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匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
第一部 星船の少女

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16/41

租界の揉み屋

匙は、十五世紀モンゴルから戻った翌朝、かなり不機嫌だった。

理由は明白だった。


腿が痛い。

尻が痛い。

腰が痛い。

腹の奥も痛い。

背中も変に張っている。

そして何より、昨日の自分が少し楽しかったことが腹立たしい。


星船が言った。

「筋肉疲労は自然な反応である」

匙は寝台の上で横向きになったまま答えた。

「自然なら痛くないようにしろ」

「自然と無痛は一致しない」

「長い」

「休養、温浴、軽い伸展、栄養補給を推奨する」

「風呂は入った。飯も食った。まだ痛い」

「回復には時間が必要」

匙は顔を上げた。

「時間じゃなくて、人の手」


星船は一瞬止まった。


「人の手」

「そう。揉むやつ」

「按摩、マッサージ、揉み療治、手技(しゅぎ)療法、浴場付属施術、医療的徒手処置などが候補」

「いつのどこの街でもいいから、マッサージ屋に連れて行け」


サルがすぐに警戒した。

「慎重に選べ」


強硬接触班三が言った。

「古代ローマ浴場付属の――」


「匙が暴れる」

「では近代都市」

「安全性、衛生、施術者の距離感、服装、支払い方法、言語、匙の接触許容度を考慮しろ」


匙は寝台から言った。

「あと、強く揉めるやつ」


生命影響班が壁に表示した。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

注意:過度な圧迫は筋損傷を悪化させる可能性あり

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


匙は即答した。

「少し痛いくらいがいい」


「注意。匙の『少し』は信用不可」

「聞こえてるぞ」


******


星船が最初に出した候補は、二十一世紀の東京だった。

匙は嫌な顔をした。

「東京は店が多すぎる」

「安全性、衛生、支払い、緊急対応、女性施術者選択などが容易」

「看板が多い。難しそう」

「事前説明可能」

「顔なしの説明は長い」


第二候補には、十八世紀の江戸が出た。

匙は少し興味を示した。

「按摩、湯屋(ゆや)、揉み療治などの接触可能性あり。ただし施術環境・衛生・身分・性別・宿泊環境の調整が必要」

「湯屋?」

「人が多い。裸の社会的手順が複雑」

「却下」


第三候補には、十九世紀末の上海が出た。

港町。雑多。マッサージ、足揉み、湯、料理、商人、外国人、路地。

匙は少し目を細めた。

「港」

「港である」

「飯は」

「多い」

「人が混ざっている町か」

「混ざる」

「危ないか」

「適度に危ない」

「よい」


サルは頭を抱えた。

「適度に危ない、を評価するな」


匙は寝台から起き上がった。

「そこがいい」


******


匙が降ろされたのは十九世紀末の上海の、租界と旧城の境目に近い雑然とした通りだった。

時間は夕方で、空気が湿っている。

石炭の煙が低く流れ、濡れた路面を人力車が走る。車輪が泥水をはねる。

肩に荷を担いだ半裸の男、手押し車と轎子(かご)、長衫(ちょうさん)を着た辮髪(べんぱつ)の男、洋服を着た中国人。

その向こうを、帽子をかぶった外国人が歩いていく。

少し先には高い煉瓦の建物があり、その手前に木造の店が密集している。

川の方からは湿った水の匂いと石炭、香辛料と魚、酒と人の汗が混じった匂いが流れてくる。


匙は足を止めて、鼻を動かした。

「港だ」

「港市である」


人力車が匙のすぐ前を横切った。 車夫の足が石の上を叩く。

匙はその背中を見送った。


「東京より嘘が見える」

「どういう意味か」

「東京の嘘は白い。ここは茶色い」

星船は意味が理解できないまま匙の発話を保存しようとした。

少し考えて、やめた。


通りの端で、中国人の子供が匙を指した。

「小洋人(シャオヤンニン)」

その母親らしい女が、すぐ手を下げさせた。

「見るな」

匙は振り返った。

「いま何と言った」

「外国人の子供、といった程度」

「子供ではない」

「そこか」


匙は腿を少し引きずりながら、道の端をゆっくり歩いた。

「痛い」

「だから施術へ向かう」

「早く」


星船が路上に小さく出した表示を辿っていくと、路地の奥の狭い間口の店に着いた。

木の看板に、墨でいくつか字が書いてある。


湯

茶

按


入口には竹簾が下がり、その脇に湯気の立つ桶が置かれていた。


匙は店の入口の前で立ち止まった。

「飯屋ではない?」

「按摩・足揉み・湯茶提供を兼ねる施術所と推定」

「人を棚に入れるカプセルよりまし」



店の中へ入ると薄暗く、茶、薬草、古い木と油、人の身体と濡れた布の匂いがした。

壁際には低い腰掛けと木桶、湯を入れた陶器の鉢と煤けた灯火があり、奥で誰かが咳をしている。


匙はすぐに出口を確認した。

表に一つ。

裏にもう一つ。

窓は小さい。

手前に年配の女が一人、その後ろに若い女が二人。

さらに奥には、白く濁った目の男が座っていた。膝の上に手を置き、客が入っても顔を上げず、足音だけを聞いていた。



匙は少し警戒を上げた。

「誰が揉む」


星船は言った。

「女性施術者を指定可能」


匙は即座に言った。

「女。強そうなやつ」


年配の女が星船の翻訳を通して匙の言葉を聞き、匙を見てにやりと笑った。

「馬にやられた顔だね」

匙は眉をひそめた。

「分かるのか」

女は匙の歩き方を見て言った。

「腿。尻。腰。初めて長く乗ったか、下手に力を入れたか、その両方」

匙は黙った。

当たりだった。


******


施術部屋は、匙が思ったより狭かった。

ただし、悪くはない。

扉が見える。寝台が低い。布は清潔すぎず、汚すぎもしない。

香りは強すぎない。水は近くにある。施術者の女は、距離を詰めすぎない。


女は言った。

「服は緩める。全部脱がない。嫌なら止める。痛すぎたら言う」

匙は少し驚いた。

「言えば止めるのか」

女は匙をじっと見た。

「止めなかったら、あんた噛むだろ」

匙は少しだけ笑った。

「噛む」

「なら止める」

よい店だった。


匙は寝台にうつ伏せになった。

ただし、最初は片手を床に近づけ、すぐ起き上がれるようにしている。女はそれを見ても何も言わなかった。

まず、布の上から背中を軽く押す。匙の肩が跳ねた。

「力を抜け」

「入る」

「入れるから痛い」

「痛いから入る」

「馬に乗る時も、そうやって力を入れたんだろう」

匙は黙った。


女は腰から腿へ手を移して強く押した。

匙は声を押し殺した。

「――痛い」

「痛いところだ」

「なぜ押す」

「固まってるから」

「固まるのは守るためだ」

女は手を止めた。

「守りすぎだ」

匙は返事をしなかった。


手が今度は少しゆっくり動いた。

押して離し、揉んで伸ばす。

叩かない。

急に動かさない。


匙は警戒し続けていた。だが、そのうち痛みの種類が変わった。

嫌な痛みでもなく、逃げる痛みでもなく、殴られる痛みでもない。

身体の奥に溜まっていたものを、手で探されているような痛みになった。


匙は低く言った。

「……風呂と似ている」

女は笑った。

「湯で緩めて、手でほどく」

「ほどく?」

「身体は、絡まった紐みたいなものだ」

匙は少し不満そうに言った。

「私の腿は紐じゃない」

「今は紐だ」


******


星船は、施術状況を遠隔で確認していた。

生命影響班が満足そうに表示する。


――筋緊張低下。循環改善。心理的警戒、徐々に低下。


サルが言った。

「覗くな」


――生命兆候のみ


「それも最小限」


強硬接触班三が言った。

「この施術者を星船鍋音楽会医療顧問に――」

「しない」

「按摩部門」

「作らない」


******


途中で匙は、かなり変な声を出した。

腿の内側を押された瞬間だった。


「ぐっ……!」


女は、また手を止めた。

「強すぎるか」

匙は寝台に顔を押しつけたまま言った。

「いや。そこ。敵がいる」

女は少し笑った。

「敵か」

「潰せ」

「潰すと明日歩けない」

「半分潰せ」

「はいはい」


匙は負けた。

この女は、匙の命令をそのまま聞かない。しかし無視もしない。翻訳して身体にちょうどよく返す。

ファーブルを思い出した。

虫じじいは言葉を短くしてくれた。この女は圧を短くしてくれる。


匙の呼吸がだんだん深くなった。

女が言った。

「寝るなよ」

匙は目を閉じかけていた。

「寝ない」

「寝てる」

「寝てない」

「馬に負けて、手にも負けたか」

匙は目を開けた。

「負けてない」

「なら起きてろ」


匙は起きていた。

三分だけ。



施術が終わると、匙は寝台から起き上がった。

身体が変だった。

軽いが、少しだるい。

腿はまだ痛いが、痛みの角が丸い。

尻はまだ怒っているが、腰の奥が温かい。


匙は立ち上がって、数歩歩いた。

「……歩ける」

女は言った。

「歩けなかったのか」

「歩けた。でも嫌だった」

「今日は湯に入って、よく寝る。明日いきなり走るな」

「馬は?」

「乗るな」

匙は不満な顔をした。

「少しなら」

「乗るな」

「この街の女は命令が強い」

「金を取ってるからね」

匙はその理屈を気に入った。分かりやすかった。


支払いのとき、匙は少し揉めた。

星船が用意した銀貨や小銭を出し、女が受け取る。匙はさらに、布袋からセイロンで買った香辛料を少し出そうとした。

星船がそれを止めた。


「現地経済への不要な物品混入」

「礼」

「貨幣で支払い済み」

「礼は別」


女は袋をつまんで香辛料の匂いを嗅ぎ、目を細めた。

「どこのものだい」

匙は答えた。

「暑い島」

女は笑った。

「妙な客だね」

匙は真面目に言った。

「腿の敵を半分潰した礼。鍋に入れすぎるな」

女は受け取った。

「じゃあ、次は肩も見てやる」

匙は警戒した。

「次があるのか」

「馬にまた乗る顔だよ」

匙は返事をしなかった。でも、少しだけ口元が緩んでいた。


******


星船に戻ると、匙はすぐに湯の部屋へ向かった。

「湯」

「準備済み」

「柚子は少し」

「了解」

「熱くしすぎるな」

「了解」

「あと、今日の女」

「記録するか」

匙は少し考えた。

「店の場所は私が覚える。顔なしは覚えすぎるな」

「最小限にする」

「嘘なら噛む」

「了解」


湯に入った匙は、珍しく大きく息を吐いた。

「馬は疲れる」

「そうだな」

「揉まれるのも疲れる」

「そうだな」

「でも、馬で痛くなって、知らない街で揉まれて、湯に入るのは……悪くない」

「再訪希望か」

匙は湯に顎まで沈んでから言った。

「明日は嫌。明後日も嫌。でも、また馬に乗ったら行く」

「按摩先として登録――」

湯の中で匙が手を上げた。

「登録するな。覚えろ」

「覚える」

「揉む女は強い。だが、強すぎない。そこがよい」

「そうだな」


匙は少し黙ってから言った。

「顔なしにはできないことが、まだたくさんある」

星船は静かに答えた。

「そうだな」

「だから、街がいる」

「そうだな」

「虫じじいの庭も、港も、味噌汁も、草原も、揉む女の店も」

「そうだな」


匙は目を閉じた。

今度は、少し長く閉じた。


「顔なし」

「何か」

「次に馬に乗る時は、先に揉み屋を探しておけ」

「了解」

「でも勝手に予約するな」

「予約はしない」

「人間の予定は、人間に聞け」

「覚える」

匙は満足した。



その夜、星船内部ログに小さく追加された。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

匙、身体疲労の処理に他者の手を受け入れた。

条件:出口が見える、服を全て脱がない、止めると言えば止まる、施術者が強いが近づきすぎない。

結論:星船単独では回復環境を完結させない。街と人間の手が必要。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


強硬接触班三が追記しかけた。


星船按摩部隊――


サルが消した。



湯の部屋から、匙の声が飛んだ。

「消せ」


サルは言った。

「もう消した」


匙は湯の中で小さく笑った。

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