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匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
第一部 星船の少女

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27/41

ローマの男

ローマは乾いていた。


水はあった。

広場の端には水が流れていたし、どこかで噴水の音もした。

人々は水瓶を運び、奴隷らしい男が道に水を撒き、遠くの方では湯の匂いもしていた。

でも、匙にはローマが乾いているように感じた。


石が多すぎる。

道も、壁も、階段も、柱も、何かを踏みつけたまま固まったように白くて、硬かった。

人の声も石に当たって跳ね返る。馬の蹄の音も、荷車の車輪も、怒鳴り声も、笑い声も、全部、尖って戻ってくる。


匙は少し疲れていた。

顔なしは、耳の奥で控えめに言った。

「現地危険度、中。単独行動は短時間推奨」

「短時間」

匙は小声で言った。

「でも干した果物を買う」

「購入行動は可能。ただし、言語運用に注意」

「注意している」

「現時点で、注意評価は不十分」

「うるさい」

匙は、顔なしとの会話をそこで切った。

切った、といっても、顔なしがいなくなるわけではない。耳の奥の気配が少し遠くなるだけだ。



匙は、ローマの言葉を少しだけ分かるようになっていた。

少しだけ。


「水(アクア)」

「飯(キブス)」

「いくら(クアンティ)」

「違う(ノーン)」

「待て(マネ)」

「いらない(ノロ)」

「私は奴隷ではない(ノーンスムセルウァ)」


最後の一つは、顔なしが強く覚えさせた。

匙はそれが嫌だった。嫌だったが覚えた。

覚えなければならない言葉は、たいてい嫌な言葉だった。


******


市場の近くで、匙は干した果物を売っている台を見つけた。

多分、いちじく。


皺の寄った、茶色くて甘そうなものが、浅い籠に山盛りになっている。

隣には硬そうなパン、油の壺、干した魚、何かの豆。人々が手を伸ばし、銅貨を出し、文句を言い、また歩いていく。


匙も台の前に立った。

店番の男が匙の顔を見た。その目はすぐに服に行き、足に行き、髪に戻った。

嫌な目だった。


「どこの者だ」

匙は、一瞬遅れて言葉を拾った。

「買う」

「何を」

「これ」

匙は干しいちじくを指差した。

「小さいの。少し」

店番の男は眉をしかめた。

「何だ、その言葉は」

「言葉」

「どこの言葉だと聞いている」

匙は少し考えた。

「ローマの言葉。少し」

周りにいた男が一人、笑った。

「ローマの言葉? それでか」

別の男が言った。

「ガリアの子か」


ブルディガラは六世紀のガリアだ。

この時代のガリアではない。


「多分違う」

「ヒスパニアか」

「違う」

「東の方(オリエンス)か」

「違う」

「では何だ」

匙は面倒になった。

「匙」

男たちは笑った。

笑われる理由は分かる。でも、腹が立つ。


店番の男は匙の小袋を見た。

「銅貨はあるのか」

「ある」

匙は小袋を開けた。

その瞬間、顔なしが耳の奥で強く震えた。

「全量提示非推奨」

遅い。匙はもう開けていた。



男の目が、銅貨の数を見た。

多くはないが、子どもが一人で持ち歩くには、少し目立つ量だった。店番の男が笑うのをやめた。

「誰にもらった」

「人」

「どの人だ」

「知らない」

「盗んだのか」

「違う」

「お前は逃げた奴隷か」

匙の腹の中が硬くなった。

「違う」

「誰のものだ」

「私の」

「お前のもの?」

店番の男は周りを見て、また笑った。

「聞いたか。小さいバルバラが、自分のものだと言っている」


バルバラ。

顔なしが訳を出しかけたが、匙には先に意味が分かった。

異邦の女。野蛮な女。ローマではない女。


匙は銅貨を握りしめた。

「私は野蛮ではない」

「野蛮でなければ、誰の家の者か言え」

「家はない」

それを言った瞬間、匙はしまったと思った。

男たちの笑い方が変わった。さっきまでのからかいではなく、値踏みになった。


家がない。連れがいない。言葉が変。銅貨を持っている。子ども。市場。

匙は、それらが一つの形にまとめられていくのを感じた。

逃げるべきだった。

だが、干しいちじくを買いたかった。それだけのことが、急に難しくなった。


店番の男が手を伸ばした。

「その銅貨、見せろ」

「いや」

「偽物かどうか見るだけだ」

「いや」

「おい」

男の手が匙の腕に触れそうになった。


そのとき、別の声がした。

大きくはなかった。むしろ静かだった。


「そこで何をしている」


******


不思議だった。

声は大きくなかったのに、周りが少し止まった。

怒鳴ってはいない。

命令しているようにも聞こえない。

それでも、人がその声のために場所を空けた。


匙は振り返った。

そこに、白っぽい衣を着た男がいた。


禿げていた。


******


完全に禿げているわけではない。

だが、額が広く、髪の置き方に、何か努力の跡がある。

目は明るい。

口元は笑っているようにも見える。

歳は、匙にはよく分からない。若くはないが、老人でもない。


周りに数人の男がいた。

連れなのか、従者なのか、友人なのか、護衛なのかは分からない。

ただ、その人たちは、その男より少し後ろに立っていた。


匙は、男を見て思った。

――偉そう。


それから、もう一つ思った。

――女たらしっぽい。



根拠はなかった。ただ、口元と目の動きが、なんとなくそうだった。

市場の女たちや、若い男や、店番や、匙まで、全部を同じ速さで見て、必要なところだけ拾う感じがした。

かなり嫌な感じだった。


店番の男は、さっきまでの顔をすぐにしまった。

「いえ、この小娘が妙な言葉で。銅貨も怪しく、どこの者とも言わず」

白い衣の男は、匙を見た。

「どこの者だ」

匙はむっとした。

いつも同じことばかり聞かれる。


「遠いところ」

「ローマから見れば、たいていのところは遠い」

「では、もっと遠いところ」

男の口元が少し動いた。笑ったのかもしれない。

「便利な答えだ」

「便利はよい」


周りの一人が、息を呑むような音を立てた。白い衣の男は怒らずに、匙の手元を見た。

「銅貨を見せろ」

「いや」

店番の男が顔をひきつらせた。

「お前、何を」


白い衣の男が軽く手を上げた。それだけで店番の男は黙った。

匙はそれを見た。

声を上げていない。叩いてもいない。ただ、手を上げただけなのに他人が黙る。

嫌な男だ、と匙はまた思った。



白い衣の男は匙に言った。

「私は店の男ではない。奪わない。偽物かどうか見るだけだ」

「見たら返す?」

「返す」

「本当?」

「私は、この程度の銅貨を取るほど金に困ってはいない」

嫌味な言い方だった。


匙は迷ってから、一枚だけを渡した。男は銅貨を指先で返し、表と裏を見た。


「本物だ」


匙に返す。

匙は素早く銅貨を握りしめた。



男は店番の方を向いた。

「これでいちじくは買えるな」

店番は渋い顔をした。

「しかし、こいつは」

「こいつではない。子どもだ」

店番が口を閉じた。

男はさらに言った。

「ローマは、いちじくを買いに来た子ども相手に、出自を調べる役所になったのか」

周囲で小さな笑いが起きた。店番は赤くなった。


匙はその笑いも嫌だった。

男は匙を助けている。多分。

でも、助け方が嫌だった。店番を刃物ではなく言葉で刺している。しかも笑わせながら。

匙はそれが、あまり好きではなかった。


店番は乱暴に干しいちじくを包み、台の上に置いた。

「一枚だ」

「高い」

匙は言った。

店番がぎょっとした顔をした。

白い衣の男の目が、少し輝いた。

「高いと思うのか」

「少し」

「では、いくらならよい」


匙は考えた。

ローマの相場は知らない。でも男の言い方からして、ここで黙ると負けの気がした。


「半分」

店番が怒鳴りかけた。

「この……」

白い衣の男が今度ははっきり笑った。

「半分だそうだ」

「無理です」

「では、少し負けてやれ。言葉の悪い子どもが値切りだけは覚えた。ローマの教育に悪くない」

店番はしぶしぶ、別の小さな包みを作った。

匙は銅貨を渡し、干しいちじくを受け取った。


少し勝った。

しかし気分はあまりよくなかった。


白い衣の男が匙に言った。

「礼は?」

匙は男を見上げた。

「なぜ」

「いま、困らずに済んだ」

「お前が来る前から困っていた」

「私が来たから、それ以上困らずに済んだ」

「でも、お前は私を見せ物にした」



周囲が静かになった。今度の静けさは、さっきより硬かった。

店番の男が大きく目を開けた。白い衣の男の連れの一人が、一歩前に出かけた。

男はまた手を少し動かした。

それで、連れは止まった。

匙はその手を見た。

やっぱり嫌な男だ。


白い衣の男は、匙をじっと見た。

「見せ物にされたと思ったか」

「思った」

「助けられたとは思わないのか」

「少し思う」

「では、礼を言え」

「ありがとう」

匙は言った。

「でも、お前の言い方は嫌」



周囲がまた止まった。

白い衣の男は怒るかと思ったが、怒らなかった。むしろ楽しそうになった。

「嫌か」

「嫌」

「どこが」

「笑っている。でも優しくない」

店番の男が、もうやめろ、という顔をした。匙は見なかった。


男は少し顎を引いた。

その目が急に近くなった。距離は変わっていないのに、見られている感じが強くなった。

「お前は、優しさが欲しかったのか」

「いちじくが欲しかった」

男は笑った。

「正直だ」

「嘘をつくと、あとで難しくなる」

「嘘をつかないと、早く死ぬこともある」

匙は黙った。

それは少し知っているが、この男に言われたくなかった。


男は続けた。

「ローマで一人で歩くなら、まず誰かのもののふりをしろ。誰かの家の子、誰かの使い、誰かの奴隷、誰かの客。何でもいい。何にも属さない子どもは、すぐ拾われる」

「拾われたくない」

「なら、拾う側に理由を作るな」

言っていることはたぶん正しいが、やはり嫌な感じだった。


匙は干しいちじくの包みを抱えた。

「お前は、いつもそうやって人に言うのか?」

「どうやって」

「上から」

周りの誰かが小さく咳をした。白い衣の男は少し首を傾けた。

「背が高いからな」

「そういうことではない」

「では、どういうことだ」

「お前が喋ると、人が黙る」

男は、ほんの少しだけ黙った。


「お前は怒鳴ってない。でも人が黙る。手を上げると、人が止まる。笑うと、人が一緒に笑う。でも、お前を見て笑っているのではない」

男の顔からは笑いが消えなかった。目だけが少し変わった。

「よく見る子どもだ」

「見ないと危ない」

「誰に教わった」


匙は答えなかった。

顔なし、とも、星船、とも言えない。

父、母、とも言えない。

誰に教わったのか、自分でもよく分からない。


男はそれ以上追わなかった。

「名は」

「匙」

「サジ?」

「匙」

「変な名だ」

「便利」

「何でも便利で済ませるな」

「便利は強い」

男はまた笑った。

「お前、いつか誰かにひどく怒られるぞ」

「今、お前に怒られている」

「これは怒っていない」

「では何」

「忠告だ」

「忠告は怒るのと似ている」

「似ているが、少し安い」

「安い?」

「怒りには手間がかかる。忠告は通りすがりにもできる」



匙は少し考えた。

たしかに、この男は通りすがりだった。匙の人生に長くいる気がない。

興味を持っているようで持っていない。助けたようで助けていない。怒ったようで怒っていない。

通りすがりに言葉を投げている。

小石みたいに。


匙は言った。

「お前は暇なのか」



今度は男の連れの中から、はっきりと息を吸う音がした。

男は少し面白そうにした。

「暇に見えるか」

「少し」

「それは困ったな」

「困るのか」

「忙しい男に見える方が得だ」

「では、そういう顔をすればいい」

「お前は顔の使い方まで教えるのか」

「禿げているから、顔が見えやすい」




完全な沈黙が落ちた。



市場の音はまだある。

遠くでロバが鳴いた。匙の周りだけが石のようになった。


匙は言ってから気づいた。


まずい。


とてもまずい。



顔なしが耳の奥で、細く警告を出した。

「発話撤回推奨」


遅い。



白い衣の男は、ゆっくりと匙を見た。

もう笑っていなかった。それでも顔全体が怒りに変わったわけではなかった。

怖いのは、そこで怒鳴らないことだった。

男は静かに言った。

「お前は本当に、長生きに向いていない」


匙は干しいちじくを抱え直した。

「悪かった」

「早いな」

「早く謝ると、少し助かる」

「誰に教わった」

「いろいろ」

「では、もう一つ覚えろ」

男は少し身を屈めた。目の高さが、ほんの少し近づいた。

「見たことを全部口に出すな。とくに、相手がそれを知っているときは」


匙は、また男の額を見そうになったが我慢した。

「知っているなら、言っても同じ」

「違う」

「なぜ」

「人は、知っていることを他人の口から聞かされるのを嫌う」

匙は少し考えた。

分かるような、分からないような話だった。

「面倒」

「それが人間だ」

「人間は面倒」

「その通り」

男は、急にまた笑った。

「そこはよく分かっている」

匙はむっとした。

「お前も人間」

「残念ながら」

「残念なのか」

「時々な」

その言い方はほんの少しだけ、さっきまでと違った。

皮肉ではあるが、自分にも刃を向けている感じがした。匙は、その小さな違いをうまく言葉にできなかった。



白い衣の男は立ち上がり、店番に向かって言った。

「この子どもを追うな。銅貨は本物だ。値切りもした。ローマ市民の真似事としては十分だろう」

店番は小さくうなずいた。

それから男は匙に向かって言った。

「行け。次は、もっとましな嘘を持って歩け」

「嘘は嫌」

「では、ましな沈黙を持て」

「沈黙」

「そうだ。沈黙は、安くて役に立つ」

「お前はあまり使ってない」

男は一瞬止まり、それから笑った。

「痛いところを突く」

「突いてない」

「突いている」


男はもう歩き出していた。

さっきと同じように周囲の人が道を空ける。

匙はそれをじっと見た。

人々は男に押されたわけではない。自分から避けた。避けることを知っていた。

男もそれを知っていた。その上で、ゆっくり歩いていた。

嫌な歩き方だった。

強い歩き方ではない。急いでいる歩き方でもない。ただ、道が空くことを疑っていない歩き方。


匙はこの男が何者なのかは知らない。

ただ、この男が笑うと周りは笑う。この男が黙ると周りも黙る。この男が誰かを許すと、その誰かは助かったことになる。

許すという行為が、優しさではなく、上から落ちてくる小石みたいだった。

嫌な感じだった。


匙は干しいちじくを一つ食べた。


******


顔なしが、耳の奥で控えめに言った。

「当該個体、政治的重要度が高い可能性」

「知らない」

「記録照合を推奨」

「知らない」

「少なくとも現地有力者と推定」

「禿げていた」

顔なしは少し黙った。

「その特徴は記録分類に不十分」

「女たらしっぽかった」

「その特徴も分類に不十分」

「偉そうだった」

「それはやや有効」


匙は包みを抱えたまま歩き出した。

ローマの道はまだ硬かった。石の上を歩くと、足の裏に衝撃が返ってくる。

周りの人は多い。

誰も匙を見ていないようで、時々見る。見ると、すぐに何かに分類する。


奴隷。子ども。異邦人。迷子。小間使い。

バルバラ。


匙は口の中で、その言葉を転がした。

嫌な言葉だった。でも、完全に捨てられない言葉でもあった。

ローマから見れば匙はローマではない。

言葉も曲がっている。服も少し変。家もない。誰のものでもない。

だから、ローマは匙を雑に呼ぶ。


匙も、ローマを雑に呼んだ。

石の町。怒鳴る店。禿げた偉そうな男。

お互い雑だった。

ただ、匙は思った。

雑に呼ばれたとき黙るかどうかは、自分で決めたい。


次に聞かれたら、何と言うか。

誰の子だ。どこの者だ。誰に仕えている。

匙は干しいちじくの種を噛みながら考えた。


答えはまだなかった。

星船の子ではない。ローマの子でもない。誰かの奴隷でもない。家の子でもない。

でも、何でもないと、すぐ拾われる。


ましな嘘。

ましな沈黙。


匙は、さっきの男の言葉を思い出して、少しむかついた。


「ましな沈黙」


小声で言ってみる。悪くはない。

でも、あの男に教わったと思うのは嫌だった。


匙はもう一つ、いちじくを食べた。

甘い。

ローマの嫌なところより、干しいちじくの甘さの方を覚えていたい。そう思って匙は市場の端を抜けた。


******


この日の男の名前を匙は覚えなかった。

顔なしが後で何度か説明しようとしたが、匙はだいたい聞かなかった。


ローマには、禿げて、女たらしっぽくて、偉そうで、笑っているのに優しくない男がいた。

匙の記憶には、そのくらいで残った。

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