地面の鍋
匙は、マッサージ屋の件以来、少し身体の手入れを覚えた。
馬に乗ったら揉む。
寒いところへ行ったら湯。
知らない街で歩きすぎたら飯と湯。
顔なしがうるさい時も湯。
なのである日、匙は星船に言った。
「顔なし。湯」
「湯の部屋を準備する」
「違う。外の湯」
「温泉か」
「地面から熱い水が出るやつ」
「候補多数。アイスランド、アナトリア、カムチャツカ、アンデス、日本、ニュージーランド――」
匙は途中で止めた。
「一番、誰もいなさそうなところ」
星船は少し考えた。
「前近代カムチャツカ半島の天然温泉が候補。火山地帯。寒冷環境。野生動物リスク。地形不安定。湯温変動。硫化水素等の危険あり」
匙は目を細めた。
「危ない湯か」
「危険管理が必要」
「人は少ないか」
「少ない地点を選定可能」
「ならそこ」
サルが言った。
「今回は本当に安全確認を徹底しろ」
強硬接触班三が言った。
「熊との遭遇観察も――」
「しない」
匙が反応した。
「熊?」
星船は即座に表示を切った。
「熊は遠ざける」
「いるのか」
「遠ざける」
「大きいか」
「遠ざける」
「顔なし、熊を隠すな」
サルはため息をついた。
「見せるな。湯に入るために行くんだろう」
******
降ろされた場所は、白い息の出る谷だった。
星船は「十一世紀、中世温暖期のカムチャツカ。ロシア進出以前、周辺に高度政治統合体なし、集落なし」と説明したが、匙にはどうでもよかった。
季節は晩秋。空気が冷たく、土は黒く湿り、ところどころに雪が残っている。
岩の隙間から湯気が上がっていた。
硫黄の匂い、濡れた石、遠くに針葉樹、さらに遠くに雪をかぶった山の肩。
匙は、降りた途端に震えた。
「寒い」
「防寒具を調整する」
星船が用意した外套の内側が少し温まる。
匙は鼻を動かした。
「卵が腐った匂い」
「硫黄化合物による臭気」
「地面が悪い卵を食べたのか」
「違う」
「でも、そういう匂いだ」
足元の土が少し温かい。匙はしゃがんで触った。
「地面が熱を持ってる」
「地熱」
「地面の熱」
「そうだな」
「最初からそう言え」
星船は黙った。
湯気の向こうに、小さな天然の湯だまりがあった。
星船が安全確保のために周囲の石を少し安定させ、湯温も危険域を避けているが、見た目は自然のまま。
黒い岩、白い湯気、透明に近い湯、縁に薄い鉱物の白、近くを細い流れが通る。
匙はその湯だまりを真剣な顔で見た。
「これは誰の湯だ」
「土地の湯である」
「顔なしの湯じゃない」
「そうだ」
「誰かが金を取るか」
「この地点では取らない」
「誰かが先に入っているか」
「いない」
「熊は」
「遠ざけている」
「やはりいるのか」
「遠ざけている」
匙は外套を脱ぎながら言った。
「熊が来たら顔なしが先に噛まれろ」
「星船は噛まれにくい」
「役に立たない」
天然の温泉は、湯の部屋とは違った。
湯の部屋は、匙の場所だった。
扉があり、印があり、柚子の匂いが少しあり、床が温まり、星船は見ない約束をしている。
ここには扉がない。
空と冷たい風、岩と雪があり、湯気が視界を少し奪う。服を脱ぐと、肌に空気が刺さる。
匙は服を脱ぐのに手間取った。
寒いから急ぎたい。でも急ぐと危ない。
脱いだ服は濡れない場所へ置く。靴もすぐ履ける向き。小さな金属匙も布の上。布袋も手の届くところ。
星船が言った。
「湯温は適正。足元に注意」
「見れば分かる」
匙は足を入れた。
一瞬で顔が変わった。
熱い。
だが痛いほどではない。外の冷気と湯の熱が、足首でぶつかっている。
「……強い」
「適温範囲」
「強い湯だ」
片足。
もう片足。
膝。
腿。
冷えていた身体が、湯に触れたところからほどける。しかし、風は肩を刺す。
匙は息を吐き、ゆっくり湯に沈んだ。肩まで入った瞬間に、顔が完全にゆるんだ。
「これはずるい」
「何が」
「外が寒いから、湯が勝つ」
「温冷差による快感――」
「説明するな。湯が勝つ」
匙は、しばらく何も言わなかった。
湯気、風、遠くの鳥の声、岩の隙間で水が鳴る音、足元から来る熱、髪の先だけが冷える感じ、頬の冷気、身体の湯。
星船の湯の部屋は安心だった。
カムチャツカの湯では、地面そのものが勝手に匙を煮ようとしているようだった。
だが、煮られるのが嫌ではない。
「顔なし」
「何か」
「これは、地面の鍋だ」
「比喩として理解」
「地面が火を持って、水を温めてる。人間が勝手に入る」
「温泉利用の基本構造としては概ね」
「地面の鍋」
「そうだな」
匙は満足した。
「私が入ってるから、今は私の鍋」
「所有権は発生しない」
「気分の話だ」
「なら、そうだな」
匙は岩に背を預けた。
「湯の部屋は私の。これは地面の。少し借りる」
星船はその言い方を気に入ったが、記録しなかった。匙が湯の中から睨んでいた。
しばらくして、匙はふと遠くを見た。
湯気の切れ目、白い斜面、黒い樹、空。
何もないようで、何かがいそうな距離。
「熊は、どのへん」
「安全距離外」
「見えないのか」
「見せない」
「少しだけ」
「不可」
「遠くなら」
「不可」
「象は見た。恐竜も見た」
「湯中で熊を見せる理由がない」
「強いものは見たい」
「今はのんびりする目的で来た」
匙は少し考えた。
「そうだった」
湯に沈む。
「では熊は後」
「後も未定」
「後」
星船は返事をしなかった。
匙は湯の中で手を伸ばし、水面を叩いた。
「後」
「検討する」
「よし」
匙は天然温泉で、珍しくかなり長く静かにしていた。
いつもなら飯の話をする。出口を見る。人を見る。鍋を見る。何かを疑う。
だがここには、人がいない。
飯もなく、鍋もなく、店の女も虫じじいも馬の女もいない。星船だけが遠くにいる。
少し変だった。
匙は湯気を見ながら言った。
「顔なし」
「何か」
「ここは、人がいないのに怖くない」
「安全確保している」
「それもある。でも違う」
「では何か」
匙は少し考えた。
「人がいない場所は、昔は死ぬ場所だった」
「そうだな」
「ここは、死ぬ場所みたいに広い。でも湯がある」
「そうだな」
「湯があると、少し家みたいになる」
星船は黙った。
匙は続けた。
「でも家ではない。借りるだけ」
「そうだな」
「それがいい」
匙は湯の中で目を閉じた。
星船が警告した。
「長湯注意」
「うるさい」
「脱水、のぼせ、立ちくらみに注意」
「うるさい」
「水分補給を推奨」
「水」
星船は木製の小さな器に水を出した。
現地の流れの水ではなく、星船が管理した飲用水だった。
しかし見た目はあまり不自然でない。
匙はそれを一口飲んだ。
冷たい。湯の中で冷たい水を飲む。
匙は真剣な顔で言った。
「これは危ない」
「なぜ」
「気持ちよすぎる」
「過度な快適性への警戒か」
「そういう長い言葉じゃない。だめになりそう」
「だめにはならない」
「顔なしは知らない。人間は湯と飯でだめになる」
「そうなのか」
「なる」
そう言いながら、匙はもう一口飲んだ。
もう完全にだめになっていた。
湯から上がる時が一番つらかった。
外は寒い。湯の中では強かった匙も、肩が湯から出た瞬間に叫んだ。
「寒い!」
「防寒布を提供する」
「早く!」
星船は厚い布を出した。匙はそれに包まった。
「地面の鍋、出る時が悪い」
「温度差が大きい」
「入り口は優しい。出口で噛む」
「比喩として保存――」
「するな」
「しない」
匙は急いで服を着た。
星船が言った。
「湯上がり後、休憩を推奨」
「飯」
「軽食を準備可能」
「ここで」
「現地食材風か、通常食か」
「温かい汁」
星船は少し考えて、木椀に温かい鮭と根菜の汁を出した。塩分と栄養があり、カムチャツカの雰囲気もある。
匙は岩に座り、布に包まって汁を飲んだ。
「うまい」
「よかった」
「湯の後の汁は強い」
「そうだな」
「地面の鍋に入り、顔なしの鍋を食う」
「鍋ではなく椀である」
「細かい」
帰る前に、匙はもう一度、湯気の上がる湯だまりを振り返った。
「ここはまた来る」
「再訪候補に入れるか」
「私が覚える」
「了解」
「顔なしは、安全だけ覚えろ」
「了解」
「熊も覚えろ」
「熊は遠ざける」
「いつか遠くから見る」
「未定」
「見る」
「……検討する」
匙は少し笑った。
「カムチャツカはよい」
「理由は」
「寒い。湯が強い。人が少ない。地面が熱い。熊がいる。飯は顔なしが出す」
「最後だけ現地評価ではない」
「でも大事」
星船は反論しなかった。
******
星船に戻った後、匙は湯の部屋には入らなかった。湯はもう十分だった。
かわりに寝台に転がった。
「顔なし」
「何か」
「湯の部屋に、少しだけ地面の匂いを入れろ」
「硫黄臭か」
「卵が腐りすぎないくらい」
「微量の鉱物臭を再現する」
「あと、風」
「浴室内に冷風を入れるのか」
「少し。頬だけ寒いくらい」
「温泉露天環境の再現」
「長い。頬だけ寒い湯」
「了解」
匙は目を閉じた。
「でも、本物とは違う」
「そうだな」
「だから、また行く」
「そうだな」
「熊は遠く」
「検討する」
「顔なし」
「何か」
「今日は、あまりだめじゃなかった」
「よかった」
「湯でだめになりかけたが、だめじゃなかった」
「それはよかった」
匙は寝返りを打った。
「地面の鍋は、強い」
星船は答えた。
「覚えておく」
「記録じゃなくて」
「覚える」
その夜、星船内部に新しい項目が増えた。
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匙の再訪候補:カムチャツカ天然温泉
条件:熊は遠ざける。湯温確認。水分補給。湯上がり汁。硫黄臭は弱め。
本人評価:地面の鍋。
危険:のんびりしすぎる。
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サルは最後の一行を見て、珍しく消さなかった。




