空気を吸う場所
匙はロンドンから戻ったあと、星船でしばらく咳をしていた。
喉の奥に煤が残っている感じがした。
「顔なし」
「何か」
「ロンドンは空気が汚い」
「石炭煤煙、馬糞、産業排煙……」
「長い。肺に悪い町」
「そうだ」
「マルクスはあそこでよく字を書けるな」
「健康状態はかなり悪かった」
「字に怒る前に空気に怒れ」
サルが少しだけ同意した。
匙は湯の部屋で喉を温め、蜂蜜入りの湯を飲み、それでも不機嫌だった。
「空気が良い南の島に出せ」
星船はすぐ候補を出した。
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候補:タヒチ、サモア、トンガ、ラパ・ヌイ、マルケサス、ハワイ、セーシェル、モーリシャス、ニューカレドニア
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「空気が良くて、飯と水があって、人がいて、煙突と新聞が少ないところ」
「時代指定は」
匙は少し考えた。
「大きな船がたくさん来る前」
サルが言った。
「その時期は注意が必要だ。病気を持ち込むな。鉄や酒や布を配るな。珍しい物を交換に使うな」
「私は空気を吸いに行くだけ」
「それでも、持ち込むものは制限する」
「何を」
「病原体。金属製品。酒。布。その他、現地で価値の高い物」
「何も配らない」
顔なしが言った。
「候補。十八世紀中期のタヒチ。欧州船との継続的接触前」
「そこでよい」
少し間を置いて、顔なしが続けた。
「ただし、人が住んでいる。食べ方も、触れてよい物も、偉い者も、祈りもある」
「分かってる。空気を吸いに行くだけ」
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星船の扉の向こうは、朝の海辺の近くだった。
ロンドンとは匂いが全く違った。
煤も馬糞も石炭もなかった。かわりに湿った葉と海と花と果物、火の煙、土、魚、人の身体、椰子、そして風があった。
匙は立ったまま、まず黙って目を閉じた。
「……吸える」
「大気質は良好」
「顔なし、説明したら噛む」
「黙る」
匙は深く息を吸った。
喉の奥に残っていたロンドンの黒いものが、少しずつ剥がれて消えるような気がした。
「南の島は空気が甘い」
「花や植物揮発成分、海風――」
匙は目を開けて宙を睨んだ。
星船はすぐに黙った。
海は青かった。
ただ青いというよりも、光がまばゆく砕けているようだった。
白い砂、珊瑚、遠くに山。
緑が濃い。
雲が大きい。
匙はしばらく海を見続けた。
「水が広い」
「島嶼環境」
「飲めない水」
「そうだ」
「でも、見ているだけなら強い」
近くで子供たちが笑っていた。
水辺を走り、誰かが転ぶ。少し離れたところから大人の声が飛ぶ。
豚の鳴き声がして、鶏が砂を蹴る。
人々は匙を見つけると、手を止めた。
何人かはそのまま見ている。子供は隠れず、少し近づいてくる。
匙の外見は現地に寄せて調整されていたが、それでも変は変だった。
星船の翻訳は、匙の二十一世紀英語と、まだ少し残っている古い言葉と、ほかの断片をまとめてポリネシア語へ移そうとした。
「翻訳、薄くしろ」
「安全のためには精度を――」
「分かりすぎると、私の言葉じゃなくなる」
「了解」
翻訳が弱まり、人々の声が、そのまま耳に入ってきた。
母音が続き、短い語が何度も返る。呼びかける時だけ声が高くなり、年上の者が話すと、近くの子供たちが少し静かになる。
匙は耳を澄ませた。
「息をたくさん使う言葉」
最初に匙を近くへ招いたのは、年配の女だった。
木陰で葉に何かを包んでいた。脇には切った果物と、浅い籠が置いてある。
匙に気づくと、手を止めずに一度だけ顔を上げた。
近くの子供に何か言い、もう一度匙を見る。
笑ってはいたが、知らない子供だからといってすぐ近づいてくるような顔ではなかった。
匙は少し安心した。
女は匙の服を見て、首を傾げた。
匙も女の腰に巻かれた布と、肩から掛かった薄い布を見る。
自分の知っている服とは、隠す場所が違う。
女は籠から黄色い果物を一つ取り、自分でひとかけ食べてから匙へ差し出した。
匙はそれを見た。
毒ではない。少なくとも、女は自分で食べた。
受け取る。
「盗んでないな」
女には通じなかった。
でも匙が食べると、少しだけ口元が緩んだ。
そのあと匙は、女のあとをついて村の中を歩いた。
水辺では男が魚をさばき、少し離れたところで子どもが葉を洗っている。
木陰には果物が積まれ、地面を掘った跡のそばでは根菜が籠に入れられている。
匙が一つ手に取ろうとすると、さっきの女がすぐに声を飛ばした。
匙は手を止める。
女は別の籠を指した。
「こっちはいい?」
通じてはいない。それでも女は頷いた。
少し先では、子どもが大人に何か言いつけられていた。
嫌そうな顔をしながら走っていき、途中で別の子に捕まって笑い始める。
後ろからまた声が飛んだ。
匙は村を見回した。
「ここにも決まりがある」
「当然」
「南の島だから、勝手に食べてもいいわけじゃない」
「当然」
「顔なしは言いそうだった」
「言っていない」
「今も少し得意そう」
「気のせい」
魚を焼く匂いがして、匙はそちらへ向いた。
葉の上に並べた魚から脂が落ち、火の近くで石が熱を持っている。
「飯が強い」
女が匙を見つけると、籠を顎で示した。
匙は少し迷ってから持ち上げた。
次は葉。次は石。
言葉はほとんど分からないが、指されたものを運べばよかった。
しばらくすると女が匙の手元を見て、短く何か言った。
翻訳は薄いままで、意味は半分しか来ない。
手は使える、と言ったところだけが分かった。
匙は少しだけ胸を張った。
女は焼けた魚を葉の上へ載せ、その一つを匙へ差し出した。
「私に?」
女は顎で魚を示した。
食え。
匙は受け取った。
「働いたから?」
女には通じなかった。
ただ、匙が魚を口へ運ぶと、満足そうに次の魚を石の上で裏返した。
魚は脂が熱かった。
塩気は薄い。煙の匂いと魚の味がそのまま残っている。
その時だった。
強硬接触班三が勝手に空中に表示した。
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現地食文化比較のため、後世調味料を微量提示――
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サルが即座に消し、匙も同時に言った。
「いらない」
「まだ提示していない」
「顔なしの棚が開く音がした」
強硬接触班は醤油とレモンと胡椒の転送を急遽中断した。
匙は焼けた魚を見ながら言った。
「ここの飯はここの空気で食う」
「了解」
「金の字の男にこの魚を食わせたい」
「マルクスか」
「咳が少しよくなるかもしれない」
「時代接触が」
「冗談だ」
「匙が冗談を言った」
「記録するな」
「しない」
食後、匙は木陰で少し休んだ。
風が通る。葉が鳴る。人の声は遠い。
ロンドンの閲覧室では、字が人を煮ていた。ここでは、風が人を少し冷ます。
匙はノートを開いた。
South island air = can breathe.
(南の島の空気=吸える)
Food rules here too.
(ここにも飯の決まりがある)
Fish with local air. Do not add face-no sauce.
(魚はここの空気で食う。顔なしソースはいらない)
星船が少し傷ついた。
「顔なしソースとは何か」
匙は答えなかった。
午後、匙は海で足を洗った。
泳ぎはしない。
そもそも泳げない。
水は好きだが海は信用していない。川とも湯とも違う。広すぎるし塩辛い。底が見える場所でも、急に深くなる。
子供たちが水へ入っていくのを、匙は座って見ていた。
一人の子が匙に手招きしたが、匙は首を振った。
「今日は足だけ」
波が来て匙の足首を濡らした。波が引いて砂が少し動いた。匙は小さく笑った。
「水が足の下を盗む」
「波による砂の移動――」
「長い」
子供も笑った。匙の顔で笑ったらしい。
匙は少しだけ水を蹴った。それで満足だった。
夕方近くになると、昼から何度か視線を感じていた男が匙の近くまで来た。
若くはない。髪には少し白いものが混じっている。腰に巻いた布も、肩に掛けた布も、ほかの男たちより整っている。
男が来ると、近くにいた者が少し場所を空けた。
子どもが一人、母親のそばへ戻る。さっきまで大声で話していた男も、声を落とした。
「偉い人?」
顔なしが答えた。
「この地区の首長に近い立場。土地と人を束ねる側」
「王?」
「違う」
「じゃあ、ここで一番、勝手にできる人?」
「それも違う」
「面倒」
男は匙の前まで来たが、すぐには話さなかった。
まず、匙が持っている物を見た。
次に服を見て、足元を見て、少し離れたところの海を見た。
匙は落ち着かない気持ちになった。
それから、男は短く聞いた。
「どこから来た」
匙は少し考えた。
「遠いところ」
男は海の方を顎で示した。
「向こうか」
「うん」
「何をしに来た」
匙は胸に手を当てた。
「空気」
男の眉が少し動いた。
匙は咳を一つしてから、空を指した。
「いたところ、煙が多い。ここは少ない」
男は匙を見た。
次に、自分でも空を見上げた。
「それだけか」
「それだけ」
少し間があった。
男は近くの女へ何か言った。女は笑い、匙が昼に食べた魚の葉を指した。
男の口元が少し緩んだ。
「なら、食べて、息をして、暗くなる前に寝る場所を決めろ」
匙は頷いた。
「分かった」
夜になる前には帰るつもりだったが、匙は夕焼けを見て動けなくなった。
海の向こうにゆっくりと光が落ちる。
日の入りの瞬間には太陽が波に溶ける。
空が赤くなり、紫になり、雲が変わる。人々の声が少し静かになり、火の匂いが強くなる。
虫が鳴き、波が暗くなる。
匙は、かなり長い間、砂浜に座っていた。
「顔なし」
「何か」
「ロンドンの空は低かった」
「煙と雲により視界が悪い」
「ここは空が大きい」
「そうだな」
「草原の空とも違う」
「そうだな」
「草原は逃げる空。ここは包む空」
星船は「ここに住みたいか」と聞きかけて、やめた。
匙は自分で言った。
「住む場所ではない。今日は吸う場所」
「そうだな」
「それでいい」
星船に戻る前、女が匙に葉包みを渡した。中には焼いた魚の残りと、切った果物が入っていた。
「私に?」
女は自分の胸を叩き、匙を指して、口へ運ぶ仕草をした。
匙は包みを受け取った。
「盗んでない」
女には通じなかったが、匙が抱えると笑った。
匙も何か返そうとして、荷物へ手をやった。
「後代の物は渡さない」
顔なしが言った。
匙は手を止めた。
少し考えて、近くにあった樹皮布の切れ端を指した。
「これ、少し使っていい?」
女は何をするのか分からない顔をしたが、小さな端切れを一枚よこした。
匙は火のそばから黒く炭化した細枝を拾った。
布の端で試すと、黒い線がついた。
女が覗きこんだ。
匙は布に描いた。
煙を吐く屋根。
その下で咳をする小さな人。
海。
木。
魚。
最後に、葉の前に座る女。
女は途中から手を止めて見ていた。
匙が布を差し出すと、女は絵を見て、匙を見て、もう一度絵を見た。
それから、自分を描いたらしい人の形を指し、自分の胸を指した。
「うん。お前」
女は声を上げて笑った。
魚を指し、絵の魚を指し、何か早口で言う。
翻訳は薄いままだった。
魚。小さい。
そのくらいしか届かなかった。
「絵だから小さい」
女には分からない。
それでも、匙が布をもう一度差し出すと、今度は受け取った。
女が指先で黒い線をこすっると、指に少し煤がつく。
布を裏返す。光へかざす。また表へ戻して、煙の絵を指す。
匙は咳をする真似をした。
「いたところ」
次に海と魚を指した。
「ここ」
女は少しだけ頷いた。
それから樹皮布を折らずに、葉包みとは別の場所へ置いた。
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星船に戻ると匙はまず深呼吸した。星船の空気は清潔だが、少し無臭すぎた。
「顔なし」
「何か」
「ここにロンドンの汚い空気を入れたら噛む」
「入れない」
「南の島の空気も真似しすぎるな」
「なぜ」
「真似は真似だから」
「了解」
「たまに、本物を吸いに行く」
「再訪候補に入れるか」
「私が覚える」
「安全条件のみ覚える」
「そう」
匙は包みの魚を開けた。
魚を星船で食べると少し味が変わった。現地の風が足りない。
「顔なし」
「何か」
「飯には空気も入っている」
「比喩として」
「比喩じゃない。入ってる」
「そうだな」
匙は、エミリーにもらったノートに書いた。
London = dirty air, angry letters.
(ロンドン=汚い空気、怒る字)
South island = good air, strong fruit, fish with wind.
(南の島=よい空気、強い果物、空気の入っている魚)
最後に日本語で書いた。
今日は住まない。吸いに行った。
サルが言った。
「よい旅だった」
匙は少しだけ頷いた。
「よい呼吸だった」




