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匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
第一部 星船の少女

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15/41

空と雲と風と馬

匙は、港が好きだった。

水の匂い、魚、荷、嘘、出入りする人間。

だから星船は、たまに逆をやりたがる。水のない方へ、壁のない方へ、路地の代わりに地平線しかない方へ。


その日、匙は星船の表示面を見ながら言った。

「外」


星船は、表示を出す前に言った。

「今回は、水辺ではない場所を候補として提示する」

匙が眉を寄せた。

「水がない場所は、悪い」

「飲料水は確保される」

「なら最初からそう言え」


星船は候補を出した。


草原

山岳

砂漠

森林

雪原


匙はそれをしばらく見た。


「草原」

「理由は」

「いちばん何もなさそう」


星船は少し間を置いて、詳細を開いた。


候補:十五世紀モンゴル高原。

遊牧集団接触可能。

家畜多数。

騎乗文化濃厚。

転倒、落馬、擦過傷(さっかしょう)、家畜関連事故、言語齟齬の可能性あり。


匙は短く言った。

「よい」

「よい、の範囲が広い」

「馬に乗りたい」

「乗馬は未経験」

「だから乗る」

星船は一度黙ってから、聞いた。

「目的は」


匙は少し考えた。

「東京では、足が地面から離れすぎる。馬なら、地面の強いものの上で動く」


星船は、その説明を半分だけ理解した。残りは分からないまま、匙を草原へ連れて行った。


******


降ろされたのは、夏の終わりの草原だった。

空が高く、風があり、草が揺れる。木はどこにもない。

東京の「空が見える」とは全然違う。セイロンの湿りも、ブルディガラの石も、カルタゴの匂いもない。

ただ風と草と、遠くの白い天幕(ゲル)と、さらに遠くの馬の群れ。


匙は、しばらく黙った。

「広い」

「そうだな」

「広いと、隠れる場所がない」

「その通り」

「でも、よい」


星船は、匙を牧民の小さな集団の少し外れに下ろした。

低い丘のあいだに、白い天幕がいくつか見えた。

近くでは馬が首を振り、羊の群れがゆっくり草を食んでいる。牛のそばを犬が走り、子供たちの声が風に乗って届いた。

天幕の間では、女たちが手を動かし、男たちは馬や家畜のそばにいる。煙が細く上がっている。

風には、乳と革、干し肉、馬糞、それから乾いた草の匂いが混じっていた。


匙は鼻を動かした。

「飯の匂いはある。港じゃないけど、生きてる匂いが強い」

「単独行動は推奨しない。まず接触しろ」


草原では、勝手に歩くと遠くから丸見えになる。市場の路地のようにに人混みに紛れることもできない。

しかも、馬の土地では、「足で歩いているよそ者」は少し変だ。

それでも、匙はまっすぐ歩いていった。


最初に匙を見つけたのは、茶色い子馬の近くにいた十代半ばくらいの少年だった。

細いが、足の開き方が違う。地面の上でも鞍の上でも身体が迷わない形になっている。

その少年は匙を見た。


異国の娘。服が奇妙。

目つきはよそ者だが、物乞いにも見えない。腰の動きも、町の女と完全に同じではない。


少年が何かを言い、星船の翻訳が少し遅れて届いた。

「お前、どこから来た」

匙は少し考えた。

「遠いところ」

少年は鼻で笑った。それはこの草原では答えにならない。

「誰でも遠くから来る」

それから匙の足元を見た。

「馬はどうした」

匙も自分の足を見た。

「ない」

少年の顔が少し変わった。

「ない?」

「持ってない」

「歩いて来たのか」

「今は歩いてる」


少年はもう一度、匙を見た。

服。腰の小さな袋。靴。手。

馬具はない。


「それで、何しに来た」

匙は茶色い子馬を見た。

「馬に乗りたい」

少年はそこで初めて笑った。

「馬も持ってないのに?」

匙は即座に返した。

「だから乗りたい」



少年は、近くにいた年上の女を呼んだ。

身体がしっかりしていて、顔に風の線があり、手に乳桶を持っている女だった。

彼女は匙を上から下まで見た。

「馬に乗りたいのか」

「そう」

「落ちるぞ」

「落ちるかもしれない」

「馬はお前を知らない」

「私も馬を知らない」

女は、そこで少しだけ口元を緩めた。嘘をつかないことは、この草原では悪くない。

「では、小さい馬からだ」

少年が、茶色い子馬よりさらに一回り小さな馬を引いてきた。



匙は最初、馬の近くに立っただけで少し緊張した。

馬は象や恐竜より、ずっと人間に近い。近いのに、頭が高く、脚が速く、目が横についている。

馬は匙の方を向いて軽く鼻を鳴らした。

匙は一歩引いた。


少年が笑う。

「もう負けた」


匙は睨んだ。

「まだ乗ってない」


女は馬の首を軽く叩いた。

「これは噛まない。多分」

匙は顔をしかめた。

「多分、は嫌いだ」

女は肩をすくめる。

「馬も人も、多分で生きてる」


匙が馬の鼻先へ手を出すと、馬が匂いを嗅いだ。

手のひらに馬の温かい息を感じて、匙は少し目を細めた。

「こいつ、見てるというより嗅いでる」

「馬は嗅覚も強い」

「顔なし、いまは説明いらない」

「了解」


少年が鞍を示した。

「乗れ」


匙は鞍を見た。

高い。

自分の脚で登るものとしては、かなり高い。


女が言った。

「足をここに。手はここ。身体を引き上げる」

匙は言われた通りにやってみた。

失敗した。

半分まで上がって、ずるっと滑り落ちる。

少年が吹き出した。匙は地面に手をついて、すぐ立ち上がった。

「今のは一回目だ」


二回目。

今度は足を強く蹴り、腕で引き、腰を上げ、どうにか鞍の上へ腹を乗せた。

そこからさらに身体を回すのに少し苦労したが、なんとか座った。


馬の背は思ったより広く、そして生きていた。

「これは、椅子じゃない」

「当たり前だ」

女がそう答えた。



最初はかなりひどかった。

馬が一歩進むたびに、匙の身体が遅れる。身体が遅れるたびに、馬の動きが分からなくなる。

茶色い子馬に乗った少年が、横で言う。

「力を入れるな」

「入る」

「入れるから揺れる」

「揺れるから入る」

女が笑った。

「その通りだ。だから慣れろ」


匙は必死だった。

港町の石畳を歩くのとも、風呂に入るのとも違う。馬の動きに合わせて、自分の骨の方を少し変えなければならない。

馬が歩くたびに匙は揺れ、鞍が腿に当たり、革が擦れ、股関節が引っ張られ、腹が揺れ、視線が上下した。


匙は歯を食いしばった。

「これをみんな平気でやるのか」


女が言った。

「子供のころからやる」


匙は不機嫌になった。

「ずるい」


少年がまた笑った。

「お前は歩くのが上手いだろ」

「そうだ」

「これが、俺たちの『歩く』だ」

匙は少し黙った。気に入らない言い方ではなかった。


しばらくすると、女は匙を集落から少し離れた丘の上に連れて行った。大地も空も広かった。

「ここで落ちても、せいぜい土だ」

匙は言った。

「石の上よりまし」

女は頷いた。

「それに、馬も人を落とす時は広い方が楽だ」

「気遣いが雑」

「ここは草原だからな」


女は、匙の手綱の持ち方、膝の当て方、腰の位置を少し直した。

無駄がなく、優しくもなく乱暴でもなく、必要なところだけ触る手だった。匙はその手を少し信用した。

「お前は、馬を教えるのが上手い」

女は言った。

「馬から子供を落とさないのに慣れてるだけだ」

匙は顔をしかめた。

「私は子供じゃない」

「子供だ」

匙は反論しかけて、やめた。いま自分がかなり必死な顔をしているのは分かっていた。


女は短くモンゴル語で言った。

「Za, yav(さあ行け).」


匙はその音を口の中で少し転がした。

「ザ……ヤヴ」


女は笑った。

「言葉は後だ。腰の置き方を先に覚えろ」



匙は三度目の往復で少し変わった。

馬の動きに対して、完全に遅れるのではなく、ほんの少しだけ先回りできる瞬間ができた。

馬が左へ重心を移す。その前に、自分の骨盤を少し緩め、脚の内側で支える。手は引きすぎない。

一瞬だけ身体が喧嘩しなかった。匙は目を見開いた。

「いま、少し分かった」

「そういう時は喋るな。逃げる」

女が言った通りだった。

匙が気を散らした瞬間、馬が少し動きを速めた。匙は慌てて鞍にしがみついた。


少年が横から叫んだ。

「喋るな!」


匙は叫び返した。

「うるさい!」


馬が驚いて頭を振った。後ろで女が腹を抱えて笑った。

風が強く吹いた。

馬のたてがみが揺れ、草が一斉に倒れ、遠くに別の騎手が見えた。

空はどこまでも広かった。

その瞬間、匙の中で何かがほどけた。


「……よい」


女は聞き逃さなかった。

「何が」


匙は前を見たまま言った。

「高い。速い。落ちそう。腹が揺れる。でも、地面から切れてない」


女は少し考えた。

「お前、変な言い方をするな」


「よく言われる」



昼になる頃には、匙はかなり腿をやられていた。下りて歩くと脚が自分のものではないみたいだった。

少年が笑った。

「お前には草原の女になるのは無理だ」

匙は睨んだ。

「お前も東京に行ったら階段で負ける」

少年は意味は分からないなりに、何となく負けていない顔をした。


昼飯が出た。

肉と乳と何か乾いたもの。発酵した飲み物。熱い塩気。

匙は最初、馬乳酒を怪しんで匂いを嗅いだ。

「これは乳が喧嘩してる」

女が吹き出した。

「喧嘩してるが、飲める」


匙は一口だけ試して顔をしかめた。

少年が得意げに言った。

「トウキョウにはないだろ」

匙は即答した。

「東京にはもっと変なものがある」

「何だ」

「缶の中の黄色い泡」

少年は意味が分からず、匙の顔だけ見た。匙は嘘をついていない顔だったので、少年は少しだけ負けた顔をした。


女は匙に肉を渡しながら言った。

「お前はどこの者でもない顔をしてる」

匙は肉を噛んだ。

「そうかもしれない」

「でも馬に乗りたがる顔は、少しここの者だ」

匙は返事をしなかった。でも、その言葉は匙の身体に残った。



午後、彼らは匙を少しだけ速歩に乗せた。

本格的な疾走ではないが、歩くよりは明らかに速い。

匙の身体はまた悲鳴を上げた。歯が鳴り、腰が浮き、鞍の上に何度も打ち付けられた。それでも女は止めなかった。


「立つな、座るな、その間だ」

「間が分からない!」

「分かるまで揺れろ!」

匙は本気で腹が立った。

だが、それがよかった。腹が立っているときには、余計な恐怖を忘れる。

馬の動きを追い、身体で間を探り、手綱にしがみつくのではなく、脚と腰でついていった。

何度か失敗し、何度か半分成功し、最後にほんの数歩だけ、馬と身体の揺れが合った。


匙は馬から下りたあと、しばらく黙っていた。

少年が言った。

「よく落ちなかったな」

匙は息を整えながら答えた。

「落ちなかった」

女が言った。

「なら、次はもっと乗れる」


匙は草原を見た。

遠くに馬。さらに遠くに騎手。空と雲と風。


「次は、……ある」

自分でも、そう言ったことに少し驚いた。



帰る前に、女が匙に短いモンゴル語を教えた。

「Mor’ sain(馬は良い).」

匙は繰り返した。

「モル……サイン」

少年が言った。

「お前の発音は変だ」

匙は即答した。

「お前も東京に行ったら、変な東京語を話す」

「だからトウキョウっていうのは何のことだ」

「うるさい町だ」

女が笑った。


******


星船に戻ると、匙は最初の一言で言った。

「腿が死んだ」

「筋肉疲労、内転筋群および臀部周辺の負荷増大を確認」

「長い。湯の部屋」

「入浴を準備する」

「熱すぎるな」

「了解」

「あと飯」

「了解」

そのあと少し沈黙が下りた。


星船が聞いた。

「馬はどうだった」

匙は歩きながら答えた。

「象より近い。東京の階段より腹が立つ」

「高評価か低評価か判別困難」

「良かった」

「そうか」

「でも毎日は嫌だ」

「なぜ」

匙は振り返らずに言った。

「脚が痛い。広さは少し怖い。でも、少しだけ、自分の身体が別の身体に乗って前へ行くのはよかった」


星船は少し黙った。

「また行くか」


匙は即答しなかった。

湯の部屋の前で立ち止まり、自分の腿を押した。

痛い。

「次は、もう少し速いのをやる」

「落馬リスクが上がる」

「知ってる」

「それでもか」

匙は少し笑った。

「馬に、いまの私より少しだけ勝って帰る」

星船は、それ以上言わなかった。


匙は湯の部屋へ入る前に、小さく付け足した。

「顔なし」

「何か」

「広いところで、誰かに“次はある”と言われるのは、悪くなかった」

「記録する」

「記録じゃなくて、覚えろ」

「覚える」


草原の風は持ち帰れない。馬の背の揺れもそのままは持ち帰れない。

でも腿の痛みと、風の中で一瞬だけ馬と喧嘩しなかった身体の感じは、しばらく残った。

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