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匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
第一部 星船の少女

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24/41

アレクサンドリアの字の港

匙が最初に図書館に興味を持ったのは、オーストラリアの学校に通っていた頃だった。


少し前、匙は博物館へ行っていた。

博物館は、ものを置いておく家。 図書館は、字を置いておく家。

最初は、そう分類した。


だが、学校の図書室へ通うようになると、少し違うことに気づいた。

本は棚に置かれたままではない。

子供が持っていき、家で読み、また返す。次に別の子供が持っていく。


「返すまで、少し私のもの」

匙が言うと、図書室の先生は笑った。


一年の終わりには、エミリーから新しいノートをもらった。


SAJI’S PLACES.

匙の場所。


星船に戻ってから、匙はそのノートにいろいろなことを書いた。

学校。飯。湯。虫。馬。熊。

戻りたい場所。戻らなくてもいい場所。

顔なしが出した記録ではない。 匙が自分で書いたものだった。


******


匙は十一歳になった。

たぶん。


六世紀のブルディガラで拾われた時、何歳だったのかは分からない。

星船が身体の成長から、だいたいそう数えているだけだった。


オーストラリアの学校を離れたあとも、勉強は続いた。

読み書き。算数。地図。歴史。自然。

いろいろな時代へ出た時に見つけた字。


「勝手に増やすな」

匙は何度も言った。


だが、読めるものが増えるのは嫌いではなかった。

英語なら子供向けの本はかなり読める。日本語も店や駅の字なら少し拾える。古い時代の字も、顔なしの助けを借りながら追う。


まだ何でも読めるわけではない。

でも、字を見ても逃げなくなった。



ある日、匙は言った。

「顔なし」

「何か」

「字がいちばんたくさん集まった場所はどこ」

「条件による。歴史的知名度、収集規模――」

「長い。いちばん有名な字の家」


少し間があった。


「アレクサンドリア図書館」

「どんなところ」

「プトレマイオス朝エジプトのアレクサンドリアに置かれた大規模な学術施設。ムセイオンに学者を集め、地中海世界各地から書物を収集し、書写、校訂、翻訳、研究を行った。港から入る書物や……」


匙は途中で手を上げた。

「顔なし、長い」

「王と学者が、世界中の字を集めた場所」

匙は少し考えた。

「字の港」

「だいたい合っている」

「そこへ行く」


******


星船の廊下の先に、いつもはないはずの暗い戸口が開いていた。匙はそこを歩いて抜けた。

次の一歩で、足の裏に違和感があった。

いつもの裸足ではない。いつの間にか、薄い革のサンダルを履いている。


匙はすぐに足元を見た。

平らな石が並んでいる。明るい。星船の白い床ではない。


顔を上げると、さっきまでの薄暗い廊下は消えていた。

白く塗られた高い壁が左右に立っている。煉瓦の輪郭がところどころ漆喰の下に浮き、小さな窓がずっと上にある。

片方の壁には木の扉があり、その上から乾いた布が垂れていた。

そこは、建物と建物の間の細い道だった。人は誰もいない。上だけが切り取られたように青く、そこから強い光が落ちている。

表通りはすぐ近くらしく、人の声と車輪の音が角の向こうから聞こえる。


匙はしゃがみこんで、サンダルの紐を指で引いて確かめた。

「また勝手に履かせた」

「必要だった」


次に、匙は袖を見た。それから腰の袋を探り、最後に髪へ手をやった。

いつもの短い髪は、肩に届くくらいまで伸びていた。真ん中で分けられ、耳の後ろを通して低くまとめられている。頭からは薄い布が掛かっている。


匙は壁際の水甕に映った自分の顔を覗いた。

「顔は?」

「大きくは変えていない」

「またか」

「変更可能範囲に限界がある」

「もっと変えた方が隠れやすい」

「必要ない」

匙は頬を引っ張った。

「ほとんど私だ」

「そうだ」

「つまらない」



表の通りに出ると、最初に来たのは字ではなく、港の匂いだった。

海の塩気に魚と船材の匂いが混じる。 濡れた綱が積まれ、荷役の男たちが木箱を担いでいる。獣に引かせた荷車が石の道を鳴らし、その横を、香料や布を抱えた商人が抜けていく。

飛び交う声も多かった。

近くでギリシア語。 少し離れると、別の響きが混じる。

商人の呼び声と役人の命令と荷役の怒鳴り声が、海鳥の鳴き声を押しのけている。


匙は立ち止まった。

「ここは港だ」

「この時期、東地中海最大の港湾都市であり、プトレマイオス朝の都である。紅海、ナイル流域、地中海を結ぶ交易の結節点で……」

「うるさい。つまり、字の家より先に港がある」

匙は船から下ろされる荷を見た。

「字も船で来る?」

「来る」

匙は少し笑った。

「なら、本当に字の港だ」


******


ムセイオンは王の庇護を受けた学術施設で、誰でも自由に入れる場所ではない。

顔なしは匙の周囲に薄い認識補正を展開した。

異邦の少女。 身元は曖昧。 誰かに連れてこられたらしい。 詳しく聞くと面倒そう。


門番は匙をちらりと見て、手を振った。

「入れ」

匙は中へ入り、すぐ小声で言った。

「今の、顔なしの嘘?」

「認識補正である」

「嘘だ」

「部分的には」

「今回は許す。便利な嘘。今日は字を見る」

「珍しい」

「調子に乗るな」


中へ入ると、まず明るい中庭があった。

白い漆喰を塗った壁の前に柱が並び、その奥にいくつもの戸口が開いている。

外の港とは違って、声は少し低い。歩く音と、巻物を広げる音と、遠くで誰かが読み上げる声が重なっている。


中庭を取り巻くように神々らしき像が立ち、中央には若い男の像があった。

髭はなく、額の中央で巻いた髪が左右へ持ち上がり、頭はわずかに傾いている。目は人ではなく、その向こうの何かを見るように上を向いている。

王冠も武器もないのに、立ち方だけは王より偉そうだった。

匙はその台座の脇を通り、柱廊の奥へ進んだ。


開いた戸口の一つから中を覗くと、最初に見えたのは、見慣れた形の本ではなかった。

壁際の棚に、細長い巻物が何段も横たわっている。木箱にも収められ、端には小さな札が付いている。

部屋の中には低い卓が並び、数人の男が巻物を開き、低い声で会話を交わしている。


高い窓から入る光が、空気の中の埃を細く照らしていた。

乾いたパピルス。黒いインク。木と油。人の手。

学校の図書室とはまるで違う。


「字が丸まって寝てる」

「巻物である」

「干し魚みたいだ」

「比喩としては不適切」

「顔なしは比喩に弱い」


近くの若い書記が匙を見た。匙も見返した。

先に目を逸らしたのは書記だった。

匙は少し満足した。


******


最初に匙が長く足を止めたのは、読む場所ではなく、書き写す場所だった。

一人が声に出して読み、別の者が手を動かす。

黙って写している者もいる。 インクを足す者も、乾かした巻物を巻き直す者もいる。


「字の厨房だ」

「写字の作業場」

「字を作ってる。厨房」

「そうだな」


壁際にいた男が顔を上げた。

年齢は匙にはよく分からないが、若くはない。薄く白いものが髭に混じり、背中が少し丸い。

そして指先には黒いインクが染みついている。


「見物なら邪魔をするな」

男がそう言うと、匙はうなずいた。

「よい」

男が眉をひそめた。

「何が」

「邪魔なら邪魔と言った」

「変な娘だな」

「よく言われる」

匙は邪魔にならなさそうな片隅に座った。


男はまた書き始めた。

線を引く。

止まる。

読み直す。

一字戻る。

削る。

書き直す。

匙はしばらくそれを見ていた。


「全部、手?」

男が顔を上げる。

「手以外でどう書く」

「疲れる」

「疲れる」

「間違える」

「間違える」

「それでもやる?」

男は少しだけ笑った。

「やらなければ、残らない」


匙は黙った。

顔なしなら、一瞬で複製できる。

人間は違う。

手が疲れる。目も痛くなる。書き間違える。

それでも書く。


匙は虫柄のノートを出して、一行書いた。

Hands get tired. Still write.


男がノートを見た。

「何を書いた」

「手は疲れる。それでも書く」

「当たり前だ」

「顔なしには当たり前じゃない」

「顔なし?」

「家」

男は聞くのをやめた。


******


ムセイオンに数日通ううちに、匙は巻物そのものより、その周りにある字を気にするようになった。


著者。

題名。

種類。

置いてある場所。


「これは何」

「目録」

顔なしが答える。

「巻物を探すための記録」

匙は少し考えた。

「字の地図?」

「そう考えてよい」


棚の前で書き付けを見ながら巻物を探している男がいる。

一つ違えば、別の箱を開ける。

また戻る。


匙はそれを見て言った。

「目録がないと、字は迷子になる?」

「多ければ、なる」

「字も迷子になるのか」


匙は真面目な顔でノートに書いた。

Make list of my notes. So notes not lost.

(私のノートに目録を作る。そうすれば迷子にならない)


その夜から、匙は自分のノートに簡単な目録を作った。


School words.

(学校の言葉)


Food places.

(飯の場所)


Hot water places.

(湯の場所)


People not to forget.

(忘れない人たち)


Dangerous places.

(危ない場所)


Places to return maybe.

(たぶん戻る場所)


顔なしも見たがった。

匙が壁を睨んだ。

顔なしは諦めた。


******


地図を広げている学者もいた。

地中海、ナイル(ネイロス)、紅い海(エリュトラー海)。

その先は、線がだんだん怪しくなる。


匙は地図の端を見て言った。

「ここ、分からないのに線がある」


学者が顔を上げた。

「知る限りを描いている」

「知らないところも?」

「推測はする」

「なら、少し嘘」

学者は眉を上げた。

「では空白にすべきか」


匙は肩をすくめた。

「知らない、と書けばいい」

学者は少し笑った。

「それは難しい」

匙は頷いた。

「難しいと言うなら、少しまし」


隣の学者が巻物を持ってきた。

「この地名は、マリアバでよいか」

地図の男が眉を寄せる。

「向こうの者は、もっと『マァリブ』に近く言っていた」

「その音を、ギリシア文字でどう書けという」

「だからといって、音を変えれば別の名になる」

「書けない音は、書ける形にするしかない」


匙は二人を見た。

「何してる?」

耳元で顔なしが言った。

「翻訳。別の言葉に移す時、元の音や意味が完全には残らない」


匙は巻物と地図を見比べた。

「字を別の字に着替えさせる?」

「そう考えてもよい」

「着替えたら、同じ?」

「同じところも、変わるところもある」

匙は少し考えた。

「じゃあ、ポケットを見る」

「何の」

「着替える時、落とすものがある」


ノートに書いた。

Translation = change clothes. Check pockets.

(翻訳=着替え。ポケットを見ろ)


******


ある日、指先の黒い男の卓に、見慣れない巻物が何本も積まれていた。

その一本を書き写しているところへ、港の商人らしい老人が急ぎ足で入ってきた。


「クテシアスの『インド誌』を返してくれ」

男は筆を止めた。

「写しは三日後にできる」

「写しの話ではない。これは、わしがクニドスで散々探して手に入れた巻物だ」

「分かっている」

「分かっているなら早く返せ」

「私に言っても戻らん」

商人の声が大きくなった。

「わしは船に積んでおっただけだ。お前に売ったわけでも、プトレマイオスにくれてやったわけでもないわ」

指先の黒い男は、墨のついた指で巻物の端を押さえた。

「王の役人が持ってきた。私は写せと言われた。だから写している」

「だから何だ。わしのものだ」

近くにいた若い学者が顔を上げた。

「書いてあるものは同じだ。写しは返す」

商人がそちらを向いた。

「同じだというなら、お前が写しを持っておれ」

若い学者は少し眉を寄せた。

「一つしかない巻物を、そのまま船に戻すのか。沈めばなくなる。火に焼けてもなくなる。ここで写せば二つ残る」

「その理屈が、わしの原本を勝手に取りあげる理由になるか」

「字は残る。問題はない」


匙は少し離れたところで聞いていた。

「顔なし」

「何か」

「取ったのか」

「港で没収された。ここで書き写し、持ち主に写しを返す。元の巻物は図書館に残す」

匙は商人を見た。

「いいって言った?」

「言っていない」

匙は眉を寄せた。

「盗み」


若い学者が匙を見た。

「失われるよりはいい」

「でも、この人のはなくなる」

「内容は残る」

「同じじゃない」

匙は卓の巻物を指した。

「持ってきたのは、そっち」


若い学者は巻物を見た。

「文字と知識は、一人の人間が独占すべきものではない」

「この巻物は、この人の」

商人が短くうなずいた。

「そうだ」


指先の黒い男は、しばらく三人を見てから筆先を墨に入れた。

「字を残したい者と、物を返してほしい者がいる。どちらも私に言いたいことを言う」

商人が言った。

「お前は誰の味方だ」

「誰の味方でもない。私は写すのが仕事だ」

「便利な答えだな」

若い学者が少し笑った。

商人は笑わなかった。


匙は男の指を見た。

黒い。

何度洗っても、インクの染みは落ちなさそうだった。

「面倒な仕事」

男はまた書き始めた。

「今ごろ分かったか」



匙は卓の隅に座ってノートを開いた。


Where from? Who said yes?


これはメルボルンの博物館で書いた言葉だった。

その下に一行付け足した。


Library too.


******


匙は、それでも図書館を嫌いにはならなかった。

何度も来るうちに、インクの指の男に顔を覚えられた。


「また来たか」

「来た」

「今日は何を見る」

「まだ分からない」

「それで来たのか」

「来てから決める」

男は鼻で笑った。


ある日、短いギリシア語を一つ教えられた。


βιβλίον


インクの男がパピルスの端に走り書きした文字を匙は読んだ。

「ビブ……リオン」

「書物」

「巻物?」

「それも含む」

匙は何度か口の中で転がした。

「ビブリオン」

また一つ、言葉が増えた。



最後の日、匙は自分のノートをインクの男に少しだけ見せた。


英語。日本語。崩れた古い言葉。 絵。矢印。 熊。馬。塩の山。Oを鍋に見立てた字。

男はしばらく黙って紙をめくった。


「これは、どこの書き方だ」

「私の」

男はもう一度見る。

「なら、目録を作れ。お前自身が読めなくなる」

「もう作ってる」

男が少し驚いた。

「そうか」

また、ページをめくる。

「では、お前は書く者だ」


匙は否定しようとした。

自分は学者ではない。書記でもない。王に仕える者でも、図書館の者でもない。


でも、ノートには自分の字がある。

場所。飯。湯。人。戻りたいところ。戻りたくないところ。


匙は考えた。

「少し書く」


男は頷いた。

「少しでよい」


匙はその男を見た。

指先は今日もインクの染みで黒い。


「名前」

男が眉をひそめた。

「名前が何だ」

「あなたの名前」


男は名乗った。長い名前だった。

匙は二回聞いた。そして、すぐに忘れた。

星船へ戻る頃には、もう別の名前になっていた。


インクじじい。


本人は、じじいというほど年寄りではなかったかもしれない。

でも、匙には関係なかった。


******


星船へ戻ると、匙は床に座って、エミリーに貰った「場所のノート」を開いた。


Alexandria = port for letters.

(アレクサンドリア=字の港)


Copy room = kitchen for letters.

(写す部屋=字の厨房)


Hands get tired. Still write.

(手は疲れる。それでも書く)


Catalogue = map for letters.

(目録=字の地図)


Translation changes clothes. Check pockets.

(翻訳は着替え。ポケットを見ろ)


Library can steal. Ask who said yes.

(図書館は盗む。誰がいいと言ったのかをきけ)


Ink man says I write. Maybe a little.

(インクじじいは、私が書くと言った。たぶん少し)


匙は最後の一行を見た。

少し考えて、その下に日本語で書いた。


――また行く。

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