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匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
序章

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世界地図と飯の地図

匙(さじ)は、鍋を叩くと飯が出ることを覚えた。正確には、鍋を叩くと、顔なしが慌てる。慌てた顔なしは飯を出す。

飯が出るなら、鍋を叩く意味はある。だから匙は、腹が減る前にも鍋を叩いた。


かん


白い部屋のなかに高い音が響いた。

匙は小さな鍋の前に座っていた。

裸足だった。片膝を立て、もう片方の足はいつでも後ろへ逃げられるように少し曲げている。

手には棒。

もともとは星船が太鼓用に出した棒だったが、匙は太鼓より鍋の方が強い音を出すと判断した。


かん


――食物要求を確認

壁が言った。


匙は壁を見た。

「まだ飯とは言ってない」


――音響信号と過去要求履歴から、食物要求の可能性が高い


「違う」


――では、何を要求する


匙は少し考えた。

本当は少し腹が減っていた。しかし、すぐ飯と言うと顔なしが勝ったみたいになる。


「先に見せろ」


――何を


「飯がある場所」


壁に、丸と点二つと線一本の顔が出た。

匙はそれを見て、少しだけ口の端を上げた。弱そうな顔だった。


――食物貯蔵区画の視覚情報を提示する


壁が白くなり、次に、棚が映った。

棚、箱、袋、よく分からない透明な入れ物。

積まれたもの、乾いたもの、丸いもの、白いもの、茶色いもの。

匙はそういう雑多な映像を見て、目を細めた。


「遠い」


――この船内にある


「遠い」


――移動可能距離である


「私の手が届かないなら遠い」


壁は少し黙った。

匙は鍋を叩いた。


かん


「近い飯」


――近距離提供に切り替える


壁の一部が静かに開き、皿が出た。


匙は、それをすぐには取らなかった。

まず鼻を近づけて慎重に匂いを嗅ぎ、皿を少し押し戻して、皿が逃げないことを確認した。

皿に盛られていたのは柔らかい米飯、細かく切った果物、よく分からないが、焼いた匂いのする茶色い何かだった。

匙はそれらを半分食べ、残り半分は袖の内側へ押し込もうとした。


――保存容器を提供できる


「いらない」


――袖内保存は衛生状態を悪化させる


「袖は逃げない」


――保存容器も逃げない


「まだ分からない」


匙はそう言って、食べ残しを袖に隠した。それからまた鍋を叩いた。


かん


――追加食物か


「違う」


――要求内容を述べよ


「外」



壁の顔が消えた。


匙は棒を握り直した。

顔なしは、時々こうして黙る。黙る時は、だいたい何かをごまかしているか、長い話を用意している。

長い話は罠に似ている。

出口が分からなくなる。


――外部環境表示を行う


壁が言った。

匙は鍋の縁を押さえた。


「壁が開くのか」


――開かない。映像である


「穴ではない?」


――穴ではない


「手は出る?」


――出ない


「向こうから手は来る?」


――来ない


「本当か」


――本当である


「嘘なら噛む」


――噛んでよい


匙は少し安心した。

噛んでよいと言う時の顔なしは、たいてい本当に噛ませる。

医療の腕は噛むと硬いが、それでも噛める。噛めるものは少しだけ信用できる。



壁が暗くなり、次に光が広がった。

匙は飛び退いて鍋を抱えた。


部屋の壁いっぱいに、青と緑と茶色が出た。

白い線、曲がった線、大きな水、大きな土、細い水、丸いところ、ぎざぎざしたところ。

匙は反対側の壁の端まで逃げ、背中をぴたりとつけた。


「何だ」


――世界地図である


「世界?」


――あなたの出身惑星表面の縮尺表示


「長い」


――地図である


匙は眉を寄せた。

「地図とは何だ」


――場所を小さく示したもの


匙は壁を見た。

これが小さいというなら、外は大きすぎる。


「これは罠か」


――罠ではない


「道か」


――道ではないが、道を含む


「川か」


――川を含む


「森か」


――森を含む


「飯はどこ」


顔なしが少し黙ってから言った。

――食料生産地域も含む


「飯があるなら先に言え」


匙は鍋を握ったまま、少しだけ壁に近づいた。

見上げると、全体に青いところが多かった。


「水が多い」


――海である


「全部飲める?」


――飲用に適さない


匙は顔をしかめた。

「こんなに水があるのに飲めないのか」


――塩分濃度が高い


「悪い水」


――用途が異なる


「悪い水」


顔なしは訂正しなかった。



匙は次に、緑と茶色の塊を見た。

どこが何なのかは分からない。ただ、壁の上には、たくさんの線がある。線が土地を切っているようにも見える。


「これは割れているのか」


――境界線である


「誰が切った」


――人間集団が政治的・行政的に区分した


「長い」


――国である


匙はまた眉を寄せた。

「国というのは壁のことか」


――場合により壁を持つ


「川か」


――川を境界とする場合がある


「森か」


――森を境界とする場合もある


「国というのは、殴る大人がいる場所か」


壁の顔がまた出た。

丸、点二つ、線一本。

匙は黙ってそれを見た。


――回答は複雑である


「いるのか」


――いる場所もある


「いない場所は」


――存在するが、保証できない


「では地図は嘘」


――嘘ではない。情報が限定されている


「嘘の仲間」


匙はそう言って、鍋の底を撫でた。

星船は少しの間、何も言わなかった。



匙はもう少しだけ壁に近づいて、青いところを指した。


「ここに落ちたら死ぬ?」


――泳げなければ危険である


「魚はいる?」


――いる


「食べられる?」


――多くは食用可能


「なら、悪い水でも飯はある」


――ある


匙は頷いた。飯があることは大事だった。



次に、いちばん大きな茶色い塊を指した。


「ここは?」


――ユーラシア大陸


「大きすぎる」


――そうである


「人が歩く?」


――歩く


「全部?」


―― 一人の人間が徒歩で全域を移動することは困難である


「馬は?」


――地域による


「寒い?」


――地域による


「暑い?」


――地域による


匙は手元の鍋を見た。


「顔なし、全部“よる”と言う」


――地表環境は多様である


「多様とは、分からない時の言い方か」


―― 一部、そうである


匙は満足した。顔なしが、少しだけ負けた気がした。



その後、壁の地図が動いた。

大きな茶色と緑の塊の左の端の方が急に近づき、川が見えた。

青い、曲がった線。海へ向かうにつれて幅が大きく広がる水。

その近くに、顔なしが小さな赤い点を出した。


「ここが、最初にあなたを観測した地域に近い」


匙は動きを止めた。

「消せ」


――現在位置情報の理解のため……


「消せ」


壁はすぐに地図の陸地を少し遠ざけ、点を消した。


匙は鍋を抱えたまま、じっと壁を見ていた。顔なしは、今回は長い説明をしなかった。それは良かった。

匙は、自分がどこから来たのかを知りたくないわけではなかった。

ただ、知らされるのは嫌だった。

顔なしが勝手に点を出して、何でも知っているような声で「ここ」と言うのが嫌だった。


匙が知っているのは寒くて、臭くて、咳が出て、靴のない足で泥を踏む場所だった。

でも、顔なしの壁の上で小さな点にされると、それよりもっと嫌なものになった。

点は小さすぎた。

あんなに広かったのに。

走っても走っても、腹が減っても、寒い夜が長くても、忍び寄る大人の足音を聞き分けても、雨に濡れた布を握っても、顔なしには全部、壁の上の小さな赤い点にされる。



匙は棒で床を叩いた。


かつ


床は鍋ではないので、音は弱かった。


「今の点は、飯がなかった場所」


――食料不足および保護不能状況が確認された


「長い」


――飯が少なかった場所


「そう言え」


――今後そう表現する



匙は壁の下の方を見た。


「他にも、飯が少ない場所があるか」


――ある


「殴る大人がいる場所も?」


――ある


「咳で死ぬ場所も?」


――ある


「水があるのに飲めない場所も?」


――ある


匙は黙った。


世界は大きい。それは分かった。

しかし、大きいなら、なぜ飯が足りない場所があるのか。大きいなら、なぜ逃げる先がなくなるのか。

壁いっぱいに土があって、水があって、森があるのに、なぜひとり分の寝る場所がなかったのか。


匙はそのことを、まだうまく言えなかった。だから、別のことを聞いた。


「顔なしは全部行けるのか」


――理論上、多くの地点へ転移可能である


「全部?」


――条件により制限がある


「でも、だいたい行ける?」


――だいたい行ける


匙は壁を見上げた。

「じゃあ、飯のあるところへ行けばいい」


――誰が


「飯がない者」


――移動には危険が伴う


匙は大きな陸地の左の端のあたりを指した。

「ここにも危険があった」


――そうである


「なら同じ」


――同じではない


「顔なしはいつも、同じではないと言う」


――実際に同じではない


匙は唇を尖らせた。

腹が立つ。だが、顔なしが完全に間違っているとも言えない。

雨の日と晴れの日は違う。川のこちら側と向こう側も違う。年長の少年がいる時といない時も違う。

同じ飯でも、誰が見ているかで違う。


匙は地図の別の端を指した。

「ここへ行ったら、誰もいない?」


――人間の居住が少ない地域はある


「誰も?」


――完全に無人とは限らない


匙は顔をしかめた。

「顔なしの言い方は、魚の骨みたい」


――魚の骨?


「飲み込みにくい」



壁の顔の線が少し曲がった。

笑ったつもりかもしれない。匙もそれを見て、少しだけ笑った。


「弱い顔」


――この顔表示は、あなたの恐怖反応を低減するために採用されている


「弱いから怖くない」


――成功である


「でも少し腹立つ」


――腹立つ顔を表示するか


「いらない。腹が痛い顔になる」


顔なしは表示を変えなかった。

賢い。



匙は今度は、地図の大きな青いところに目を向けた。


「この水の向こうには飯がある?」


――ある


「人もいる?」


――いる


「私みたいな小さいのも?」


――いる


「鍋は?」


――地域により調理器具は異なるが、ある


匙は少し身を乗り出した。

「鍋があるなら、人がいる」


――多くの場合、そうである


「鍋がない人は?」


――別の調理手段を持つ


「火は?」


――ある


「火がない人は?」


――例外的状況では……


「顔なし」


匙が棒で床を軽く突つくと、顔なしは言葉を直した。


――ある。多くの人間集団は火を使う


匙は頷いた。

世界は飯がない場所と、飯がある場所と、水が飲めない場所と、鍋がある場所でできている。

壁の上の線を見るより、その方がよく分かる。



「ここは?」


匙は、青の中に点のように浮かんでいる茶色い土地を指さした。


――島である


「小さい」


――縮尺上小さく表示される


「本当は?」


――歩ける大きさのものから、非常に大きなものまである


「島は逃げられないのか」


――海に囲まれている


「なら怖い」


――島にも生活はある


「逃げ道は?」


――船


「船がない時は?」


――困難である


匙は島を見た。

島は小さい。でも、顔なしは「生活はある」と言った。

逃げられない場所でも、飯がある。飯がある場所でも、逃げ道がないことがある。匙は少し混乱した。


「世界は変」


――そうである


顔なしは、珍しくすぐに同意した。


匙はまた壁を見上げた。

「顔なしは、ここ全部を持っているのか」


――持っていない


「でも見える」


――観測と所有は異なる


「見えるのに、持っていない?」


――そうである


「じゃあ、なぜ見る」

また顔なしが黙った。


匙は鍋の縁を指で鳴らした。


こん


「答えろ」


――理解するため


「理解すると飯が出る?」


――場合による


「殴る大人が減る?」


――場合による


「咳が治る?」


――場合による


「なら、見るだけは弱い」



壁の顔はそのまま変わらず、顔なしはしばらく何も言わなかった。

匙は、少し言い過ぎたかと思った。

顔なしは殴らない。怒った顔も下手だ。だが、たまに急に床を動かしたり、寝台を低くしたり、水を温かくしたり、悪気なく変なことをする。

何をどこまで言っていいのか、匙にはまだよく分からない。



しばらくしてから、壁がようやく言った。


「見るだけでは、足りない」


匙は瞬きした。

顔なしがそういう言い方をするのは珍しかった。


「でも、全部は飯にできない」


――そうである


「全部は助けられない?」


――そうである


「じゃあ、なぜ私をここに入れた」


――あなたが死に近かった


「死に近い小さいのは、他にもいる」


――いる


「全部入れるのか」


――それはできない


「じゃあ、なぜ私」


壁はまた沈黙した。

今度の沈黙は、ごまかしではなかった。長い話の前でもなかった。

たぶん、顔なしにも答えが分からない沈黙だった。


匙は鍋を抱え直した。

少し部屋が寒くなった気がした。

実際には床は温かい。床はいつも機嫌を取っている。でも、体の中のどこかが寒くなることはある。


やがて、壁が言った。

――見えてしまった


匙は顔を上げた。

「何が」


――あなたが


匙は眉を寄せた。

「私は隠れていた」


――隠れていた


「なら見えてない」


――見えてしまった


「顔なしは悪い目だ」


――そうかもしれない


匙は少し驚いた。

顔なしが、自分の方を悪いと言った。

匙はどう返せばいいか分からなくなって、鍋を叩いた。


かん


「飯」


――食物を提供する


「さっきのとは違う飯」


――別種を提供する


「硬くない肉」


――可能である


「あと、赤い果物」


――可能である


「あと、水。悪くない水」


――飲用水を提供する


「地図は小さくしろ」


――縮小表示にする


壁の地図が小さくなった。

部屋いっぱいだった世界が、壁の一部に収まる。匙はそれを見て少し息を吐いた。

このくらいなら、まだよい。世界が大きすぎると背中が寒い。小さすぎると腹が立つ。

ちょうどいい大きさは難しい。


床から皿が出た。

匙はまず肉を食べた。柔らかかった。

次に赤い果物を食べた。これは甘酸っぱい。

水はいつものように、匂いを嗅いでから飲んだ。


壁の小さな地図は、まだあった。匙は肉を飲み込んでから言った。

「顔なし」


――何か


「地図、飯の場所に印をつけろ」


――食料生産地か


「違う。今、飯が出る場所」


⎯⎯この船内の食物提供地点を表示する


壁の世界地図が消え、代わりに星船の内部図のようなものが出た。

よく分からない無数の線、無数の部屋、無数の通路。そのうち何箇所かに小さな丸がつく。

匙は真剣に見た。

「ここでも飯が出る?」


――出る


「ここは?」


――出る


「ここは?」


――条件付きで出る


「条件とは」


――医療処置後の栄養補給区域


「痛い飯か」


――痛い飯ではない


「でも痛い場所の飯」


――そうである



匙はその丸を覚えた。

痛い場所の飯、近い飯、遠い飯、隠せる飯、すぐ出る飯、顔なしが出したがる飯、顔なしが出すのを渋る飯。

今の匙には、これが必要な地図だった。世界地図よりも、まずこっち。

匙は鍋を膝に乗せたまま、星船内の飯の地図をしばらく見ていた。


少しすると、壁が控えめに言った。

――外部世界地図も、必要であれば再表示できる


匙は赤い果物をもう一切れ食べた。

「後で」


――いつ


「飯の地図を覚えた後」


――了解した


「あと、世界地図には、鍋のある場所も印をつけろ」


――全世界の調理器具分布は、完全には把握していない


匙は呆れた。

「顔なし、弱い」


――調査する


「鍋を勝手に取るな」


――取らない



匙は皿の端についた汁を指でぬぐい、壁の中の小さな星船地図を見た。

白い部屋、通路、食べ物が出る場所、水が出る場所、痛い場所、寝る場所、鍋のある場所。

外の世界は、まだ大きすぎた。

でも、この白い穴の中にも地図がある。地図があるなら逃げ道もある。

飯の場所もあり、鍋の場所もある。


匙は鍋を軽く叩いた。


こん


今度は要求ではなかった。場所を確かめる音だった。

顔なしは何も出さなかった。余計なことをしない。

それは良かった。



その夜、匙はまた寝台の下で眠った。

片手にパン、もう片方の手に鍋の棒。袖の内側には、昼の飯の残りが少し入っている。

壁にはもう何も映っていない。だが匙は、眠る前に小さく言った。

「世界は、後で見る」


返事はなかった。

顔なしが聞いていなかったのか、聞いていて黙ったのかは分からない。


匙は目を閉じた。

白い部屋の外には、飲めない水がたくさんある。

飯のある場所も、飯のない場所もある。

島があり、川があり、森があり、殴る大人がいる場所がある。

いない場所も、たぶんある。

鍋のある場所は、たくさんあるらしい。

そして顔なしは、全部を持っているわけではない。


見えるだけ。

見えてしまっただけ。


匙は、その意味を正確には、まだ分からなかった。

ただ、翌朝起きたら、もう一度鍋を叩いて、今度は違う飯を出させようと思った。


世界を見るのは、その後でよい。

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