47話 全部呪った
現実味がなかった。
『もう随分と衰弱していたみたいで。病気だったみたいです』
教皇様の声が遠くに聞こえた。
『聖女様には言えなかったのでしょうね。ご両親にも。迷惑をかけると思っていたのでしょうか』
何を言っているんだろうって思った。
『悲しいわよね。あなたはセレスを慕っていたから』
会いにきたお母様の声が、抱きしめてきた腕が、夢だと思った。
理解したくなかった。
信じたくなかった。
きっと夢だよ。
そうだよ。
絶対夢だよ。
棺の中で眠るお姉さまの所に連れていかれた。
花々がお姉さまの周りに置かれていた。
目を閉じていた。
肌が土気色になっていた。
あの煌めく銀髪がくすんでいた。
その瞳が私を見ることはなかった。
どこか違う世界にいる感覚がして、それでもそっと棺の中のお姉さまの手に触れた。
冷たかった。
お姉さまじゃないような気がした。
記憶はそこで途切れた。
「フィリア様、お食事を」
「……」
「少しでも食べないと」
「……」
目が覚めると、ベッドの上にいた。でも何も食べる気にもならない。先生が何も反応しない私に溜め息をついて、スープが入ったお皿を下げた。
あれから、何日が経ったのかも分からない。
目が覚めてから、私は先生に聞いた。「お姉さまはどこですか?」って。でも先生は苦しそうに眉を顰めて、小さな声で言うのだ。
「もういないのですよ」、と。
何を言っているのだろう? 何度もそう思った。
お姉さまは来てくれるって、そう思った。
だって、前に私が悩んでいた時は来てくれた。
来てくれて、私を抱きしめてくれた。
あの温もりで、包んでくれた。
欲しい言葉を、掛けてくれた。
だから、だからきっと、待っていればいつか来るのに。
その度に、先生は告げてくる。
「もういないのですよ」、と。
言われるたびに、思い出すのはあの冷たい手。
思い出したいのはあのお姉さまの暖かい温もりなのに。
信じたくなくて、
いないことが認められなくて、
だから先生の言葉に私は耳を塞いだ。
何日そうしていたかも分からない。
食事なんてする気力も湧かない。
そんな私を先生は心配して、何度も部屋に来てくれた。聖女の仕事をしない私を怒らないで、ただ何もしない私に食事を届けに来た。
お母様もお父様も何度か来た。
「ねえ、フィ? もう私たちは前を向かなきゃいけないのよ?」
お母様が意味の分からないことを言っていた。前を向く? 前を向くって何? 前って何を指してるの?
お母様は笑顔を向けてくる。私の手を取って、微笑んでくる。
どうして笑っているのか分からなかった。
反応しない私に「また来るから」と言って、部屋を出て行った。お父様は表情も変えずに何も言わなくて、お母様の隣にただ黙って寄り添っていた。
お父様は、あんなに無表情だっただろうか? 何も言わない人だっただろうか? ああ、でもそんなの、どうでもいいか。
久しぶりに会ったお父様のことを考えるのも嫌で、何よりもお姉さまに会いたかった。
帰ってきた時に、会ってくれるって言ったのに。
何日も何日も、私は部屋でお姉さまを待っていた。
あの温もりが恋しくて仕方がなかった。
けれど、一向に来る気配がない。
「……申し訳なかった」
代わりに来たのは殿下だった。
「セレスを守れなくて、気づけなくて、本当にすまなかったと思っている」
窓の外を眺めている私の背中に、殿下が語り掛けてくる。
「……君のことを、ずっと気にかけていたよ」
お姉さまが?
「聖女の姉だからと、相応しい行動をしないと、と。いつもそればかり言っていた」
聖女の、姉?
その言葉が、やけに耳に残った。
殿下は、それ以来姿を見せなくなった。
どんなに待っても、お姉さまがこの部屋に来ることはなかった。
あの温もりが、私を包んでくれることはなかった。
思い出すのが、あの暖かい温もりじゃなくて、最期に触れた冷たい手の方が多くなった。
「聖女様、もういいのではないですか?」
教皇様が言う。
「もう乗り越えないと、セレスティア様も悲しむのでは?」
部屋で微動だにしない私に言う。
「あなたの力を、あなたのことを待っている人々がいます」
知らない誰かのことを言ってくる。
「セレスティア様もきっと、人々の幸せの為に力を使うあなたを見たいのでは?」
勝手なことを言ってくる。
「今のあなたを、セレスティア様はどう思われるでしょうね」
どう思うのだろう。どんな言葉をかけてくれるのだろう。
聞きたい。
あの人の声を。
教皇様が溜め息をついて、部屋を出て行った。
変わらずに、私は窓の外を眺める。雲がいっぱいだ。
ふと、殿下が言っていたことを思い出す。
私のことを気にかけてくれていたって、そう言っていた。
殿下は、私が知らないお姉さまのことを言っていた。
聖女の姉として、とも。
それに相応しい行動、とも。
――お姉さまは、どんな生活をしていたんだろう?
どんなことをしていた? 殿下の婚約者として、何を勉強していたんだろう?
何が好きで、何が嫌い?
何にも知らない。
いつも、いつもいつも、お姉さまは私の言葉に耳を傾けるだけで、自分のことは何も言わなかった。
私は、お姉さまのことを全然知らない。
与えられるばかりで、何も知らなかったんだ。
力が出ない体を無理やり立たせた。
どうやったら知れるかな? 屋敷にいけば、何か分かるかな?
ふらつく体の中にある自分の魔力を動かした。聖女の魔法以外は適性がないって先生が言っていた。
でも、魔力は魔力だ。
だから、普通の魔法も、使えるはずだ。
目を閉じて、飛ぶイメージを。
魔力に乗せて。
魔法陣が展開されると、風が巻き起こった。
目をゆっくりと開ける前に、変な臭いが鼻腔をくすぐった。かび臭いような、そんな臭い。ゆっくりゆっくり目を開けると、そこはどこかの部屋の中。頭の中が混乱する。
イメージしたのは実家の屋敷。そこにあるお姉さまの部屋のはず。失敗した? ここはどこ?
暗闇に段々と目が慣れてきて、またゆっくりとした動作で辺りを見渡す。パチパチと何度か瞬きをしながら、ドア方面の方に顔を向けた。
……こんな部屋、あっただろうか?
床は埃塗れで、壁の所々にはカビがあった。何年も掃除されていない部屋という印象。置いてあるベッドはもうただの木の型だけが残っている。
何もない。カーテンも、箪笥の中も、ドレス類の服も。
「何やってるの、あなたたち?」
声が届いて、思わずビクッと肩を震わせた。扉の向こうからだ。でも、これはジルの声。じゃあ、ここは間違いなく実家? けど、誰の部屋?
ドアの近くに足を運ばせてみる。いきなり出て行ったら驚かせてしまうと思ったから。さっきよりジルの声がはっきり聞こえた。
「こんなところに用事はないはずでしょう?」
「ああ、ジル様。どうしましょう、これ?」
「フィリアお嬢様からの手紙です。あの子が保管してたんですよ。一応念のために部屋を見てみたらあって」
……あの子? その言い方が気になった。私からの手紙――ということは、お姉さま宛の手紙だ。旅先からよく書いて送っていたものだと思う。大事にしてくれていたんだ。
「何言ってるのよ? フィリア様からの手紙はもうずっと渡していないでしょう?」
――え?
ジルの言葉に、息が止まる。ジルに対して、別の誰かが口にしたことにも耳を疑った。
「奥様が保管しているのは知っていますけど、それより前のものです。子供の頃の」
お母様が、保管? 持っていたのは、子供の頃に送ったもの? え? でも、最近だって、送ったはずなのに? え、え?
「……まあ、必要ないから廃棄でいいでしょう。それに、今更こんな手紙を持っていたなんて知られたら、奥様がどう仰るか」
「もう当人はいませんしね」
「全く、困ったものね。聖女様の姉として、まさかこんな最期を迎えるだなんて」
「ええ? でもジル様、笑ってたじゃありませんか?」
「厳しい躾けから、ようやく解放されたからよ。フィリア様と違って、あんな出来損ないの相手をしてたのよ、私は。しかもラーク殿下の婚約者にもなったのだから、余計厳しくしなきゃいけなかったの。もの覚えが悪いったらなかったわ」
「よく言いますね。楽しそうに、あんなものを食べさせていたくせに」
「楽しいなんて人聞きが悪い。フィリア様なんて、旅先では良い食事をできないと聞いていたのよ? 地方の田舎で出される食べ物なんて、悪い食材に決まっている。聖女様の姉として、それより良いもの食べさせるわけにいかないじゃない」
血の気が引いていく。
アハハと笑い合っているジル達の会話にも、その内容にも。
私が食べていたのは普通の食事だ。田舎で出される食事が悪い食材? どんな偏見? あんなもの? どういうこと? それを食べさせてた? 厳しい躾け? 良いものを食べられない?
想像してしまって、うぷっと吐き気がして、つい口元を手で押さえた。その拍子に身体が揺らめいて、扉にぶつけてしまう。カタッという音が響く。
「? 今、音しなかった?」
「まさか。この先はもういないあの子の部屋ですよ?」
――あの子の、部屋? あの子って、まさかお姉さまのこと? つまり、お姉さまの?
背中側に顔を振り向けた。何もない、所々カビが生えている部屋。
ここが、あの、お姉さまの、部屋?
ここで、あの人は生活していた?
子供の頃に訪れた時は、こんな部屋じゃなかった。いつから、こんな部屋になっていたの? 殿下が来ていた時も、こんなんじゃ――
どんどん胸が苦しくなってきて、呼吸が難しくなる。
さっきのジル達の会話。厳しい躾け。良いものを食べられない。かび臭い部屋。届かない手紙。想像した信じたくない事実が、頭の中を占めていく。
前に、そんな子供を治したことがあったから。
近所の人が助けたという、その酷い有様の子供を。
――そんなわけない。まさか。だって、ジルだってあんなにお姉さまには優しく。お母様だって、お姉さまのこと大切に。
でも、目の前に広がるボロボロの部屋は、そんな記憶は嘘だったと告げてくる。
グラグラと、視界が揺らぐ。
扉の外から、「誰かいたりしないわよね?」という声が聞こえてきて、反射的に目を閉じて先程使った魔法を展開した。
目を開けると、教会の自分の部屋だった。
床に座り込んで、ハアハアと息をする。もう何も食べていなくて空っぽの胃のはずなのに、思い出すかのように吐き気がした。胃液が込み上がってきて、たまらずその場に吐いてしまう。ゲホッゴホッといくらか咽てから、呆然とした。
さっきのジル達の会話が、脳裏に蘇ってくる。
厳しい躾け? あんなものを食べさせていた? 田舎の食事に使われている食材は悪いと決め込んでいる人が言う、あんなものって? 手紙を渡していなかった? 何故? お母様が?
色んな疑問と、でも推測できる答えに、気持ちが悪い。
『聖女様の姉として――』
殿下も言っていた、その言葉。
お姉さまは、ずっと、ずっと、聖女の姉だから、頑張ってきたのだろうか。
私の姉だから、我慢してきたのだろうか。
私が、聖女だから、だから――
『いつでも、帰ってきていいから』
――いつも言ってくれた、あのお姉さまの言葉の意味。
あれは、私のことを想ってのことだと思っていた。
でも、本当は、本当は、
私に、助けてもらいたかった?
「あ……」
涙が零れて床に落ちる。
「ぅあ……」
言葉にならない嗚咽が出てくる。
どれだけの言葉を、飲み込んできたのだろう。
どれだけの叫びを、あげていたんだろう。
どれだけの痛みを、与えられていたんだろう。
聖女の姉という裏で、あの人は、一体、どれだけの我慢を!
「あ、あ、ああ! あああああ!!!!」
耳を塞いだ。
でも聞こえてくる。
最後に会いに来てくれた時のお姉さまの声が。
『やっぱり、泣いてた』
泣いていたのは、あなた。
『無理しなくていい』
無理をしていたのは、あなた。
『あなたが今まで頑張ってきたこと、ちゃんと知っているから』
頑張っていたのは、あなた。
私が呑気に悩んでいる時に、
聖女って何とか考えている時に、
あなたはずっと苦しんでいたの?
ジル達に、虐げられてきたの?
聖女の姉だからと、色んなことを強いられてきたの?
私よりずっと苦しんでいたのに、あの温もりを私に与えてくれたの?
求めるばかりで、気づけなかった。
違う。
気づくことより、自分のことを優先した。
自分の悩みを優先した。
気づくことは出来たはずなのに!
……お姉さま。
あなたは、何を思っていたんですか?
助けてって、どうして言ってくれなかったの?
――言えなかった。
言えるはずがなかった。
私が、聖女だから。
人々に安心を与える、希望になる、聖女だから。
「あ、う……」
涙が溢れる。勝手に出てくる。
何が、聖女。
何が、希望。
お姉さまを助けられなかったくせに。
お姉さまの痛みに気づけなかったくせに。
お姉さまに安心を与えることも出来なかったくせに!
あの人の痛みを癒したことなんてない。
聖女なのに。
あの人の苦しみを、取り除いたことなんて一度もない。
聖女なのに。
あの人を、笑顔にさせたことなんて、一度もない。
聖女なのに!
「ごめん……ごめん、なさいっ」
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
「お姉さまっ……ごめんなさい」
涙と一緒に、懺悔が出てくる。
届かない言葉が、勝手に出てくる。
罪悪感が体も頭も蝕んでいく。
聖女の自分も、
気づけなかった自分も、
手を伸ばせなかった自分も、
全部呪った。




