匙、学校へ行く
そのきっかけは、カムチャツカの温泉だった。
匙は「地面の鍋」を気に入った。
だが、後から星船が言った。
「再訪条件を登録した。熊は遠ざける。湯温確認。水分補給。湯上がり汁。硫黄臭は弱め」
匙はそれを聞いて、少し不満になった。
「顔なしが覚えると顔なしのものになる」
「安全管理である」
「私が覚えたい」
「覚えているだろう」
「違う。湯の場所、揉み屋の女、馬の女、虫じじいの庭、港の焼き魚、東京の飯屋。私の頭だけだと混ざる」
星船は少し喜んだ。
また壁に、二つの点と曲がった横線の顔を出した。
「文字学習を希望するか」
「その顔をするな」
匙は顔をしかめてから、続けた。
「メモが欲しい。顔なしに頼らないメモ」
「文字体系候補:ラテン文字、シンハラ文字、フェニキア文字、日本語仮名漢字、モンゴル文字、漢語繁体字――」
「短いの」
「用途は」
「飯、湯、危ない、また行く、行くな、熊、馬、揉む女、虫じじい、顔なし黙れ」
「最後の用途は不要では」
「必要」
星船は候補を再計算した。
「二十一世紀前期、英語圏の初等教育環境が適切。ラテン文字、数字、簡単な単語、地図、絵、生活語彙を体系的に学べる」
匙は警戒した。
「学校」
「そうだ」
「子供を閉じ込める場所か」
「教育施設である」
「子供を椅子に置く場所」
「概ね」
「嫌」
「では個別学習を――」
「でも待て」
匙は少し考えた。
「子供が文字を覚える場所なら、私も潜る」
サルが即座に言った。
「潜るな」
匙は聞かなかった。
******
星船が選んだのは、二十一世紀オーストラリアの郊外の小学校だった。
街中でもなく、田舎すぎもしない。空と校庭が広く、綺麗な低い校舎の上を白い鳥が飛んでいる。
校門の向こうでは、子供たちが走っていた。
「子供が多い」
「小学校である」
「なぜ走っている」
「休み時間である」
「誰も追っていないのに?」
「遊びである」
笑う。叫ぶ。転ぶ。立つ。また走る。
殴られて逃げているのでも、食べ物を奪って逃げているのでもなく、走りたいから走っている。
匙は小声で言った。
「……贅沢だな」
星船は何も答えなかった。
匙は現地の小学生に近い服を着せられていた。
白い靴と、青い小さなリュック。リュックの中には鉛筆、消しゴム、ノート、水筒、昼食が入っている。
リュックを背負うのは嫌がった。
「背中を掴まれる」
「学校では一般的」
「背中に物を隠すのは悪くない。でも掴まれる」
「必要なら前に抱えてよい」
匙は即座に前に抱えた。
星船は、学校側に最低限の認識補正をかけた。
外国から来た一日参加の子。英語はまだ不慣れ。少し年上。詳しい事情は聞かない。
サルが言った。
「補正を盛りすぎるな」
強硬接触班三が言った。
「給食制度観察も――」
「オーストラリアには給食はない」
「ではランチボックス文化観察」
「匙が弁当を奪いかねない。監視しろ」
匙は校門をくぐりながら言った。
「聞こえてるぞ。奪わない。見るだけ」
「匙の『見るだけ』は信用できない」
「お前が言うな」
******
教室に入ると、匙はすぐに一番後ろの壁を取ろうとした。
だが座る席は決まっていた。
前から三列目、窓側。匙は固まった。
「背中が空く」
担任の若い女性教師が、にこやかに言った。
“You can sit here, Saji.”
(あなたはここよ、サジ)
匙は教師を見た。
明るい茶色の髪を耳にかけ、薄い緑のシャツを着ている。腕は日に焼けていて、靴は白い。
笑顔は明るいが、声は大きすぎない。
手には白い紙を持ち、背後に白い板がある。
匙は言った。
「壁の近くがいい」
教師は少しだけ考えて、すぐ席を替えた。
“Okay. You can sit near the wall.”
(いいわ、壁のそばに座りましょう)
匙は少しだけ警戒を下げた。融通が利く大人は、少しまし。
匙の隣には、匙より少し小さい女の子が座っていた。
名前はエミリー。
薄い茶色の髪を低い位置でひとつに結び、鼻の上にそばかすがある。目も薄い茶色。制服のポロシャツの袖から出た腕は少し日に焼けていた。
机の上には、同じくらいまで削った鉛筆が三本並んでいる。
エミリーは小声で言った。
“Hi.”
匙は返した。
「ハイ」
“Do you speak English?”
(英語、話せる?)
匙は少し考えた。
“Small English.”
(少しの英語)
エミリーは頷いた。
“That’s okay.”
(それで大丈夫)
匙はその返事を少し気に入った。
近づきすぎず、大丈夫とだけ言う。
最初は読み書きの時間だった。
他の子供たちは教師が白板に書いた短い単語をノートに写している。 匙には、別の薄い紙が渡された。
A
B
C
匙は目を細めた。
「私だけ簡単」
「識字水準に合わせた教材である」
「分かってる。少し腹が立つ」
鉛筆を持つ。
Aは尖っている。
Bは腹が二つ。
Cは噛みかけ。
Dは半分の鍋。
Oは完全な鍋。
Sは蛇。
Tは柱。
Mは山。
匙は勝手に名前をつけた。
エミリーが横から紙を指した。
“A is for apple.”
匙も紙を見る。
「Aは赤い実」
エミリーが囁いた。
“Apple.”
匙は繰り返した。
「Ap-pul」
“Good.”
匙は少し睨んだ。
「褒めるな」
エミリーがきょとんとする。
“Why?”
匙は答えに詰まった。
褒められると、借りができる気がする。
できたことを見られると、次もできると思われる。
次にできないと、手が飛んでくるかもしれない。
でもエミリーは手を出さない。ただ、Goodと言っただけだった。
少しして教師が来た。
“Write your name.”
(あなたの名前を書いて)
匙は固まった。
横で、エミリーが自分のノートに書いて見せた。
――Emily
匙はその字をじっと見た。
「自分の音を閉じ込めるのか」
エミリーは首を傾げた。
“It’s my name.”
(私の名前)
匙は鉛筆を握った。
Sは蛇。
aは小さい輪と尾。
jは釣り針。
iは棒と点。
――Saji
線は曲がり、字は不揃いだった。それでも、書けた。生まれて初めて、自分の名前を文字で書いた。
匙はしばらくそれを見た。
星船が何か言いかけた。
「筆記成功――」
匙は小さく机を叩いた。
「黙れ」
教師が振り向いた。
“Everything okay?”
(大丈夫?)
エミリーが素早く言った。
“She’s okay. She talks to herself sometimes.”
(大丈夫。彼女はときどき自分とお喋りする)
匙はエミリーを見た。
「自分と喋ってない。家と喋ってる」
エミリーは真顔でうなずいた。
“Okay. House.”
(うん、家)
******
休み時間になると、匙は最初、校庭の端にいた。
子供たちが走り、ボールを蹴り、縄跳びをする。日差しが強く、木の上では白い大きな鳥がうるさく鳴いている。
匙は見上げた。
「大きい鳥」
「コカトゥー、あるいは別種の大型インコ類の可能性」
「白い。うるさい。偉そう」
エミリーが横から言った。
“Cockatoo. They’re loud.”
(コカトゥー。うるさいよ)
匙は頷いた。
“Loud bird.”
(うるさい鳥)
“Yeah. Loud bird.”
(うん、うるさい鳥)
二人で鳥を見上げていると、エミリーと同い年くらいの男の子が近づいてきた。
“Do you want to play handball?”
(ハンドボールしない?)
匙は警戒した。
手。球。遊び。
球を投げられるのか。当てられるのか。奪うのか。奪われるのか。
エミリーが説明した。
ボールを地面に打って、相手に返す。順番にやる。
匙は少し考えた。
「人に当てない?」
“No”
(うん)
「それならやる」
匙は最初は下手だった。
ボールが跳ねる。変な方向に飛ぶ。
男の子が笑う。
匙が反射的に睨むと、その男の子はすぐに言った。
“Sorry. Try again?”
(ごめん。もう一回やる?)
匙は少し戸惑った。
笑ったのに続けさせる。殴る笑いではない。
“Again.”
(やる)
今度はボールがまっすぐ返ってきた。匙は少しだけ笑った。
「地面を使う遊びはよい」
星船が言った。
「星船内では不可」
「まだ何も言ってない」
******
昼になると、子供たちはそれぞれランチボックスを開いた。
匙は衝撃を受けた。
飯が、個人ごとに箱に入っている。
サンドイッチ、果物、クラッカー、チーズ、ジュース、人参、ヨーグルト、小さな菓子。
匙は自分のリュックから星船が用意したランチボックスを出し、周りを見た。
誰も他の子の食べ物を取ろうとしない。交換はするが、先に聞いている。
ある女の子がエミリーにクラッカーを渡し、ぶどうをもらった。
匙はしばらく考えてから、ビスケットを一枚出した。
「これと、赤い実」
エミリーは自分の苺を持ち上げた。
“Strawberry?”
「赤い実」
交換が成立した。
******
午後、教師が絵本を読んだ。
子供たちは床に座る。 匙は椅子よりこちらの方が好きだった。逃げやすい。
絵本にはカンガルーが出てきた。
匙は眉をひそめた。
「腹に袋がある」
エミリーが言った。
“Joey. Baby kangaroo.”
(赤ちゃんカンガルー)
「子を入れる袋?」
“Yes.”
(うん)
匙は少し黙った。
袋に子を入れて運ぶ獣。
恐竜の卵、馬の群れ、カンガルーの腹袋。世界は、思ったよりいろんな方法で小さいものを運ぶ。
星船が説明を始めようとした。
「有袋類は――」
匙は即座に囁いた。
「顔なし、黙れ」
エミリーが小声で言った。
“Is your house talking again?”
(家が、また喋ってるの?)
匙はうなずいた。
「Yes. House talks too much.」
(家が喋りすぎる)
エミリーは真剣に言った。
“My little brother talks too much too.”
(うちの弟も喋りすぎる)
匙は、少しだけ笑った。
******
最後の授業で、教師が「今日覚えた言葉」を書かせた。
匙はノートを開いた。
Saji
Apple
Water
Hot
Horse
Bath
Bug
No
Stop
Food
Bear
教師が見に来た。
“Good words.”
(よく書けてるわね)
匙は少し警戒したが、もう怒らなかった。
教師は最後の単語を見た。
“Bear?”
(熊?)
匙は真顔で言った。
“Important.”
(大事)
教師は頷いた。
“Yes. Bear is important. Though not many here.”
(そうね、熊は大事。このへんにはあまりいないけど)
匙は少し考えて、もう一つ書いた。
――Home
手が止まる。
顔なし。湯の部屋。鍋。虫じじいの庭。東京の飯屋。モンゴルの馬の女。カムチャツカの地面の鍋。
昔のブルディガラの、もう戻れない道。
どれが Home なのか。
匙は、横に小さく書いた。
――?
エミリーが横から見た。
“Home?”
匙は答えた。
“Many. Maybe.”
(たくさん。たぶん)
エミリーは少し考えた。
“That’s okay.”
(いいと思う)
匙はこの言葉をかなり気に入った。
大丈夫。
それでいい。
今すぐ一つに決めなくていい。
匙は Home? の下に、もう一つ書いた。
――Okay
******
帰る前に、エミリーが黄色い鉛筆を一本くれた。
匙はすぐに聞いた。
「返さないかもしれない」
エミリーは笑った。
“It’s for you.”
(あげる)
匙は確認した。
「盗んでない?」
“No. Gift.”
(違う。贈り物)
エミリーが聞いた。
“Come again?”
(また来る?)
匙は少し考えて、答えた。
“Maybe”
(たぶん)
エミリーは嬉しそうな顔になった。
“Okay. Bye, Saji.”
(やった。またね、サジ)
匙は少し遅れて言った。
“Bye, Emily.”
(また。エミリー)
******
星船に戻ると、匙はノートを膝の上に広げて、黄色い鉛筆を握った。
ゆっくり、慎重に書く。字は綺麗ではない。
Hot ground pot = Kamchatka
Horse woman = Mongol grass
Bug old man = garden
Tokyo food woman = morning soup
Massage woman = strong hands
Bear = far
それから少し考えて、最後に書いた。
――House talks too much.
「最後の記述は修正を――」
「黙れ。これは私のメモ」
「了解」
サルが言った。
「よい」
強硬接触班三が何かを表示しかけた。
星船小学校潜入訓練成果――
「消せ」
サルがすぐに消した。
匙は最後にもう一度、
――Saji
と書いた。
そしてその横に、小さな匙、鍋、湯気、虫、馬、熊、顔のない家を描いた。
絵は下手だった。
星船は、その下手な絵を記録したかった。だが、匙が壁を睨んだので諦めた。
匙はノートを閉じて言った。
「学校は変だ」
「そうだな」
「子供が走る。飯を箱に入れる。字を書く。壁に球を当てる。鳥がうるさい」
「そうだな」
「でも、また行くかもしれない」
その夜、彼女はパンでも鍋でも金属匙でもなく、ノートを枕元に置いて眠った。
寝る前に一度だけ目を開けて、星船に言った。
「読むな」
「読まない」
「嘘なら、学校で習った字で悪口を書く」
「読まない」
匙は目を閉じた。
星船は本当に読まなかった。




