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匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
第一部 星船の少女

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28/41

本物のイェニチェリ

匙はイェニチェリという言葉を、かなり信用していなかった。

星船に拾われたばかりの頃、星船がその名を使って変なことをしようとしたからである。


「顔なし」

「はい」

「いぇにちぇりは、結局何だった」

「オスマン帝国における君主直属の精鋭歩兵集団」

「長い」

「軍団」

「鍋を叩く?」

「それだけではない」

「鍋は偉い?」

「象徴的に重要」

「では、鍋を見る」

「鍋だけではなく、軍団の行進も見るか」


匙は少し考えた。

星船の廊下で自分が叩いた鍋。叩くと飯が出る鍋。顔なしを脅すための鍋。

鍋音楽会。裸足のイェニチェリ。腰帯に隠した干し果物。


「本物を見る」

「時代」

「鍋が偉い時代」

「十六世紀イスタンブル、スレイマン大帝の統治期」

「うん」

「接触には注意。軍事集団であり、宮廷・宗教・都市秩序……」

「長い」

「危険」

「見るだけ」

「本当に?」

「本物の鍋を見るだけ」


顔なしは少し沈黙した。


「匙の『だけ』は信用度が低い」

「うるさい」


******


イスタンブルは大きかった。


大きい町はいくつも見た。だが、ここでは町の中に水が入り込んでいる。

丘を越えるたびに海が見え、屋根の向こうから丸いドームが出る。その脇には、細い塔が何本も立っている。


匙は足を止めて、空を見上げた。

「尖った声の塔」

「ミナレット」

「名前はあと」

「了解」


通りへ入ると、今度は匂いが来た。

焼いた肉。パン。革。香辛料。汗。海から上がる湿った風。

石畳には馬の跡が残り、犬が店先を抜けていく。

人の声も多かった。

売る声、怒る声、笑う声。その間に祈りの声が遠くから重なる。

服も帽子も違う人間が、同じ通りを歩いていた。

顔なしの翻訳を薄くしているので、意味はところどころしか来ない。


トルコ語。

ギリシア語らしい音。

アルメニア語らしい音。

ときどきアラビア語やペルシア語。

港の方では、イタリア語らしい声まで混じる。


匙は少し耳を澄ませた。

「言葉が市場をしてる」

「多言語都市」

「顔なしが好きそう」

「はい」

「喜ぶな」



そのとき、道の向こうから太鼓の音がした。

匙は止まった。

腹に来る音だった。


――ドン


――ドン


――ドン


星船の小さい太鼓とは違う。鍋を叩いた音とも違う。

一つ鳴るたびに、道の空気が少しずつ変わる。


「来る」

顔なしが言った。

「イェニチェリの行進」


匙は人の流れに押されないように店の壁際へ寄った。

向こうでも、籠を道端から引き寄せる男がいる。女が子どもの肩を掴んで脇へ寄せる。

誰も逃げない。だが、道の真ん中には残らなかった。



イェニチェリよりも先に音が来た。

重い太鼓の響き。

鋭いズルナの音。

腹は低く、耳は高く、別々に引っ張られる。


匙は顔をしかめた。

「音が喧嘩している」

「軍楽である」

「耳に刺さる」

「遠距離まで届く音響特性」

「刺さる」



最初に見えたのは、白く長い帽子だった。

同じ形のものが列になって近づいてくる。その下には、それぞれ別の顔がある。

若い者もいる。 皺の深い者もいる。 服や装具も少しずつ違う。

それでも歩幅が揃い、前を見る向きまで同じだった。


肩には武器があり、腰にも何か吊っている。旗が列の上で揺れ、太鼓の音に合わせて足が出る。

一人ずつを見れば別の人間なのに、遠くから見ると、大きな一つのものが道を進んでくるように見えた。


匙は小さく言った。

「歩く鍋ではない」

「当然」

「鍋より怖い」

顔なしは黙った。


イェニチェリたちは、そのまま街路を進んだ。

太鼓の音の間に笛が入り、旗の布が鳴る。沿道の人々の声は、その列の両側へ押しやられていった。


匙は星船の廊下を一人で好き勝手に歩いた自分を思い出した。

裸足、帽子なし、太鼓は不規則、鍋を叩いて飯を要求。


「顔なし」

「はい」

「私は、いぇにちぇりではなかった」

「はい」

「鍋音楽会だった」

「はい」

「顔なしは、最初からそう言うべきだった」

「言った」

「もっと強く」

「今後改善」



匙は、また行進を見た。

イェニチェリたちの中には、自分とあまり年が変わらないように見える若い兵士もいた。

同じ年かは分からない。でも、顔にまだ少年の柔らかさが残っている。

匙はその顔を見て、少し嫌な気持ちになった。


かっこいい。

怖い。


イェニチェリたちの足並みは綺麗に揃っている。でも、その揃い方の中に何かが飲み込まれている気がする。


「顔なし」

「はい」

「歩けるように育てられた者は、どこへでも歩けるのか」

「必ずしも」

「誰のために歩くかを、先に決められているのか」


顔なしはすぐに答えなかった。

太鼓の音だけが、だんだん遠くなった。


******


匙が本当に見たかったのは、鍋だった。


もちろん、街にはいくらでも鍋はあった。

飯屋の鍋、市場の鍋、家の鍋。

豆を煮る鍋、肉を煮る鍋、水を沸かす鍋。

だが、イェニチェリの鍋は普通の鍋とは違うらしい。


顔なしは「厨房」「オルタ」「カザン」「象徴」といった言葉を出した。

匙は半分しか聞かなかった。


「鍋が偉いなら、鍋を見る」

「偉い、ではなく、所属や秩序の象徴」

「つまり偉い」

「過度の単純化」

「鍋は飯を作る。飯を作るものは偉い」

「それは一理ある」

「あるだろう」


顔なしは、比較的安全な範囲でイェニチェリの厨房に近い場所へ匙を連れていった。

厨房の中ではない。

物資を運ぶ者や、食事の支度をする者が行き来している場所だった。


匙は、そこで大きな鍋を見た。

本当に大きかった。

星船の鍋とは違う。軽くない。壁から出てこない。

誰かの手で運ばれ、誰かの手で洗われ、火の近くに置かれ、湯気を出し、飯の匂いを持っている。


匙は、その鍋を見て息を呑んだ。

「本物の鍋」

「はい」

「重そう」

「はい」

「よい」

「重い鍋がよいのか」

「軽すぎる鍋は、信用できない」

「星船厨房への批判を確認」

「確認するな」



鍋の周りでは、男たちが忙しく動いていた。

水を運ぶ者。 薪を見る者。 器を揃える者。 中を覗く者。

匙には、誰が兵士で誰が厨房仕事なのか、すぐには分からなかった。

ただ、皆、鍋の周りではふざけなかった。

匙はしばらく見ていた。


「鍋は、腹の旗だ」

顔なしが少し遅れて言った。

「よい表現」

「記録するな」

「記録します」

「するな」



その時、近くの若いイェニチェリが匙に気づいた。

匙は固まった。

若いといっても、匙よりはだいぶ大人だ。十代の終わりか、二十代の初めくらいに見えた。顔は日に焼け、帽子の下から目がこちらを見ている。


彼は匙に何かを言った。

少し遅れて翻訳が届いた。


「子どもが鍋を食いそうな顔で見ている」

周りで笑いが起きた。


匙は胸を張った。

「鍋を見る」

若い男はさらに笑った。

「鍋が好きなのか」

「鍋は偉い」

また笑われた。


年上の男が少し真面目な声で言った。

「鍋を倒すなよ」


匙は顔なしに聞いた。

「倒す?」


顔なしが小さく説明した。

「イェニチェリが不満を示す、食事を受け取らなかったり、鍋を動かしたり、倒したりすることがある」


匙は目を見開いた。

「鍋を倒すのか」

「はい」

「飯がこぼれる!」


男たちがまた笑った。

若い男が言った。

「だから大ごとになる」


匙は鍋を見た。

「飯がまずい時?」

「それくらいで毎回倒していたら、毎日反乱だ」

周りから声が飛んだ。

「お前ならやりそうだ」

「黙れ」


匙は少し考えた。

鍋を倒す。飯を受け取らない。

それだけで、ただの飯の話ではなくなるらしい。


******


そのあと、匙は本物の「匙」を見つけた。

鍋のそばで使う、柄の長い匙だった。人が飯をよそい、鍋の中を混ぜるためのものだ。


匙は少し嫌な顔をした。

「大きい匙」

若い男が聞いた。

「匙がどうした?」

匙は自分を指した。

「私も匙」


顔なしが近い意味に直して渡したらしい。

若い男は一瞬きょとんとして、それから大笑いした。

「お前も匙(カシュク)か!」

周りも笑う。


匙はむっとした。

「笑うな」


若い男は大きな匙を持ち上げた。

「これはお前の親分だ」

「違う」

「では兄か」

「違う」

「親戚か」

「違う!」


笑いが広がった。

匙は本気で不満だったが、少し面白くもあった。


若い男が、柄をこちらへ向ける。

「持つか」


顔なしが即座に言った。

「衛生・安全上、非推奨」


匙は無視して両手で持った。

思ったより重かった。

柄が長く、先が大きい。少し持ち上げただけで腕に重さが来る。


「これは働く匙」

男は頷いた。

「そうだ。働かない匙は鍋に近づけない」

その言葉は、匙の胸に刺さった。


働かない匙。

自分は名前だけの匙。

まだ何をすくうのか分からない。


「私は、まだ小さい匙」

若い男は大きな匙を鍋のそばへ戻した。

「小さい匙も必要だ」

匙は彼を見た。

「何?」

「大きい鍋でも、味は小さい匙で見る」


周りの年上の男が笑った。

「お前、うまいこと言うな」

若い男は少し得意げになった。

匙は素直にその言葉を受け取った。

大きい鍋でも、味は小さい匙で見る。

かなりよい。


******


少し離れた場所で、食事が配られていた。

兵士たちは列に並び、鍋からよそわれた汁を順に受け取る。

声は多い。冗談も飛ぶ。だが、横から勝手に取る者はいない。


彼らは匙にも少しだけパンと汁を分けてくれた。

「払う」と言いかけて、やめた。

ここで金を出すのは違う。

かといって、当然のように受け取るのも違う。

匙は、両手で丁寧に受け取った。


「テシェッキュる・エデりム」

ありがとう。

発音は変だったが、意味はたぶん届いた。


汁は熱く、豆か肉か野菜か、よく分からないものが入っている。

脂と塩と香辛料が効いていて、美味しかった。星船の再現食ではなく、本物の軍団の鍋の味だった。


若い男が言った。

「また真剣な顔をして食っている」

「食べ物は逃げる」

「逃げる?」

「味が逃げる。温かさが逃げる。人の機嫌も逃げる」

男は一瞬考えて、それから言った。

「お前、本当に匙だな」


匙はむっとした。

「どういう意味」

「鍋の近くで、よくしゃべる」


褒めているのかどうか、よく分からなかった。

でも、悪い気分ではなかった。


******


帰る前、遠くでまた太鼓が鳴った。

最初ほど怖くなかった。だが、軽くもならなかった。


匙は、さっき持った大きな匙を思い出した。

重かった。

鍋も重かった。

星船の廊下で自分が叩いた鍋は、もっと軽かった。

「顔なし」

「はい」

「星船イェニチェリ軍団は、やっぱり変な名前」

「名称変更するか」

「鍋音楽会」

「了解」

「でも、それも少し違う」

「では保留」

「うん」

匙はもう一度、遠くの音を聞いた。


******


星船に戻ると、匙はすぐに厨房区画へ行った。

いつもの鍋がある。

共同使用物だと顔なしは言う。 匙の中では、だいたい自分の鍋だった。


匙は太鼓の棒を持った。

鍋を叩こうとして止めた。


顔なしが言った。

「叩かないのか」

「今日は少し考える」

「成長を確認」

「うるさい」


匙は鍋の縁を指で軽く触った。

カン、とは鳴らなかった。小さい音だけだった。


「本物の鍋は、重かった」

「はい」

「本物の匙も、重かった」

「はい」

「大きい鍋でも、味は小さい匙で見る、と言われた」

「よい言葉」

「うん」

「記録するか」

「自分でする」


匙はノートを開いた。


スレイマン大帝の時代のイスタンブル。

イェニチェリの行進を見た。太鼓が腹に来る。ズルナは耳に刺さる。人が一つのものみたいに歩く。少し怖い。

私はイェニチェリではなかった。星船鍋音楽会だった。

鍋は重い。飯を作る。倒すこともあるらしい。飯がこぼれるので、かなり大ごと。

大きい匙を持った。重い。働く匙。

大きい鍋でも、味は小さい匙で見る。これはかなりよい。

汁はうまかった。


最後に一行足した。

本物は、もっと重い。


少しして、強硬接触班三がどこかから表示した。

星船イェニチェリ軍団、史実研修完了――


匙は鍋を持ち上げた。

サルが即座に表示を消した。

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