11・素敵な旦那様
愛しく感じるせいか、ただの影だとは思えない。
触れようとしたら消えてしまうのを寂しく思い、あなたは手を伸ばすのをやめた。
代わりにじっくりと見つめる。
「ただの黒い影じゃないですよね。中心は丸っこくて、腕? 脚が八本……蜘蛛みたい。蜘蛛……旦那様?」
あなたの頭の中に、これまで忘れていた記憶が濁流のように流れ込む。
それはとても大切な記憶だった。
種族の違う彼と出会い、愛し合って結ばれた記憶――あなたは『旦那様』の名前を呼んだ。
「我が妻よ!」
箪笥と壁の隙間から黒い影が吹き出し、巨大な蜘蛛の姿になる。
それから蜘蛛はひとりの美々しい青年に姿を変えた。
あなたを座敷牢に閉じ込めている一郎とは違う。旦那様の顔に浮かぶ表情には感情がある。
「そなたが我のことを思い出してくれて良かった。分体に守らせていたとはいえ、ここは奴の結界の中だ。無理に結界を壊して助け出そうとしたら、そなたにも害が及んでいたことだろう。そなたが我を呼んでくれたから、こうして召喚されて内部に入れた」
カサカサ、と虫が動く音が近づいてくる。
もちろん普通サイズの虫が動く音なら、よほど近くにいなければ聞こえない。
扉が閉ざされた部屋の座敷牢にいて外から聞こえるのだから、普通ではないサイズの虫が動く音だ。
廊下側から押されて扉が内側に倒れ込む。
鍵を開ける気持ちの余裕がなかったらしい。
扉があった空間には巨大な蜘蛛がいた。一郎の顔を持つ蜘蛛だ。なお、便宜上虫の動く音と表現したが、蜘蛛は昆虫ではなく節足動物である。
「僕の花嫁から離れろッ」
「そなたの花嫁ではない。我の妻だ。……なんだ。千年も生きておらぬ子どもではないか」
あなたの旦那様が腕を上げ、一郎に向かって指を伸ばす。
指の先から伸びた糸が、一瞬で一郎をグルグル巻きにしてしまう。
旦那様は千年以上の刻を生きてきた、神にも等しい蜘蛛妖怪なのである。
「もう数百年は生きているんだ、子どもじゃないッ。あんたも蜘蛛妖怪ならわかるだろ、僕が人間の花嫁を求める気持ちが! 彼女のように魅力的な人間を千年も生きてる爺さんが独占するなんておかしいよ」
あなたは蜘蛛妖怪に好かれる体質らしい。
とはいえ、あなたにとって旦那様以外の蜘蛛妖怪はただの蜘蛛妖怪に過ぎない。
それに一郎はあなたの意志など無視して攫ってきた犯罪妖怪だ。
暴れたから殺しちゃったことにしましょう、と思いながら、あなたは自分の霊力を練った。
あなたは犯罪妖怪と戦う退魔師なのである。
旦那様との出会いも退魔師としての仕事がきっかけだった。
旦那様自身は犯罪妖怪ではなかったものの、舎弟を庇ったことで捜査線上にいたのである。
あのとき殺さなくて良かった、とあなたは心から思っている。
犯罪を犯していない妖怪を殺すのは罪なのだ。
退魔師としてかなり優秀なあなたが一郎に攫われたのは、旦那様と同じ蜘蛛妖怪の妖力に危機感を覚えなかったからだろう。
少し前に退魔師協会総出でおこなった、吸血鬼のアジトの一斉検挙の疲れも残っていたのかもしれない。
怪しい組織が研究材料として吸血鬼を狙っているという情報があったので、かなり無理なスケジュールでおこなわれたのだ。
怪力と超回復力を持つ吸血鬼は、なかなか倒し甲斐のある敵だった。
相手が人間形だということはあなたが戦わない理由にはならない。
退魔師には戦闘狂が多いのだ。鬼の血を引くという同僚退魔師も楽しげに戦っていた。
「我が妻よ、そなたの怒りはわかるがこ奴を殺すのは待ってくれ。……同じ蜘蛛妖怪として、こ奴の気持ちもわかるのだ」
あなたの旦那様は優しく、情が深い。
「仕方がありませんねえ。退魔師の協会に報告して、しかるべき罰を与えた後なら、私の知り合いを彼に紹介してあげてもかまいませんよ」
「さすが我が妻だ!」
「……」
「その代わり、新しい花嫁さんは大切にしてあげてくださいね。攫って座敷牢に閉じ込めたりしちゃ駄目ですよ」
整い過ぎて人形のようだった一郎の顔に、初めて感情が浮かぶ。
彼は泣いていた。
泣きながらあなたに謝罪し、礼を口にする。
「すみません、すみませんでした。妖力を当てて記憶喪失にした上に攫って監禁したりして……ちゃんと罰を受けます。何百年かけても罪を償って、いつかあなたのような花嫁と結ばれたい。そのときは大切にします」
「うむ、妻は大切にするものだ」
「旦那様のことも大切にしてますよ?」
「ふふふ、知っておる」
あなたと旦那様は微笑み合った。
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