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青に溶ける距離

水族館の建物は、箱庭の林の奥にひっそりと佇んでいた。木々のあいだから、白い外壁がわずかに覗いている。


枝葉が風に揺れるたび、その白が隠れては現れる。まるで建物自体が、林の中に溶け込んでいるみたいだった。


ガラス張りの入口の向こうで、青い光がゆっくり揺れていた。


水面の反射だとわかるまで、ほんの少し時間がかかる。


その光は外に滲み、林の影を淡く染めている。

木の幹や地面の色が、わずかに青く変わって見えた。


近づくと、空気は少しひんやりとしていた。

肌に触れる温度が、外とは明らかに違う。


中からは、かすかに水の匂いが漂ってくる。

塩と湿気が混ざった、閉じた場所特有の匂い。


「思ってたよりちゃんとしてるじゃない」


カノンが言う。


腕を組んだまま、建物を見上げていた。

視線は上から入口へとゆっくり下りてくる。


ピンク色の髪が、風で少し揺れる。

光を受けて、ほんの少し透けて見えた。


「水族館なんて、もっと小さいと思ってたわ」


「箱庭は広いですから」


スピカが静かに答える。


少し間を置いて、続ける。


「施設だけじゃなくて、こういう場所もあるんです」


「へぇ」


カノンは短く返す。


けれど、その目は入口の奥を見ていた。


私は入口の端末に外出記録を通した。


電子音が小さく鳴る。

無機質な音が、この場所ではやけに浮いて聞こえた。


「はい」


私は振り返り微笑む。


「はい、今からカウンセリング開始」


カノンが眉をひそめる。


「水族館でカウンセリング?」


少しだけ間を置く。


「ここで何するのよ」


「まぁ……場所が変わるだけ」


私は軽く肩をすくめる。


「やることは同じ」


「同じって何」


カノンがすぐに返す。


「座って話すのと、歩きながら話すの、結構違うと思うけど」


私は少し考えるふりをしてから言う。


「違うから、変えるんだよ」


カノンは一瞬だけ黙る。


それから小さく息を吐いた。


「便利な言葉ね」


それでも視線は入口の奥に向いている。


ガラス越しに、大きな水槽の青い光が揺れていた。

魚影がゆっくり横切る。


「……気になるなら、先に入る?」


私が言うと、


カノンは一瞬だけこちらを見る。


「別に」


即答。


でも、そのあと少しだけ歩く位置が前に出た。


「行きましょう」


スピカが小さく言う。


ほんの少しだけ、声に期待が混じっていた。


三人で中へ入った。


館内は少し暗い。


外の光が切れて、代わりに青い光が視界を満たす。


天井の照明が柔らかく落ちていて、床に青い光が揺れている。

水面の反射が、波のようにゆっくり動いていた。


足音が、少しだけ吸われるように小さくなる。


最初の水槽には、小さな魚の群れが泳いでいた。


銀色の体が光を反射して、波のように動く。

一匹一匹ではなく、ひとつの塊みたいに見える。


スピカが水槽の前で立ち止まる。


ほんの少しだけ前に出る。


「きれいですね」


その声は、いつもより少しだけ軽かった。


魚の群れが一斉に方向を変える。


光が揺れる。

銀の粒が、空中で形を変えたみたいだった。


カノンが少し顔を近づけた。


ガラスに、うっすらと自分の顔が映る。


「同じ方向にしか行かないのね」


「群れの魚ですから」


私は水槽を見る。


「でも、完全に同じじゃないよ」


少しだけ指で示す。


「微妙にずれてる」


カノンが目を細める。


「……ほんとだ」


少し黙って見ている。


それから小さく言う。


「ぶつからないのかしら」


「たまにぶつかるらしい」


私は肩をすくめる。


「でも、大体はうまく避けるみたい」


「どうやって?」


カノンが聞く。


「感覚……とか?」


「曖昧ね」


カノンは腕を組む。


「変なの」


そう言いながら、水槽から目を離さない。


少しして、カノンが指をさした。


「スピカ」


「はい?」


「あれ」


岩の隙間から細長い魚が顔を出していた。


鋭い歯が並んでいる。

じっとこちらを見ているようだった。


「ウツボですね」


スピカが言う。


少しだけ声が落ち着いている。


カノンが目を細める。


「うわぁ…近くで見ると怖いわね…」


魚が口を開いた。

水の中で、白い歯が並ぶ。


私は少し笑う。


「近づいたら危ないね」


「絶対噛むやつね」


カノンが言う。


「噛みますね」


スピカが頷く。


少し間。


カノンは水槽にもう一歩近づく。


「……でも動かないわね」


「待ってるのかも」


私が言う。


「獲物を?」


「そう」


カノンはじっと見る。


それから小さく言う。


「やっぱり怖い顔してるわ」


でも、その声は少し楽しそうだった。


次の水槽の前で、カノンがまた立ち止まる。


砂の中から、細い魚が何本も顔を出していた。


ゆらゆら揺れている。

水の流れに合わせて、同じようでいて少しずつ違う動きをしていた。


カノンが眉をひそめる。


「……」


少し近づく。


しゃがみこむほどではないが、目線を落とす。


私が言う。


「チンアナゴだね。」


「これほんと名前どうにかならなかったのかしら…」


カノンは小さく呟く。


それでも目は逸らさない。


カノンは少ししゃがみこんで水槽を覗き込んだ。


ガラス越しに距離が近くなる。


チンアナゴがゆらゆら揺れる。

そのうちの一本が、わずかに傾いた。


「ずっと立ってるだけ?」


「流れに乗ってるんです」


スピカが説明する。


「プランクトンを食べるために」


「へぇ」


カノンは少しだけ感心したように言う。


「危ないと引っ込みます」


スピカが続ける。


カノンが少し目を細める。


「じゃあ試す」


「試す?」


私が言うより先に、


カノンが一歩、距離を詰めた。


その瞬間。


シュッ。


一斉に砂に引っ込んだ。


音がした気がするくらい、速かった。


カノンが一瞬固まる。


「……逃げた」


間が空く。


さっきまであったものが、完全に消えている。


私は笑う。


「警戒心が強いんだよ」


「感じ悪い魚ね」


カノンが腕を組む。


でもそのまま、砂の一点を見ている。


少しして。


一本だけ、そっと顔を出す。


それを見て、カノンが小さく息を吐いた。


「……戻ってきた」


「安全だと思ったんでしょうね」


スピカが言う。


カノンがちらっとスピカを見る。


「私、そんなに危険?」


「……少し」


スピカが正直に答える。


一瞬の沈黙。


カノンは数秒だけ黙ってから、


「まあ、否定はしない」


とだけ言った。


立ち上がる動きは、ほんの少しゆっくりだった。


次の水槽には、オレンジ色の小さな魚が泳いでいた。


白い模様が入っている。

水草の間を縫うように動く。


スピカが少し嬉しそうに言う。


「カクレクマノミです」


声が少しだけ軽い。


カノンが水槽を見る。


「小さいわね」


「イソギンチャクと一緒に暮らす魚です」


スピカが言う。


カノンが目を細める。


「そのトゲトゲのやつ?」


ガラスの奥で、触手のようなものが揺れている。


「毒があるらしい」


私は言う。


「でもこの魚は平気」


カノンは少し考える。


視線が魚とイソギンチャクの間を行き来する。


「じゃあこの魚、ずるくない?」


「ずるい?」


「他の魚は刺されるんでしょ」


「そうだね」


私は頷く。


「でもこの魚は平気」


カノンは少し口を尖らせる。


「なんか納得いかない」


スピカが水槽を見ながら言う。


「共生ってやつです」


「お互い助け合ってるらしいです」


「助け合い?」


カノンが聞き返す。


「はい。クマノミは守ってもらって、イソギンチャクは餌をもらうんです」


少し間。


カノンはまた魚を見る。


「ふーん」


それから小さく笑った。


「便利な関係ね」


「嫌いですか?」


スピカが聞く。


カノンは少し考える。


「……別に」


短く答える。


でも、その視線は少し長くそこに残った。


クラゲの水槽の前は、少し暗かった。


青い光が水の中をゆっくり揺れている。


透明な体が静かに浮かんでいた。


カノンが足を止める。


「……クラゲ」


傘のような丸い体がふわりと縮み、またゆっくり広がる。


触手が細い糸のように揺れていた。


カノンが顔を近づける。


「泳いでるの?」


私は水槽を見る。


「体を縮めて、水を押し出して進むらしい」


スピカが言う。


「ポンプみたいな感じですね」


カノンはしばらく黙って見ていた。


「……でも」


「弱そう」


私が少し笑う。


スピカが言う。


「クラゲって、九割くらい水らしいです」


カノンが目を細める。


「え?」


「ほとんど水」


カノンはクラゲを見つめた。


「じゃあ、ほとんど水じゃない」


クラゲがまたゆっくり動く。


青い光が揺れた。


スピカが静かに言う。


「でも、綺麗です」


カノンは少し黙った。


それから小さく言う。


「……そうね」


館内の照明が少し暗くなる。


深海エリアだった。


水槽の中に、見たことのない魚がいた。


黒くて、目が大きい。


カノンが顔をしかめる。


「……怖い顔」


私が言う。


「深海魚」


「なんでこんな顔なの」


「暗いから」


カノンが首を傾げる。


「暗いとこうなるの?」


スピカが少し考える。


「光が少ないから……それに適用するために目が大きくなるとか」


カノンは魚を見つめた。


「進化って不思議ね」


それから小さく言う。


「でも、ちょっと可哀想」


私が聞く。


「どうして?」


カノンは水槽を見たまま言う。


「こんな暗いところでしか生きられないんでしょ」


少し沈黙が流れた。

その時、アナウンスが鳴り響く。


「まもなく、イルカショーを開始いたします。ご観覧のお客様は、ショー会場までお越しください。」


「聞いた?」


カノンが興奮したようにそう言う。


目が少しだけ輝いていた。


さっきまでの落ち着いた様子が、ほんの少し崩れている。


私は小さく笑う。


「聞こえてるよ」


「行くでしょ?」


間髪入れずに言う。


もう答えは決まっているみたいだった。


スピカが少しだけ首を傾げる。


「イルカショー、ですか」


「見たことないの?」


カノンが振り向く。


スピカは少し考えてから、首を横に振った。


「映像ならありますが、実際には」


カノンの表情が変わる。


「じゃあ行くしかないじゃない」


即決だった。


私は肩をすくめる。


「カウンセリングは?」


カノンは一瞬だけ黙る。


それから、軽く視線をそらした。


「……場所が変わるだけでしょ」


少しだけ、口元が緩んでいる。


さっき私が言った言葉を、そのまま返してきた。


私は笑った。


「便利な言葉だね」


スピカも小さく笑う。


「では、移動しましょうか」


三人で案内表示に従って歩き出す。


館内の通路は、さっきより少し明るくなっていた。


人の流れが、同じ方向へ向かっている。


カノンはその中を、少し早足で進んでいく。


「そんなに急がなくても」


「いい席があるかもしれないでしょ」


振り返らずに言う。


その声が少しだけ弾んでいた。


スピカがその後ろをついていく。


「カノンちゃん、楽しそうですね」


「別に」


即答だった。


でも歩く速度は落ちない。


通路を抜けると、視界が一気に開けた。


円形の観覧席。


その中央に、大きなプールが広がっている。


水面が光を反射して、きらきらと揺れていた。


カノンが足を止める。


「……すご」


小さく呟く。


そのまま、少しだけ見入っていた。


私は近くの席を指さす。


「空いてるよ」


カノンはすぐにそちらへ向かう。


スピカと並んで座った。


少しして、スタッフの声が響く。


ショーの開始を告げる合図。


水面が静かに揺れる。


次の瞬間。


大きな水しぶきとともに、イルカが跳ね上がった。


カノンが目を見開く。


「……っ!」


声にならない驚き。


イルカは空中で弧を描き、そのまま水の中へ戻る。


再び大きな水しぶき。


観客席から拍手が起きる。


カノンはしばらく動かなかった。


それから、小さく言う。


「……速い」


スピカが頷く。


「綺麗ですね」


次々とイルカがジャンプする。


水面が何度も弾ける。


カノンの視線は、ずっとそこに向いていた。


ふと、カノンが呟く。


「ちゃんと合図で動いてるのね」


「訓練されてるからね」


私が言う。


カノンは少し考える。


「でも、楽しそう」


イルカが再び跳ねる。


光の中で、体が輝く。


カノンはその様子を見ながら、小さく言った。


「……いいわね」


その声は、さっきよりずっと柔らかかった。


私は袖をばたばたと振って、水滴を二人に飛ばす。


「ちょっ……ミラさん……!」


スピカが小さく声を上げる。


「ちょっと、あんた……!大人気ないわよ!」


カノンが呆れたように言う。


けれど、その口元は少しだけ緩んでいた。


二人とも、どこか楽しそうだった。


私は肩をすくめて笑う。


「ごめんごめん……ちょっと、子供心が出ただけ」


水面には、さっきの余韻みたいに波紋が揺れている。


観客席のあちこちから、まだ笑い声や拍手の名残が聞こえていた。


やがて、アナウンスが静かに流れる。


ショーの終了を告げる声。


イルカたちはゆっくりと水の奥へ戻っていく。


光だけが、水面に残っていた。


それを合図にするみたいに、人の流れが少しずつ動き出す。


「終わったわね」


カノンが立ち上がる。


「……でも、悪くなかった」


ぽつりと、そんなことを言う。


スピカも小さく頷いた。


「はい。とても、綺麗でした」


私は二人を見て、少しだけ笑う。


さっきまでの水しぶきの冷たさが、まだ袖に残っていた。


3人はイルカショーの会場を出て室内に戻り歩いていると


そのとき。


スピカの足が少し止まる。


私はすぐ気づく。


「ん、スピカ…!」


「……少しだけ」


カノンが振り向く。


「どうしたの?」


「ちょっと目眩が」


カノンの表情が変わる。


「座りなさい」


「でもまだ」


「いいから」


カノンは近くのベンチを指す。


「休みなさい」


スピカは少し迷う。


私は言う。


「座ろう」


スピカは小さく頷いた。


ベンチに座る。


カノンは腕を組んで立っていた。


「さっきから顔白いじゃない」


スピカが申し訳なさそうに言う。


「すみません」


カノンは少し眉をしかめる。


「謝らなくていいわ」


少し間。


カノンは小さく言った。


「……心配するでしょ」


少し休んでから、また歩き出す。


通路が広くなる。


巨大な水槽が現れた。


黒と白の影が、水の中をゆっくり泳いでいる。


「……シャチ」


スピカが小さく言う。


カノンは水槽を見る。


「大きいわね」


シャチがガラスの前を横切る。


巨大な体が、水の中でゆっくり旋回する。


スピカが静かに言った。


「……好きなんです」


カノンが振り向く。


「何が?」


スピカは少し照れたように笑う。


「シャチ」


カノンは少し驚いた顔をする。


「え、そうなの?」


スピカは頷いた。


「強いから」


シャチが水の中を回る。


スピカはその影を目で追っていた。


「それに」


少し間。


「家族で一緒にいるって書いてありました」


カノンは黙る。


スピカは続ける。


「守ったり、助けたりするんですよね」


シャチがまた旋回する。


スピカは小さく笑った。


「そういうの、いいなって思って」


カノンは少しだけスピカの前に立つ。


自然と、守るような位置だった。


それから言う。


「いいじゃない」


スピカが振り向く。


「何がですか?」


「そういうの」


カノンは水槽を見たまま言う。


「守るやつ」


スピカは少し考える。


それから笑った。


「カノンちゃんみたいですね」


カノンが振り向く。


「は?」


「守ってくれるから」


カノンは一瞬黙る。


それから顔を赤らめ、目をそらした。


「調子乗らないで…」


水槽の中で、シャチがゆっくり泳いでいた。


水族館を出ると、林の風が少し涼しかった。


三人で林道を歩く。


しばらく誰も話さない。


葉が揺れる音だけが続く。


スピカが少し前を歩いている。


そのとき。


後ろから声がした。


「……ねえ」


カノンだった。


振り向くと、彼女は前を向いたままだった。


「何?」


私が聞く。


カノンは少し黙る。


それから言う。


「あなた」


一瞬だけこちらを見る。


すぐ前を向く。


「スピカのこと」


少し間。


「ちゃんと見てるのね」


林道の風が静かに吹く。


私は少しだけ笑う。


カノンは何も言わない。


数歩歩く。


それから小さく言った。


「……そう」


さらに少し歩く。


カノンは前を向いたまま言う。


「少しは」


振り返らない。


「信用してもいいかも」


前を歩いていたスピカが振り向く。


「どうしました?」


カノンはすぐ言う。


「なんでもないわ」


スピカは少し首を傾げて、それから小さく笑った。


林の向こうで、施設の白い建物が光っていた。


距離は、来たときより少しだけ変わっていた。

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