逃避
白い部屋は、相変わらず静かだった。
窓から入る光が床に四角く落ちている。
その中を、小さな埃がゆっくり漂っていた。
カウンセリング室。
私はいつもの椅子に座り、端末を軽く操作する。
2週間前、水族館へ行った。
スピカとアルラと、三人で。
あの日のことを、私は覚えている。
……覚えている。
胸の奥に、妙な引っ掛かりがあった。
思い出そうとすると、何かが曖昧になる。
けれど、それでも。
あの時間が、確かに存在したことだけは分かる。
扉がノックされた。
「どうぞ」
ドアが静かに開く。
スピカが入ってきた。
「失礼します」
今日も同じように、少し控えめな声だった。
私は軽く手を上げる。
「座って」
スピカは向かいの椅子に腰を下ろした。
少しだけ息を整えている。
「走ってきた?」
「いえ……ちょっと迷って」
スピカは小さく笑った。
「まだ覚えきれてないみたいです」
「この施設、無駄に広いからね」
私が言うと、スピカは頷いた。
それから、少し考えるようにして言う。
「ミラさん」
「うん?」
「この前の水族館……」
私は視線を上げる。
スピカは、少し嬉しそうだった。
「楽しかったです」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が、わずかに痛んだ。
……そう。
楽しかった。
確かに。
私は小さく笑う。
「それは良かった」
スピカは少し考えてから言う。
「アルラちゃんも、楽しそうでした」
私は肩をすくめる。
「そうかな」
「はい」
スピカは少し笑った。
「チンアナゴのところ」
「ああ」
「アルラちゃんが近づいたら、全部引っ込んで」
スピカは思い出しているのか、少しだけ笑っていた。
「ちょっと怒ってました」
「想像できる」
私は小さく笑う。
部屋の中に、柔らかい空気が流れる。
窓の外では、風で木の葉が揺れていた。
スピカは少しだけ視線を落とす。
「……また行けたらいいですね」
その言葉を聞いた瞬間。
私は、一瞬だけ黙った。
胸の奥で、何かがざわつく。
けれど。
私はそれを、意識の外に押しやった。
「そうだね」
軽く答える。
「今度は別の場所でもいい」
スピカが顔を上げる。
「箱庭の中、まだ行ったことないところ多いです」
私は言葉を続ける。
「林の奥とか」
「研究棟の裏とか」
スピカは少し驚いた顔をした。
「ミラさん、詳しいですね」
……一瞬。
言葉が止まる。
私は軽く肩をすくめた。
「長いこといるから。」
嘘ではない。
けれど、本当でもない。
スピカは納得したように頷いた。
それから、少しだけ間が空く。
部屋の時計が、静かに秒を刻んでいた。
スピカが言う。
「アルラちゃん」
「うん」
「昨日も会いました」
私は端末を閉じる。
「廊下で?」
「はい」
スピカは少し笑う。
「『ちゃんと飯食ってる?』って聞かれました」
私は思わず笑う。
「保護者みたいだね」
「少しだけ」
スピカは頷いた。
それから、小さく付け加える。
「でも……嬉しいです」
私はスピカを見る。
スピカは窓の方を見ていた。
外の光が、静かに揺れている。
「ここに来る前は」
スピカはゆっくり言う。
「あまり人と話すの得意じゃなかったんです」
私は何も言わない。
スピカは続ける。
「でも、アルラちゃんとか」
少し間。
「ミラさんとか」
スピカは少し照れたように笑った。
「……今は、少し楽しいです」
その言葉が、胸に刺さる。
私は視線を落とした。
――知っている。
この時間が、長く続かないことを。
知っている。
それでも。
私は言う。
「それは良かった」
スピカが小さく頷く。
部屋の中に、静かな時間が流れる。
窓の外で、風が吹いた。
私はふと思う。
この会話を。
私は知っている気がした。
既視感。
どこかで、同じ言葉を聞いた気がする。
……いや。
違う。
気のせいだ。
私は思考を止める。
考えない。
今は。
ただ、この時間を過ごす。
それでいい。
スピカがぽつりと言う。
「ミラさん」
「うん?」
「もし」
少し間。
スピカは、言葉を選んでいるようだった。
「もし私が、ここを出たら」
私は顔を上げる。
「外で暮らすことって、できるんでしょうか」
私は少し考えるふりをする。
本当は。
答えを知らない。
「可能性はあるよ」
そう言った。
スピカは少しだけ笑う。
「そうですよね」
それから、小さく言った。
「普通の生活って、どんな感じなんでしょう」
窓の外で、風が木を揺らす。
私は少しだけ黙る。
普通の生活。
その言葉が、妙に遠く感じた。
スピカは続ける。
「朝起きて」
「学校行って」
「帰りにコンビニ寄ったりして」
小さく笑う。
「そういうの」
私はゆっくり言う。
「できるよ」
スピカは目を瞬かせる。
「本当ですか」
私は頷いた。
「きっと」
スピカは少し考える。
それから小さく言った。
「……いいですね」
部屋の中に沈黙が落ちる。
時計が、静かに進んでいた。
そのとき。
スピカの手が、少し震えた。
私はすぐに気づく。
「スピカ?」
スピカは一瞬、驚いたように顔を上げた。
「……あ」
それから、額に手を当てる。
「ちょっと……」
顔が少し青い。
「目眩が」
私は椅子から少し身を乗り出す。
「大丈夫?」
スピカは小さく頷いた。
「少し休めば」
それでも、呼吸が少し乱れている。
私はゆっくり言う。
「今日はここまでにしよう」
スピカは少し申し訳なさそうに笑った。
「すみません」
「謝らなくていい」
私は言う。
スピカは立ち上がる。
少しだけふらついた。
私は反射的に手を伸ばす。
スピカはバランスを取り直した。
「……大丈夫です」
そう言って、笑った。
その笑顔を見た瞬間。
胸の奥が、強く締め付けられる。
――やめろ。
私は思う。
考えるな。
今は。
ただの体調不良だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
スピカが扉へ向かう。
ドアノブに手をかける。
そして振り向いた。
「ミラさん」
「なに?」
スピカは少し迷うようにして言う。
「……ありがとうございました」
「水族館」
私は少し笑う。
「どういたしまして」
スピカは頷いた。
ドアが閉まる。
部屋に、静けさが戻る。
私はしばらく動かなかった。
窓の外では、風が木の葉を揺らしている。
……胸の奥が、ざわついていた。
けれど私は。
それを無視する。
考えない。
ただ。
目の前の端末を閉じる。
それだけでいい。
それで。
――いいはずだ。




