48話 選ぶのは、あなたです
何も知らなかった。
何も気づかなかった。
お姉さまが苦しんでいたことも。
お姉さまの痛みも、我慢も。
助けを叫んでいたことも。
「フィリア様、これだけは食べてください」
「……」
先生がいつもみたいにスープを運んできてくれた。でも食べる気なんて失せている。
食事を見るのも嫌になって、その度にお姉さまがされてきたであろう仕打ちが頭に過る。
こんなのも、食べさせてもらえなかったんだろうか。聖女が食べていたものより、良いものを食べさせてもらえなかったんでしょう?
そう思うと、私が口にするのは違う気がした。
前よりも食べなくなった私にハアと溜め息をついて、先生はスープが入っている器を下げた。
「……耐えられなくなりましたか?」
「……」
「皆の希望になることを」
「……」
「……そうですね。あなたにとっての希望は、きっとセレスティア様でしたでしょうから」
「……」
「希望を失った聖女が、誰かの希望になることはできない」
前に、先生は同じことを言っていた。
何も言わないでただベッドの上に投げ出されている自分の手を見つめていると、先生が困ったように笑った。
「……昔、そうですね。私がまだ幼い時の話です」
珍しい、先生がそんな話をするなんて。そんなことが頭の片隅に思い浮かんだ。
「先代の聖女様に、私はお会いしました」
……先代? 私の前の聖女様?
ぼんやりとした目で先生の方を振り向くと、微笑んでいる。
「ずっと笑顔で、皆と笑い合って、手を差し伸べて……本当に素晴らしい人でしたよ。いつも『皆の笑顔が嬉しいから』と、心の底から楽しそうでした」
……凄いね。私にはもう無理だ。
だって、一番笑ってほしかった人はもういないのだから。
「でもね、ある時、泣いていたんですよ。いつまで……と」
いつ、まで……?
「私は子供で、どうして泣いているのか分からなかった。聖女様が亡くなられてからも、ずっとずっと考えていました。どうしてあの時泣いていたのかと。嬉しいと笑っていたのに、どうして、と」
「……」
「でもね、この教会で祈りを捧げる人たちを見ているうちに、疑問が湧いてきたんですよ。この人たちは、何を聖女様に願っているのだろう、とね」
「……希望、だって?」
「そうです。希望。いるだけでよかったんだって、そう思うようになりました」
いるだけで、良かった?
「そういう対象が欲しかった。縋る人が欲しかった。頼れる誰かが欲しかった。ですが、その対象が目の前にいたら、頼りっぱなしになってしまう」
頼りっぱなし?
「聖女様がいるからケガは治る。病気は治る。瘴気は消せる。自分たちがやらなくても、聖女様がやってくれる。だって自分たちにはそんな力はないのだからと、理由をつけて。そんな人々に訪れるのは、怠惰です」
先生がこんなにはっきりと言うのは本当に珍しい。聖女様はっていつも説いてくる人なのに。
その珍しさからパチパチと目を瞬かせると、先生は目元を和らげて見てくる。
「やらなければ人々は怒る。せっかく出来る力があるのに、使わないのは傲慢だ、と。やったらやったで人々は慢心する。聖女様がいれば自分たちは何もしなくていい、と。あの時、先代の聖女様は気づいたのかもしれませんね。その人々の姿の意味に。耐えられなくなったから泣いていたのかなと、そう考えるようになりました」
自分の存在に、意味はあるのか。
私が悩んでいたことと、同じことを?
「私はあなたに教えてきました。幼いあなたに、聖女様はこういう存在だと。できることは限られていると。驕ってはいけないと」
何度も何度も、同じことを先生は教えてくれた。
「それはね、あなたは普通の人と変わらないと、ちゃんと分かってほしかった。希望を持ってほしかった。これから先に来る、人々の希望という怠惰に、耐えられるようになってほしかった」
……無理だよ、先生。
もう、頑張れないよ。
「泣いてよかったんです。苦しいと叫んでほしかった。壊れる前に、人々の道具になる前に。聖女だって人間です。先代の聖女様のように苦しんでほしくなかった。だから……いつもセレスティア様の話をしていたから、あの時私はセレスティア様に直接会ってお願いしました。救ってほしいと。家族を。妹を。あなたの希望になると信じて」
――希望だったよ。
あの人の温もりが。
お姉さまの暖かさが。
「希望があれば、人は前を向ける。聖女様がいなくても、皆が前を向いていたように。人はね、そこまで弱い存在ではないと私は思っていますよ」
弱くない。今まで会ってきた人たちだって、色んなこと話してた。何を食べるか、何が好きか嫌いか、夢だって語ってくれた人もいる。
先生が持っていたカバンを膝の上に置いて、中から何かを取り出した。……本?
「あなたには、希望を持ってほしい」
その分厚い本を、私の手に持たせてくる。訳が分からなくて、先生と本を見比べてしまった。先生は静かに椅子から立ち上がって、私のことを微笑んだまま見下ろしてくる。
「選ぶのは、あなたです」
……選ぶ?
「どのような道でも、私はあなたを責めません」
責めない?
「ですが、どんな道でも選べば、その責任はあなたが取る」
責任?
ポンっと、大きい手が私の頭に置かれた。
「時には喧嘩し、憎らしくもあり、でも素直で、あなたがずっと頑張っていたことを、誰よりも知っています」
ポンポンっとその手が何度も置かれる。
「あなたは、可愛い教え子です」
先生?
「どうか、後悔しないように」
その声がとても優しくて、その手がとても暖かくて、何故か胸がギュッと締め付けられた。
先生はそのまま部屋を出て行った。「ちゃんと食事は取るように」と言い残して。
……後悔しないように、か。
もう後悔しっぱなしなんだけどな、なんて乾いた笑いが出てくる。
先生が残していった本を眺めた。随分古い。それにしても、なんで先生はこの本を? それに、選ぶって何を? しかもいきなりあんな先代の聖女様の話とか、怠惰だとか。
人は弱くない、とか……私も、それは思っていたことだけど。
なんとなく、ペラリと紙を捲る。
手記? 誰の? いや、違う。これ、先生の字?
でも、また一ページ捲ったその場所に書かれていた文字に目を奪われた。
『聖属性魔法が時間に作用する可能性』
じ、かん?
『初代聖女が書き残した書物の一部に、魔法陣の一部分が書き記されていた』
初代、聖女?
ペラリと、また捲る。
『魔法陣の一部に書かれていたのは、時間干渉であると推測される』
時間干渉。
それは、つまり……時を戻れる?
ドッドッドッと心臓が騒がしくなる。また一枚、もう一枚と、ページを捲るのが早くなる。
この本は、先生が研究していたものの一部だ。聖女の存在、聖属性魔法のこと、初代聖女のこと。先生は研究していたんだ。ずっと、ずっと。だから私の先生になれたのかも。
『初代聖女様は、なんていうものを作ったのか。こんなの、誰もが使える魔法ではない。こんな魔力量を持っていたというのだろうか。使えるのは初代聖女様ぐらいでは? こんなの一度使ってしまえばそれで終わりだ』
先生の手記、考察、全てが書き殴られている。
『魔法陣の一部の解析は済んでいるが、代償が大きい。せめて全体の魔法陣さえ分かれば……』
「代償……?」
代償がある聖属性魔法なんて、今まで教えられていない。でも次のページに先生は書いていた。
『この一部の魔法陣でも、全ての魔力を代償に、時間を逆行できる可能性』
――戻れる?
時間を逆行できるという文字に指を滑らせる。
戻れるということは……子供の時に戻れる? お姉さまが生きている時に? あの出会った時に?
ドクンドクンと、心臓が脈打つ音が耳に響いた。
魔力の代償? じゃあ、聖女にはもうならないということ? でも、聖女にならなかったら、今まで治してきた人たちは? 瘴気に苦しんでいた人たちは?
グッと口を引き結ぶ。
――何も、そんなこと考える必要ないんだよ。
お姉さまを助けられなかった自分が、他の誰かを治す? 何を言っているんだろう。
それに、もう十分自分は分かっているじゃない。
人は、そんなに弱くない。
私がいなくても、あの人たちは歩いて行ける。
だって、聖女がいない時代、あの人たちは生きてきた。聖女がいなくても、笑っていけるし、協力し合えるし、瘴気のことだって皆はちゃんと考えていた。だから結界魔法ができた。
逆に聖女がいることで、何もしなくなる。考えなくなる。
いないほうがいい。
聖女は偶像であればいい。
一人の人間が生きている人たちを全て助けるのは不可能だ。
だって、私は、お姉さまを助けられなかった。
たった一人。
身近にいたあの人の叫びの声さえ聞き取れなかった。
私は、
私は、お姉さまを助けたい。
苦しんでいたのに、助けを呼んでいたのに、私をあの温もりで包んでくれたのはあの人だ。
一番笑顔を見たいのは、
笑顔にさせたい人は、
セレスティアお姉さま以外にいない。
――先生。
先生、私は、後悔しない。
あの人を救う未来を選ぶ。
あの人が笑う未来を望む。
「……いいよって、先生なら言うよね?」
犠牲を払うよ。
私の魔力を、
誰かが助かる未来を、
皆が望む聖女がいる世界を。
手を握って、また開く。天井に翳した。
「お姉さまの痛みを、苦しみを」
魔力が溢れる。体の至る所から、溢れ出てくる。
「私は、変えたい」
手を伸ばす。天井に、床に、部屋中に本で見た魔法陣が浮かび上がる。一部欠けている不完全な魔法陣が展開される。
この手を伸ばし続けるから。
今度こそ、お姉さまを掴むために。
あの人の命を助けるために。
先生。
お姉さまだけが、私の希望なんです。
風が舞う。魔法陣に魔力が乗せられ、光が走る。
「この選択に、後悔はしません」
頬に涙が伝う。
もう聖女にならないから。
もう会うことはないと、分かるから。
先生には、私が聖女だから会えたから。
ありがとう、と心の底からの感謝をして。
この魔法を教えてくれて、ありがとう。
ずっと色んなことを教えてくれてありがとう。
喧嘩をしても見捨てないでくれて、ありがとう。
こんな何もない私を、支えてくれて、ありがとう。
私に、最後の希望を、残してくれて、
「ありがとう、ございましたっ……」
部屋の中が光で溢れた。
お姉さま、助けるから。
絶対絶対、助けてみせるから。
今度は絶対、私があなたの声を聴くから。
意識が途切れる前に思い出したのは、
あのサファイアの瞳と、あの時に包んでくれた温もりだった。




