顔なしの子、ではない
星船の保護区画は、最初かなりひどかった。
星船は「子供の部屋」を作ったつもりだった。
柔らかい寝台。
温度調整。
清潔な水。
栄養食。
明るすぎない照明。
小さな遊具。
布。
洗浄設備。
しかし、その子供から見ると、そこは異様な白い穴だった。
窓がない。
匂いがない。
火がない。
人の気配が薄い。
寝台が柔らかすぎる。
水が透明すぎる。
食器が軽すぎる。
壁が継ぎ目なく光る。
床が冷たくない。
子供は、まず寝台の下に潜った。正しい判断だった。
知らない場所では、まず下に潜る。
背後と上を減らし、出口を見張り、食べ物を隠す。
星船は言った。
「寝台の上で眠る方が身体に良い」
子は寝台の下から答えた。
「上は落ちる」
「落ちない」
「落ちるものは落ちる」
星船は寝台の高さを下げた。
子はそれを見て寝台が生き物だと思い、部屋の奥へと逃げた。
サルが言った。
「動かすな」
星船は表示した。
──配慮が逆効果
次に、名前の問題が出た。
星船はその子を「対象」と呼ぼうとしたが、サルが止めた。
「人間の保護個体を対象と呼ぶな」
「では仮称を設定する」
「名前は本人に聞け」
星船は聞いた。
──お前の名は何か
寝台の下から声がした。
「ない」
──呼ばれていた音は
「小さいの」
──それは名ではない
「呼ばれれば振り向く」
強硬接触班三が言った。
「機能上は名」
サルは、今回は否定しなかった。
だが、星船の中でいつまでも「小さいの」と呼び続けるわけにもいかない。
星船は提案した。
──自分で名を選べる
子供は黙った。
──アンナ、ルチア、マリア、マル……
「うるさい」
──では、待つ
子供はしばらくして言った。
「匙」
星船内部が止まった。
──匙?
「匙がいい」
理由は簡単だった。
星船は供与物の一例として、「匙」の映像を部屋の壁に出していた。
「小さいの」はそれを見ていた。
彼女には、名とは「呼ばれたときに自分のものになる音」だった。
匙は、硬くて、売れて、食べ物をすくえて、殴られても割れにくそうだった。
だから、匙。
サルは反対しようとして、やめた。
本人が選んだ名前だった。
星船は表示した。
──保護個体名:匙
強硬接触班三が小さく言った。
「良い」
サルも、認めざるを得なかった。
「……悪くない」
匙は、星船での最初の一週間を、ほとんど寝台の下で過ごした。
星船は食事を、部屋の入口から少し離して置く。
匙が取る。
残す。
隠す。
星船が補充する。
匙がさらに隠す。
四日目、保護区画の通気口から、干し果物が二十一個見つかった。
星船は言った。
「隠さなくても、食物は毎日出る」
匙は言った。
「毎日は嘘」
「毎日出る」
「川も毎日ある。でも飲めない日がある」
星船は返答できなかった。
七日目、匙は初めて寝台の上で眠った。
ただし、片手にパンを握っていた。
十日目、洗浄設備を使った。
叫んだ。
温水が出たからだった。
「雨を閉じ込めている!」
星船は、
「これは衛生用温水噴射――」
と言いかけ、サルが翻訳を切った。
かわりに、
「あたたかい水。止められる」
とだけ言った。
匙は、止められると聞いて、少しだけ使った。
ただしそのあと、髪を洗われることには激しく抵抗した。
抵抗というより戦闘だった。星船は三回、医療アームを噛まれた。
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損傷:軽微
対象歯列:確認
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サルが言った。
「嫌なら噛むと言っていた」
強硬接触班三は、なぜか嬉しそうだった。
「同意内容を履行している」
次の問題は教育だった。
星船には育児経験がない。
王、皇帝、商人、詩人、軍人、僧侶、反乱者、外交官、楽士、力士、哲学者、料理人などを一時的に困惑させた経験はある。
しかし子供を毎日相手にした経験はない。
星船は最初、匙に文字を教えようとした。
壁に大きく、
A
B
C
と表示した。
匙は、木片を拾ってAを突いた。
「これは罠の形」
──文字である
「鳥の足跡みたい」
──文字である
「食えるか」
──食えない
「では後」
正論だった。
星船は順番を間違えた。
まず必要なのは文字ではない。
寝る。
食べる。
痛いところを治す。
大きな音で震えない。
食べ物が消えないことを何度も確認する。
人が近づいても殴られないことを何度も確認する。
水を飲んでも腹を壊さないことを確認する。
自分の寝る場所が翌日もあることを確認する。
それから、ようやく文字。
サルは、当初星船が立案した教育計画を大幅に修正した。
第一段階:生存確認
第二段階:反射的防御の低減
第三段階:遊びの導入
第四段階:言語・数・身体感覚の整理
第五段階:本人の希望調査
強硬接触班三は言った。
「養子らしくなってきた」
サルは言った。
「軽く言うな」
「しかし、もう戻せない」
軽い言い方に見えて、かなり重かった。
匙は戻れる。
星船もそう言った。
だが、戻せば死ぬかもしれない。
戻さなければ、彼女はもう中世初期のブルディガラの子ではなくなる。
どちらにしても、容易に元には戻れない。
星船は困った。
一か月後、匙は星船内を歩くようになった。
裸足で。
靴は嫌がった。
床の振動で安全かどうかを知りたいからだった。
星船は床を少し温かくした。
匙はすぐ気づいた。
「床が機嫌を取っている」
──温度調整である
「機嫌だ」
──では、床の機嫌でよい
匙は星船の表示面を見て言った。
「お前は顔がない」
──顔は不要
「顔がないと、怒っているか分からない」
星船はその日の午後、壁に簡単な顔を表示した。
丸。
点二つ。
線一本。
匙はそれを見て、腹を抱えて笑った。
星船に来てから初めて、声を出して笑った。
「弱そう!」
星船内部に衝撃が走った。
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対象、笑声を発生。
原因:星船表示面の顔が弱そう。
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強硬接触班三は、即座に顔を増やした。
怒った顔。
困った顔。
眠い顔。
泣いた顔。
笑った顔。
匙は、怒った顔を見て言った。
「これは腹が痛い顔」
困った顔を見て言った。
「これは嘘をついた顔」
眠い顔を見て言った。
「これは死んだ鳥」
星船の感情表示教育は、初日から崩壊した。
だが、匙はその日から星船を少し呼びやすくなった。
「顔なし」
これが、匙から星船への呼称になった。
サルは少しだけ悩んだが、許可した。
星船側も、匙を「保護個体」ではなく「匙」と呼ぶことに慣れてきた。
強硬接触班三が、勝手に計画案を作った。
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星船養育区画拡張案
収容対象:帰るあてのない未成年個体
地域:時代横断
最大収容数:可変
食糧:合成可
医療:対応可
教育:未整備
情緒的愛着形成:重大課題
文化帰属:重大課題
逃走・帰還希望:個別対応
名称案:星船孤児院
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サルが即座に削除した。
孤児院を名乗るな。星船は社会ではない。
子供を集めるな。救済の顔をした収集になる。
強硬接触班三は反論した。
では、死なせるのか。
サルは、この問いに弱かった。
本当に弱かった。
だから、最終案はこうなった。
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原則:子供を星船に集めない。
例外:帰還先が明確に死亡または重大被害に接続し、本人が拒否しない場合、一時保護を認める。
一時保護後、本人の希望と安全を確認し、複数の選択肢を作る。
星船への永住は最終手段。
ただし、すでに保護した匙については、本人の生活継続を最優先する。
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強硬接触班三は、それを読んで言った。
「実質、養子一号」
サルは言った。
「言い方」
「では、星船の子」
「もっと悪い」
「顔なしの子」
そのとき、廊下の向こうから匙が言った。
「誰が子だ」
全班が停止した。
匙は、両手にパンを持って立っていた。
頬はまだ細い。腕も細い。だが、最初より目の位置が変わっていた。
常に逃げ道を探す目ではある。
けれど逃げる前に文句を言う余裕は、もうできていた。
匙は言った。
「私は匙だ」
星船は答えた。
──そうだ。匙
「顔なしは、私のものか」
星船内部がまた止まった。
これは、所有の質問だった。
親か。
家か。
道具か。
敵か。
神か。
牢か。
餌場か。
匙は、まだそれを決められない。だから「私のものか」と聞いた。
星船は、慎重に答えた。
──お前を閉じ込めるものではない
匙は眉をひそめた。
「難しい」
サルが翻訳文を変えた。
──嫌なら、噛んでよい
匙は少し考えた。
「なら、今は私の顔なし」
──今は、そうでよい
匙は満足したようにパンをかじった。
そして、歩きながら言った。
「床の機嫌を上げろ。冷たい」
星船は床を温めた。
サルは、それを止めなかった。
最後に、匙は勝手に星船の表示面へ木片で傷をつけた。
もちろん本当は傷などつかない。だが星船は、そこだけ薄く線を残した。
匙は言った。
「ここが私の印」
星船は答えた。
──記録した
匙は怒った。
「記録じゃない。印」
星船は、少し遅れて表示を変えた。
──印を残した。
匙は頷いた。
それから、星船が出した木の匙で、蜂蜜入りの温かいミルクを混ぜた。




