39話 お姉さまは……どこですか?
ここ、どこ?
分からない。
周りはもう暗闇で、特に何かが見えるわけではない。
雨音が耳に響いて、雨粒が体中を叩いていく。
それでも走った。
見つけるために走った。
やっと笑えるようになったお姉さまを、見つけるために走った。
■ ■ ■
「大丈夫ですよ、お嬢様。何事もなく帰ってきます」
お姉さまとカンナが馬車で王宮に向かって、アネッサが私を厨房に連れてきた。
元気ない私を見て、タックがおいしそうなパンをテーブルに置いてくれる。パンの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐってくるけど、全然食欲なんて湧いてこない。
「このパンでも食べて待っていましょう。そんな顔、お嬢様らしくないですよ? それとも一緒に何か作りますか?」
「タック、そんな気軽にお嬢様にパン作りを勧めないでくださいな。そもそも、そのパンを作るのはあなたの役目でしょう?」
呆れたようにタックに注意してるけど、アネッサのその声に全く怒りが感じられない。二人とも、お姉さまがいなくて寂しいんだと思ってるんだろうな。気を遣わせちゃってる。
でも違う。
さっきからやっぱりバクバクと嫌な感じで心臓の鼓動が止まない。
もうすぐにでも帰ってきてほしい。
思えば、こうやってお姉さまと一緒にいない時間なんてなかった。
「ほら、スクルも食べれるパンだぞ」
『……』
スクルも何故か何も言わずに窓の外を見ていた。パンはしっかり食べていたけど。
黙々とパンを食べているスクルと何も言わないでテーブルを見ている私に、二人からは困ったような空気を感じる。
「そ、そういえば、今日はちょっと雲行きが怪しいですね。雨とか降るかもですね」
タックが分かるぐらいに気を遣って話題をくれた。雨、か。
釣られて顔を上げて、窓の外をボーっと眺めてみた。確かに曇りみたいだ。しかもどんよりとした厚い雲。
いつ帰ってくるんだろう? 雨で馬車移動って大変じゃないのかな? ああ、でもこの前みたいな山道じゃないから大丈夫かな。
今どの辺りかな。
それともまだ街中?
今ここにいないお姉さまのことを考えると、不安でギュッと膝の上に置いた手を握ってしまう。
何がそんなに不安なのか。
婚約者になってしまうから? もちろんそれもある。
でも一番は、今起きていることが、私が知らない未来だからだ。
側妃様と会ったことなんてない。前の婚約者時代も、お姉さまが側妃様と会ったなんて事実もない。
今まではこの屋敷にいた。スクルの逆行魔法で七歳に戻ってから今までの四年間、この屋敷で基本過ごしていた。
タックとバールが味方になった。
食べる物も着る物も、安らかに眠れる場所も作ってくれた。
アネッサとカンナが来てくれた。
お姉さまを優しく見守ってくれた。
お母様はもういない。
バールがここから領地に追い出してくれた。
お父様が変わった。
お姉さまに向き合うようになった。
殿下が友人になった。
婚約者にするつもりはないとはっきり言った。
全部良い方向に転がった。
だけど、その全てで私はお姉さまの隣にいたんだ。
だからこそ、今回みたいなことが起きると不安になる。
お姉さまがそばにいないことが不安で不安で仕方ない。
一瞬でも遠くに離れると、思い出すのはお姉さまが死んだ時のこと。
あの手の温もりがないことを、余計に思い出させる。
冷たくなった手が本当は現実なんじゃないかって。
「ああ、こんなところにいたんだ?」
――え?
思わぬ声で顔を上げた。アネッサとタックも声の主の方に振り向いている。
その声の主に、自分も釘付けになってしまった。なんで?
「誰も出てこないからさ、勝手に入ってきちゃったよ」
厨房の入り口にいたのは、もはや旧知の仲になった侍女さんと護衛騎士さんを後ろに立たせている殿下の姿。いつもの作り笑顔を貼り付けて、いつもの口調で話しかけてくる。
「うわ、おいしそう。タック、僕もお腹空いているんだ。そのパンまだあったりする?」
声が出ない。いつもの殿下なのに、声が出てこない。
なんでいるの? なんでここに?
だって、側妃様にお姉さまは呼ばれた。なのに、どうして殿下がここに来ているの?
「あれ? セレスは部屋?」
やっと気づいたのか、変なことを殿下が言っている。
「で、殿下……」
「うん? 何?」
「お姉さまは……側妃様のところです……」
「……え?」
事実を伝えると、呆然とするかのように殿下の貼り付けた笑顔が剥がれていった。目を大きく開けて固まっている。後ろの侍女さんも護衛騎士さんも、同じように固まっていた。
「フィリア……今、なんて?」
「殿下、お嬢様の言う通りです。先程、側妃様のところに行かれました。手紙が来たのです。ご存じではないのですか……?」
「手紙……?」
アネッサが伝えるとポツリと呟いてから、殿下が腕を組んで顔を下に俯けている。アネッサも困惑したように私の方を見てくるけど……殿下は知らない? どうして? てっきり、側妃様と一緒に殿下とも会うのかと思っていた。
考え込んでいた殿下が、いきなり顔を上げて後ろの侍女さんと護衛騎士さんに振り向いた。
「確認しろ、今すぐ」
「はっ」
「兄上にも連絡を」
「かしこまりました」
バタバタと侍女さんと護衛騎士さんが動き出す。私たちの方に顔を向けた殿下は、雰囲気が一変していた。険しい顔つきで私たちのところに近づいてくる。
「アネッサ、手紙と言ったよね? それは今どこに?」
「お、お嬢様たちの部屋にまだ」
「持ってきてほしい。確認する」
「か、かしこまりました」
アネッサが一礼してから厨房から出ていく。タックがどうしたらいいのか分からないようで私と殿下を交互に見ていた。私も分からない。なんかいきなりパタパタと動き出しているから。
険しい顔のまま、殿下が私を見下ろしてくる。
「フィリア、その手紙は読んだ?」
「え? あ、私は……」
読んでいない。読んだのはお姉さまだ。
「……読んでいません」
「そう……セレスが読んだの?」
「はい」
「……侯爵は? 今日は王宮? バールもいないね」
「お父様には……もう伝わっているはずです。バールは今領地で……でも連絡はしているはずです」
「隙を狙ったのか……でも……」
また考え込むように、今度は自分の手を口元に当てている。
でも、何故? どうして、殿下はこんなに考え込んでいるの? だから、当然の疑問をぶつけてみた。
「で、殿下? なんで殿下がここにいるのですか? 側妃様と一緒にお姉さまと会うのでは?」
「……」
難しい顔のまま、殿下はさらに苦しそうに眉を顰めた。何? すごい、すごい嫌な予感がする。
「フィリア……僕は母から何も聞かされていない」
「え?」
「そもそも、母は今、王宮にいない」
いない? え、でも……お姉さまは、今、王宮に向かって?
予想外の殿下の言葉に頭が混乱していく。呆けたままの私の肩にポンと殿下が手を置いた。
「母は今日、朝から陛下と一緒に自分の実家がある領地に向かわれた。手紙を出せるはずがないんだ」
「で、でも、手紙が……側妃様の紋章が入ったものが……」
アネッサが言っていた。間違いないと。そう言っていた。
「だからおかしいんだ。本物かどうかちゃんと確認しないと」
本物かどうか。でも、アネッサがちゃんと確認をしたはずだ。
いや、でも……待ってよ……。
じゃあ、お姉さまは今どこに?
「セレスが王宮に行ったならいい。それなら間違いでここに帰ってくるはずだ」
帰ってくる。そうだ、ちゃんと帰ってくるはず。
……でも、この胸騒ぎはなんだろう。さっきから嫌な汗が出てくる。ドクンドクンと心臓の鼓動が耳に響いてくる。
この感じ、この胸騒ぎ、覚えがある。
学園にいた時。
お姉さまが氷漬けの部屋に閉じこもって、学園では今までの静けさが嘘のように、お姉さまの嫌な噂が飛び交っていた。誰もが手の平を返し、お姉さまに侮蔑の視線を向けていた。
目の前の、この人ですら。
自分の知らないところで事が運び、真実になり、そして、自分自身は何も出来ない。
ゾクッと背筋が震える。強く強く膝のスカートを握りしめた。
まさか、また……と最悪な結果を想像してしまう。
何も言わないで膝上の握った自分の手を見続けている私に、殿下はそれ以上何も言ってこなかった。
すぐにアネッサがあの手紙を持ってきて殿下に見せていた。
「封蝋はされてたよね?」
「申し訳ありません……こちらの不手際で、欠片だけが」
「欠片でいい。見せて」
いくつかの欠片もアネッサは持ってきたらしい。その欠片たちに殿下が手を翳す。知らない魔法陣が殿下の足元に浮かび上がり、光が手から出てきて欠片たちを包むと、完璧とは言えないが封蝋に刻まれた紋章が見えた。魔法で元に戻したんだ。
「本物だ……」
その一言で空気も重くなる。
本物ということは、側妃様が出したということになる。でも側妃様は今朝からこの王都にはいない。どういうことなのか、全く分からない。
でも、きっとお姉さまはすぐに戻ってくる。だって行っても呼び出した当人がいないのだから。
戻ってくる。
帰ってくる。
何度も何度も心の中で繰り返す。そう思っていないと、この震えは止まってくれない気がした。
『……』
スクルは何故かずっと窓の外を見ている。今にも降り出しそうな厚い雲を何も言わずに眺めている。
グシャリと殿下がその手紙を握り潰した時に、殿下の侍女さんが戻ってきて、護衛騎士さんもすぐに厨房に入ってくる。
殿下の耳元で小さく何かを告げたと同時に、握り潰した手紙を殿下が床に投げ捨てた。あまりに突然だったから、厨房にいる皆が呆然と殿下を見てしまう。
「っ……すぐに捜索の手配を」
そう、さく? その言葉に頭が真っ白になっていく。
「ですが……」
「兄上には僕から言う。侯爵にもそう伝えろ」
「何を伝えろと?」
いきなりお父様の声が届いた。
息を荒げて、髪もボサボサ。汗を垂らしながら身だしなみを崩して、厨房に入ってくる。殿下も驚いたのか、険しくなっていた眉間の皺が取れていた。
「旦那様っ⁉」
「アネッサ、水を」
ゲホゲホと咽ているお父様が私の近くに来て、ポンポンと頭に手を置いてきた。その温かい手に、目頭が熱くなってくる。
「お父様……」
「不安にさせた。来るのが遅くなってすまない」
フッと微笑んだかと思うと、お父様はアネッサから水を受け取って飲んで、今度は殿下の方を睨みつけていた。
でも、お父様? どうしてお父様がここに? お姉さまは? 王宮で合流したはずじゃ?
「殿下、捜索は我が侯爵家がします」
その一言で、サッと血の気が引いていく。
『捜索』とはっきりと言ったから。
「殿下が関われば、それだけ事態は悪化します」
「っ……そういうわけにはいかない。これはもう侯爵家だけの問題じゃないんだ」
「侯爵家だけの問題にするべきです」
「侯爵っ!」
「アネッサ、フィを部屋に」
部屋? どうして?
お父様が私を厨房から出て行かせようとしているのは、なんで?
頭が回らない。捜索のことも分からない。なんで殿下とお父様が言い合っているのかも。
……ねえ、お姉さまは?
「お姉さまは……どこですか?」
小さい声になった。でも確かに声が出た。
お父様と殿下が言い合いをやめて、私の方を見てくる。肩に置かれたアネッサの手がピクリと動いた。
でも、ねえ、お姉さまは?
「どこですか? お父様が帰ってきたってことは、お姉さまも一緒ですよね?」
「フィ……今は、部屋で休んでいなさい」
「カンナは? どうしていないんですか? 捜索って?」
一度出てきた疑問が止まらなくなる。お父様の服を掴んだ。声が震える。
「お姉さまは、どこですかっ」
いるはずだ。王宮に側妃様はいない。お姉さまが王宮に行って、そこでお父様と合流したはずだ。だからお父様はここにいる。
いないはずがない!
「セレスは、王宮に来ていない」
殿下の言葉が、厨房の中で静かに響き渡った。
「来ていない。さっき魔道具の通信で確認が取れた。来た形跡もない。誰もローザム侯爵家の馬車が王宮にきたところを見ていない」
続く殿下の言葉が、遠くに聞こえる。
嘘だ。行った。だって、見送った。ちゃんとローザム侯爵家の家紋が入った馬車だった。
「旦那様……ちゃんと説明を。旦那様に連絡したとはいえ、帰ってくるのが早すぎます」
ギュッと私の肩に置いていた手の力が強くなった。アネッサも不安を感じている。ふうと疲れたように息を吐いているお父様が、私に目を合わせてくれる。
「……連絡を受け取ったと同時に、王宮を出てきた。側妃様がいないのは知っていたから」
「では、セレスティアお嬢様たちが乗った馬車とすれ違いに?」
「王宮までの道はいつも同じ道を使っている。だからすぐ合流できると思ったんだ。でも……馬車は通らなかった」
それが、何を意味するのか。
「セレスの乗った馬車が、今は行方が知れないってことだよ、フィリア」
決定的な言葉を殿下が言った。
力が抜けていく。
お父様の服を掴んでいた手の力が抜けていく。
「母からの手紙でここを出発した馬車が行方不明。しかも乗っているのは母が婚約者にしようとしていたセレスだ。母にも責任が及ぶ。すぐに探さないと、変な憶測が生まれる。もう侯爵家だけの問題じゃない」
お父様が歯を食い縛る。
「だから王族と関わるのは嫌なんだ……」
「……侯爵、恨み言は後でいくらでも聞くよ。今はセレスを無事に見つけることが先決だ。捜索隊を王家からも出す。それでいいね?」
もはや命令に近い言葉を殿下がお父様に投げかけて、踵を返して自分の護衛騎士に指示を出していた。お父様も悔しそうにしながら、雇っている私兵に指示を出しに厨房から出ていく。
私は、動けなかった。
アネッサに「部屋に戻りましょう」と言われても、何も動けなかった。
どうしてこんなことに、とか、お姉さまはどこに、とか、当たり前の疑問ばかりが頭を駆け巡る。
「お嬢様、セレスティアお嬢様は帰ってきます。カンナもです。大丈夫、何もありません」
アネッサが自分に言い聞かせるみたいに声を掛けてくれる。不安なんだ。アネッサの顔も少し青ざめていた。自分が止められなかったと責めているような顔だった。
スクルは、やっぱり何も言わないで、ずっと窓の外を眺めていた。
バタバタと屋敷内が騒がしくなった。あれからずっと騒がしい。普段は見ない人たちが屋敷内にもいっぱいいた。
どれぐらいの時間が経ったのかも分からない。
窓の外はもう日が落ちて暗くなっている。
探しに行こうと思った。
でも止められる。アネッサが、タックが見張っている。私がしようとしていることが分かっているみたいだった。
帰ってくる。
絶対帰ってくる。
約束したもの。ちゃんと帰ってくるってお姉さまは言ったもの。
震える手をギュッと握りしめる。
ホールの方から一層騒がしい声が上がった。アネッサもタックも帰ってきたのかと思ったらしい。その声の上がった場所に皆で向かった。
帰ってきた! 大丈夫だった! きっとそうだ!
期待しながらホールに向かって、ヒュッと息を呑みこんだ。
意識がないカンナが、血塗れで横たわっていた。
「……おそらく、野党にやられたのかと。それと近くにこれが」
お父様が血の色に染まった何かを、報告してくれた人から受け取った。震える手で握りしめていた。
握りしめられていない部分が、手の端から垂れ下がっていた。
血に染まっていない部分が、私の視界に入り込んだ。
お姉さまが今日着ていた、服の色だった。
■ ■ ■
雨粒が服に染みこんで、服が重い。
でも走った。
腕を動かした。
足を動かした。
息が切れる。
でも走った。
生きている。
ちゃんと生きている。
そう信じながら、闇雲に走る。
目の前はもう雨と暗さで何も見えない。
ここがどこかなんてもう分からない。でも、見つけなきゃいけない。
あの人の笑顔を見るために、
あの人が笑える場所を作るために、
手を伸ばし続けると、私はもうとっくの昔に決めている。




