4話【魍魎】
ビ――!ビ――!
光統院の対魍魎警報器が鋭く鳴り響く。
二人を包んでいた静寂が無残に引き裂かれた。
次の瞬間――
「助けて!」
子供の悲鳴。
裂けるような声。
屋上まで突き抜ける。
ガタンッ!
ベンチが倒れる。
工具箱が転がり、金属音が跳ねた。
片方だけ取り残された靴。
誰も拾いに来ない。
「どけっ!」
「押すなっ!」
「きゃ!」
怒号と悲鳴が絡み合う。
屋上の出口。
瞬く間に人で詰まった。
押し合い。
潰し合い。
我先にと階段へなだれ込む。
誰も振り返らない。
助けを求める声すら踏み越えていく。
その光景を前に――
朔夜と紡は同時に立ち上がった。
柵へ駆け寄る。
身を乗り出す。
空気が――重い。
肺の奥。
泥のようなものが流れ込んでくる感覚。
皮膚にまとわりつく冷たく湿った気配。
空間そのものが歪んで見える。
一点。
そこだけが異様に沈んでいた。
『――いる』
思考ではない。
本能が断言した。
警報器の赤い光が明滅する。
白に塗り潰された世界の中で、その赤だけが脈打っていた。
南方。
逃げ惑う人々の流れの先。
――それは、いた。
形を持たない黒。
煙のように揺れる。
液体のように滴る。
影そのものが剥がれ落ちて蠢いている。
光に削られながら。
視界に入れた瞬間――
胃が裏返る。
吐き気が喉元まで込み上げる。
黒い瘴気。
それが――"魍魎"。
「ママ――!」
子供の泣き声。
ひとり必死に走っている。
何度も足をもつれさせながら。
涙でぐしゃぐしゃの顔で。
ぬいぐるみを握りしめる。
叫んでいる。
「助けなきゃ……!」
紡の声が震えた。
その言葉よりも早く――
朔夜は動いていた。
頭痛が消えている。
あれほど脳を締め付けていた痛み。
今は嘘のように引いていた。
代わりに――
胸の奥。
別の何かが脈打つ。
熱とも違う。
鼓動とも違う。
ただ、確かに“動け”と告げていた。
『――行け』
それが何なのかは分からない。
だが、抗うという選択肢はなかった。
朔夜は柵に手をかける。
――迷いはない。
バッ!
そのまま、軽く踏み越えた。
一瞬、身体が宙に浮く。
白だけの空。
塗り潰された世界。
視界の端――
タンポポが風もないのに揺れた。
落下。
風が頬を打つ。
タンッ。
地面に着地した瞬間。
膝がしなやかに衝撃を逃がす。
猫のような着地。
そして――止まらない。
そのまま地面を蹴った。
爆発的な加速。
「ちょっ……!」
屋上に残された紡。
息を呑む。
ここは三階の屋上。
普通なら……
命の保証はない。
だが――
あまりにも自然な着地。
無駄のない動き。
人間のそれではない速度。
普段の不器用な姿とは、あまりにもかけ離れていた。
『お願い……!』
紡の祈りにも似た視線。
朔夜の背を追う。
――地上――
朔夜は一直線に駆ける。
子供との距離が急速に縮まる。
同時に――魍魎の圧が増していく。
空気が軋む。
重さが倍加する。
「グゥ……ギョ……」
低く濁った音。
地面の下から這い上がるように響いた。
言葉にならない何か。
意味を持たない音。
光に晒され端々が蒸発する魍魎。
緩慢な動き。
それでも子供を執拗に追う。
子供の顔が、はっきりと見える。
恐怖。
涙。
助けを求める目。
その瞳。
朔夜が映る。
「――間に合え!」
朔夜は地面を強く蹴った。




