ローマの男
ローマは乾いていた。
水はあった。
広場の端には水が流れていたし、どこかで噴水の音もした。
人々は水瓶を運び、奴隷らしい男が道に水を撒き、遠くの方では湯の匂いもしていた。
でも、匙にはローマが乾いているように感じた。
石が多すぎる。
道も、壁も、階段も、柱も、何かを踏みつけたまま固まったように白くて、硬かった。
人の声も石に当たって跳ね返る。馬の蹄の音も、荷車の車輪も、怒鳴り声も、笑い声も、全部、尖って戻ってくる。
匙は少し疲れていた。
顔なしは、耳の奥で控えめに言った。
「現地危険度、中。単独行動は短時間推奨」
「短時間」
匙は小声で言った。
「でも干した果物を買う」
「購入行動は可能。ただし、言語運用に注意」
「注意している」
「現時点で、注意評価は不十分」
「うるさい」
匙は、顔なしとの会話をそこで切った。
切った、といっても、顔なしがいなくなるわけではない。耳の奥の気配が少し遠くなるだけだ。
匙は、ローマの言葉を少しだけ分かるようになっていた。
少しだけ。
「水」
「飯」
「いくら」
「違う」
「待て」
「いらない」
「私は奴隷ではない」
最後の一つは、顔なしが強く覚えさせた。
匙はそれが嫌だった。嫌だったが覚えた。
覚えなければならない言葉は、たいてい嫌な言葉だった。
******
市場の近くで、匙は干した果物を売っている台を見つけた。
多分、いちじく。
皺の寄った、茶色くて甘そうなものが、浅い籠に山盛りになっている。
隣には硬そうなパン、油の壺、干した魚、何かの豆。人々が手を伸ばし、銅貨を出し、文句を言い、また歩いていく。
匙も台の前に立った。
店番の男が匙の顔を見た。その目はすぐに服に行き、足に行き、髪に戻った。
嫌な目だった。
「どこの者だ」
匙は、一瞬遅れて言葉を拾った。
「買う」
「何を」
「これ」
匙は干しいちじくを指差した。
「小さいの。少し」
店番の男は眉をしかめた。
「何だ、その言葉は」
「言葉」
「どこの言葉だと聞いている」
匙は少し考えた。
「ローマの言葉。少し」
周りにいた男が一人、笑った。
「ローマの言葉? それでか」
別の男が言った。
「ガリアの子か」
ブルディガラは六世紀のガリアだ。
この時代のガリアではない。
「多分違う」
「ヒスパニアか」
「違う」
「東の方か」
「違う」
「では何だ」
匙は面倒になった。
「匙」
男たちは笑った。
笑われる理由は分かる。でも、腹が立つ。
店番の男は匙の小袋を見た。
「銅貨はあるのか」
「ある」
匙は小袋を開けた。
その瞬間、顔なしが耳の奥で強く震えた。
「全量提示非推奨」
遅い。匙はもう開けていた。
男の目が、銅貨の数を見た。
多くはないが、子どもが一人で持ち歩くには、少し目立つ量だった。店番の男が笑うのをやめた。
「誰にもらった」
「人」
「どの人だ」
「知らない」
「盗んだのか」
「違う」
「お前は逃げた奴隷か」
匙の腹の中が硬くなった。
「違う」
「誰のものだ」
「私の」
「お前のもの?」
店番の男は周りを見て、また笑った。
「聞いたか。小さいバルバラが、自分のものだと言っている」
バルバラ。
顔なしが訳を出しかけたが、匙には先に意味が分かった。
異邦の女。野蛮な女。ローマではない女。
匙は銅貨を握りしめた。
「私は野蛮ではない」
「野蛮でなければ、誰の家の者か言え」
「家はない」
それを言った瞬間、匙はしまったと思った。
男たちの笑い方が変わった。さっきまでのからかいではなく、値踏みになった。
家がない。連れがいない。言葉が変。銅貨を持っている。子ども。市場。
匙は、それらが一つの形にまとめられていくのを感じた。
逃げるべきだった。
だが、干しいちじくを買いたかった。それだけのことが、急に難しくなった。
店番の男が手を伸ばした。
「その銅貨、見せろ」
「いや」
「偽物かどうか見るだけだ」
「いや」
「おい」
男の手が匙の腕に触れそうになった。
そのとき、別の声がした。
大きくはなかった。むしろ静かだった。
「そこで何をしている」
******
不思議だった。
声は大きくなかったのに、周りが少し止まった。
怒鳴ってはいない。
命令しているようにも聞こえない。
それでも、人がその声のために場所を空けた。
匙は振り返った。
そこに、白っぽい衣を着た男がいた。
禿げていた。
******
完全に禿げているわけではない。
だが、額が広く、髪の置き方に、何か努力の跡がある。
目は明るい。
口元は笑っているようにも見える。
歳は、匙にはよく分からない。若くはないが、老人でもない。
周りに数人の男がいた。
連れなのか、従者なのか、友人なのか、護衛なのかは分からない。
ただ、その人たちは、その男より少し後ろに立っていた。
匙は、男を見て思った。
――偉そう。
それから、もう一つ思った。
――女たらしっぽい。
根拠はなかった。ただ、口元と目の動きが、なんとなくそうだった。
市場の女たちや、若い男や、店番や、匙まで、全部を同じ速さで見て、必要なところだけ拾う感じがした。
かなり嫌な感じだった。
店番の男は、さっきまでの顔をすぐにしまった。
「いえ、この小娘が妙な言葉で。銅貨も怪しく、どこの者とも言わず」
白い衣の男は、匙を見た。
「どこの者だ」
匙はむっとした。
いつも同じことばかり聞かれる。
「遠いところ」
「ローマから見れば、たいていのところは遠い」
「では、もっと遠いところ」
男の口元が少し動いた。笑ったのかもしれない。
「便利な答えだ」
「便利はよい」
周りの一人が、息を呑むような音を立てた。白い衣の男は怒らずに、匙の手元を見た。
「銅貨を見せろ」
「いや」
店番の男が顔をひきつらせた。
「お前、何を」
白い衣の男が軽く手を上げた。それだけで店番の男は黙った。
匙はそれを見た。
声を上げていない。叩いてもいない。ただ、手を上げただけなのに他人が黙る。
嫌な男だ、と匙はまた思った。
白い衣の男は匙に言った。
「私は店の男ではない。奪わない。偽物かどうか見るだけだ」
「見たら返す?」
「返す」
「本当?」
「私は、この程度の銅貨を取るほど金に困ってはいない」
嫌味な言い方だった。
匙は迷ってから、一枚だけを渡した。男は銅貨を指先で返し、表と裏を見た。
「本物だ」
匙に返す。
匙は素早く銅貨を握りしめた。
男は店番の方を向いた。
「これでいちじくは買えるな」
店番は渋い顔をした。
「しかし、こいつは」
「こいつではない。子どもだ」
店番が口を閉じた。
男はさらに言った。
「ローマは、いちじくを買いに来た子ども相手に、出自を調べる役所になったのか」
周囲で小さな笑いが起きた。店番は赤くなった。
匙はその笑いも嫌だった。
男は匙を助けている。多分。
でも、助け方が嫌だった。店番を刃物ではなく言葉で刺している。しかも笑わせながら。
匙はそれが、あまり好きではなかった。
店番は乱暴に干しいちじくを包み、台の上に置いた。
「一枚だ」
「高い」
匙は言った。
店番がぎょっとした顔をした。
白い衣の男の目が、少し輝いた。
「高いと思うのか」
「少し」
「では、いくらならよい」
匙は考えた。
ローマの相場は知らない。でも男の言い方からして、ここで黙ると負けの気がした。
「半分」
店番が怒鳴りかけた。
「この……」
白い衣の男が今度ははっきり笑った。
「半分だそうだ」
「無理です」
「では、少し負けてやれ。言葉の悪い子どもが値切りだけは覚えた。ローマの教育に悪くない」
店番はしぶしぶ、別の小さな包みを作った。
匙は銅貨を渡し、干しいちじくを受け取った。
少し勝った。
しかし気分はあまりよくなかった。
白い衣の男が匙に言った。
「礼は?」
匙は男を見上げた。
「なぜ」
「いま、困らずに済んだ」
「お前が来る前から困っていた」
「私が来たから、それ以上困らずに済んだ」
「でも、お前は私を見せ物にした」
周囲が静かになった。今度の静けさは、さっきより硬かった。
店番の男が大きく目を開けた。白い衣の男の連れの一人が、一歩前に出かけた。
男はまた手を少し動かした。
それで、連れは止まった。
匙はその手を見た。
やっぱり嫌な男だ。
白い衣の男は、匙をじっと見た。
「見せ物にされたと思ったか」
「思った」
「助けられたとは思わないのか」
「少し思う」
「では、礼を言え」
「ありがとう」
匙は言った。
「でも、お前の言い方は嫌」
周囲がまた止まった。
白い衣の男は怒るかと思ったが、怒らなかった。むしろ楽しそうになった。
「嫌か」
「嫌」
「どこが」
「笑っている。でも優しくない」
店番の男が、もうやめろ、という顔をした。匙は見なかった。
男は少し顎を引いた。
その目が急に近くなった。距離は変わっていないのに、見られている感じが強くなった。
「お前は、優しさが欲しかったのか」
「いちじくが欲しかった」
男は笑った。
「正直だ」
「嘘をつくと、あとで難しくなる」
「嘘をつかないと、早く死ぬこともある」
匙は黙った。
それは少し知っているが、この男に言われたくなかった。
男は続けた。
「ローマで一人で歩くなら、まず誰かのもののふりをしろ。誰かの家の子、誰かの使い、誰かの奴隷、誰かの客。何でもいい。何にも属さない子どもは、すぐ拾われる」
「拾われたくない」
「なら、拾う側に理由を作るな」
言っていることはたぶん正しいが、やはり嫌な感じだった。
匙は干しいちじくの包みを抱えた。
「お前は、いつもそうやって人に言うのか?」
「どうやって」
「上から」
周りの誰かが小さく咳をした。白い衣の男は少し首を傾けた。
「背が高いからな」
「そういうことではない」
「では、どういうことだ」
「お前が喋ると、人が黙る」
男は、ほんの少しだけ黙った。
「お前は怒鳴ってない。でも人が黙る。手を上げると、人が止まる。笑うと、人が一緒に笑う。でも、お前を見て笑っているのではない」
男の顔からは笑いが消えなかった。目だけが少し変わった。
「よく見る子どもだ」
「見ないと危ない」
「誰に教わった」
匙は答えなかった。
顔なし、とも、星船、とも言えない。
父、母、とも言えない。
誰に教わったのか、自分でもよく分からない。
男はそれ以上追わなかった。
「名は」
「匙」
「サジ?」
「匙」
「変な名だ」
「便利」
「何でも便利で済ませるな」
「便利は強い」
男はまた笑った。
「お前、いつか誰かにひどく怒られるぞ」
「今、お前に怒られている」
「これは怒っていない」
「では何」
「忠告だ」
「忠告は怒るのと似ている」
「似ているが、少し安い」
「安い?」
「怒りには手間がかかる。忠告は通りすがりにもできる」
匙は少し考えた。
たしかに、この男は通りすがりだった。匙の人生に長くいる気がない。
興味を持っているようで持っていない。助けたようで助けていない。怒ったようで怒っていない。
通りすがりに言葉を投げている。
小石みたいに。
匙は言った。
「お前は暇なのか」
今度は男の連れの中から、はっきりと息を吸う音がした。
男は少し面白そうにした。
「暇に見えるか」
「少し」
「それは困ったな」
「困るのか」
「忙しい男に見える方が得だ」
「では、そういう顔をすればいい」
「お前は顔の使い方まで教えるのか」
「禿げているから、顔が見えやすい」
完全な沈黙が落ちた。
市場の音はまだある。
遠くでロバが鳴いた。匙の周りだけが石のようになった。
匙は言ってから気づいた。
まずい。
とてもまずい。
顔なしが耳の奥で、細く警告を出した。
「発話撤回推奨」
遅い。
白い衣の男は、ゆっくりと匙を見た。
もう笑っていなかった。それでも顔全体が怒りに変わったわけではなかった。
怖いのは、そこで怒鳴らないことだった。
男は静かに言った。
「お前は本当に、長生きに向いていない」
匙は干しいちじくを抱え直した。
「悪かった」
「早いな」
「早く謝ると、少し助かる」
「誰に教わった」
「いろいろ」
「では、もう一つ覚えろ」
男は少し身を屈めた。目の高さが、ほんの少し近づいた。
「見たことを全部口に出すな。とくに、相手がそれを知っているときは」
匙は、また男の額を見そうになったが我慢した。
「知っているなら、言っても同じ」
「違う」
「なぜ」
「人は、知っていることを他人の口から聞かされるのを嫌う」
匙は少し考えた。
分かるような、分からないような話だった。
「面倒」
「それが人間だ」
「人間は面倒」
「その通り」
男は、急にまた笑った。
「そこはよく分かっている」
匙はむっとした。
「お前も人間」
「残念ながら」
「残念なのか」
「時々な」
その言い方はほんの少しだけ、さっきまでと違った。
皮肉ではあるが、自分にも刃を向けている感じがした。匙は、その小さな違いをうまく言葉にできなかった。
白い衣の男は立ち上がり、店番に向かって言った。
「この子どもを追うな。銅貨は本物だ。値切りもした。ローマ市民の真似事としては十分だろう」
店番は小さくうなずいた。
それから男は匙に向かって言った。
「行け。次は、もっとましな嘘を持って歩け」
「嘘は嫌」
「では、ましな沈黙を持て」
「沈黙」
「そうだ。沈黙は、安くて役に立つ」
「お前はあまり使ってない」
男は一瞬止まり、それから笑った。
「痛いところを突く」
「突いてない」
「突いている」
男はもう歩き出していた。
さっきと同じように周囲の人が道を空ける。
匙はそれをじっと見た。
人々は男に押されたわけではない。自分から避けた。避けることを知っていた。
男もそれを知っていた。その上で、ゆっくり歩いていた。
嫌な歩き方だった。
強い歩き方ではない。急いでいる歩き方でもない。ただ、道が空くことを疑っていない歩き方。
匙はこの男が何者なのかは知らない。
ただ、この男が笑うと周りは笑う。この男が黙ると周りも黙る。この男が誰かを許すと、その誰かは助かったことになる。
許すという行為が、優しさではなく、上から落ちてくる小石みたいだった。
嫌な感じだった。
匙は干しいちじくを一つ食べた。
******
顔なしが、耳の奥で控えめに言った。
「当該個体、政治的重要度が高い可能性」
「知らない」
「記録照合を推奨」
「知らない」
「少なくとも現地有力者と推定」
「禿げていた」
顔なしは少し黙った。
「その特徴は記録分類に不十分」
「女たらしっぽかった」
「その特徴も分類に不十分」
「偉そうだった」
「それはやや有効」
匙は包みを抱えたまま歩き出した。
ローマの道はまだ硬かった。石の上を歩くと、足の裏に衝撃が返ってくる。
周りの人は多い。
誰も匙を見ていないようで、時々見る。見ると、すぐに何かに分類する。
奴隷。子ども。異邦人。迷子。小間使い。
バルバラ。
匙は口の中で、その言葉を転がした。
嫌な言葉だった。でも、完全に捨てられない言葉でもあった。
ローマから見れば匙はローマではない。
言葉も曲がっている。服も少し変。家もない。誰のものでもない。
だから、ローマは匙を雑に呼ぶ。
匙も、ローマを雑に呼んだ。
石の町。怒鳴る店。禿げた偉そうな男。
お互い雑だった。
ただ、匙は思った。
雑に呼ばれたとき黙るかどうかは、自分で決めたい。
次に聞かれたら、何と言うか。
誰の子だ。どこの者だ。誰に仕えている。
匙は干しいちじくの種を噛みながら考えた。
答えはまだなかった。
星船の子ではない。ローマの子でもない。誰かの奴隷でもない。家の子でもない。
でも、何でもないと、すぐ拾われる。
ましな嘘。
ましな沈黙。
匙は、さっきの男の言葉を思い出して、少しむかついた。
「ましな沈黙」
小声で言ってみる。悪くはない。
でも、あの男に教わったと思うのは嫌だった。
匙はもう一つ、いちじくを食べた。
甘い。
ローマの嫌なところより、干しいちじくの甘さの方を覚えていたい。そう思って匙は市場の端を抜けた。
******
この日の男の名前を匙は覚えなかった。
顔なしが後で何度か説明しようとしたが、匙はだいたい聞かなかった。
ローマには、禿げて、女たらしっぽくて、偉そうで、笑っているのに優しくない男がいた。
匙の記憶には、そのくらいで残った。




