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匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
第一部 星船の少女

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21/41

ハルシュタットの山

博物館から帰ってしばらく、匙は「鍋の骨」について考えていた。


欠けた土器、石の刃、骨で作った針、黒くなった種、小さな飾り。


博物館は面白かった。でも少し怖かった。

そこにあるものは、みんな誰かが使っていたものが、手から離れたものだった。

死んだもの、埋まったもの、掘られたもの、運ばれたもの、並べられたもの。


匙はノートに書いた。


Museum shows after. I want before.

(博物館は後を見せる。私は前を見たい)


星船はノートを読んではいけない。

なので、匙はわざと声に出して読んだ。

「後を見た。前を見たい」


星船は少し黙った。


「候補は」


匙は、博物館で買った虫柄ノートの別のページを開いた。

そこに、小学校の図書室にあった大きな歴史の絵本を見て、気になったもののことを書いていた。


Salt people. Iron. Pot bone. Mountain.

(塩の人たち。鉄。鍋の骨。山)


「ハルシュタット文化か」

「ハル……シュタット」

匙は眉を寄せた。

「中央ヨーロッパの後期青銅器時代から初期鉄器時代にかけての考古文化。おおむね紀元前十二世紀から――」


匙は半分で手を上げた。


「顔なし、長い」

「昔のヨーロッパ。山と湖と、塩を掘る人がいる」

「塩は強い」

「保存、食料加工、交易、富の形成に重要」

「飯を腐らせにくくする。汗にもある。涙にもある。強い」

「そうだな」

「そこへ行く」


サルが言った。

「岩塩鉱山は危険だ。崩落、暗闇、換気、滑落、道迷い。星船による安全確保が必要」


匙は頷いた。

「山も見る。鉱山は近くから。中は少し」

「匙の『少し』は信用できない」

「顔なしの『安全』も信用できない」


引き分けだった。


******


匙が降ろされたのは、紀元前六世紀ごろの、ハルシュタットに近い山地だった。

まだ早朝で、湖から白い靄が立ち上っていた。


周囲の山の斜面は急で、道は狭い。空気は冷たく湿っている。

木の匂い、煙、獣、革、人の汗、そして、どこかに乾いた塩の気配もある。


匙は湖を眺めた。

「きれい。でも逃げ道が少ない」

「湖と山に挟まれた地形である」

「人が住むには狭い」

「岩塩を産出する」

「狭いところに強いものがあると、人が集まる」



湖のほとりにあったのは普通の村というより、作業と生活のまとまりだった。

湖岸に並ぶ木の家、木の小屋、近くで荷を運ぶ者、積み重ねられた木材と道具。山へ向かう人々、湖のそばで動く人々。

匙は山の中腹からそれを見下ろして、坂を下りはじめた。


今回は現地の女の服に寄せた厚手の布の外套と、足に合う履物を身につけている。

腰に布袋を下げ、中にはノート、鉛筆、小さな金属匙、少量の交換品を入れている。

鍋は持っていない。


匙は足元を見た。

急な斜面を巻くように下り坂が続く。石がゴロゴロと転がり、足場が悪い。

左側はすぐ崖になって湖に落ち込む。匙はなるべく右寄りを歩いた。


「道が山に食われている」

「滑落注意」

「見れば分かる」


匙は、こういう道が嫌いではなかった。二十一世紀の東京の駅より山道の方が分かる。危険がどこにあるのか見えやすい。


湖岸に近づくと、別の下り坂と道が合流した。そちらを見ると、木と革で作った背負い具をつけて山から降りてくる男たちがいた。


足元は悪い。身体は強い。背中のものが重そう。


匙は目を細めた。

「背中の箱」

「鉱山用背負い具と推定」

「背中に鍋じゃなくて、山の欠片を運ぶのか」

「塩を含む岩塩や作業道具など」

「塩の石」


前から来た男が匙に気づいた。

「道の真ん中に立つな」


匙はすぐ横へ退いた。

「よい言葉」


男は少し怪訝な顔をした。

邪魔をすれば怒る。退けばそれ以上言わない。匙はこういう人間が嫌いではなかった。

すれ違った男の背中からは、塩と汗と革の匂いがした。


匙は小声で言った。

「この人たちは、山を食わせている」

「塩鉱山労働により交易資源を得ている」

「長い。山を食わせている」


湖岸まで降りると、匙は村の端で女たちが布の作業をしているのに気づいた。

色のついた織物を広げ、小さな針や何かの道具を使って糸を繰り、穴を繕ったり、千切れたところの補修をしているようだった。


白髪の女が顔を上げ、変な子供が木の陰から覗いているのに気づいた。

「触るな」


匙は即座に一歩引いた。

「触らない。見てるだけ」


白髪の女は匙を見て、布を少しだけ持ち上げた。

触らせはしない。見せるだけなら可。

匙はその距離感を気に入った。

「よい」


匙が木の下に座ってノートを開くと、白髪の女が近寄ってきた。

目をすがめてノートを覗き、眉をひそめる。

「何を刻んでいる」

「私の目の跡」

白髪の女は意味が分からないという顔をして首を振り、作業に戻って行った。



次に、匙は金属の音へ引かれた。

村に入って一軒の小屋を覗くと、薄暗がりの中で汗まみれの男が二人、鉄剣を鍛えていた。

炉台の上で一人の男が金槌を振り下ろすたびに、硬い音とともに鉄剣が赤熱した光を放つ。


匙は目を輝かせた。

「ここは強い」

「初期鉄器時代である。鉄器の普及は――」

「黙れ。火と音で分かる」


鍛冶場の中に入ろうとすると、男が怒鳴った。

「近づくな。火が跳ねる」


匙は止まった。

「この男もよい。危ないものを先に言う」


鍛冶の男は、匙が立ち止まると、それ以上追い払おうとはしなかった。

鍛冶場の入口の脇の木の椅子を顎で示す。匙はそこに座って見学した。


男が金槌を振り下ろすたびに鉄の色が変わる。

赤い。叩く。形が変わる。火の中に差し込む。また叩く。


匙はしばらく黙った。


「石でも木でも骨でもない。火で言うことを聞かせるのか」

「金属加工である」

「鉄は頑固そうだ」

「そうだな」

「でも、叩かれると形が変わる」

「そうだ」


匙は、自分の脚を見下ろした。

馬に乗って痛くなった脚。按摩で揉まれた脚。学校の椅子に置かれた身体。

星船に拾われて、あちこちで形を変えた自分。


「叩きすぎると壊れるか」

「壊れる」

「火が強すぎても」

「壊れる」

「なら、人間と同じだ」


星船は何も言わなかった。



太陽が真上に近づく頃、匙は女たちが食事の支度をしているところに出会った。


穀物の粥、豆か何かの煮たもの、肉の切れ端、乳製品に似たもの、干したもの、そして塩。


匙は塩の扱いを見た。

ひとりの女が皮袋に入った塩を慎重につまみあげ、目の前にかざし、少し量を減らして鍋に入れた。

木匙でかき混ぜて味見をし、顔をしかめて塩をもうひとつまみ追加した。


匙は小さな声で言った。

「塩は飯の命令」

「味覚および保存に影響する」

「命令。少し入ると、飯が起きる」


さっきの白髪の女が匙を見つけて、穀物粥の入った小さな椀を差し出した。

村の客としてではなく、よそ者の変な子どもに少し食わせる顔だった。

匙は椀を受け取った。

「盗んでない?」

「いるなら食え」

白髪の女は素っ気なかった。


粥の味は塩気が強かった。

東京の定食屋の味噌汁とも、星船の完璧な汁とも違う。

「汗の味がする」

女が眉を上げた。匙は慌てて言い直した。

「悪くない」

女は軽く笑った。



食後、匙は坂を上って塩の鉱山の入口まで行った。幸い、この時間には入口の周りには誰もいなかった。

覗き込むと、中は暗かった。

天井近くに据えられた弱い灯りに照らされて、木の支えが少しだけ見える。人の足跡が奥へ消えている。湿った冷気が奥から流れてくる。

匙は少し後ろに下がって、しばらく黙った。


匙は、いつも逃げ道を確認する。

鉱山の中には逃げ道がない。上に空がなく、横は壁で、奥へ行くほど狭く、息苦しくなる。


「中は嫌。墓に似ている」

「外観見学のみを推奨」

「でも、少しだけ見る」


匙は一歩だけ坑道に入った。

一歩入るだけでも空気が冷たく、地上の煙や飯や布から、岩、塩、木、汗、灯りの匂いに変わる。


匙は指先で壁に触れた。

ざらついた感触だった。小さな塩の結晶が白く光っている。

指を舐めようとすると、星船が即座に言った。

「舐めるな」

匙は舌を出しかけたまま止まった。

「なぜ」

「汚染、鉱物成分、衛生問題」

「塩なのに」

「塩でも舐めるな」

匙は不満そうな顔をして、止めた。

「顔なしが正しい時は腹が立つ」


奥から人の声と作業の音、木の軋みが聞こえてきた。

匙はすぐに外に出て、大きく息を吸った。


「山の腹は強い。でも長くいたくない」

「そうだな」

「ここで働く人間は強い」

「そうだな」

「でも、山に食われそうだ」


******


帰る前、匙は湖畔に座ってノートを開いた。


Salt mountain people.

(塩の山の人たち)

Road narrow. Lake pretty but trap.

(道は狭い。湖はきれいな罠)

Salt makes food wake.

(塩は飯を起こす)

Iron = fire plus hit. Hit too much breaks.

(鉄=火+叩く。叩きすぎると壊す)

Cloth alive in hands.

(布は手の中で生きている)

Pot bone later. Pot alive first.

(鍋は骨になる前に生きている)

Mine = mountain belly. Strong. Do not lick wall.

(鉱山=山の腹。強い。壁を舐めてはいけない)

Museum after. Here before. Both not whole.

(博物館は後。ここは前。片方で全部ではない)


最後の一文を書いたあと、匙は少し黙った。


博物館は後。現地は前。でも現地も全部ではない。


ここにいる匙は見ているだけで、この人たちの仲間ではない。

この山で働くわけではない。この谷の墓に入るわけでもない。子供のころからこの村で育ったわけでもない。


「顔なし」

「何か」

「散歩は、全部分かったふりになる危険がある」

星船は静かに答えた。

「そうだな」

「博物館も危ない。散歩も危ない」

「そうだな」

「でも、見ないよりましな時がある」

「そうだな」


匙は湖を見つめた。


「次も見る。でも、すぐに分かったとは言わない」

「覚える」

「記録じゃなくて覚えろ」

「覚える」


******


帰還後、匙は星船の厨房へ行き、塩を出させた。

星船は警戒した。

「摂取量に注意」

「少し」

「匙の『少し』は」

「今日は本当に少し」

匙は粥に塩をほんの少し入れて食べ、目を細めた。

「飯が起きた」

「そうだな」

「ハルシュタットは、山の腹で飯を起こす人たちだった」

「詩的な要約だ」

「詩じゃない。飯の話」


匙はノートの表紙の虫柄の隣に、星船が出した、小さな塩の結晶の形のシールを貼った。


本物のハルシュタットの塩はここには無い。星船が持ち帰るなと言った。匙も、持ち帰ろうとは思わなかった。

でも、塩の山と湖を見てきた印は欲しかった。

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