2・婚礼の夜
寒さを心地良く思ったことがきっかけで、あなたの記憶が少し戻った。
真っ白な世界が脳内に広がる。
そうだ、もうすぐ雪が降り始める、とあなたは思う。雪の季節、ウィンタースポーツのシーズンだ。スキーウェアを着た一郎の笑顔を思い出したような気もしたが、それ以上の記憶は戻ってこなかった。
そして、あっという間に三日が過ぎた。
あなたは今も座敷牢の中にいる。
今夜は一郎との婚礼だ。
なにしろあなたは記憶喪失だ。
ここを脱出しても、どこへ行けば良いのかわからない。
記憶を取り戻すきっかけになるかと期待して箪笥の横に置いてある本を読んでみたりもしたが、蛇の活動温度を知っただけだった。なぜか蛇に関する本ばかりだったのである。
座敷牢のある部屋の扉が開いて、花婿衣装の一郎が入ってくる。
この三日間、彼以外の人間は見ていない。
食事や盥を運んできたときに、母さえ元気なら、と彼が呟くのは聞いていた。しかし母親が実在するのかどうかは不明だ。もしかしたら古いサスペンス映画のような状況なのかもしれない。
一郎の赤い瞳があなたを映して――
「うわ、寒っ! 前から思ってましたが、どうしてあなたはこんな寒い部屋で平気なんですか? 暖房器具を持ってこようかと言ってもいらないと言うし……」
「え? 全然大丈夫ですよ。もっと寒いほうが気持ち良いくらいです」
「だからってこんな……おや?」
あなたを見つめる今の一郎の瞳は赤くない。
部屋の外で、激しい足音が近づいてくるのが聞こえた。
だれかが部屋に飛び込んでくる。パジャマの上にカーディガンを羽織った女性だ。
「一郎っ!」
「母さん? 大丈夫なんですか、母さん?」
「あなたも気づいているでしょう? この寒さで蛇が冬眠したのよ! 私の病気なんてとっくに治ってるわ。呪いが解けている今のチャンスに封印し直すわよ!」
「あ」
あなたの記憶が蘇っていく。
「……私、大学で民俗学を研究してて、この村に伊予の国から逃げ延びてきた蛇神が封印されているという伝承があると聞いて……」
一郎にそっくりな端正な顔の美女が頷く。
「そう、我が家はその蛇神を封印する一族なのです。この土地で封印できたのは気温の低い場所だからで、なのに昨今の温暖化で蛇神が活発化して……」
「母が風邪で寝込んだ隙に、封印を壊して霊力の弱い僕に憑りついたんです。蛇神は霊力の強い旅人のあなたを花嫁にして、霊力ごと食らうことで完全復活しようとしていました。……申し訳ありません。母だけでなく村人すべてが呪われていたので、僕は蛇神に逆らえませんでした」
「私が記憶を失っていたのは?」
「村に入ったあなたに、蛇神が妖力をぶつけたからでしょう」
「ごめんなさいね、お詫びは後でいたします。今はとにかくこの寒い部屋で……この部屋、なんでこんなに寒いのかしら……蛇神を封印しますね!」
一郎の母親はカーディガンのポケットからスマホを取り出し、だれかに連絡して封印の準備を頼んでいる。
蛇の本が多かったのは、蛇神を封印する一族だったからのようだ。
多くの蛇は二十度から三十度で活発に活動し、十五度を下回ると動きが鈍り、十度以下なら冬眠する。あなたは本で読んだ知識を思い起こした。
「なんでこんなに寒いんでしょうね。……本当に申し訳ありませんでした。ほかの部屋に行かれますか?」
「いいえ、この部屋にいさせてください。あの、一郎さん……」
「はい?」
「去年の冬、私とスキー場で会ったのを覚えていませんか?」
「……あのときの! そういえばあのときに、うちの村の蛇神の話をしましたね。僕があんな話をしなければ……」
「いいえ、私がこの村に来て蛇神に見初められて良かったと思います」
あなたは一郎に微笑んだ。
そう、あなた以外の女性ではこんなことにはならなかった。
あなたはもうすっかりすべてを思い出していた。大学で民俗学を研究しているのも、去年スキー場で一郎と会ったのも事実だ。しかし、まだ言っていないことがある。
あなたは雪女なのだ。
スキー場で一郎にひと目惚れをして、研究にかこつけて口説きに来たのである。
名前は聞いていなかったが、伝承を教えてもらったときに地名は聞いていた。
霊力が強いという一郎の母親はあなたの正体に気づいていそうだ。
それでもきっと霊力が弱い息子以降の血筋を考えて、あなたを認めてくれるに違いない。結婚後に部屋を寒くしても、蛇神の復活を防ぐためだと言えば受け入れてくれるだろう。
あのとき、彼の同行者を殺して雪女の里へ攫って行ったりしないで良かった、とあなたは思った。
「……蛇神も伝承や民俗学を学んで、人間に排除されない行動を取れば良かったのにね……」
座敷牢の中で、呼ばれて雪崩れ込んできた村人ともに封印の儀式の準備を進める一郎親子を見つめながら、あなたはそっとひとりごちた。
まあ、去年の一郎の同行者が女性だったとしたら、あなたは間違いなく殺していたのだけれど。
寒さ冷たさを好む雪女の愛は、熱い。
【雪女エンド】




