髭の男と唯飯論者
アレクサンドリアから戻ってから、匙は星船の学習区画で、博物館と図書館に関する資料をよく漁るようになった。
最初は建物の写真を眺めていた。
そのうち、収蔵品の来歴を読むようになった。
誰が集めた。どこから来た。買った。贈られた。掘り出した。戦争で持ち帰った。
図書館についても同じだった。
本の数より、どうやって集めたかを先に見る。
別の時代へ降りた時にも、町に図書館や博物館があると聞けば寄りたがった。
飯屋ほどではないが、かなり高い順位になった。
ある日、匙は星船の資料を閉じた。
「顔なし。大英博物館というところに行く」
「目的は」
「字の家。あと、ものの家も同じところにある」
「大英博物館及び図書館」
「うん。両方見る」
******
顔なしが選んだのは、一八六〇年代半ばの秋のロンドンだった。
ブルームズベリーの裏通りに出ると、冷たい空気のなかに石炭の煙が混じっていた。
濡れた石畳を馬車が通り、車輪の脇で泥と馬糞が跳ねる。煙突の煙が低い空へ流れ、新聞を抱えた少年が角で声を張っている。
匙は二度息をして、鼻をしかめた。
「東京の煙より悪い」
「石炭煤煙の濃度が高い」
「肺に悪い町」
「そうだな」
顔なしの案内で街を歩く。
広い通りをいくつか渡ると、建物の向こうから大きな列柱が見えた。
「ここ?」
「大英博物館」
匙は立ち止まった。
太い柱が並び、その奥へ人が吸い込まれていく。
「字の家は?」
「この建物の中にある」
「ものの家の腹に?」
「そうだ」
匙は頷いた。
「先にものを見る」
「図書館が目的ではなかったか」
「同じ家なら、どんなものを飲み込んでるか見る」
中へ入ると、最初に並んでいたのは石の顔だった。
胸から上だけの男たちが壁際に何人も並び、白い目で入口の方を見ている。
説明書きにはローマ人だとあった。床の近くには、色石を組んだ古い舗装まで置かれていた。
その先へ行くと、今度はギリシアの像が増えた。腕のないもの、鼻の欠けたもの、墓から来た石。
角を曲がったところで、匙は足を止めた。
人の頭をした、大きな翼のある牡牛が通路を塞ぐように立っていた。脚が何本あるのか、一度見ただけでは分からない。
「何これ」
「アッシリア。ニムルドの宮殿から運ばれた守護像」
「宮殿ごと持ってきた?」
「像と浮彫を中心に――」
「十分」
壁には、髭の男たち、馬、戦車、兵士を彫った石板が長く続いていた。
その先では、今度はエジプトの巨大な石の頭が現れた。黒っぽい石の顔、王の名を刻んだ文字、石棺。
匙は後ろを振り返った。
ローマ。ギリシア。アッシリア。エジプト。
一つの道を少し歩いただけで、場所も時代も何度も変わる。
「変な並べ方」
「この時期の展示構成には分類上の制約がある」
「世界をそのまま運んできて、廊下に押し込んだみたい」
そのまま、図書館の閲覧室へ向かった。
匙は扉を開けると、足を止めた。
まず、天井を見た。それから壁を見て、机を見た。
閲覧室は丸かった。
丸い部屋の中央から机が放射状に延び、その間に人間が何列にも座っていた。
一人が小さな紙へ何か書いて係員へ渡すのが見えた。
しばらく待つと奥から本が来た。別の男は読み終えた本を係員に返した。
匙は扉のそばで、その様子をしばらく眺めた。
「字に会うまでが長い」
「蔵書請求制度」
「面倒」
「大量の蔵書を管理するには必要」
「アレクサンドリアより字が隠れてる」
少し歩いてから、匙は部屋全体を見回した。
「ここは字の鍋」
「鍋とは」
「丸い。中で人間が煮えてる」
「意味不明瞭」
「顔なしはやっぱり比喩に弱い」
読む者、写す者、眉間を押さえる者、本を開いたまま眠りかけている者。
その中に一人だけ、紙と本に埋もれているような男がいるのを見つけて、匙は足を止めた。
まず、髭が目に入った。
頬から顎を覆うどころではない。黒く重い髭が顔の下半分を埋め、胸元まで広がっている。
髪も多く、額の両側から後ろへ押しやられていた。机へ顔を寄せるたび、髭まで紙の上へ落ちそうになった。
その男は本を読んでいた。
余白へ印をつけ、別の紙を引き寄せ、猛烈な勢いで何行も書く。止まる。眉をしかめて何か独り言を言い、書いたばかりの紙を破って握りつぶす。
それからまた別の資料を開く。
「あれ、字と喧嘩してる」
「カール・マルクスである」
「誰」
「ドイツ出身の経済思想家。現在ロンドンに亡命中。政治経済について研究し――」
「長い」
「働く人間と金について、大きな本を書いている」
「つまり、金の字の男」
「粗い」
「間違い?」
「完全には間違いでない」
匙はマルクスの席に近づき、後ろから覗き込んだ。
彼の手元には新聞、統計表、議会報告、何かの抜き書きが重なり合っていた。
原稿の字はほとんど殴り書きのようで、匙にはほとんど読めなかった。
ただ、活字の見出しには知っている単語がいくつもあった。
賃金。
工場。
労働時間。
子供。
マルクスがようやく気づいて顔を上げた。
「何か用かね」
「お前は何を書いてる」
「経済についてだ」
「経済?」
「人が働き、商品を作り、それが市場で……」
「長い」
匙は机の紙を指した。
「働く人と金の話?」
「そう言ってもよい」
匙はもう一度紙を見た。
「飯の話もある?」
マルクスは少し眉を上げた。
「あるとも。賃金の話をして、飯の話をしないわけにはいかん」
匙はもう少し紙を見ようとした。マルクスが今度は匙の方をちゃんと見た。
「ところで君、閲覧券は持っているのかね」
匙は止まった。
「顔なし」
「認識補正済み」
「たぶんある」
マルクスは一瞬黙った。
「“たぶんある”閲覧券とは、ずいぶん便利だな」
口元が髭に隠れてよく見えないが、笑ったらしい。少し咳き込んだ。
匙は空いた椅子を指した。
「ここ、座っていい?」
「私の机ではない。図書館の机だ」
匙は座った。
マルクスは紙へ戻った。
匙も横から紙を見た。
「何を書いてる」
「君は質問が多いな」
「お前は字が多い」
マルクスはペンを止めた。
「労働力が商品となり、その価値と、それによって生み出される価値との差が……」
「長い」
「まだほとんど何も説明していない」
「飯にして」
「飯?」
「飯なら分かる」
マルクスは少し嫌そうな顔をした。
「君は面倒な聞き手だな」
「お前は面倒な話し手」
髭の奥で、また口元が動いた。
「では、パンにしよう」
マルクスは紙の端へ丸を十個書いた。
「君が一日にこれだけパンを作る」
「十個」
「仮に、君が生活するために必要な賃金が三個分だとする」
「三個では足りない日もある」
「仮定だ」
「仮定はよく嘘をつく」
マルクスは匙を見た。
「それは哲学者にも言ってやるといい」
指で残りの七個を示した。
「ともかく、君は十個分の価値を作る。しかし、君に支払われるのは三個分だ」
「残りは?」
「所有者の側へ行く」
「私が作ったのに?」
「工房も、材料も、道具も、所有者のものだ」
「でも作ったのは私」
「だから問題なのだ」
匙は丸を睨んだ。
「七個取る?」
「パンそのものを七個奪う話ではない。工場や道具を持つ者が、君に賃金を払い、残りを自分のものにする」
匙は少し考えた。
毎日働くたびにそうなる。一人が勝手に決めたわけでもない。
「仕組みで取る?」
マルクスが眉を寄せた。
「そう単純に言うな」
「違う?」
「法的には、労働者自身が労働力を売る。奴隷のように所有されているわけではない」
「売りたくないなら?」
「売らなければよい」
「それで飯は?」
「食えなくなる者が多い」
匙は顔を上げた。
「では、逃げられない」
マルクスはすぐに首を振った。
「奴隷とは違う。法の上では自由だ。主人を替えることもできる」
匙は丸を見た。
「働かないのも自由?」
「自由だ」
「飯は?」
「働かなければ、食えなくなる者が多い」
匙は顔を上げた。
「それでも自由?」
マルクスは少し眉を寄せた。
「だから、その自由がどういう条件の上にあるのかが問題なのだ」
匙はしばらく考えた。
「縄はない」
「ない」
「でも、行かないと飯がない」
「そうだ」
匙はパンの丸を指で押した。
「変な自由」
マルクスが少し笑った。
「それについて、私も長い本を書いている。そのためにここへ来ている」
匙は紙の山を見た。
「だから字に怒ってる」
「字ではなく、現実に怒っている」
少し間を置いて付け足した。
「字にも時々怒るが」
匙は少し笑った。
マルクスが聞いた。
「君は工場で働いたことがあるのか」
「ない」
「では、なぜそこまで食うことにこだわる」
匙の顔から笑いが消えた。
一瞬、円形閲覧室の音が遠くなった。
濡れた土。
冷たい壁。
腹の奥が痛くなるほど何も入っていなかった夜。
水を飲んでも、すぐ吐いた。足の指の感覚がなくなっていった。
誰かの捨てたものを拾おうとして、先に別の手が伸びた。
それは、ほんの数年前のことだった。
匙は机を見たまま言った。
「昔、飯がなかった」
マルクスは何も言わなかった。
「寒かった。水も悪かった。寝るところもなかった」
匙は自分の手を見た。
今は温かい。指が動く。爪も割れていない。
「死にそうだった」
マルクスの顔から、議論していた時の勢いが少し消えた。
「……そうか」
匙は顔を上げた。
「お前は、貧しい人を調べてるのか」
「そうだ」
返事はすぐだった。
「工場、賃金、住宅、病気、子供の労働……」
「見るのか」
マルクスが止まった。
「そういう人を、外から見るのか」
「見るだけではない。記録し、なぜそうなるのかを調べる」
匙は少し黙った。
「でも、腹が減ってる時は、そんなふうに考えない」
マルクスは黙った。
「腹が痛い。寒い。眠れない。殴られる。水がまずい。明日まで生きるか分からない」
匙は机の紙を指した。
「字にすると、遠くなる」
マルクスは小さく首を振った。
「遠くなる危険はある。だが、書かなければ、その苦しみを都合よく忘れる者もいる」
「字は飯にならない」
「ならない」
「だから弱い」
「本だけならな」
匙はマルクスを見る。
マルクスも匙を見ていた。
「だから本だけで終わらせるつもりはない」
「何をする」
「読ませる。議論させる。組織する。争わせる。制度を変える」
「長い」
「君はいつも肝心なところで止める」
匙は少し考えた。
「本は鍋じゃない」
「それは確かだ」
「でも、鍋を取ったやつを指すことはできる?」
マルクスは髭を指で押さえた。
「そうだ。それならできる」
そこで匙はノートを開いた。
Book is not pot. Book can point to who took pot.
(本は鍋ではない。鍋を奪った手を指すことはできる)
マルクスが横から覗いた。
「英語で書くのか」
「学校で覚えた」
「どこで」
「遠くて鳥がうるさいところ」
「便利な答えだな」
「お前も便利な言葉を使う」
マルクスは笑った。
昼になると、マルクスは机の上の資料を片付け始めた。
「飯?」
匙が聞いた。
「飯だ」
「行く」
「誘った覚えはないのだが」
「でも飯だろ」
「君の哲学は恐ろしく一貫しているな」
二人で外へ出た。
通りの向こうで新聞を抱えた少年が走っていた。靴の先が破れている。
匙の目がそちらへ動く。
マルクスも気づいた。
「ロンドンには、ああいう子供が多い」
匙は少年を見たまま言った。
「どこにでもいる」
マルクスは何も返さず、少ししてから言った。
「工場にもいる」
「飯は?」
「十分でないことが多い」
「休む?」
「短い」
「それも書け」
「もう書いている」
匙はようやく歩き出した。
安い食堂へ入った。
パンと何かの煮込み、マルクスには薄いビールも出た。
匙はパンをちぎった。
「図書館は飯禁止だった」
「本に汁をこぼされては困る」
「それは分かる」
「だから外で食う」
匙は頷いた。
「字の家の近くには飯屋が必要」
「実に唯物論的だ」
匙は顔なしへ小さく聞いた。
「ゆいぶつろん、とは何」
「物質的条件を重視する――」
「長い」
マルクスは匙と顔なしのやり取りを聞き落とし、ビールを一口飲んで笑った。
「つまり、君は何でも飯から考える」
「飯は大事だ」
「唯物論者より徹底している」
匙はパンを煮込みへ沈めた。
「なら、私は唯飯論者」
マルクスは吹き出した。
咳まで混じった。
「笑うな」
「それは無理だ」
「悪い?」
「いや。かなりよい」
「褒めるな」
「では、使える」
「それならいい」
その後も何日か、匙は円形閲覧室へ通った。
マルクスは相変わらず紙を読み、抜き書きをし、葉巻を置き、咳をし、ときどき誰も聞いていないのに低く悪態をついた。
匙が横にいても、だんだん気にしなくなった。
ある日、マルクスが言った。
「前に君が言った言葉を使いたい」
匙はノートを閉じた。
「勝手に?」
「勝手にではない。聞いている」
匙はマルクスを見る。
「どれ」
「仕組みで取る、という言い方だ」
匙は少し考えた。
アレクサンドリアで書いた言葉が浮かぶ。
Where from? Who said yes?
今度は、それに自分が答える側だった。
「その言葉は、お前の話から出た」
「そうだな」
「でも言ったのは私」
「そうだ」
「では、半分ずつ」
「共著か」
匙は眉を寄せた。
「共著は、飯は出る言葉?」
「出ない」
「なら許可だけやる」
マルクスは笑った。
「ありがとう、唯飯論者」
「それは言うな」
最後の日、匙は聞いた。
「お前の本ができたら、腹の減った子供は助かるのか」
マルクスはすぐには答えなかった。
「……本だけでは助からない」
「やっぱり弱い」
「だから、本だけで終わるとは言っていない」
少し苛立った声だった。
匙はそれを聞いて、少し満足した。
「怒った」
「君が何度も同じところを突くからだ」
「大事だから」
「分かっている」
マルクスは机の紙を指で叩いた。
「本は食事ではない。だが、誰が食事を作り、誰がそれを取り、なぜ別の者が飢えるのかを示すことはできる」
匙は頷いた。
「鍋を取ったやつを指す」
「君は何でも鍋に戻すな」
「分かりやすい」
マルクスは大きな髭の奥で笑った。
帰る前、匙は円形閲覧室を振り返った。
紙片を書いて本を待つ人。黙って読む人。眠る人。咳をする人。紙と喧嘩している大きな髭の男。
「顔なし」
「何か」
「変な家だった」
「何が」
「いろんなところから物を取ってきた家なのに、その中で、誰が何を取ったか調べてる」
「そうだな」
「変」
匙はそう言って、扉を開けて外に出た。
「また来るか」
匙は少し考えた。
「たぶん」
******
星船へ戻ると、匙はノートを開いた。
Marx = angry beard man. Talks too much.
(マルクス=怒っている髭の男。喋りすぎる)
No rope. Still cannot leave.
(縄はない。でも逃げられない)
Book is not bread. Book can point: who took bread.
(本はパンではないが、パンを取った手を指すことをできる)
Ask before taking words.
(言葉を取る前に聞け)
最後に、日本語で書いた。
――唯飯論者。
強硬接触班三が壁に表示を出した。
匙・マルクス共同理論――唯飯論
匙は鍋を掴んだ。
表示はすぐに消えた。




