49話 この人だけの聖女になれればよかった
「はじめまして、セレスティアお姉さま! フィリアっていいます! お姉さまができて嬉しいです!」
嬉しかった。
また会えたことが。
またあのサファイアの瞳を見られたことが。
魔力なんてなくても、全然構わなかった。
「お姉さま、行きましょう!」
戸惑っている姿も、遠慮しがちな所も、全部全部、ただ嬉しくて。
死なせないって決意を固めて、
今度こそお姉さまの声を聞き逃さないって、
そう、思っていたのに。
最初の変化は、池に落ちた時。
「フィに何をするの⁉」
落ちてびしょ濡れになった私を抱きしめながら、お母様がお姉さまに対して叫んだ。
え、え? お母様? どうして?
呆然としているお姉さまを睨んでいるお母様に、ただただ戸惑いしかなかった。前にも池には落ちたのに。
『ああ、ごめんなさいね、セレス。あまり気にしないで。この子、ちょっとお転婆な所があって』
そう言って、くしゃみをしている私を逆に怒っていたのに。
前の記憶と現実との違いが、余計に頭を混乱させた。そのまま私は部屋に連れていかれて、熱に浮かされた。
何が起こっているのかが分からなかった。どうしてこんなに違うことが起こるのか。
私は知らなかった。聖女だった時、お姉さまがどう屋敷で過ごしていたか。屋敷で酷い目に遭ったのは間違いなかった。ジルがあの時そう言っていたのだ。笑って、他の使用人とそう言っていたのだ。
でも、お母様がお姉さまに対して怒鳴っているのは知らない。
そうだ。手紙のことも言っていた。
子供の時の手紙はお姉さまに届けられていた。だけどお母様が何故か渡さないようにしていたって。
何故? どうして?
今更ながらそんな疑問を抱くけど、お母様がお姉さまに対して優しかったのを知っているから、余計頭が混乱する。
違う。お母様はお姉さまのことを憎んでいない。虐げる理由もない。
信じられなかった。信じたくなかった。
そんなわけないと何度も心の中で繰り返して、だから前はできなかったことをやろうとした。お姉さまと出会ってすぐに教会に行ったから。何も一緒に出来なかったから。
「お姉さまも一緒にドレスを見よう?」
お父様とお母様と一緒に、来てくれた商人さんが持ってきたドレスを見ていた時も、普通に声を掛けた。
私が知っているお母様ならきっと、「それがいいわね」と言ってくれたはずだ。お父様も満更でもない顔でお姉さまを部屋に入れると、そう思っていたのに。
「あれには必要ない」
「そうね。フィだけで十分かしら」
お父様がお姉さまをあれと言ったことに、私のことしか気に掛けないお母様に、背筋が冷えていく感覚がした。
この二人は、いつからお姉さまに対してこんな扱いを? 分からない。分からないことだらけだ。
お姉さまに無関心なお父様。
何故かお姉さまを憎んでいるお母様。
これがこの屋敷で起こっていたこと? こんな中でお姉さまは暮らしていた?
お姉さまに出される食事をジルが運んでいた。「お母様が呼んでいる」と言って、ジルがいなくなった隙にその食事を見てみた。
腐った野菜のスープだった。臭いも酷い。
なんで?
なんでなんでなんで?
ジルも他の使用人も笑う。お姉さまに食べろと笑う。
お母様は怒鳴る。私に近づくなと怒鳴る。
お父様は何も言わない。何も見ない。見ようともしない。
知らなかった世界が、お姉さまを傷つけていた。
けれども、私にはもうお姉さまを癒す力もない。
聖女という肩書もないから、お母様たちには軽く扱われる。
「フィは優しいわね」
仕方ない子ね、とでも言いたげなお母様に、自分の言葉が届かなかったのも愕然とした。
……せめて、せめて食べ物だけでも!
「何してるんですか?」
夜中、厨房に隠れて入ると、すぐに見つかった。でもタックは、一瞬戸惑った顔をしながら、柔らかいパンを持たせてくれた。
「セレスティアお嬢様に対して、俺が出来るのはこんなことぐらいですから」
味方だと思った。この屋敷で唯一の。
そのパンを持ってお姉さまの部屋に静かに入る。頬が痩せこけて、今にも倒れそうなお姉さまの枕元にパンを置いた。
震える手で、お姉さまの額に手を置いた。
知らなかったでは済まされない。私が教会で呑気に先生に聖女とは何かを教えられていた時、この人はまともな食事も取ることさえ許されていなかった。
謝っても謝り切れない。何度も「帰ってきていい」と言っていたその裏で、助けてほしいという心の叫びを私は聞き取れなかった。
「……ごめんなさい」
届かないその謝罪を、お姉さまはどう思うのかな。
憎まれても仕方がない。
恨まれても何も言えない。
でも、今のあなたに許されるなんて間違っていると思うから。
だから、声が届かないところでしか謝れない。
お姉さまをちゃんと助けてから、何を言っているかは分からないだろうけど、その時はちゃんと謝らせてください。
いっぱい我慢させてごめんなさい。
いっぱい耐えさせてごめんなさい。
……先生?
私は、聖女じゃなくなったことを後悔していません。
でも、
でもね?
お姉さまがこんなに苦しんでいたことに気づけなかったことに、死ぬほど後悔してるよ。
笑うどころじゃない。
お姉さまは、何ももう見えていない。
虚ろな目で私を見て、お母様を見て、お父様なんか見てもいない。
何もしないで苦痛を耐えて、ただただ時間が過ぎていくのを待っている。
聖女が人々に希望を与える存在だというなら、
私は、この人だけの聖女になるべきだった。
この人だけの聖女になれればよかった。
私に希望をくれた、この人だけの。
「っ……」
グイっと涙を服の裾で拭く。
違う。
懺悔をするだけじゃ意味がない。
魔力を犠牲にした意味も。
助かる命を見捨てた意味も。
私は、お姉さまを助けるために、ここに戻ってきたんだから。
泣くのは後でもいくらでも出来る。
懺悔も後悔も、そんなのお姉さまが笑えるようになった後にいっぱい出来る。
今はとにかく、この状況を少しでも変えなきゃいけない。
こうやってパンを持ってくるのだって、何回か邪魔されている。そのたびにお姉さまが傷つくのも嫌だ。
私の声は届かない。
お母様にもジルにもお父様にも届かない。
お姉さまと一緒に今いることは出来ない。余計お母様を刺激することになる。
じゃあ、何が出来る?
『セレスを守れなくて、気づけなくて、本当にすまなかったと思っている』
思い出したのは、あの時謝ってきた殿下の声だった。
そうだ。お姉さまは殿下の婚約者になる。お茶会で確か見初められたとか、教皇様が言っていた気がする。
気にしていたようだった。お姉さまが亡くなったことも、守れなかったことも。
……殿下ならこの状況を伝えれば、何とか出来るんじゃ? 殿下相手なら、お父様もお母様も何も言えなくなるはず。
今は眠って見れないけど、お姉さまのあの綺麗なサファイアの瞳が殿下のことを見るのは嫌だった。
だけど、そんなことは言ってられない。
私には今頼れる人がタックしかいない。タックだって、お母様たちに隠れて協力してくれてるんだから。
頼る人の気持ちが、今ならちょっとだけ分かる。自分ではどうしようもないことだと、確かに頼りたくなるよね。
聖女時代の私に縋ってきた人たちの気持ちが分かって複雑な気持ちになったけど、すぐに苦笑した。
縋るだけではだめ。
私ももっと自分で出来ることを探さないと。
そう思って、タックに相談して、少ないものでも栄養がたくさん取れるように、パン作りを一緒にしたりした。
でも意外だったのは、お茶会に行ったお姉さまが、何故か手土産にお菓子を私の手に持たせたこと。
「お姉さま?」
「……」
すぐにフイッと顔を逸らされて部屋に戻ってしまったけど、お母様は殿下から渡されたものだからと、そのお菓子を取ったりはしなかった。お菓子の中身を見ると、キラキラと輝いているお菓子が入っている。
……自分の方がお腹を空かせてるはずなのに。どうして、こういうことするかな。
自分も苦しいはずなのに、あの時教会に来てくれた時のお姉さまと重なって、思わず口元が緩んでしまった。
こういうところは、変わらない。
「初めまして、フィリアといいます!」
「あ、ああ……初めまして。僕はラーク」
とにかく良い印象を持たれるように、とびっきりの使い慣れた聖女スマイルで殿下に挨拶をすると、殿下は驚いたように目を丸くさせていた。
前はちゃんと挨拶も出来なかったからね、と思って。
とにかく良い印象を与えて、殿下にお姉さまの境遇を何とかしてもらえるように頼めるようにしないと。
その作戦は上手くいったのか、殿下はよく屋敷に来てくれた。お姉さまに会うついでに、私にもよく会ってくれる。
「……ああ、やっぱり」
「やっぱり?」
「いや、セレスの部屋がさ、他の令嬢のところとは違うなとは思っていて」
中庭で殿下と話している時に、思い切ってお姉さまが虐げられていることを伝えてみると、すんなりと信じてくれた。聞き捨てならないことも言ってるけど。は? お姉さま以外の令嬢の部屋に行ったことがおありで?
「どうかした?」
「いえ、何でも」
ニコニコと笑顔を絶やさずに殿下に返すと、分からないようで首を傾げている。でもすぐに微笑みを向けてきた。
「うん、僕なら何とかできるかもしれない。侯爵に言ってみるよ」
やったと思った。あのお父様だって、さすがに王子様の話をなかったことには出来ないはず。
チラリとお姉さまの部屋を見上げた。カーテンの隙間からお姉さまが私たちを見ていたのか、少しだけ目が合った気がした。すぐに隠れてしまったけど。
……待っててくださいね、お姉さま。せめて普通の食事を出来るようにしてあげますから。
殿下はすぐにお父様に言ってくれたみたいだった。ジルが悔しそうに目元を歪めていて、使用人たちがそのジルの愚痴に付き合っているのをコソコソと盗み見たから知っている。
ジル達が何かしないように、お姉さまの食事はタックに任せた。一緒には食事は出来ないけど、でもお姉さまの顔色がちょっとだけ良くなった気がした。
それだけは、嬉しかった。
良かった。殿下に頼んで良かった。
「あんまりだわ……なんでフィが……」
魔力測定は今回はこの屋敷で行われた。
魔力がないのは私は最初から分かっていたけど、お母様はそれこそ泣き叫んでいて、思わずため息をついてしまう。
お姉さまは普通より高い魔力量だったらしい。変なことしないようにお母様につきっきりだったから、その場にいれなかったのは少し残念。
本当は、お姉さまのこといっぱいお祝いしたかったのにな……。
そのお姉さまは私の魔力測定の結果を耳にしたのか、気遣うように私のことを見てきた。
心配しなくていい。
お姉さまは、私のことなんてもう心配しなくていいんだよ。
「お姉さまも気にしないでね。お母様にも、お姉さまに当たらないように言っておくから」
この年齢の時には、もうお姉さまの顔色は大分良くなっていた。
このまま。
このままいけばいい。
きっと前に病気になったのは、ジル達が出していた食事のせいだ。
このままいけば、お姉さまは死なない。
一緒にいれないのは残念だけど、でもお姉さまの命が一番大事。
これからは学園生活が始まる。きっとこの屋敷にいる時間もほとんどなくなるはず。殿下だっている。
大丈夫。
大丈夫大丈夫。
聖女時代だった時とは全然違うお母様とお父様に不安は消えないけど、良い方向には絶対向かってる。きっと聖女じゃなくなったから、違う時間の流れになっているんだと、そう思って。
――学園では、お母様たちの目もない。
少しは、少しは一緒にいられるかな? 無理かな? ちょっとはお話しできるかな? 出来たら、いいな。
この先の学園生活で、あの冷たい手に触れることになるなんて思わなくて、
そんな淡い期待を、胸に抱いていた。




