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幽境のスピカ  作者: Penguin industry
途絶えぬ記憶
6/7

逃避

白い部屋は、相変わらず静かだった。


窓から入る光が床に四角く落ちている。

その中を、小さな埃がゆっくり漂っていた。


カウンセリング室。


私はいつもの椅子に座り、端末を軽く操作する。


2週間前、水族館へ行った。

スピカとアルラと、三人で。


あの日のことを、私は覚えている。


……覚えている。


胸の奥に、妙な引っ掛かりがあった。


思い出そうとすると、何かが曖昧になる。


けれど、それでも。


あの時間が、確かに存在したことだけは分かる。


扉がノックされた。


「どうぞ」


ドアが静かに開く。


スピカが入ってきた。


「失礼します」


今日も同じように、少し控えめな声だった。


私は軽く手を上げる。


「座って」


スピカは向かいの椅子に腰を下ろした。


少しだけ息を整えている。


「走ってきた?」


「いえ……ちょっと迷って」


スピカは小さく笑った。


「まだ覚えきれてないみたいです」


「この施設、無駄に広いからね」


私が言うと、スピカは頷いた。


それから、少し考えるようにして言う。


「ミラさん」


「うん?」


「この前の水族館……」


私は視線を上げる。


スピカは、少し嬉しそうだった。


「楽しかったです」


その言葉を聞いた瞬間。


胸の奥が、わずかに痛んだ。


……そう。


楽しかった。


確かに。


私は小さく笑う。


「それは良かった」


スピカは少し考えてから言う。


「アルラちゃんも、楽しそうでした」


私は肩をすくめる。


「そうかな」


「はい」


スピカは少し笑った。


「チンアナゴのところ」


「ああ」


「アルラちゃんが近づいたら、全部引っ込んで」


スピカは思い出しているのか、少しだけ笑っていた。


「ちょっと怒ってました」


「想像できる」


私は小さく笑う。


部屋の中に、柔らかい空気が流れる。


窓の外では、風で木の葉が揺れていた。


スピカは少しだけ視線を落とす。


「……また行けたらいいですね」


その言葉を聞いた瞬間。


私は、一瞬だけ黙った。


胸の奥で、何かがざわつく。


けれど。


私はそれを、意識の外に押しやった。


「そうだね」


軽く答える。


「今度は別の場所でもいい」


スピカが顔を上げる。


「箱庭の中、まだ行ったことないところ多いです」


私は言葉を続ける。


「林の奥とか」


「研究棟の裏とか」


スピカは少し驚いた顔をした。


「ミラさん、詳しいですね」


……一瞬。


言葉が止まる。


私は軽く肩をすくめた。


「長いこといるから。」


嘘ではない。


けれど、本当でもない。


スピカは納得したように頷いた。


それから、少しだけ間が空く。


部屋の時計が、静かに秒を刻んでいた。


スピカが言う。


「アルラちゃん」


「うん」


「昨日も会いました」


私は端末を閉じる。


「廊下で?」


「はい」


スピカは少し笑う。


「『ちゃんと飯食ってる?』って聞かれました」


私は思わず笑う。


「保護者みたいだね」


「少しだけ」


スピカは頷いた。


それから、小さく付け加える。


「でも……嬉しいです」


私はスピカを見る。


スピカは窓の方を見ていた。


外の光が、静かに揺れている。


「ここに来る前は」


スピカはゆっくり言う。


「あまり人と話すの得意じゃなかったんです」


私は何も言わない。


スピカは続ける。


「でも、アルラちゃんとか」


少し間。


「ミラさんとか」


スピカは少し照れたように笑った。


「……今は、少し楽しいです」


その言葉が、胸に刺さる。


私は視線を落とした。


――知っている。


この時間が、長く続かないことを。


知っている。


それでも。


私は言う。


「それは良かった」


スピカが小さく頷く。


部屋の中に、静かな時間が流れる。


窓の外で、風が吹いた。


私はふと思う。


この会話を。


私は知っている気がした。


既視感。


どこかで、同じ言葉を聞いた気がする。


……いや。


違う。


気のせいだ。


私は思考を止める。


考えない。


今は。


ただ、この時間を過ごす。


それでいい。


スピカがぽつりと言う。


「ミラさん」


「うん?」


「もし」


少し間。


スピカは、言葉を選んでいるようだった。


「もし私が、ここを出たら」


私は顔を上げる。


「外で暮らすことって、できるんでしょうか」


私は少し考えるふりをする。


本当は。


答えを知らない。


「可能性はあるよ」


そう言った。


スピカは少しだけ笑う。


「そうですよね」


それから、小さく言った。


「普通の生活って、どんな感じなんでしょう」


窓の外で、風が木を揺らす。


私は少しだけ黙る。


普通の生活。


その言葉が、妙に遠く感じた。


スピカは続ける。


「朝起きて」


「学校行って」


「帰りにコンビニ寄ったりして」


小さく笑う。


「そういうの」


私はゆっくり言う。


「できるよ」


スピカは目を瞬かせる。


「本当ですか」


私は頷いた。


「きっと」


スピカは少し考える。


それから小さく言った。


「……いいですね」


部屋の中に沈黙が落ちる。


時計が、静かに進んでいた。


そのとき。


スピカの手が、少し震えた。


私はすぐに気づく。


「スピカ?」


スピカは一瞬、驚いたように顔を上げた。


「……あ」


それから、額に手を当てる。


「ちょっと……」


顔が少し青い。


「目眩が」


私は椅子から少し身を乗り出す。


「大丈夫?」


スピカは小さく頷いた。


「少し休めば」


それでも、呼吸が少し乱れている。


私はゆっくり言う。


「今日はここまでにしよう」


スピカは少し申し訳なさそうに笑った。


「すみません」


「謝らなくていい」


私は言う。


スピカは立ち上がる。


少しだけふらついた。


私は反射的に手を伸ばす。


スピカはバランスを取り直した。


「……大丈夫です」


そう言って、笑った。


その笑顔を見た瞬間。


胸の奥が、強く締め付けられる。


――やめろ。


私は思う。


考えるな。


今は。


ただの体調不良だ。


それ以上でも、それ以下でもない。


スピカが扉へ向かう。


ドアノブに手をかける。


そして振り向いた。


「ミラさん」


「なに?」


スピカは少し迷うようにして言う。


「……ありがとうございました」


「水族館」


私は少し笑う。


「どういたしまして」


スピカは頷いた。


ドアが閉まる。


部屋に、静けさが戻る。


私はしばらく動かなかった。


窓の外では、風が木の葉を揺らしている。


……胸の奥が、ざわついていた。


けれど私は。


それを無視する。


考えない。


ただ。


目の前の端末を閉じる。


それだけでいい。


それで。


――いいはずだ。

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