長期教育潜入計画(1)
「一年、オーストラリアの学校に通う。留学したことにする」
朝、匙が起きぬけにそう宣言すると、星船はかなり慎重になった。
サルがすぐに確認した。
「現地時間で一年か」
匙は顔を洗いながら頷いた。
「そう」
「星船側の経過時間では?」
「夜は戻る。ときどき休む。風呂と飯と顔なしのうるさい確認。違う時代も散歩する。けど、学校では毎日」
――長期教育潜入計画
強硬接触班三が表示したが、サルが即座に消した。
「潜入ではなく、在籍扱いにする。認識補正は最低限。教師と生徒の時間を踏み抜かない。匙も、同じ日を二回やり直さない」
匙はノートを抱えて言った。
「同じ日はいらない。明日がいる」
それで決まった。
星船側の設定はこうなった。
匙は「事情があり、海外に後見人がいる一時留学生」。
英語は不安定。
年齢は周囲より少し上だが、家庭の事情で学年調整されている。
サルは何度も言った。
「学校側に過剰な嘘を積むな」
匙も言った。
「顔なしが嘘を重ねると、後で臭くなる」
「臭くはならない」
「なる」
なので、匙はあくまでも「少し変な留学生」として通うことになった。
匙が変なのは本当なので、嘘は少なかった。
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最初の1ヶ月は、ほぼ消耗戦だった。
英語、ベル、椅子、ノート、宿題、ランチボックス、算数、体育、図書室、先生の声、クラスのざわめき、子供たちの距離の近さ。
匙は毎日、星船に帰ると床にぐったり転がった。
「学校は疲れる」
「社会的刺激が多い」
「長い。子供が多い」
「小学校だからな」
「子供はなぜあんなに声を出す」
「発達段階上――」
「長い。うるさい」
それでも翌日も行く。星船で一日過ごして時間を調整したりはしない。
これは大きかった。
匙は危険な場所から逃げるのは得意だったが、疲れる場所へ翌日も行く訓練は、まだ下手だった。
学校は匙にとって、危険ではないが疲れる場所。そして疲れるが、少し得るものがある場所だった。
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二ヶ月目、匙は「学校用の顔」を覚えた。
朝、先生に言う。
“Good morning.”
(オハヨウゴザイマス)
最初は棒読みだった。先生は笑って返した。
“Good morning, Saji.”
(おはよう、サジ)
エミリーが横で言う。
“You sound like a robot.”
(ロボットみたい)
匙は星船を睨む。
「顔なしのせいだ」
「発音補助はしていない」
「してなくても顔なしのせい」
やがて、匙はもう少し自然に言えるようになった。
“Good morning.”
(おはよう)
“Can I sit near the wall?”
(壁際に座ってよいか)
“I need water.”
(水)
“No, thank you.”
(いらない)
“I don’t understand.”
(わからない)
“Please say again.”
(もう一回、言え)
最後の文はかなり重要だった。
分からない時に黙るのではなく、怒るのでもなく、逃げるのでもなく、
Please say again.
と言う。
匙はこれをかなり気に入った。
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三ヶ月目、匙は読書を始めた。
最初は絵本、動物、学校生活、友達、宇宙、恐竜、虫、海、オーストラリアの動物。
カンガルーの本で、匙はやはり止まった。
「腹袋」
エミリーが言う。
“Pouch.”
(ポケット)
匙は書く。
Pouch = baby bag.
エミリーが笑う。
“That’s not wrong.”
(悪くないかも)
匙は満足した。
虫の本では、ファーブルのことを思い出す。
恐竜の本については、匙は厳しかった。
“Too cute.”
(可愛くし過ぎ)
クラスの男の子が言う。
“Dinosaurs are awesome!”
(恐竜はスゲー!)
匙は答える。
“Yes. Also scary. Not toy.”
(そう。それに怖い。おもちゃではない)
それ以降、その男の子とは恐竜友達になった。ジャックという名前だったが、匙は彼を「恐竜の子」と分類した。
ジャックは匙を「the serious dinosaur girl(恐竜に妥協しない女の子)」と呼んだ。
匙は怒った。
「女は余計だ」
翌日から、ジャックは “serious dinosaur person(恐竜に妥協しない人)” に直した。
匙は少し認めた。
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四ヶ月目、体育が問題になった。
走る、ボール、チーム、ルール、笛、勝ち負け。
匙は運動神経自体は悪くない。むしろ生存のための運動はかなり強い。だが、学校の体育は「逃げるための走り」ではない。
リレーで匙はやたら速かった。ただしコースを外れた。
「近道が見えた」
匙がそう言うと、先生が言った。
“No shortcut, Saji.”
(サジ、近道はだめ)
匙は不満そうだった。
「道があるのに」
エミリーが笑いながら言う。
“It’s a race rule.”
(かけっこの決まりだよ)
匙は書いた。
Game road is not real road. Bad.
(遊びの道は本物ではない。悪い)
ボールゲームでは、匙は最初、相手にボールを当てる遊びをかなり嫌がった。
「攻撃か」
“No, game.”
(遊びだよ)
「当たる」
“Yes, but soft ball.”
(うん。でもソフトボールだよ)
「攻撃だ」
先生は無理をさせなかった。
代わりに、匙は縄跳びと短距離走と、ボールの壁打ちが上手くなった。
壁打ちは特に好きだった。
壁は裏切らない。投げた分だけを返す。人間よりも正直。
匙はノートに書いた。
Wall game good. Wall gives back.
(壁の遊びはよい。壁は返す)
星船が少し複雑な気持ちになった。
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五ヶ月目、匙は初めて「作文」を書いた。
テーマはA place I like。
好きな場所。
匙はテーマを聞いたときに、固まった。
好きな場所は多い。でも、学校で言っていい場所は少ない。
顔なしの湯の部屋、カムチャツカの地面の鍋、モンゴルの草原、ファーブルの庭、東京の定食屋、その他いろいろ。
どれも説明が難しすぎる。
エミリーは「beach(海岸)」と書いている。
ジャックは「museum(博物館)」と書いている。
他の子は「grandma’s house(おばあちゃんの家)」や「soccer field(サッカー場)」。
匙は悩んだ末、こう書いた。
I like a small place near a wall.
I can see the door.
I have my food.
My friend sits near me.
The bird is loud outside.
The teacher says I can say no.
This place is school.
I do not like homework.
――壁のそばの小さな場所が好き。
――ドアを見る。飯がある。友達が近い。
――鳥は外でうるさい。
――先生は私に、だめ、と言ってよいと言う。
――ここは学校。
――宿題は好きではない。
先生はそれを読んで、しばらく黙った。
赤ペンで直したりはしなかった。その代わり、下に一言だけ書いた。
――This is a strong piece of writing.
匙は「strong」を見て、エミリーに聞いた。
「強い作文とは何だ」
エミリーは少し考えた。
“It means it feels true.”
(ほんものの感じがある)
匙はその説明を気に入った。
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六ヶ月目、匙は小さな衝突を経験した。
ある男の子が、匙の発音を真似した。悪気が半分、面白がりが半分で、“Waa-ter, waa-ter,” と変な声で言った。
匙は一瞬で固まった。
昔なら噛んだ。少し前なら睨んだ。
いまは、かなりゆっくり言った。
“Don’t do that.”
(そういうことをするな)
相手は笑った。
“What? It’s funny.”
(なんで? 面白いじゃん)
匙は立ち上がった。
エミリーがすぐ横で息を飲んだ。匙は相手に近づかず、もう一度言った。
“Don’t do that. My voice is mine.”
(そういうことをするな。私の声は私のものだ)
教室が静かになった。
すぐに先生が来て、匙に言った。
“Good”
匙はあとでノートに書いた。
Teacher fast today. Good.
(先生が今日、速かった。よい)
相手の子は謝ったが、匙はすぐには許さなかった。
“Not yet.”
(まだだ)
先生はそれを認めた。
“You don’t have to forgive right away.”
(すぐに許さなくてもいい)
匙は、その文を何度も書いた。




