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もう、あの子の幸せを願えない―セレスティアSide


 向けてくる笑顔。

 触れてくる温もり。


 知っていた。

 私はもう知っていた。


 もっと前から、すでに知っていた。


 ズキンズキンと痛む頭の中を、記憶が次から次へと流れていく。


『ありがとう……お姉さま』


 ……いらない。


『お姉さま、殿下は優しいですか?』


 いらない。


『お姉さまは何も悪くないのです。周りが勝手に言ってる事ですから』


 必要ない。


『私はちゃんとお姉さまと話したいのです。今朝だって碌に食べてないのではありませんか? 顔色だって』


 気遣う振りも、

 その温かい手も、

 その心配そうな眼差しも、


 私にはいらない。

 私には必要ない。


 その琥珀色の瞳も、

 その声も、


 可哀想だと思うその心も、



 私は、いらない。




 ザーッと雨の音がする。

 体が冷たい。


 感じる寒さで瞼を開けた。真っ暗だ。でも、背中に地面の感触があった。全然状況が分からない。


 何とか体を起こそうとして、肘をついた時だった。


「いっ……」


 ズキズキと頭が痛くて、つい片方の手で頭を押さえた。グルグルと色んな記憶がまだ頭の中を過っていく。色んな感情が溢れかえっていく。


 でも、



 思い出した。



 頭痛でハアハアと息を吐きだしながら、地面に手をついた。地面はもう雨に濡れてぬかるんでいる。地面についた泥まみれの手を見て、どうしてこんなことになっているのかという疑問が浮かんできた。


 私は、あの時、死んだはずじゃ。

 どうして子供に?


 分からない。

 分からないけど、でもそれが今の私らしい。


 頭痛は消えない。

 体の節々も痛くなってきた。


 それでも思い出すのは、


 今までのあの子の顔と、

 かつても向けられ、感じていた、同じ温もりと笑顔。


 痛みなのか、忘れたいのか、ギュッと思わず目を瞑ってしまう。


「っ……」


 目の奥が熱い。

 前の自分も感じていた胸の中に広がる苦しさ。


 雨ではない何かが、地面にポツポツと落ちていく。


「……して」


 爪の中に土が入り込んでいく。それでもその濡れている土を掴むしかなかった。


 思い出したら、止まらない。


「どうして……また……」


 今までの自分が滑稽に思える。


 なぜ子供に戻ったか分からない。

 分からないけど、私はあの子のそばにいた。


 ちゃんと覚えている、今の子供の時からの記憶も。


 アネッサのことも。カンナのことも。タックのこともバールのことも。

 もう冷たい父じゃないことも。大切にしてくれていることも。


 スクルのことも。



 心配そうに見てくるあの琥珀色の瞳も。



 全部全部、ちゃんと刻まれている。


 与えられた、あの温もりを。

 教えられた、あの笑顔の暖かさを。


 変わらず、また私は求めていた。



 その意味を知らないままに、求めていた。



 言葉にならない感情が、胸の中を占めていく。


 どうすればいいのか、分からない。

 これからどうすればいいのか、もう分からない。


 冷たい雨粒がどんどん体に打ち付けられていく。ザーッという音が耳に響く。でも動けない。どうすればいいのか分からないから動けない。


 だって、このまま帰ったらどうなるのだろうか。


 またあの子に助けられる?

 あの温もりをまた感じる?

 あの笑顔を向けられる?


 私を『可哀想』だと思うあの瞳を、私は見続けなきゃいけない?


 そんなの、耐えられる気がしない。


 また手を伸ばしてくるのだろう。

 またあの笑顔を向けてくるのだろう。


 その手を、その笑顔を、私は受け止められるのだろうか。

 殿下にも他の誰かにも伸ばす手を、与える笑顔を、私は見られるのだろうか。


 想像するだけでも、苦しくて仕方がない。


 あの心地いい温もりを、

 あの安心する笑顔を、


 知らなければよかったことを、



 教えてきたあの子が憎かったのに。



 だからあの時、私はあの子を拒絶したのに。


「ぁ……」


 嗚咽が混じる。目の奥が熱い。口の中が渇いていく。この胸の中のモヤモヤとした感情を吐き出したくて、必死にお腹と指に力を入れた。さらに爪の中に土が入り込む感触がする。


 また同じ苦しみを、耐えられる自信がない。

 この気持ちを、押し殺す自信がない。


 あの子の幸せを、願える自信がない。


 どうすればいい? どうすれば――



『あんたがいなくなればいいのよ‼』



 いつか聞いた誰かの言葉が頭を過った。私を憎んでいる誰かの声。


 そうだ。あの目つきの悪い彼女が言っていた。

 あの子のそばにいた、あの子を崇拝していた、彼女が言っていた。


 土を掴んでいた手を離した。汚れた手の平を呆然と眺める。


「私が……いなくなれば……」


 もう、苦しまなくていいだろうか?

 もう、望まなくていいだろうか?


『今は、私の我儘を聞いてくれませんか?』


 ――さっきのカンナの言葉が思い出された。



『何としても、絶対生きるって』



 カンナの、我儘。



『生きてください、お嬢様』



 生きろと、カンナは私に言った。


 カンナはそう言ってくれたのに、私は今何を……。


 震える手をギュッと握りしめる。


 ……裏切れない。あの言葉は裏切れない。

 我儘だと言った。今なら分かる。私を逃がすための嘘。


 じゃあ、どうすればいいの……。


 雨が体を濡らしていく。服が重くなって、立ち上がるのももう嫌になる。


 そのまま地面に視線を向けていると、胸元でぶら下がっているネックレスが視界に入ってきた。


 スクルが無理やり渡してきたネックレス。琥珀色の宝石。暗いからその宝石の輝きも失われている気がした。


 今は見たくもない色。

 思い出させる色。

 どうしてスクルはこんなものを渡してきたのだろう。


 こんな時でもこの色は私を見てくるのかと、嘲笑っている気がした。


「……いらない」


 もう捨てよう。そう思って、手に握った時だった。


 フワッと温かい風が巻き起こる。自分を中心に温かい空間に包まれた。


「ぇ……」


 声にならない声が出て、呆然としてしまう。

 先程まで体を打ち付けてきた雨の雫が当たらなくなった。


 それに、


『アルジ』

『ミエタ』

『キコエタ』

『ミエタミエタ』


 空中に、地面に、白い毛玉がふよふよと周囲に群がっている。


「なに……これ?」

『ツナガッタ』

『ズットミテタ』


 声が頭に響いてくる。耳じゃない。頭の中に直接。意味が分からない。でも白い毛玉みたいなものは跳ねたり浮かんだり、私の周囲にある。


『キコエタ』

『ミエタ』

『マッテタ』


 混乱している間も、その声たちは響いてくる。ドバっと一斉に白い毛玉たちが体にひっついてきたから、思わず地面に手をついて体を支えた。あれ? 感触がない?


『アルジアルジ』

『ミエテルミエテル』


 目もどこにあるか分からない。でも、私に話しかけているみたい。これは何? あるじ? 私の事?


 そっと首元にくっついていた毛玉を取ってみる――けど、掴めない。やっぱり触れられはしないみたい。


 私が何をしたいのか分かったのか、毛玉の一つが私の手に乗ってきた。ユラユラとそのフサフサの体を揺らしている。私には感じられないけど、この子たちには感触がある?


『アルジアルジ』

「……私のこと?」

『アルジハアルジ』


 返答になっていない返答が返ってきた。よく分からない。


『アルジオチタ』

『ケガヘイキ?』

『イタイイタイ?』


 おちた? けが? そう言われて、思い出したようにズキズキと頭が痛む。色々な記憶と感情でそんなこと忘れていた。


 痛むけど、そこまでのケガではなさそう。この白い毛玉たちのおかげなのか、さっきよりも冷静に考えられる。そういえば、ここどこ?


 改めて周りを見てみた。白い毛玉たちの体からは薄い白い光が発光している。周囲がボヤっと明るく見えた。私を中心に球状の形の空間があるみたい。雨粒のおかげで、その球状の形が分かった。


 頭上を見上げると、崖があった。私はこの上から落ちたのか。上がよく見えない。落ちたのだとしたら、よくこの程度のケガで済んだなって思う。


『アルジイタイ?』

『イタイダメ。イタイダメ』


 そう言われても……治せるわけではないし。


「痛い……けど……どうにもできないから」

『ナオスデキナイ』

『デキナイ。チカラナイ』


 その白い毛玉が小さくなった気がして、心なしかシュンと落ち込んだ様子に見えた。


「えっと……大丈――」

『ヒトナラ、ナオセル?』


 ……人?

 そこでやっと、さっきまでの状況も思い出した。


 さっきの人たちは、私を探している。落ちたからまだここまでは来ていないと思うけど、時間の問題だ。


 ……待って。カンナは? あの人たちの足止めをすると言って私をあの場から逃がした。私から離れた後、遠くで大きな音がしたはずだ。その後、カンナは逃げられた? カンナは今、どこにいるの?


 昔の記憶で、今のことを全然考えられなかった。


 あの人たちは? まだ近くにいる? カンナは生きてる?


『アルジナオセル?』


 この響いてくる声はさっきずっと見ていたと言っていた。それなら、もしかしてカンナのことも分かるのかもしれない。


 それに、カンナが今どうなっているのかちゃんと知りたい。私を逃がしたカンナが、私に生きろと言ったカンナが、ちゃんと生きているのか。


「……カンナのこと、分かる?」

『イッショイタヒト』


 即答された。やっぱり分かっているんだ。


『タオレテル』

「たおれてる?」

『アルジモタオレタ』


 そ、そうだけど。多分、頭ぶつけたせいだと思うけど。それより、聞き捨てならないことを言っている。倒れているというのは、生きていないということなのか。それにこの言い方。今のカンナの状況が分かっている?


「分かるの?」

『ミエル』

「見える?」

『アルジ、ミル?』


 え、私? 私が見れる? でも見られるというならちゃんと見たい。カンナが今どこで倒れているのか。そもそも、私が倒れてから一体どれぐらい時間が経っているのかも分からない。


 その白い毛玉に向かって頷くと、『メ、ツムッテ』と言ってきたので、言われた通りに目を閉じた。


 真っ暗なはずなのに、何かが見える。

 段々と輪郭がはっきりしてきて、そこが森だということが分かった。暗闇なはずなのに、鮮明に光景が分かった。


 でもカンナは? どこに?


 その見せられている光景が動き出すと、カンナが倒れているのが見えた。見つけた喜びも束の間、ゾクッと背筋が震える。カンナの倒れている地面が赤い血で染まっていた。


「カン、ナ……」


 声を出しても、聞こえている感じがしない。でも胸の辺りが上下していた。生きてはいる。きっとさっきの人たちにやられたんだ。でもどうすれば? ドッドッドッと心臓が脈を打つ。焦りで汗が出てくるのが分かった。


『ハコブ?』

「え?」

『ハコブ、デキル』


 運ぶ? そんなこと、できるの?


『ナオセナイケド』


 さっきも言っていた。でも、治せないなら、誰かに治してもらうしかない。生きてはいるみたいだけど、あの血の量。一刻も早く治してもらわないと。


「……近くに、誰かいる? 私を追いかけてきた人たちじゃない人」

『ヒトイッパイノトコロ?』

「そう」


 この白い毛玉たちが分かるのかが分からない。でもそこに運んでもらえれば、誰かしら助けてくれるかもしれない。町でもいい。村でもいい。とにかくお医者さんがいるところに。


『ソコニハコベバイイ?』

「……出来る?」

『アルジノチカラヒツヨウ』


 私の力? 分からなくてつい目を開けてしまった。でも不思議とカンナの姿が見えたままだ。……違う。二重に見える。


 いや、そんなことはどうでもいい。不思議だけど、そんなことに構っていられない。早く運ばなければ、カンナはきっと死んでしまう。


 目の前の白い毛玉がピョンっと跳ねた。


『アルジ、サワッテ』

「触る?」

『サワッテサワッテ』


 そう言われても、触れないんだけども。どうすればいいのか分からずにいると、白い毛玉がピョンピョンピョンと私にくっついてきた。相変わらず感触がないけれど、また白く発光しだした。どんな原理なのかさっぱり分からない。


 ……え?


 パチパチと目を瞬いている間に白い毛玉たちの発光が終わると、見えていたはずのカンナの姿が消えていた。何が起こったのか全然分からない。


「カンナ……?」

『ハコンダ』


 ……今の一瞬で?


『メ、ツムッテ』


 またそう言われたから瞑ってみる。今度は違う景色が広がっていた。これは……王都? 見覚えのある教会の建物が見えた。ああ、誰かがカンナの傍に寄っているのが見える。他にも人がどんどん周りを囲んでいた。


 多分、これで大丈夫のはず。カンナはきっと助かる。安堵して、パチッと目を開けた。今度は二重に見えていない。


 ピョンピョンと目の前では白い毛玉がまた跳ねていた。


『アルジモ、ハコブ?』

「え?」

『アルジノキオクノバショ、ハコンダ』


 私の記憶にある場所……。だから王都。


『イタイ、ナオス』

『アルジモ、ケガシテル』

「……」


 確かに頭は痛い。体の節々だって痛みがある。あの崖の上から落ちたのだから、他にもケガだってしているのかもしれない。


 でも、戻る? あの場所に?


 冷静に考えれば、このまま戻れるなら戻った方がいい。理由は分からないけど、きっとまだ私のことを狙って探している人たちがこの森にはいるのだから。


 戻れば、父が何とかしてくれるだろう。私とカンナを襲った誰かから、守ってくれると思う。もう今の父は、私のことを大切にしてくれているのだから。


 ――それでも。


「私は……戻らない」


 戻れない。

 帰れない。


 思い出すたびに、

 頭の中に浮かぶたびに、


 やっぱり苦しくなる。


 ギュッと目を瞑った。


「私はもう……あそこには帰れない」


 帰って、もうあの子の顔は見たくない。

 戻って、もうあの子の温もりを感じたくない。


 私に向けるあの笑顔を、温もりを、もう受け取れない。


 受け取れば受け取るほど、私は惨めな気持ちでいっぱいになる。ドロドロとしたこの嫌な感情に押し潰されて、あの子にぶつけることになる。


 目を開けた。ネックレスがある。あの子の瞳のネックレスが。



 もうあの子の幸せを願えない自分がいた。



『アルジ?』

『イタイ?』

『ハコブ?』


 またピョンピョンと白い毛玉たちが跳ねていた。心配そうに周りを跳んでいる。


『ナイテル』


 ……泣いてる? そっと自分の頬に手で触れてみる。湿っている。


 あの子を思い出すと勝手に出てくるこの涙は、一体何の涙なんだろう。


 苦しさからか、

 憎しみからか、


 それとも、



 もう、あの子の幸せを願えない、悲しみからか。



 ……あの子もよく泣いていた、なんて、どうでもいいことさえ思ってしまう。そんなことを考えて、バカらしくて笑みが零れる。


 そんな心配をしてどうするんだろう。今だって、あの時みたいに殿下がそばにいるのに。


 もう、あの涙を拭うことはない。

 あの温かい涙を拭う手は、私じゃない。


 きっと、あの子の涙を拭うのは殿下の手だ。


 服の袖で涙を拭って、まだ雨を降らしてくる雲を見上げる。私にはもう当たらない雨なのに、何故か打ち付けられているかのように、その冷たさを感じる。


 カンナの言葉がまた蘇る。


 生きろと言った。

 逃げろと背中を押した。


 でも、戻ることを私は望まない。


 ゆっくりと立ち上がった。体のあちこちから痛みが走ったけど、でもここにいてもさっきの人たちに見つかるだけ。


『アルジ?』

『ドコイク?』

「……さあ?」


 白い毛玉たちのものだろう声が頭に響くけど、足を動かした。


 ここがどこかも分からない。

 この子たちが何なのかも分からない。


 死ぬこともできない。



 だから、遠くへ行こう。



 どこかも分からないけど、とにかくまだ暗いその先へと足を進める。ピョコピョコと私の周りを飛び跳ねながらついてきているみたいだ。


 ……いいか。ずっと『アルジアルジ』『イッショイッショ』と頭にその声が響いてくる。来ないでと言ってもついてきそうな感じ。


 その白い毛玉たちと一緒に、暗闇へと足を一歩一歩進めていく。


 あの子の顔を見ないで済むように。

 あの子の温もりを思い出さなくて済むように。


 カンナの言葉を、守るために。


 この先、どうなるかなんて分からないけど、


 フィリア、



 私は、もうあなたには会わない。



 その優しさが、


 その笑顔が、


 その温もりが、



 運んでくる憎しみを、私はもう思い出したから。



「……やっぱり、知らない方がよかった」


 知らないままだったらこんなに苦しむことはなかったのに、なんて、前にも思ったことをまた今でも思うなんて。


 ……遠くからなら、願えるだろうか。


 もう会わなければ、そう思えるだろうか。


「フィリア……」



 この先の未来で、あなたが笑っていますように、と。



 どうか、



 幸せになってほしい、と。



 だけど、目の前に広がる暗闇に、たった一つのその願いが吸い込まれている感覚がした。


 この胸の奥にまた沸き上がった感情が、体も心も蝕んでいく音が耳に届いた気がする。


 ああ、やっぱり無理だなって、諦めに似た思いが体の中を駆け巡る。


 あなたの世界から、私を、

 私の世界から、あなたを、


 消せればどんなに楽になるだろう。


 今、自分の中に広がる望みはそればかり。



 だから、どうか。



 どうか、もう、私のことは忘れればいい。



 忘れて、今度こそ、あなたが大事にしたい人と一緒にいればいい。


 同情もしなくていい。


 心配なんてもうしなくていい。



 その手はもう、私に差し出さなくていい。



 もう、私があなたと会うことなんて、ないのだから。


 

 痛む体と、悲鳴をあげている心を抱えて、足を動かす。


『アルジ? タノシイ?』

「さあ?」


 毛玉の声が響いてくる。楽しい? 分からない。


 分からないけど、



 自分の笑った声が、口から静かに漏れていた。



 頬に自分の涙が流れたのを感じた。


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