空と雲と風と馬
匙は、港が好きだった。
水の匂い、魚、荷、嘘、出入りする人間。
だから星船は、たまに逆をやりたがる。水のない方へ、壁のない方へ、路地の代わりに地平線しかない方へ。
その日、匙は星船の表示面を見ながら言った。
「外」
星船は、表示を出す前に言った。
「今回は、水辺ではない場所を候補として提示する」
匙が眉を寄せた。
「水がない場所は、悪い」
「飲料水は確保される」
「なら最初からそう言え」
星船は候補を出した。
草原
山岳
砂漠
森林
雪原
匙はそれをしばらく見た。
「草原」
「理由は」
「いちばん何もなさそう」
星船は少し間を置いて、詳細を開いた。
候補:十五世紀モンゴル高原。
遊牧集団接触可能。
家畜多数。
騎乗文化濃厚。
転倒、落馬、擦過傷、家畜関連事故、言語齟齬の可能性あり。
匙は短く言った。
「よい」
「よい、の範囲が広い」
「馬に乗りたい」
「乗馬は未経験」
「だから乗る」
星船は一度黙ってから、聞いた。
「目的は」
匙は少し考えた。
「東京では、足が地面から離れすぎる。馬なら、地面の強いものの上で動く」
星船は、その説明を半分だけ理解した。残りは分からないまま、匙を草原へ連れて行った。
******
降ろされたのは、夏の終わりの草原だった。
空が高く、風があり、草が揺れる。木はどこにもない。
東京の「空が見える」とは全然違う。セイロンの湿りも、ブルディガラの石も、カルタゴの匂いもない。
ただ風と草と、遠くの白い天幕と、さらに遠くの馬の群れ。
匙は、しばらく黙った。
「広い」
「そうだな」
「広いと、隠れる場所がない」
「その通り」
「でも、よい」
星船は、匙を牧民の小さな集団の少し外れに下ろした。
低い丘のあいだに、白い天幕がいくつか見えた。
近くでは馬が首を振り、羊の群れがゆっくり草を食んでいる。牛のそばを犬が走り、子供たちの声が風に乗って届いた。
天幕の間では、女たちが手を動かし、男たちは馬や家畜のそばにいる。煙が細く上がっている。
風には、乳と革、干し肉、馬糞、それから乾いた草の匂いが混じっていた。
匙は鼻を動かした。
「飯の匂いはある。港じゃないけど、生きてる匂いが強い」
「単独行動は推奨しない。まず接触しろ」
草原では、勝手に歩くと遠くから丸見えになる。市場の路地のようにに人混みに紛れることもできない。
しかも、馬の土地では、「足で歩いているよそ者」は少し変だ。
それでも、匙はまっすぐ歩いていった。
最初に匙を見つけたのは、茶色い子馬の近くにいた十代半ばくらいの少年だった。
細いが、足の開き方が違う。地面の上でも鞍の上でも身体が迷わない形になっている。
その少年は匙を見た。
異国の娘。服が奇妙。
目つきはよそ者だが、物乞いにも見えない。腰の動きも、町の女と完全に同じではない。
少年が何かを言い、星船の翻訳が少し遅れて届いた。
「お前、どこから来た」
匙は少し考えた。
「遠いところ」
少年は鼻で笑った。それはこの草原では答えにならない。
「誰でも遠くから来る」
それから匙の足元を見た。
「馬はどうした」
匙も自分の足を見た。
「ない」
少年の顔が少し変わった。
「ない?」
「持ってない」
「歩いて来たのか」
「今は歩いてる」
少年はもう一度、匙を見た。
服。腰の小さな袋。靴。手。
馬具はない。
「それで、何しに来た」
匙は茶色い子馬を見た。
「馬に乗りたい」
少年はそこで初めて笑った。
「馬も持ってないのに?」
匙は即座に返した。
「だから乗りたい」
少年は、近くにいた年上の女を呼んだ。
身体がしっかりしていて、顔に風の線があり、手に乳桶を持っている女だった。
彼女は匙を上から下まで見た。
「馬に乗りたいのか」
「そう」
「落ちるぞ」
「落ちるかもしれない」
「馬はお前を知らない」
「私も馬を知らない」
女は、そこで少しだけ口元を緩めた。嘘をつかないことは、この草原では悪くない。
「では、小さい馬からだ」
少年が、茶色い子馬よりさらに一回り小さな馬を引いてきた。
匙は最初、馬の近くに立っただけで少し緊張した。
馬は象や恐竜より、ずっと人間に近い。近いのに、頭が高く、脚が速く、目が横についている。
馬は匙の方を向いて軽く鼻を鳴らした。
匙は一歩引いた。
少年が笑う。
「もう負けた」
匙は睨んだ。
「まだ乗ってない」
女は馬の首を軽く叩いた。
「これは噛まない。多分」
匙は顔をしかめた。
「多分、は嫌いだ」
女は肩をすくめる。
「馬も人も、多分で生きてる」
匙が馬の鼻先へ手を出すと、馬が匂いを嗅いだ。
手のひらに馬の温かい息を感じて、匙は少し目を細めた。
「こいつ、見てるというより嗅いでる」
「馬は嗅覚も強い」
「顔なし、いまは説明いらない」
「了解」
少年が鞍を示した。
「乗れ」
匙は鞍を見た。
高い。
自分の脚で登るものとしては、かなり高い。
女が言った。
「足をここに。手はここ。身体を引き上げる」
匙は言われた通りにやってみた。
失敗した。
半分まで上がって、ずるっと滑り落ちる。
少年が吹き出した。匙は地面に手をついて、すぐ立ち上がった。
「今のは一回目だ」
二回目。
今度は足を強く蹴り、腕で引き、腰を上げ、どうにか鞍の上へ腹を乗せた。
そこからさらに身体を回すのに少し苦労したが、なんとか座った。
馬の背は思ったより広く、そして生きていた。
「これは、椅子じゃない」
「当たり前だ」
女がそう答えた。
最初はかなりひどかった。
馬が一歩進むたびに、匙の身体が遅れる。身体が遅れるたびに、馬の動きが分からなくなる。
茶色い子馬に乗った少年が、横で言う。
「力を入れるな」
「入る」
「入れるから揺れる」
「揺れるから入る」
女が笑った。
「その通りだ。だから慣れろ」
匙は必死だった。
港町の石畳を歩くのとも、風呂に入るのとも違う。馬の動きに合わせて、自分の骨の方を少し変えなければならない。
馬が歩くたびに匙は揺れ、鞍が腿に当たり、革が擦れ、股関節が引っ張られ、腹が揺れ、視線が上下した。
匙は歯を食いしばった。
「これをみんな平気でやるのか」
女が言った。
「子供のころからやる」
匙は不機嫌になった。
「ずるい」
少年がまた笑った。
「お前は歩くのが上手いだろ」
「そうだ」
「これが、俺たちの『歩く』だ」
匙は少し黙った。気に入らない言い方ではなかった。
しばらくすると、女は匙を集落から少し離れた丘の上に連れて行った。大地も空も広かった。
「ここで落ちても、せいぜい土だ」
匙は言った。
「石の上よりまし」
女は頷いた。
「それに、馬も人を落とす時は広い方が楽だ」
「気遣いが雑」
「ここは草原だからな」
女は、匙の手綱の持ち方、膝の当て方、腰の位置を少し直した。
無駄がなく、優しくもなく乱暴でもなく、必要なところだけ触る手だった。匙はその手を少し信用した。
「お前は、馬を教えるのが上手い」
女は言った。
「馬から子供を落とさないのに慣れてるだけだ」
匙は顔をしかめた。
「私は子供じゃない」
「子供だ」
匙は反論しかけて、やめた。いま自分がかなり必死な顔をしているのは分かっていた。
女は短くモンゴル語で言った。
「Za, yav.」
匙はその音を口の中で少し転がした。
「ザ……ヤヴ」
女は笑った。
「言葉は後だ。腰の置き方を先に覚えろ」
匙は三度目の往復で少し変わった。
馬の動きに対して、完全に遅れるのではなく、ほんの少しだけ先回りできる瞬間ができた。
馬が左へ重心を移す。その前に、自分の骨盤を少し緩め、脚の内側で支える。手は引きすぎない。
一瞬だけ身体が喧嘩しなかった。匙は目を見開いた。
「いま、少し分かった」
「そういう時は喋るな。逃げる」
女が言った通りだった。
匙が気を散らした瞬間、馬が少し動きを速めた。匙は慌てて鞍にしがみついた。
少年が横から叫んだ。
「喋るな!」
匙は叫び返した。
「うるさい!」
馬が驚いて頭を振った。後ろで女が腹を抱えて笑った。
風が強く吹いた。
馬のたてがみが揺れ、草が一斉に倒れ、遠くに別の騎手が見えた。
空はどこまでも広かった。
その瞬間、匙の中で何かがほどけた。
「……よい」
女は聞き逃さなかった。
「何が」
匙は前を見たまま言った。
「高い。速い。落ちそう。腹が揺れる。でも、地面から切れてない」
女は少し考えた。
「お前、変な言い方をするな」
「よく言われる」
昼になる頃には、匙はかなり腿をやられていた。下りて歩くと脚が自分のものではないみたいだった。
少年が笑った。
「お前には草原の女になるのは無理だ」
匙は睨んだ。
「お前も東京に行ったら階段で負ける」
少年は意味は分からないなりに、何となく負けていない顔をした。
昼飯が出た。
肉と乳と何か乾いたもの。発酵した飲み物。熱い塩気。
匙は最初、馬乳酒を怪しんで匂いを嗅いだ。
「これは乳が喧嘩してる」
女が吹き出した。
「喧嘩してるが、飲める」
匙は一口だけ試して顔をしかめた。
少年が得意げに言った。
「トウキョウにはないだろ」
匙は即答した。
「東京にはもっと変なものがある」
「何だ」
「缶の中の黄色い泡」
少年は意味が分からず、匙の顔だけ見た。匙は嘘をついていない顔だったので、少年は少しだけ負けた顔をした。
女は匙に肉を渡しながら言った。
「お前はどこの者でもない顔をしてる」
匙は肉を噛んだ。
「そうかもしれない」
「でも馬に乗りたがる顔は、少しここの者だ」
匙は返事をしなかった。でも、その言葉は匙の身体に残った。
午後、彼らは匙を少しだけ速歩に乗せた。
本格的な疾走ではないが、歩くよりは明らかに速い。
匙の身体はまた悲鳴を上げた。歯が鳴り、腰が浮き、鞍の上に何度も打ち付けられた。それでも女は止めなかった。
「立つな、座るな、その間だ」
「間が分からない!」
「分かるまで揺れろ!」
匙は本気で腹が立った。
だが、それがよかった。腹が立っているときには、余計な恐怖を忘れる。
馬の動きを追い、身体で間を探り、手綱にしがみつくのではなく、脚と腰でついていった。
何度か失敗し、何度か半分成功し、最後にほんの数歩だけ、馬と身体の揺れが合った。
匙は馬から下りたあと、しばらく黙っていた。
少年が言った。
「よく落ちなかったな」
匙は息を整えながら答えた。
「落ちなかった」
女が言った。
「なら、次はもっと乗れる」
匙は草原を見た。
遠くに馬。さらに遠くに騎手。空と雲と風。
「次は、……ある」
自分でも、そう言ったことに少し驚いた。
帰る前に、女が匙に短いモンゴル語を教えた。
「Mor’ sain.」
匙は繰り返した。
「モル……サイン」
少年が言った。
「お前の発音は変だ」
匙は即答した。
「お前も東京に行ったら、変な東京語を話す」
「だからトウキョウっていうのは何のことだ」
「うるさい町だ」
女が笑った。
******
星船に戻ると、匙は最初の一言で言った。
「腿が死んだ」
「筋肉疲労、内転筋群および臀部周辺の負荷増大を確認」
「長い。湯の部屋」
「入浴を準備する」
「熱すぎるな」
「了解」
「あと飯」
「了解」
そのあと少し沈黙が下りた。
星船が聞いた。
「馬はどうだった」
匙は歩きながら答えた。
「象より近い。東京の階段より腹が立つ」
「高評価か低評価か判別困難」
「良かった」
「そうか」
「でも毎日は嫌だ」
「なぜ」
匙は振り返らずに言った。
「脚が痛い。広さは少し怖い。でも、少しだけ、自分の身体が別の身体に乗って前へ行くのはよかった」
星船は少し黙った。
「また行くか」
匙は即答しなかった。
湯の部屋の前で立ち止まり、自分の腿を押した。
痛い。
「次は、もう少し速いのをやる」
「落馬リスクが上がる」
「知ってる」
「それでもか」
匙は少し笑った。
「馬に、いまの私より少しだけ勝って帰る」
星船は、それ以上言わなかった。
匙は湯の部屋へ入る前に、小さく付け足した。
「顔なし」
「何か」
「広いところで、誰かに“次はある”と言われるのは、悪くなかった」
「記録する」
「記録じゃなくて、覚えろ」
「覚える」
草原の風は持ち帰れない。馬の背の揺れもそのままは持ち帰れない。
でも腿の痛みと、風の中で一瞬だけ馬と喧嘩しなかった身体の感じは、しばらく残った。




