長期教育潜入計画(2)
匙のオーストラリアの小学校での日々は続いていた。
七ヶ月目、匙は図書室に居場所を作った。
図書室は、最初は少し怖かった。
本が多い。字が多すぎる。静かにしろという空気が強い。食べ物もない。
でも、慣れると悪くなかった。
壁があり、棚があり、机があり、先生が静か。子供も比較的静か。逃げ道もある。
匙は図鑑の棚に通った。
図書室の先生は、匙に「借りる」という仕組みを教えた。
持っていく。読む。返す。
匙は最初、この仕組みをかなり疑った。
「盗みではないのか」
“No. Borrow.”
(違う。借りる)
「返す盗み?」
“No stealing. Borrow.”
(盗みじゃなくて、借りる)
匙はノートに書いた。
Borrow = take with promise to bring back. Dangerous but useful.
(借りる=約束して持ち帰る。危ない。でも便利)
本を初めて借りた日、匙は星船に見せた。
「借りた。盗んでない」
「よかった」
「返す」
「そうだ」
「返すまで、少し私のもの」
「そうだ」
******
八ヶ月目、匙は「歴史」の授業で変な顔をした。
先生が古代エジプトの話をした。
ピラミッド、ミイラ、ナイル川、ファラオ。
子供たちは楽しそうだった。
匙は途中で手を上げた。珍しい。
先生が言った。
“Yes, Saji?”
(はい、サジ)
匙は言った。
“Did they want to be in museum?”
(その人たちは博物館に入りたかったのか)
教室が少し静かになった。
先生は慎重に答えた。
“That is a very important question.”
(それはとても大事な質問ね)
匙は少し身構えた。
大事な質問と言われると、たいてい話が長くなる。
先生は続けた。
“Sometimes museums have things taken without asking. Sometimes people are trying to return them. We have to ask where things came from.”
(博物館はときどき勝手に物を集めることもある。元に戻そうとする人もいる。私たちは、そこにあるものがどこから来たのかを気にしないといけない)
匙は全部は分からなかったが、要点は掴んだ。
匙はノートに書いた。
Museum question: where from? who said yes?
(博物館の質問。どこから来た? 誰がいいと言った?)
これ以後、匙は博物館に行くたびにこの二つをノートに書くようになった。
Where from?
Who said yes?
星船は、内心かなり痛かった。
******
九ヶ月目、匙は「友達」の扱いに慣れ始めた。
エミリー、ジャック、図書室の先生、担任の先生、たまにランチを交換する子、鳥を一緒に見上げる子。
匙は、友達という言葉をあまり使わなかった。
でも、クラスの誰かがエミリーのことを、
“Your friend Emily”
と言った時、匙は否定しなかった。
エミリーが風邪で休んだ日、匙はかなり落ち着かなかった。
席の隣が空いている。
「エミリーは?」
先生が言った。
“She is sick. She will be back.”
(エミリーは体調不良。すぐに戻ってくるよ)
匙は疑った。
「本当か」
“She will probably be back in a few days.”
(たぶん、二、三日で戻るはず)
「たぶん」
先生は頷いた。
“Probably.”
(たぶんね)
匙はその言い方を信用した。
必ず、とは言わない。でも、たぶん戻る。
匙はその日、エミリーの席にランチのクラッカーを一枚置こうとして、先生に止められた。
“It will go bad.”
(傷んじゃう)
匙はしぶしぶ持ち帰り、ノートに書いた。
Friend absent = strange. Food cannot wait.
(友達の休み=変。食べ物は待てない)
エミリーが戻ってきた日、匙は何も言わずにクラッカーを渡した。
“For me?”
(私に)
匙は言った。
“It waited badly.”
(傷んでない)
エミリーは匙の言葉の意味はよく分からなかったが、笑ってクラッカーを受け取った。
******
十ヶ月目、匙はまだ宿題と和解しなかった。宿題は最後まで悪だった。
ただし、扱える悪になった。
“Homework is bad but I can do some.”
(宿題は悪い。でもやれる)
これが匙の評価だった。
星船が補助しようとすると、匙は怒る。
「顔なしが書くと、顔なしの宿題になる」
「答え合わせだけなら」
「だめ」
「スペル確認は」
「少しだけ。赤い線なし」
星船は、間違いを指摘しすぎない訓練を受けた。
匙の作文には、文法の揺れが残る。
でも、意味はそのぶん、強くなった。
I went to a hot place from ground.
It was not mine. I borrowed the water.
I came back.
Borrow is better than steal.
But some things cannot be borrowed. Like dead old man.
――私は地面から熱い湯の出る場所へ行った。私のものではない。湯を借りた。戻った。
――借りるのは盗むよりまし。
――でも、借りられないものもある。死んだ年寄りとか。
先生はこれを読んで、しばらく黙った。
そして、
You are thinking deeply. Keep writing.
(あなたは深く考える。これからも書き続けなさい)
と書いた。
匙は「deeply」を調べた。
深く。
「深い字は疲れる」
でも、少し嬉しかった。
******
十一ヶ月目、匙は「発表」を一度だけした。
テーマは自由研究。ジャックは恐竜。エミリーは鳥。匙は迷った末、塩にした。
クラスの大勢の前に立つのは嫌だった。
視線が多い。背中が空く。
でも、壁側に立つことを認めてもらった。
匙は紙を持って、短く発表した。
“Salt is small but strong.
Salt wakes food.
Salt keeps meat.
Salt is in sweat and tears.
Some people go into mountain belly for salt.
Do not lick the wall.
Salt is important.”
――塩は小さいけど、強い。
――飯を起こす。肉を守る。汗と涙の中にもある。
――山の腹の中に入って塩を取る人もいる。
――壁は舐めるな。
――塩は大事。
教室は一瞬静かになった。それから拍手が起きた。
匙はびくっとした。拍手は、最初は攻撃音に聞こえた。
でも先生が先に言った。
“That means they liked it.”
(良かった、ってことよ)
匙は少しだけ頷いた。
ジャックが後で言った。
“Mountain belly was cool.”
(山の腹はかっこよかった)
匙は訂正した。
“Not cool. Dangerous. Also cool.”
(かっこいいではない。危ない。でもすごい)
ジャックは頷いた。
匙は初めて、自分の見たものを星船抜きで少し人に渡した。
全部ではない。かなり削った。
それでも、自分の言葉だった。
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十二ヶ月目。
星船と最初に決めた、終わりの日が近づいてきた。
現地時間で一年、匙は毎日学校に通った。星船時間ではたまに断続が入っても、学校の時間は連続していた。
匙の英語は、かなり実用的になっていた。
完璧ではない。でも、十分に強い。
短い日記なら書ける。子供向けの本も読める。
Today Emily was late. I did not like it. She came. Good.
(今日、エミリーが遅刻した。よくない。来た。よい)
Jack said dinosaur toy. I said not toy. He said okay.
(ジャックが恐竜をおもちゃと言った。私はおもちゃではないと言った。ジャックは分かったと言った)
Teacher was fast. Good.
(先生は速かった。よい)
I borrowed book and returned. Not stolen.
(私は本を借りて返した。盗んでない)
Homework bad but done.
(宿題は悪い。でもやった)
Loud bird stole bread. Respect.
(うるさい鳥がパンを盗んだ。すごい)
最後の一文は、校庭で鳥が誰かのパンを奪った日の日記だった。
匙は鳥をかなり高く評価した。
「盗みは悪いが、鳥は鳥だから少し別」
エミリーは笑い転げた。
******
最終日、クラスで小さな送別会があった。
ケーキ、果物、クラッカー、ジュース、紙皿、メッセージカード。
匙は食べ物が多い送別会に少し警戒した。
「最後の日に飯を多く出すのは、ずるい」
先生が聞いた。
“Why?”
(どうして)
匙は言った。
“Hard to leave with cake.”
(ケーキがあると、行きにくい)
先生は笑った。
少し泣きそうにも見えた。
エミリーは小さなノートをくれた。
表紙にタイトルが手描きされている。
SAJI’S PLACES
(サジの場所)
匙はしばらくそれを見た。
「これは、私の場所の本か」
エミリーは頷いた。
“For your notes.”
(使ってね)
匙は言った。
「盗んでない」
“Gift.”
(贈り物)
「返さない」
“You don’t have to.”
(返さなくていい)
匙はノートを抱えた。
エミリーも泣きそうな顔をしていた。
匙は困った。
泣かれるのは苦手だ。でも、今は逃げなかった。
エミリーに近づき、かなりぎこちなく言った。
“I will try to come back. Not promise. Try.”
(帰ってくるようにする。約束はしない。なるべく)
エミリーは涙を拭きながら笑った。
“Try is okay.”
(なるべく、でいい)
匙は頷いた。
******
星船に戻った夜、匙は新しいノートの最初のページに書いた。
One year school.
I can read some.
I can write my places.
No works sometimes.
Teacher can be fast.
Food box comes again.
Homework bad.
Friend absent is strange.
Borrow is not steal.
Museum asks where from and who said yes.
Salt is strong.
Try is okay.
――学校で一年。
――少し読めるようになった。場所を書けるようになった。
――だめ、はたまに効く。先生は速い。
――飯の箱はまた来る。宿題は悪い。友達の休みは変。借りるは盗むではない。
――博物館ではどこから来たのか、誰がいいと言ったのかを聞く。塩は強い。
――なるべく、でいい。
星船は静かに言った。
「頑張ったな」
匙は壁を睨んだ。
「褒めるな」
「少しだけ」
匙は黙った。
「少しならいい」
その夜、匙はノートを枕元に置いて眠った。
パンではなく、鍋でもなく、金属匙でもなく一年分の字。
それは、星船が出したものではない。
匙が学校に通って、座って、疲れて、怒って、読んで、書いて、少しずつ手に入れたものだった。




