1話【百鬼夜行・前】
――これは、朽木の知らない過去。
敗者の記憶。
勝者に塗り替えられた歴史ではない。
誰にも語られず、
歴史にも残らなかった、百鬼夜行の話し。
――八百万神社――
「もう……どうでも良い……」
心底、そう思った焔。
守れなかったことも。
信じていたことも。
すべて――意味を失った。
環を抱いたまま、立ち上がる焔。
虚無感が全身を覆う。
ふらつく足取り。
赤い髪が揺れる。
身体が重い。
感覚が鈍い。
全て、無駄だった。
環の血だけが、現実だった。
『環が天寿を全うできるよう、寄り添っていきます』
祝言での言葉が脳裏に浮かぶ。
本当に寄り添えていたのか。
守れていたのか。
……守れるはずが、あったのか。
『怪異と人間の架け橋になりたい』
なれたのか。
なれたつもりだったのか。
――戯れ言だ。
詭弁だ。
最初から、そんなものは――存在しなかった。
……違う。
存在しては、いけなかったのだ。
怪異と人間では生態が違う。
存在意義が違う。
だから――
「私は……」
わずかに、言葉が途切れる焔。
思想がずれていく。
「最初から、間違っていたのか……?」
沈黙。
風は吹かない。
虫も鳴かない。
世界が――何も答えない。
「……ならば」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
ただ――
焔の中で、何かが反転する音がした。
「もう……守らぬ」
ぽつりと、零れる。
「共存も……未来も……」
「……すべて、壊す」
怒りは、なかった。
悲しみも、なかった。
ただ――
何も、残っていなかった。
静かに、焼け焦げた地を立ち去る焔。
環の血が、点々と軌跡のように残る。
――山奥の祠――
ビュ――
冷えきった風が、山肌を駆け抜ける。
焔の長く赤い髪が靡く。
「本当に行くのだな?」
雲外鏡が、焔を見下ろしながら問う。
止めることはしない。
ただ、決意を確かめる声。
「あぁ」
短い返答。
その声は――かつての焔のものではなかった。
「円は……子供たちは、どうするんだ?」
焔の背後から細い声。
枯れた手で焔の肩を掴む木霊。
木霊の、今にも折れそうな腕が、自然破壊の影響を静かに物語る。
焔は、一瞬だけ円の顔が脳裏をよぎった。
だが、すぐに環の血の匂いが、それを塗り潰した。
『……どうでもいい』
――そう言いかけて、やめた。
「木霊。貴様の妻も……人間に殺されたのだろ」
振り向かずに言い放つ焔。
「人間がいなくなれば、怪人たちも居場所ができる…… その方が――早い」
声に怒りは無い。
焔は首だけを回し、木霊を見据える。
「怪異なら尚更。森と繋がりが深い木霊なら、良く分かるだろ」
事実だけで押し潰す。
もう、人間を“人間”として見ていない。
木霊は、焔の感情が欠落した顔や声に畏怖した。
『焔は……変わってしまった……のか』
木霊は何も言い返せない。
掴んだ手を離す。
触れてはいけないものに、
触れたかのように。
「千里眼」
雲外鏡の腹鏡が、鈍く光る。
映し出された都。
発展の名をまとった黒煙が、瘴気のように都を包む。
その中で、主張するように煌々と輝く城。
燃え上がる家々。
一瞬――立ち止まる焔。
「怪異の長は、私だ。人間は自然を蝕むもの。ならば――取り除くまで」
木霊を一瞥し、
そのまま、腹鏡に踏み込んだ。
――都――
闇夜を拒むように、明るく照らされた都。
至る所で火の手が上がる。
雷鳴。
竜巻。
地震。
悲鳴と怒号が、歪に絡み合う。
そして――この空気。
自然ではない、何かが混じる毒気。
人間社会が排出する瘴気。
まるで、
この世界そのものが、怪異を拒んでいるかのようだ。
吸うたびに――削られる。
立つだけで――削られる。
胸が軋む。
肺が焼ける。
それでも怪異たちは進む。
奪われたものを取り戻すために。
二度と奪わせないために。
――百鬼夜行。
怪異の威信を賭けた戦争。
ビカ――!!
閃光が、空を裂いた。
空そのものが、ひび割れたように見えた。
城に雷が落ちる。
遅れて――
ドゴォォォォン……!!
大気を震わす轟音。
瓦が吹き飛ぶ。
屋根に大穴が開く。
そこから、一気に駆け上がる雷獣。
背には、救出した座敷童子と河童。
瀕死の鵺を咥え、空を裂く。
だが、
都の瘴気が、雷獣の黄色い毛に纏わり付く。
まるで、沼の中を駆けている感覚。
自慢の素早さが、思うように出ない。
ズド――ン!
ズド――ン!
砲撃を掻い潜る雷獣。
しかし、一発が脇腹に直撃。
空から叩き落とされる。
ザザザ――
追撃の矢の雨。
雷獣は、咄嗟に座敷童子と河童に黄色い尾を被せる。
その瞬間――
「業火」
雷獣の頭上から落ちる声。
全ての矢が空中で発火、焼失した。
燃え煤が舞い降る。
「焔――!」
雷獣の尾から顔を覗かせる、座敷童子と河童の歓喜の声。
「人間どもに報いを与える。そうであろう?」
感情の薄い、焔の言葉。
「おおよ!」
雷獣が牙を剥き出して笑う。
「焔も理解したか――嬉しいぞ!」
四肢を踏ん張り、重い身体を無理矢理起こす雷獣。
だが――
その笑みに、焔は何も感じなかった。
「怪異の長が現れたぞ!!」
「焔の首を獲れ――!」
人間の怒号。
騎馬隊が駆ける。
鉄砲隊が鉛を飛ばす。
足軽隊が槍を構え走る。
焔たちに、大軍が武器を振り押し寄せた。
その時。
ドゴゴゴゴ。
地面に亀裂が走る。
轟音と共に大地が大きく波打った。
地中を泳ぐ大鯰が地震を起こす。
暴れる騎馬。
転倒する人間。
「お馬さんは逃がしてあげて――!」
座敷童子の叫び声。
「馬には危害を加えるな!」
怪異たちが呼応する。
崩れた部隊に次々に襲い掛かる怪異たち。
人間を喰らい。
人間を裂き。
人間を潰す。
阿鼻叫喚の地獄絵図のように。
――
一年。
十年。
二十年。
闇夜の戦いは続く。
新月の夜ごとに。
あるいは、闇が深まるたびに。
百鬼夜行は繰り返された。
奪い返すための戦いは、
やがて――失い続けるための戦いへと変わった。
――五十年後――
荒れ果てた砂丘。
元は草花が咲く、緑の丘だった。
結局、
五十年の戦いで、何も戻らなかった。
最後の新月の夜。
百鬼夜行直前。
もはや、人間たちは、怪異の長を“焔”とは呼ばない。
闇夜に現れる破壊の象徴――常闇の主。
怪異たちは疲弊していた。
皆が窶れていた。
「自然が泣いている…… もう、どこに行こうが……削られる」
瘴気で縮んだ大太法師の声は細い。
「倒しても……倒しても……終わらぬ」
爪の欠けた酒呑童子の顔色は、死に近い。
「我らは……もう五体のみ。それなのに人間は……増え続ける」
脚の数が減った牛鬼の声に、人間への恐怖が混じる。
それでも――
「まだ、五体いるではないか! 座敷童子がまた攫われたんだ。奪い返すぞ!」
尾が千切れた雷獣が吠える。
だがその電気は弱い。
焔は、ただ都を見ていた。
都の臭いが染み着いた赤い髪が揺れる。
何も聞いていない。
何も感じていない。
ただ――違和感だけがあった。
「来るぞ」
ザッ。
ザッ。
砂を踏み鳴らす音。
闇夜に現れた灯りの群れ。
松明を掲げた部隊が、規則正しく隊列を組む。
砂丘に現れる討伐隊の先頭。
その中に――
見知った顔。
怪人の晴明。
雷獣の毛が逆立った。
その目は鋭く、裏切り者を見る目だった。




