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40話 私はどんなことでも犠牲にできる


 腕が重い。

 足が重い。

 息が苦しい。

 目が霞んできた。


 ザーザーと降ってくる雨のせいで、服がもう使い物にならない。


 辺りはもう真っ暗で、どこを走っているかも分からない。


 ズルッと足が滑った。バシャリと音を立てて、地面に身体が沈んでいく。ハアハアと空気を吸い込むけど、圧倒的に吐き出す方が多かった。苦しい。苦しいけど、苦しんでいるのは今私じゃない。


 体を起こそうとする。でも力が入らないのか、支える腕が震えていた。


 こんなところで、倒れている場合じゃないのに。


 気持ちが焦るばかりで、体は全然言うことを聞いてくれない。


 それでも、


 それでも、私は行かなきゃいけない。



 あの人を、もう一人にしないと、何度も誓ったから。



 ■ ■ ■



「カンナ!」


 ホールの床に倒れているカンナを見て、タックが叫んで駆け寄っていた。アネッサも後ろで「カンナ……」と震えている声を出している。


 カンナは応急処置をされたのか、体が包帯だらけだった。でも血がもう滲んで、包帯の色が赤く変わっている。意識がやっぱりないのか、タックの声にも反応しなかった。


「すぐに部屋に運べ! 絶対死なせるな!」


 お父様が叫んだ。待機していたのか、いつか会ったことがあるお医者さんがコクンと頷いていた。バタバタとまた周りが騒がしくなった。お医者さんが運ぶ前にカンナのケガの具合を診ているみたいだ。


 でも、私はお父様が持っているものを見て呆然とするしかなかった。


 あれは……お姉さまのだ。お姉さまが着ていた服のものだ。


「侯爵……」

「なんですか、殿下⁉ 今はいそがし――」

「彼女は、信じられるの?」

「は?」


 近くにいた殿下が、眉間に皺を寄せてお父様を見上げている。怪訝そうにお父様が殿下を見下ろしていた。


「……何が言いたい?」

「彼女が手引きしたのでは?」

「手引き?」

「彼女だけが帰ってきた。でもセレスはどこにもいない。あのケガも自分への疑いを向けない為に、自分でやったのかも――」

「ありえません!」


 タックが殿下の言葉を遮るように大きな声を出した。カンナの手を握っていて、唇を震わせながら殿下とお父様のことを見ている。


「ありえません! カンナが手引きだなんてそんなこと!」

「……タック」

「何故カンナが疑われなければならないのですか⁉ それに、今そんなことを話している場合なのですか⁉」


 タックがこんなに殿下に大きい声を出すのは初めて見た。

 でも殿下は変わらない険しい表情でタックを見ていた。


「タック……情があるのは分かるよ。でもね、もし彼女がセレスを手に掛けているのなら――」


 タックが殿下の胸倉を掴んで引き寄せた。周りにいた護衛騎士さんが持っていた剣をタックに一斉に向けるけど、殿下が真顔のまま手を上げて、スッとその剣が下ろされていく。


 タックは震えているようだった。


「あんたに……あんたにカンナの何が分かるってんだっ! カンナがセレスティアお嬢様に何をしたって⁉」

「タック……手を離せ」


 お父様がタックの肩に手を置いている。落ち着かせるようにポンポンと何度も叩いている。


「カンナがそんなことをするはずがない。殿下の言うことを真に受けるな」

「でも旦那様! カンナは、セレスティアお嬢様を大事にしていたんですよ⁉ なのに犯人扱いなんて! しかもこんな大ケガまでしているっていうのに!」

「分かっているから、落ち着け。こんなでも、この国の王子だ」


 何かを言おうとして、でもタックは渋々殿下の襟元から手を離した。服装を正した殿下は、特にタックの行いに言及するわけではなく、お父様を見上げていた。


「こんなで悪いけど、でも王子である以上、カンナをこのままここで治療することは許容できない。王宮に連れて行かせてもらう。カンナの身柄はこちらが預かる」

「それは命令ですか?」

「侯爵……これでも譲歩しているんだ。カンナの命は必ず繋ぎ止めると約束はするよ」

「命令でないのなら、断固としてお断りさせていただきます」

「侯爵……」


 グッと眉を顰めて、殿下がお父様を睨みつけた。でもお父様もまた、殿下のことを冷めた目付きで見下ろしている。


「殿下、あなたはカンナが側妃様と何かしら繋がっていると考えておいでなのかもしれませんが、それは絶対ありえません。今はセレスの捜索が最優先です」

「そのセレスの行方を知っているのが、一人だけ生きて帰ってきた彼女だ」

「一人で生きて帰ってきたからというだけで、セレスに何かをしたと言い切れる理由にはなりません」


 きっぱりとお父様が殿下に言い放つ。これ以上はお父様は譲らないのだろう。


「王族のいざこざに、これ以上私たち家族を巻き込まないで貰いたい。カンナのことも同様です」

「旦那様……」


 タックがお父様を泣きそうな顔で見ている。でもずっと、私は違うことを考えていた。


 みんな、どうして……?


「侯爵……だからこれはもう侯爵家だけの話じゃ――」

「お姉さまは、どこですか……?」


 ポツリと私が呟いた声に、皆が私を見てきた。何故、そんな驚いた顔になっているのか分からない。


「お姉さまは、どこですか?」


 カンナが帰ってきた。傷だらけだ。意識がない。


「カンナは、何からお姉さまを守ったんですか?」


 守ったはずなのだ。こんなケガをしているのだから。自作自演? 自分が死ぬかもしれない傷を自分でつける意味はない。だとしたら、何かから守った。お姉さまを守った。さっき誰かが言った野盗からかもしれない。


 だって、お姉さまは今ここにいない。


「今、お姉さまはどこですかっ⁉」


 さっきより大きい声で叫んだ。


 誰かとか何かとか、そんなの大事じゃない。カンナが守った。お姉さまを守った。


 そのカンナが倒れている今、お姉さまは一人だ。

 カンナを傷つけた誰かか何かから、今度はお姉さまが傷つけられる。


 カンナが手引きした? そんなのありえない。お姉さまのお母様であるミアラ様を慕っていたカンナが裏切るはずがない。

 カンナが家族? 当たり前だ。

 

 その責任の所在を、どうして殿下が今話しているのか分からない。

 カンナが家族であることを、どうしてお父様が今更言っているのかが分からない。


 今は、お姉さまに危険が迫っているんだから。


 なのに、どうして今すぐお姉さまを助けにいかないのか。


「お、お嬢様……」


 アネッサが肩に手を置いた。その手が少し震えていた。


 殿下が、さっきとは違う辛そうな目で私を見てきた。



「フィリア……セレスはもしかしたら、もう……」



 ――その先に続く言葉を、殿下は言わない。


 もう、何? なんでお父様もそんな顔してるの?

 タックもアネッサも、どうしてそんな泣きそうな顔してるの?


 まさか……死んでるとか、思ってないよね?


 ゾワゾワと悪寒が背筋を走っていく。バクバクと心臓が激しく鼓動の音を鳴らしてくる。


「フィ……セレスは必ず見つける。だから――」


 お父様も、そう思ってるの? 見つけるって何? もう死んでると思ってるの? カンナがあんな状態だから、だからもう死んでると思っているの⁉


「……お父様、思って、ないですよね?」

「フィ……」

「まさか、まさか思ってないですよね? お姉さまがもう死んでるとか、思ってないですよね?」


 矢継ぎ早に言葉を捲し立てると、お父様が視線を逸らした。


 どうして、諦めてるの?

 遺体を見つけるって意味じゃないよね?


 ――死んでないよ。

 ――絶対絶対生きてるよ。


 だって、



 だって、今じゃない。



 お姉さまが死ぬのは、今じゃない!



『フィリア!』


 後ろからずっといなかったスクルの声が聞こえた。


 でも、私はアネッサの手も振り払って、お父様と殿下の声も振り切って、駆け出した。



 ■ ■ ■


 ハアハアと自分の息の声が耳に響く。

 自分の体に打ち付けている雨の音も、心臓の鼓動も、全てが煩わしい。


 どうして皆が諦めているのか分からない。


 死んでない。

 お姉さまは死んでない。


 だから早く、早く迎えに行かなきゃ。

 誰かに襲われているかもしれない。


 だから早く、早く助けに行かなきゃ。


「っ……」


 早く立ち上がって行かないといけないのに、体が重い。

 体を支える腕の震えが止まらない。


 目尻からは熱いものがどんどん溢れてくる。ポタポタと地面に出来た水たまりに落ちていく。


 泣いている場合じゃないのに。


 思い出すのは、やっぱりお姉さまのことで。

 あの時、やっと笑ってくれたお姉さまの顔で。


 死んでない。だって今じゃないから。

 生きている。だってカンナは生きて帰ってきた。


 やっと笑えるようになったの。

 嬉しそうに笑うんだよ。


 目元がね、ふにゃっと柔らかく細められて、

 口元がね、楽しそうに上がっていって。


 見ているこっちが、幸せに包まれるような感覚になって。


 お父様だって、アネッサだってタックだって、カンナだって、絶対見たら幸せになるんだよ。


 だから。

 だから。

 だからっ。


 何度も何度も言い聞かせて、自分の足と腕が動くように脳から命じる。


 でも動かない。

 代わりに涙が勝手に落ちていく。


 パシャパシャと、背中側から音がした。



『……やっと追いついた』



 スクルの声がした。


『無茶しすぎでしょ。どんだけ一気に魔法使ってんの? お父様と王子様がいなくなったって大騒ぎしてたよ』


 お父様でも殿下でもない。スクルだけが追い付いてきた。


 魔法? 使った覚えがない。


『体、もう動かないんじゃない?』


 重い。動けない。スクルの言う通り。

 パシャパシャと、スクルが近づいてきたのが分かった。


『魔法の使い過ぎだね。よくもまあ思い付きでそこまで一気に使えたよ』


 そんなこと言われても、だって、だって早くお姉さまのところに……。


 何故か音が止まった。



『普通は、そんな風に魔法を使えないんだよ、フィリア』



 いつものスクルの声じゃないように、重く響いた。


『使えないんだよ。本当は。いくらあたしの魔力があっても、魔法理論も何も分かってない状態で、そんな簡単に魔法は使えない。ましてや、魔力の使い方だって分かるはずがない』


 だから学園に行く必要がある。そんなのは知っている。


『でも、フィリアは使えるよね? それはもう息を吸うように当たり前に』


 使える。


 私は、もう使える。


『魔力なしだって言われた時に、ありえないって思ったよ』


 私は魔力がない。この体にあるのはスクルの魔力だ。だから、使える。


『この世界に生きているものは、人でも動物でも植物でも、多かれ少なかれ、絶対魔力はあるんだよ』

「でも……魔力ないよ……?」

『今の人間の判断基準が分からないけど、じゃあ、どうしてあんたは魔力なしだったのに、その魔力の使い方が分かってるのさ? でも、普通に使ってる』


 あるから、使えるだけだよ?


『ずっと、不思議だったんだ』


 雨音だってあるのに、スクルの声がやけに響いてくる。


『魔法のこともそうだけど……あんたのセレスへの執着が』


 だって、それは、だって、


「……お姉さまの未来を、知ってるから」


 お姉さまが息を引き取る瞬間を見たから。

 お姉さまの手が冷たくなっていくのを、知っているから。


 スクルが私の前に座った。


『そうだね。逆行魔法の影響だと思っていた。だから、前の時間軸のことだって』


 そうだよ……? 私はスクルの魔法に巻き込まれた。そのせいで、スクルの魔力が私の体に宿った。


『でも、フィリア。気づいてないの? 何度も言ったよ。色々な人の未来が変わっているって』

「でも……お姉さまは……」

『婚約者のことだって、まるで確定のことのように、フィリアは不安がっていた。もう既に過去を変えた。その影響で、この世界に住む人々の未来は変わっているのに。それはもう揺るがないし、あたしにだってフィリアにだって、この先の未来がどうなるのかはもう分からないんだよ』


 だって、でも、婚約者になれば、お姉さまが死ぬ未来が――


『でもフィリアはずっとそのことの心配をしてたよね』

「そう、だよ……?」


 婚約者になれば、確実にお姉さまは――



『その変わらない未来を見てきたかのように、不安がっていた』



 息が、止まった。


 スクルが目を窄めて見上げてくる。

 知っているかのように、見上げてくる。


『ずっと考えてたよ。この四年近く、フィリアとセレスの近くで。魔力のことも、魔法のことも、セレスに対してのことも』


 咎めるような視線を向けてくる。


『ねえ、フィリア』


 雨の音も、スクルの声も、重く重く、耳に響く。




『あんた……今、何回目?』




 ザーッと雨の音が強くなった。

 体を打ち付けてくる雨粒が強くなった。


 スクルはジッと見てくる。

 見定めるかのように、咎めるように、ジッと見てくる。


 何回目。

 何回目?


 何も知らなくて、

 何も気づかなくて、


 お姉さまを助けられなくて、

 お姉さまの手を掴めなくて、


 何も出来ない虚無感に包まれるのが、何回目?


 後悔は山のようにしてきた。

 届かない懺悔を、何度も吐き出してきた。


 あの人の笑顔を見られるなら、私はどんなことでも犠牲にできる。


 スクルは何も言わない。

 ただジッと見てくる。


 雨に構わず、逸らさないように、見上げてくる。


 言い逃れが出来ないように。


「……あは……」


 乾いた笑いが、口から洩れた。


「何回目……?」


 何回でもいい。

 奇跡が起きるのは何回でもいい。


 それで、 あの人を救えるのなら。



 でも、そんな奇跡、何回も起こらない。



 今も、一人でいるのだろうか。


 今も、苦しんでいるのだろうか。



 今度こそ。


 今度こそ。

 今度こそ。


 私はただ、あの人を、


 私の代わりに、痛みを、苦しみを与えられていた人を、


 私に、明日を生きるための温かさを教えてくれた人を、




 セレスティアお姉さまを、助けたいだけ。




 その為に、


 自分の魔力を犠牲にした。


 未来で救える人たちを、犠牲にした。



 『聖女』の力を、犠牲にした。



 知らない誰かではなく、


 目の前のお姉さまを助けることを選んだ。



「私は、ただ……選んだだけ」



 選んで、



 一度きりの魔法に手を出して、




 失敗した。




 フッといきなり体から力が抜けていく。

 バシャリと音を立てて、体が水たまりに落ちた。


 目が霞む。

 暗くなっていく。


 お姉さまのところに、行かなきゃいけないのに。


『……魔力の使い過ぎだよ』


 スクルの声が届いた。


 ……スクル。お姉さまを助けて? 今すぐ、お姉さまのところに行って助けてよ? お姉さまを助けるために、スクルはここにいるはずでしょ?


 そうじゃないと、意味がない。

 あの人が助からないと、意味がない。


 私は、もう二度と、


 あの冷たくなった手に触れたくない。


 お姉さまの所に行きたいのに、どんどん目の前が暗くなる。

 意識が遠くなっていく。手も足もピクリとも動いてくれない。


 それでも、思い出すのはお姉さまのあの微笑み。


 最後に見た、あの笑顔。



 もう一度、あの笑顔を見るためなら、




 私は自分の命だって犠牲にしてもいいのに。




 思い出したお姉さまの笑顔も霞んでいく。


 遠くで、誰かの声がした。


 でも、すぐに何も聞こえなくなった。


 手に、何かが触れた気がした。




『……セレスはちゃんと生きてるよ、フィリア』



ここで4章まで終わり。次話からは5章になりますが、ほぼほぼフィリアの過去編になります。ストックがないので、金曜日更新に戻します。

短くする予定ですけど……ちょっとどうなるかは分からない。一話一話の文字数が短いかもしれないです。場面転換が多くなるので。5章もできれば書き終わったら毎日更新にするかも? その時はお知らせします。

今のフィリアとセレスの再会は6章からの予定ですので、それまで少しだけフィリアの立ち上がる姿を見守っていただけると幸いです。

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