3話【百鬼夜行・後】
「父さま!」
背後から円の声がした。
振り返る焔。
そこに――
着物姿の円が立っていた。
優しく手を振っている。
笑顔で駆け寄ってくる。
だが、
どこか姿がブレて見える焔。
――あり得ない。
分かっていた。
それでも。
焔の身体は反応していた。
"灼熱"を解く。
光が消える。
熱が引く。
近づいて来る円を焼かないように。
ただ一人の父として――
その一瞬だけ戻ってしまった。
砂丘が闇夜に帰る。
その時――
ジャリ……
ジャリン――!
砂の中から鎖が飛び出す。
焔の両足首、腰に絡みつく。
引き千切ろうとする焔。
違和感。
力が鎖に吸われているようだ。
神通力が使えない。
『瘴気を含んだ……都の臭い……人間の技術とやらが造った……鎖……か』
徐々に意識が朦朧とする。
ひらり――
依り代の白い紙が舞い落ちた。
そこには【雲外鏡】の血文字。
焔の頭上に。
――遅い。
そう思った時には、もう遅かった。
「式神――雲外鏡」
晴明の静かな声。
依り代が形を持つ。
歪み、膨張する。
変質し。
雲外鏡の姿を取る。
「千里眼」
続く、雲外鏡の抑揚のない声。
腹鏡が――光る。
鈍く。
逃げ場のない光。
雲外鏡が落ちてくる。
焔は落ちてくる巨体を、
受け止めようと、片手を上げたかけた。
そのまま、
ズズ――
焔を腹鏡に呑み込む。
絡みつく鎖ごと。
ドスンッ!
雲外鏡は、腹這いで地面に落ちた。
その瞬間――世界との繋がりが断ち切られた焔。
焔の音が消えた。
焔の匂いが消えた。
焔の存在が――切り離された。
何事も無かったかのように、立ち上がる雲外鏡。
腹鏡の鈍い光が消える。
「雲外鏡。こちらを向け」
晴明の命令。
黙って向き直る雲外鏡。
ズドン――!!
晴明が至近距離で大筒を撃ち込む。
バリンッ――!
雲外鏡の腹鏡が粉々に砕ける。
この世との通路を断つ。
跪く雲外鏡は、怒りも、反撃する事もなく、依り代に戻った。
「これで……封じたか……」
一抹の不安を残す晴明。
焔を侮ることはしない。
息を深く吐く。
肩が、わずかに下がる。
依り代を拾う。
その手が、わずかに震えていた。
その顔には――
安堵も達成感もなかった。
「さすが陰陽師。良くできたわ。帝におねだりして造らせた、怪異捕縛鎖も上出来ね」
嬉しそうな円の声。
振り返る晴明。
そこにいた“円”が――
溶ける。
歪む。
変わる。
人の形をした九尾へと。
晴明は無言で、依り代を九尾に渡す。
受け取る九尾。
「これで……契約は終了ね」
穏やかに微笑む。
まるで、何も壊れていないかのように。
「寂しくなるわね。このまま手を組んでも良いのよ。貴方も"搾取する側"にならない?」
本心なのか全く分からない、九尾の誘い。
「……約束通りだ」
晴明は誘いに応えない。
九尾を見ない。
その場を見ない。
何も見ない。
「円には……手を出すな」
それだけを言い残す。
それが彼に残された唯一の“正しさ”だった。
「分かってるわ」
九尾の軽い返事。
『晴明、食えない子。"式神"、怪異を操れるなんて……厄介な神通力よね。あと何体持っているのかしら。私も取り込まれないように、気を付けなきゃね』
興味と警戒が残る眼差しで晴明を見送る。
その背に温度は感じなかった。
晴明は振り返らない。
そのまま去る。
ただ一度も――
焔のいた場所を見なかった。
見れば――自分が何をしたのか、理解してしまうからだ。
「……ふふ」
九尾が笑う。
愉しそうに思案する。
足元に転がる、赫斎を見下ろした。
赫斎の皮膚は爛れた、鎧兜にへばりつく。
肉の焼け焦げた臭いが鼻を突く。
「生き残りは一人だけ……十七代帝は……私の言いなりだし。そうね、貴方には……英雄になってもらうわ」
赫斎の横に屈む九尾。
「英雄として、語られる存在にしてあげる」
赫斎の焼けた耳元に囁く。
気絶した赫斎には届くはずがないのに。
「自然を奪った人間……今度は私が、人間を操り、人間から奪う……これが、私と人間の"共存"よ」
歪んだ考え。
歪んだ笑み。
九尾の"物語を作る者”の顔。
晴明から受け取った依り代を見る九尾。
「焔、これで……貴方は、私のものよ」
愛おしむ眼差し。
依り代の縁を指でなぞる。
そして、
その“焔へ通じる楔”を、飲み込んだ。
ゴクリ。
喉を通る感触が確かにあった。
腹の奥で何かが蠢いた。
「環なんかに奪われなければ…… これからは、私の中で、永遠に生きるのよ……ほむら」
嫉妬から喜びの声に変わる九尾。
腹を擦る。
嬉しそうに、九つの尻尾を振った。
飲み込んだのは焔ではない。
焔へ通じる、ただ一つの楔。
それを腹に納めたという事実に、九尾はうっとりと目を細めた。
――常闇――
「……ここは」
声が、響かない。
何も、返らない。
見えない。
前も、後ろも。
右も、左も。
上も、下も。
――すべてが、ない。
方向が、ない。
距離が、ない。
境界が、ない。
「……雲外鏡か……どこに飛ばされた……」
静かに、呟く。
「……考えたものだ」
その時。
ジャリジャリン――
音。
遅れて、意味が届く。
瘴気の鎖が巻き付く。
ジャリジャリン――
ジャリジャリン――
何十本。
何百本。
これでも足りないと言わんばかりの数が、
飛びつく。
絡みつく。
蛇のように。
闇に引きずる。
深淵に沈める。
ギシッ!
鎖が軋む。
足掻けば足掻くほど食い込む。
人間が作り上げた“世界そのもの”が、絡みついてくる。
纏わりついてくる。
「……ここまで……仕掛けておったか」
小さく息を吐く。
「……晴明」
怒りは、ない。
恨みも、ない。
ただ――
全てを理解した。
「……構わぬ」
鎖が食い込む。
砕けるような圧。
それでも。
「いずれ、私が呑み込んでやる。百年後か……千年後か……万年後か…… 何年かかろうと……私は、必ず戻ってくる」
静かに。
確定した声で。
「私は――常闇の主だ。円環を失った世界など……ただの死骸……ならば――」
大きく息を吸う焔。
闇を吸い込むように。
「光ごと――歪んだ世界を終焉へ還す。それだけのことだ」
何もない闇の中で。
闇に溶けていく焔。
輪郭が曖昧になる。
闇と混ざり合う。
そして、
ただ一つ。
確かなものが生まれた。
“意思”だけが残った。
それは――世界を終わらせるためではない。
間違いだった世界を、
初めから無かったことにする意思だった。
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