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匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
第一部 星船の少女

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17/41

地面の鍋

匙は、マッサージ屋の件以来、少し身体の手入れを覚えた。


馬に乗ったら揉む。

寒いところへ行ったら湯。

知らない街で歩きすぎたら飯と湯。

顔なしがうるさい時も湯。


なのである日、匙は星船に言った。

「顔なし。湯」

「湯の部屋を準備する」

「違う。外の湯」

「温泉か」

「地面から熱い水が出るやつ」

「候補多数。アイスランド、アナトリア、カムチャツカ、アンデス、日本、ニュージーランド――」


匙は途中で止めた。

「一番、誰もいなさそうなところ」


星船は少し考えた。

「前近代カムチャツカ半島の天然温泉が候補。火山地帯。寒冷環境。野生動物リスク。地形不安定。湯温変動。硫化水素等の危険あり」


匙は目を細めた。

「危ない湯か」

「危険管理が必要」

「人は少ないか」

「少ない地点を選定可能」

「ならそこ」


サルが言った。

「今回は本当に安全確認を徹底しろ」


強硬接触班三が言った。

「熊との遭遇観察も――」


「しない」


匙が反応した。

「熊?」

星船は即座に表示を切った。


「熊は遠ざける」

「いるのか」

「遠ざける」

「大きいか」

「遠ざける」

「顔なし、熊を隠すな」


サルはため息をついた。

「見せるな。湯に入るために行くんだろう」


******


降ろされた場所は、白い息の出る谷だった。

星船は「十一世紀、中世温暖期のカムチャツカ。ロシア進出以前、周辺に高度政治統合体なし、集落なし」と説明したが、匙にはどうでもよかった。


季節は晩秋。空気が冷たく、土は黒く湿り、ところどころに雪が残っている。

岩の隙間から湯気が上がっていた。

硫黄の匂い、濡れた石、遠くに針葉樹、さらに遠くに雪をかぶった山の肩。

匙は、降りた途端に震えた。

「寒い」

「防寒具を調整する」

星船が用意した外套の内側が少し温まる。


匙は鼻を動かした。

「卵が腐った匂い」

「硫黄化合物による臭気」

「地面が悪い卵を食べたのか」

「違う」

「でも、そういう匂いだ」


足元の土が少し温かい。匙はしゃがんで触った。

「地面が熱を持ってる」

「地熱」

「地面の熱」

「そうだな」

「最初からそう言え」

星船は黙った。


湯気の向こうに、小さな天然の湯だまりがあった。

星船が安全確保のために周囲の石を少し安定させ、湯温も危険域を避けているが、見た目は自然のまま。

黒い岩、白い湯気、透明に近い湯、縁に薄い鉱物の白、近くを細い流れが通る。

匙はその湯だまりを真剣な顔で見た。

「これは誰の湯だ」

「土地の湯である」

「顔なしの湯じゃない」

「そうだ」

「誰かが金を取るか」

「この地点では取らない」

「誰かが先に入っているか」

「いない」

「熊は」

「遠ざけている」

「やはりいるのか」

「遠ざけている」

匙は外套を脱ぎながら言った。

「熊が来たら顔なしが先に噛まれろ」

「星船は噛まれにくい」

「役に立たない」


天然の温泉は、湯の部屋とは違った。

湯の部屋は、匙の場所だった。

扉があり、印があり、柚子の匂いが少しあり、床が温まり、星船は見ない約束をしている。

ここには扉がない。

空と冷たい風、岩と雪があり、湯気が視界を少し奪う。服を脱ぐと、肌に空気が刺さる。


匙は服を脱ぐのに手間取った。

寒いから急ぎたい。でも急ぐと危ない。

脱いだ服は濡れない場所へ置く。靴もすぐ履ける向き。小さな金属匙も布の上。布袋も手の届くところ。


星船が言った。

「湯温は適正。足元に注意」

「見れば分かる」

匙は足を入れた。


一瞬で顔が変わった。


熱い。

だが痛いほどではない。外の冷気と湯の熱が、足首でぶつかっている。

「……強い」

「適温範囲」

「強い湯だ」


片足。

もう片足。

膝。

腿。

冷えていた身体が、湯に触れたところからほどける。しかし、風は肩を刺す。

匙は息を吐き、ゆっくり湯に沈んだ。肩まで入った瞬間に、顔が完全にゆるんだ。


「これはずるい」

「何が」

「外が寒いから、湯が勝つ」

「温冷差による快感――」

「説明するな。湯が勝つ」


匙は、しばらく何も言わなかった。


湯気、風、遠くの鳥の声、岩の隙間で水が鳴る音、足元から来る熱、髪の先だけが冷える感じ、頬の冷気、身体の湯。

星船の湯の部屋は安心だった。

カムチャツカの湯では、地面そのものが勝手に匙を煮ようとしているようだった。

だが、煮られるのが嫌ではない。


「顔なし」

「何か」

「これは、地面の鍋だ」

「比喩として理解」

「地面が火を持って、水を温めてる。人間が勝手に入る」

「温泉利用の基本構造としては概ね」

「地面の鍋」

「そうだな」

匙は満足した。

「私が入ってるから、今は私の鍋」

「所有権は発生しない」

「気分の話だ」

「なら、そうだな」

匙は岩に背を預けた。

「湯の部屋は私の。これは地面の。少し借りる」

星船はその言い方を気に入ったが、記録しなかった。匙が湯の中から睨んでいた。


しばらくして、匙はふと遠くを見た。

湯気の切れ目、白い斜面、黒い樹、空。

何もないようで、何かがいそうな距離。

「熊は、どのへん」

「安全距離外」

「見えないのか」

「見せない」

「少しだけ」

「不可」

「遠くなら」

「不可」

「象は見た。恐竜も見た」

「湯中で熊を見せる理由がない」

「強いものは見たい」

「今はのんびりする目的で来た」


匙は少し考えた。

「そうだった」


湯に沈む。

「では熊は後」

「後も未定」

「後」

星船は返事をしなかった。

匙は湯の中で手を伸ばし、水面を叩いた。

「後」

「検討する」

「よし」



匙は天然温泉で、珍しくかなり長く静かにしていた。

いつもなら飯の話をする。出口を見る。人を見る。鍋を見る。何かを疑う。

だがここには、人がいない。

飯もなく、鍋もなく、店の女も虫じじいも馬の女もいない。星船だけが遠くにいる。

少し変だった。


匙は湯気を見ながら言った。

「顔なし」

「何か」

「ここは、人がいないのに怖くない」

「安全確保している」

「それもある。でも違う」

「では何か」

匙は少し考えた。

「人がいない場所は、昔は死ぬ場所だった」

「そうだな」

「ここは、死ぬ場所みたいに広い。でも湯がある」

「そうだな」

「湯があると、少し家みたいになる」

星船は黙った。

匙は続けた。

「でも家ではない。借りるだけ」

「そうだな」

「それがいい」


匙は湯の中で目を閉じた。

星船が警告した。

「長湯注意」

「うるさい」

「脱水、のぼせ、立ちくらみに注意」

「うるさい」

「水分補給を推奨」

「水」

星船は木製の小さな器に水を出した。

現地の流れの水ではなく、星船が管理した飲用水だった。

しかし見た目はあまり不自然でない。

匙はそれを一口飲んだ。

冷たい。湯の中で冷たい水を飲む。

匙は真剣な顔で言った。

「これは危ない」

「なぜ」

「気持ちよすぎる」

「過度な快適性への警戒か」

「そういう長い言葉じゃない。だめになりそう」

「だめにはならない」

「顔なしは知らない。人間は湯と飯でだめになる」

「そうなのか」

「なる」

そう言いながら、匙はもう一口飲んだ。

もう完全にだめになっていた。



湯から上がる時が一番つらかった。

外は寒い。湯の中では強かった匙も、肩が湯から出た瞬間に叫んだ。

「寒い!」

「防寒布を提供する」

「早く!」

星船は厚い布を出した。匙はそれに包まった。


「地面の鍋、出る時が悪い」

「温度差が大きい」

「入り口は優しい。出口で噛む」

「比喩として保存――」

「するな」

「しない」

匙は急いで服を着た。


星船が言った。

「湯上がり後、休憩を推奨」

「飯」

「軽食を準備可能」

「ここで」

「現地食材風か、通常食か」

「温かい汁」


星船は少し考えて、木椀に温かい鮭と根菜の汁を出した。塩分と栄養があり、カムチャツカの雰囲気もある。

匙は岩に座り、布に包まって汁を飲んだ。

「うまい」

「よかった」

「湯の後の汁は強い」

「そうだな」

「地面の鍋に入り、顔なしの鍋を食う」

「鍋ではなく椀である」

「細かい」



帰る前に、匙はもう一度、湯気の上がる湯だまりを振り返った。

「ここはまた来る」

「再訪候補に入れるか」

「私が覚える」

「了解」

「顔なしは、安全だけ覚えろ」

「了解」

「熊も覚えろ」

「熊は遠ざける」

「いつか遠くから見る」

「未定」

「見る」

「……検討する」

匙は少し笑った。

「カムチャツカはよい」

「理由は」

「寒い。湯が強い。人が少ない。地面が熱い。熊がいる。飯は顔なしが出す」

「最後だけ現地評価ではない」

「でも大事」

星船は反論しなかった。


******


星船に戻った後、匙は湯の部屋には入らなかった。湯はもう十分だった。

かわりに寝台に転がった。

「顔なし」

「何か」

「湯の部屋に、少しだけ地面の匂いを入れろ」

「硫黄臭か」

「卵が腐りすぎないくらい」

「微量の鉱物臭を再現する」

「あと、風」

「浴室内に冷風を入れるのか」

「少し。頬だけ寒いくらい」

「温泉露天環境の再現」

「長い。頬だけ寒い湯」

「了解」


匙は目を閉じた。

「でも、本物とは違う」

「そうだな」

「だから、また行く」

「そうだな」

「熊は遠く」

「検討する」

「顔なし」

「何か」

「今日は、あまりだめじゃなかった」

「よかった」

「湯でだめになりかけたが、だめじゃなかった」

「それはよかった」

匙は寝返りを打った。

「地面の鍋は、強い」

星船は答えた。

「覚えておく」

「記録じゃなくて」

「覚える」



その夜、星船内部に新しい項目が増えた。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

匙の再訪候補:カムチャツカ天然温泉

条件:熊は遠ざける。湯温確認。水分補給。湯上がり汁。硫黄臭は弱め。

本人評価:地面の鍋。

危険:のんびりしすぎる。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


サルは最後の一行を見て、珍しく消さなかった。

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