その瞬間は、何度目か
白い部屋は、相変わらず静かだった。
窓から差し込む光が、床に四角く落ちている。
その中で、埃がゆっくりと揺れていた。
——同じだ。
私は動かなかった。
この光景を、知っている。
この静けさを、知っている。
この時間を——
知っている。
胸の奥が、じわじわと冷えていく。
「……またか」
掠れた声が、落ちる。
視線が、壁の時計に吸い寄せられる。
秒針が動く。
カタ。
カタ。
カタ。
——違う。
ミラの瞳が、わずかに揺れる。
カタ。
カタ、カタ。
カタカタ。
ほんの僅かに。
ほんの僅かにだけ。
速い。
「……やめろ」
無意識に呟く。
誰に向けた言葉かも分からない。
止まれ。
そう思う。
思ってしまう。
カタカタ。
音が、応えるように速くなる。
カタカタカタ。
「……やめろ」
立ち上がる。
椅子が擦れる音が、やけに大きく響く。
カタカタカタカタ。
ドアへ向かう。
音が追ってくる。
逃げるみたいに、手を伸ばす。
ドアノブを掴む。
冷たい。
開ける。
廊下に出る。
——静かだ。
午前九時。
本来なら、人がいる時間。
なのに。
何もいない。
気配がない。
音がない。
空間だけが、そこにある。
カタカタカタカタ。
背後で、まだ鳴っている。
振り返らない。
振り返れば——
確定する。
何かが。
ミラは歩き出す。
足が重い。
一歩。
また一歩。
やがて。
視界の先に、人影が見える。
——スピカ。
その瞬間。
呼吸が止まる。
「……スピカ」
声が、震える。
スピカはゆっくり顔を上げた。
少し顔色が悪い。
けれど、笑う。
「ミラさん」
いつもと同じ声。
いつもと同じ表情。
それが。
何よりも恐ろしい。
——知っている。
この後、どうなるか。
知っている。
止められないことも。
「さっきは、すみません」
スピカが言う。
「少し休んだら——」
「違う」
思わず遮る。
スピカが目を瞬かせる。
私の喉が震える。
言わなきゃいけない。
何かを。
でも。
何を?
どうすればいい?
分からない。
何も分からない。
ただ。
結果だけが、頭にある。
「……外、行こう」
逃げるように言う。
スピカは少し戸惑いながらも頷く。
「はい」
歩き出す。
二人で。
外へ。
自動ドアが開く。
光が、刺さる。
白く、乾いた朝の光だった。
影はくっきりと地面に落ちて、世界の輪郭だけがやけに鮮明に浮かび上がる。
風が吹く。
まだ冷たさの残る空気が、頬を撫でていく。
草の匂いと、わずかな土の匂いが混ざっていた。
鳥が鳴く。
高い場所から、何も知らないような声で。
何度も、繰り返す。
——普通の朝。
カタカタカタカタカタ。
その中で。
それだけが、壊れている。
私は隣を見る。
スピカがいる。
ちゃんといる。
生きている。
呼吸している。
笑っている。
——なのに。
「いい天気ですね」
スピカが言う。
私は答えられない。
喉が動かない。
耳鳴りが、広がる。
キィーン。
音が遠のく。
世界が、薄くなる。
カタカタカタカタカタカタカタ。
速い。
速すぎる。
止まらない。
止まらない。
止められない。
「ミラさん?」
声が遠い。
届かない。
私は立ち止まる。
頭を押さえる。
視界が歪む。
「……来る」
無意識に、言葉が零れる。
スピカが不安そうに見る。
「え?」
私は首を振る。
「違う……違う……」
でも、分かっている。
これは。
もう。
避けられない。
「いやだ」
呼吸が乱れる。
「いやだ」
一拍。
「いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ……」
スピカが一歩近づく。
「ミラさん、大丈夫で——」
「来るな!」
叫ぶ。
スピカが止まる。
驚いた顔。
傷ついた表情。
——その顔を見た瞬間。
私の中で、何かが決定的に壊れる。
違う。
違う。
違う。
今のは。
今のは。
「……ごめん」
言い直そうとする。
その瞬間。
風が、少し強く吹いた。
スピカの髪が揺れる。
光を受けて、淡くきらめく。
遠くで、鳥が鳴いている。
変わらない。
何も変わらない。
世界は、ただ穏やかで——
その足が、ずれる。
ほんの、わずか。
小さな段差。
それだけ。
それだけで。
体が傾く。
——落ちる。
「あ——」
スピカの体が、前に崩れる。
私は手を伸ばす。
でも。
一瞬、遅れる。
——さっき叫んだから。
一歩、距離が空いたから。
届かない。
指先が、空を切る。
スピカの手が、宙を掴む。
何も、掴めない。
目が合う。
その一瞬。
揺れる瞳。
恐怖と——
ほんの僅かな、信頼。
「ミラ——」
声が途切れる。
体が消える。
下へ。
引きずり込まれるように。
落ちる。
音が消える。
全部。
消える。
私の呼吸も。
思考も。
時間も。
ただ。
「落ちる」という結果だけが、
確定していく。
——ドン。
遅れて、音が戻る。
世界が再開する。
私は動けない。
足が、凍りついている。
視線だけが、ゆっくり下へ落ちる。
そこにあるのは。
動かない体。
「……あ」
声が出ない。
喉が閉じている。
息ができない。
ドクン。
ドクン。
心臓の音が響く。
カタ。
カタ。
カタ。
——止まる。
すべてが、止まる。
私の中で、何かが崩れる。
「……私のせいだ」
ぽつり、と。
言葉が落ちる。
「今の……」
「私が……」
一歩、後ずさる。
視界が揺れる。
涙が滲む。
「近づかなければ」
「叫ばなければ」
「手が届いたのに」
違う。
それだけじゃない。
「私が——」
選んだから。
動いたから。
ここに来たから。
膝が崩れる。
その場に、落ちる。
「殺した」
風が吹く。
さっきと同じ風だった。
木々が揺れる。
葉が擦れる音が、さらさらと鳴る。
どこかで、鳥が鳴いている。
何度も。
何度も。
まるで、さっきの出来事なんて
最初から存在しなかったみたいに。
私の視界が、ゆっくりと歪む。
光が滲む。
音が遠のく。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
「……あぁ」
これは終わりじゃない。
分かってしまう。
これは——
また。
沈む。
意識が、落ちていく。
光も。
音も。
感覚も。
すべてが溶けていく。
——そして。
次の瞬間。
ーー静まり返った廊下を、私はただ佇んでいた。




