51話 私はもう知ってしまった
氷で閉ざされた扉に、そっと手で触れた。
『フィリア、もう我慢しなくていいよ』
殿下の言葉が脳裏に過る。
お姉さまに会いに行ってくると言って、戻ってきてからのことだった。
様子が違った。いつもの作り笑顔も作らないで、珍しく嫌悪感を顔に出していた。どうして? お姉さまにあの噂のことを言ってきたんじゃ? 馬車で相談した時は大丈夫だと言っていたのに?
『まさかセレスがね、と、思っていたんだけど……本当に厄介な……』
『殿下、何を……?』
『僕が馬鹿だった。君の母君が言うことが全てだったんだね……』
お母、様? え、どうして、お母様がここで出てくるの?
訳が分からなくて、でも様子が変わった殿下に混乱する。さっきまで、「ああ、あの噂ね」とバカにしている感じで話していたのに。
目の前にいる殿下は、さっきまで馬車で話していた殿下と同一人物だとは思えなかった。
混乱している私をよそに、殿下が何故か初めて私の頭に手を置いて撫でてきた。
『君は優しすぎるよ』
何を……何を、言っているの? 優しい? どういうこと? お姉さまと話したんだよね? あの噂は気にするなって言ってくれたんじゃなかったの? 予想以上に広まって、お姉さまの間違った情報が浸透してきて、だから殿下に相談したのに。
何も頭が働かなくて、何をどう言えばいいのかも分からなかった時、爆音と激しい揺れが屋敷を襲った。
音はお姉さまの部屋の方からだった。サアっと自分の血の気が引いていくのが分かった。
聖女時代の記憶にあったから。こういう風に魔力を暴走させて、周囲の建物を壊した人がいたから。その人は血だらけになって、今にも命が消えそうになっていた。まさか、お姉さまも?
心配で、不安で、殿下の手を振り払って、急いでお姉さまの部屋に駆け出した。
『もう二度と、この部屋に入ってこないで』
ケガをしてなさそうなお姉さまにホッと安心したのも束の間、お姉さまが初めて明確な拒否をした。
知らない眼差しが、私を突き刺してくる。
あの綺麗なサファイアの瞳が、知らない冷たさを含んでいる。
息をするのも苦しくなって、ケガしたわけでもないのにズキズキと胸が痛くなる。
『ここはあなたが来る場所じゃない』
お姉さまの冷たい声を、初めて聴いた。
思わず伸ばした手に構わず、扉がまた閉まっていって、
こんなに明確に拒絶されたのが、本当に初めてで、
苦しくて、苦しくて、
『……もう無理か』
殿下が呟いた言葉に、背筋が冷えた。
何が、無理なの? どういう意味?
殿下の変化とお姉さまの拒絶とで、胸の奥も頭もぐちゃぐちゃで、眠ることも出来ない日が続いた。
だから、いつものように、深夜にお姉さまの部屋に向かった。
氷漬けになった扉が、はっきりとお姉さまの拒絶を示している。あれから何度もここに来て、でもこの扉を見て、苦しくなって自分の部屋に帰るのを繰り返している。
「もう……開かないんですね……」
何度来ても、もうこの扉が開いていることはない。
そう思い知らされるたびに、苦しさが胸の中を満たしていく。
嫌われたのかな。
やっぱり、あの噂を知ってるから? それで傷つけちゃったのかな? 悲しかったのかな?
違うのに。
あんな噂、出鱈目なのに。
私は、殿下のことなんて何も思っていないよ。
お姉さまにいじめられたとか、思ったこと一度もないよ。
「どうしてですか……お姉さま……?」
自分で言ってて、何を今更とも思ってしまう。
問いかけたところで、お姉さまは答えない。
あの冷たい声も、眼差しも、もう私のことを嫌っている。
……嫌われないと、どこかで思っていた。
聖女だった時、お姉さまはいつも私の話を聞いてくれた。
辛くなった時、駆け付けてくれた。
抱きしめてくれて、あの温もりを教えてくれた。
どうして、嫌われないと思っていたんだろう。
お母様が気に掛けるのは、私で。
お母様が手を上げているのは、私じゃなくて。
お父様が笑いかけるのは、やっぱり私で。
お父様が無関心なのは、やっぱり私じゃなくて。
おいしい食事も、暖かい寝床も、与えられなくて。
でも、
私には与えられているもので。
「私が……何かしましたか?」
していない。
でも、している。
私が、貴女から奪っている。
私の存在が、温もりも、優しさも、貴女から奪っている。
「ちゃんと教えてほしいんです……」
ぽたりと、涙が零れ落ちる。
何も答えてくれない、冷たい扉だけが、手に感じる。
嫌われる要素はいっぱいあって。
なのに、どうしてお姉さまは聖女の時、あんなに優しくしてくれていたんだろう。
でも今は、はっきりと分かる。
お姉さまは、私のことを嫌っている。
「っ……」
ポタポタと溢れる涙が止まらない。
泣く資格なんてない。
分かっている。
嫌われても仕方ない。
でも、
でもね、
苦しいよ。
嫌だよ。
私は、ただ、笑顔にしたかった。
また、あの時みたいに、ギューってしてほしかった。
声を押し殺して、コツンと額を冷たい扉につけた。やっぱり扉が開く気配はない。
冷たい扉が、最後に触れたお姉さまの手のように感じて、ゾワッと恐怖が脳裏に蘇る。
……だめだ。このままじゃだめ。
泣いている暇はない。
苦しいけど、嫌だけど、今じゃない。
グイっと涙を乱暴に自分の服の裾で拭って、また氷漬けの扉を見た。
嫌われても仕方ない。それだけのことをお母様はしている。私だって何も出来ていない。頼みの殿下だって、あんなに変わるなんて。
このままじゃだめだ。
殿下のそばも危ないかもしれない。
タックももういない。帰郷する時に申し訳なさそうに私に謝ってきた。食事の方も、もしかしたら危ないかもしれない。今までは殿下が盾になってくれたけど、それももう望めない。あの殿下は信用できない。
助けてくれているのは、お姉さまを愛してくれているからだと思っていた。婚約者だから。
だけど、あの期待も何もしていなそうな目、声。
もう無理だって言った意味も分からない。
その先にある未来が、あの冷たいお姉さまになるのは絶対に避けたい。
苦しいけど、嫌だけど、
もう、あんな風に抱きしめてはくれないだろうけど、
私は、あの人を助けるために、ここにいる。
それができればいい。
助けられれば、それでいいんだ。
必死に何度も心の中で繰り返した。やることはいっぱいあるはずだから。やれることはまだあるはずだから。
でも、
上手くはいかない。
「殿下、本当に本当に、私は何もされていないんです!」
「フィリア、もういいよ。そういう風にセレスを庇わなくていいんだ」
困ったように笑う殿下は、それしか言わない。
「殿下だってお姉さまがされていることはご存じでしょう⁉ なのに、なんでいきなりそういう風に庇うとかの話になるんですか⁉ 私は何もされていないのに! 噂は出鱈目なんですよ⁉」
「僕も最初はそう思ってたよ。でも、ね。フィリア。そう思い込まされているんだよ。君の母君が言っていたことが本当のことだったんだ」
「お母様の言うことの方が嘘です! 殿下だって知っているじゃありませんか! 母がお姉さまにしてきたことを!」
「そうだね。でも、理由がちゃんとあったんだって、今の僕には分かるよ」
聞く耳を持たない。伝わらない。どうして、こんなことになったのか分からない。一体殿下は今まで何を見てきたというのだろうか。
お姉さまが部屋を氷漬けにした日以来、殿下の態度は一変して、私の言葉よりも何故かお母様のことを信じるようになった。
殿下だけじゃない。
「フィリア様、こんなこと言うのもなんですが……もうセレスティア様のことは庇われない方がいいのでは……」
「庇う……? いや、待って。どうして……そんなこと、言うの?」
「フィリア様がお優しいことは知っています。ですが、その優しさが、セレスティア様を追い詰められているのでは?」
「あなたも、お姉さまが私を虐げていると思っているの?」
「……あの方が、フィリア様を大事になさっていないとは思っています」
学園に入ってからずっと傍にいた子まで、そんなことを言うようになった。
今まで私の話に、「すごい方ですね」「憧れます」「さすがは殿下の婚約者ですわね」、と耳障りのいい言葉を言っていた子たちが、手の平を返したように私に忠告してくる。
『フィリア様はお優しいから』
『それに比べてあの人は』
『殿下の婚約者としての振る舞いでは』
コソコソとこれみよがしに聞こえてくる陰口。お姉さまに注がれる侮蔑と軽蔑の視線。私には同情と憐みの声。
どうして、どうしてこうなったの?
今までの景色が、言葉が、皆の顔が、幻を見ていたんじゃないかと錯覚するぐらいの変化。
『ですが、どんな道でも選べば、その責任はあなたが取る』
先生の言葉が、より深く胸の奥に刻まれていく。
私は、後悔していない。
聖女がいなくても、世界は回る。
皆が笑顔にちゃんとなっている。
その足で、ちゃんと未来を歩いている。
後悔していない。
するはずがない。
お姉さまのことをずっとずっと考えていた。
あの人の未来を、
あの人が助かる未来を、
笑える未来を、作りたかっただけだ。
だから一緒にいなかった。
私がそばにいると、お母様はお姉さまに目を向けるから。
だから殿下に頼った。
私じゃできないことを、お姉さまに与えられると思ったから。
そばにいられなくても、
あの温もりを感じることができなくても、
嫌われても、
それが、お姉さまの為に、なると思っていたの。
その選択が、今の結果に繋がっている?
この結果は、私の責任?
どうしたらいいのか、どうしたら殿下の心を変えられるのか、どうしたら皆の気持ちを変えられるのか、どうしたら真実を伝えられるのか。
どうしたら。
どうしたらどうしたらどうしたら――。
「フィリア様、顔色が……」
「え……」
「大丈夫ですか? まさか屋敷でセレスティア様に……?」
何をしても言っても、もう全てが疑われる。
目の前にいる子も、周りにいる子も、屋敷ではお母様もお父様もジル達も。
どうして、私には手を差し伸べるのに、お姉さまには誰も目を向けないのか。
「……お姉さまは、何もやっていない」
「ですが……この前は手を払われたと」
「違う! あれは、私が――!」
お姉さまが心配で、大丈夫か聞きにいっただけで! 私がしつこく聞いてしまったから、だからっ……!
……言ったところで、どうせ信じやしない。お姉さまは悪くないと言っても、誰も信じてくれない。
「……とにかく、お姉さまは悪くないの」
でも、それしか言えない。どうやったら伝わるのか分からない。
伝わらないのがもどかしくて、悔しくて、そんな私に同情的な目で見てくる皆が嫌で、胸が苦しい。
泣きたくないのに、涙が込み上がった時だった。
「フィリア様! カーラが!」
カーラ……?
血相を変えた子が伝えてきたのは、カーラが特別講義室に行ったこと。
「様子が変で……もしかしたら、セレスティア様に何かを言いに行ったのでは?」
前にカーラを信じない方がいいと言っていたからか、噂の真偽はともかく、この子はあれからも注意するように言っていた。
カーラはあれからもずっとお姉さまのことを悪く言っていて、何度注意しても頑なに聞き入れなかった。
どうしてカーラが? お姉さまに何を?
ドクンドクンと胸騒ぎがして、勝手に足が動いた。後ろから皆が呼んでいるのにも構わずに、講義室に向かった。
思い出したのは、あの冷たい手。
まさか。
いや、違う。だって、今はもうあの人は聖女の姉なんかじゃない。
でも。
違う! あの時とは違う食事をずっと出していたはずだ!
違う違う違うと心の中で何度も唱えて、講義室の周りに出来ていた人だかりを押しのけた。
視界に入ってきたのは、血塗れで床に倒れている姿。
ヒュッと息を呑みこんで、吐き出せなかった。
「お姉さま……?」
殿下の他にもいっぱい人がいたけど、そんなの気にしていられない。
目の前の光景が信じられなくて、
でも、やっぱり見えるのが、床に倒れているあの人で。
よろけそうになる足を、なんとか動かして、お姉さまの近くにいく。体中血塗れで、床には血だまりが出来ていて、お姉さまの今の状態が正しく判断できない。
なんで、どうして? え、これ、どういうこと?
お姉さまの顔の近くで膝をつくと、薄く開けられた瞼から、お姉さまが私を見上げてきたのが分かった。苦しそうに息を荒げて。
まだ、生きてる。
でも、今にも息が止まりそう。
「そ、そんな……なんで、どうして……」
なんでなんでなんで。
それしか頭に浮かばなかった。
なんでお姉さまが血塗れなのか。
なんで苦しそうなのか。
そっとお姉さまの頬に手で触れた。温かさが伝わってくる。
生きてるよね? 大丈夫だよね?
なんでこんなことになってるの?
死なないよね?
今にも目を閉じそうなお姉さまに、ドッドッドッと心臓が鼓動を叩いてきた。
「だめ……だめです。こんなの、だめです……」
勝手に涙が出てきて、手に落ちていく。
こんな風に死ぬわけない。
だって、あなたは病気で死ぬはずだ。
だから、だから、死ぬわけない。
だけど、目の前のお姉さまの体から血が止まらないで流れていく。
その血の量が、死ぬ未来は確定だと知らせてくる。
そんなわけない。そんなわけないの。そんなわけないんだよ。
ゆっくりとお姉さまの手が上がってきたから、慌てて掴んだ。そのまま自分の頬に触れてくる。
大丈夫。
大丈夫、大丈夫。
この手はまだ、あったかい。
「だめです、だめ……お姉さま、嫌です……」
死ぬわけないの。
大丈夫だから。
そんなわけないの。
だって、この手はまだこんなにあったか――
ギューッとお姉さまの手を自分の頬に押し付けた時、
お姉さまの口角が、わずかに上がった。
息が、止まった。
なんで……?
その顔は、どこか満足しているようだった。
一瞬のことだった。
「セレス!」
手に力が入らなくなったと同時に、お姉さまの手が離れていって、近くで殿下の叫び声がした。
「おねえ、さま……?」
呆然と、お姉さまを見下ろした。
もうすでに目が閉じられていた。
「お姉さま……?」
さっきまで息を荒げていたのに、何も音がしなかった。
「どう、して……?」
でも、口元は、笑っていた。
――違う。
違う。違う違う。違う違う違う!
私は、こんなの望んでいない。
「私はっ……ただっ……お姉さまに笑ってほしかっただけなのにっ……」
最期の時じゃない。
死ぬ時じゃない。
こんな結末を、望んでいない。
そっと血に塗れた手をギュッと握って、またその手を自分の頬に押し付けた。温かいはずなのに、ちゃんとさっきまで温かかったのに!
違う。
違う違う違う。
ハアハアと自分の息が荒くなるのが分かった。
殿下が「フィリア……」と自分の名前を呼んでいた。
でも、ずっと私はお姉さまの手を握りしめた。
まだ温もりがあると信じて、ずっと握りしめた。
どんどんその温もりが消えるのを、信じたくなかった。
血塗れのお姉さまが、目を閉じたままなのを信じたくなかった。
だって、結局私は笑顔にできていない。
何のために聖女の力を捨てたのか。
何のためにそばにいることを選ばなかったのか。
全部、
全部、お姉さまのためだった。
私のせいで、お姉さまは死んだ。
私が聖女だったから。
私が気づかなかったから。
お母様の仕打ちに。
ジル達のしてきたことに。
お父様の無関心に。
だから選んだ。
後悔しない道だと思った。
上手くいっていると思っていた。
でも、変わらない運命だったの?
お姉さまが死ぬことは、変わらなかったの?
それとも、私が選んだ道が間違っていたの?
現実味がなくて、信じられなくて、でも棺に入ったお姉さまを見た。この姿を見るのは二回目だ。
この絶望感を、また味わうことになるなんて思っていなかった。
お姉さまの棺の前で嗤ったお母様がいた。
涙も見せないで、無表情のままのお父様がいた。
ジル達は影で嗤っていた。
カーラも何故か、すぐに屋敷に戻ったと聞いた。
全てがどうでもよくなった。
殿下を恨んだ。
お母様を恨んだ。
自分を、憎んだ。
もう奇跡は起こらない。
人生をやり直す奇跡なんて起こらない。
そう思っていた。
だって、お姉さまを笑顔にさせることはもう出来ない。
あの温もりに触れることはもう絶対に無理なこと。
たった一度きりの奇跡だったのだから。
だから、
だからね?
『なんでここに?』
スクルの魔法で絶対に起きない奇跡が起きて、幼いお姉さまがまた私を見てくれた時に、
もう絶対に、絶対に離さないって決めたの。
もう二度と、この温もりを失わせないって決めたの。
出来なかったことを、全部全部やるって決めたの。
お姉さまの死が、どこで訪れるのか分からない。
前の時間軸なんて、全く当てにならない。
一度目は病死。
二度目はカーラの手に掛かって。
それでも共通するのは、殿下の婚約者だということ。
だから婚約者になってほしくなかった。
婚約者になることが、お姉さまの死を呼んでいる気がした。
だけど、
お姉さまはいなくなる。
婚約者だとしても、そうじゃなくても、お姉さまはいなくなる。
あの温もりがいなくなる。
あの笑顔を見れなくなる。
そんなの、絶対に嫌だ。
あの笑顔が、温もりが、幸せをくれることを、
私はもう知ってしまった。
だから、絶対に、
あの人の未来を、変えてみせる。
私の全てを、懸けて、
また、あの人の笑顔を見るために。




