認」

「知っている」

「冷却または温熱処置を――」

「あとで」

「了解」


匙は寝台ではなく床に座った。


「水」

匙が言った。


星船は水を出した。

透明で、清潔で、温度もちょうどいい。

匙はそれを見て、少し嫌な顔をした。


「この水は軽い」

「成分的には――」

「違う」

「はい」

「デリーの水は重かった」

「水袋の重量、希少性、労働――」

「うん」


匙は水を飲んだ。

星船の水は身体に入った。

喉も楽になった。

それでも、昼間に運んだ水とは違った。


「顔なし」

「何か」

「王は、嫌いだ」

「そうか」

「偉そうな人間は、嫌いだ」

「そうか」

「もし王がいなくても、別の偉そうな人間が来るのか」


星船は少し黙った。


「歴史上、多くの場合――」

「言わなくていい」

匙は膝を抱えた。


「偉そうな人間は、道を曲げる」

「そうだ」

「水の値段も、飯の値段も、首の角度も、決めたがる」

「そういう権力者は多い」

「自分で水を運べ」


星船は少し遅れて答えた。

「アラーウッディーン本人が水袋を運ぶ可能性は極めて低い」


匙は怒った顔をした。

「分かっている」

「すみません」

「顔なしも、偉そう」

星船は黙った。


匙は続けた。

「お前も、道を曲げる」

「はい」

「私を拾った」

「はい」

「助かった。でも曲がった」

「はい」

「王も、町を助ける時があるのかもしれない。でも曲げる」

「はい」

「助けると曲げるは、一緒にいる」

星船は、また黙った。


匙は床に寝転がって、白い天井を見た。

暑くもなく、臭くなく、安全。腹立たしいほど安全。


「顔なし」

「はい」

「王は、人間のくせに場所のふりをする」

星船は、今度は何も言わなかった。

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