3話【一輪の花】
「困るんですよ。そういうことをされると」
事務員は、破れたポスターを回収する。
「光統院に見つかったら罰金ものですよ」
「……すいません」
頭を下げる。
――見逃された、だけだ。
胸の奥に残る、鈍い違和感。
消えないまま。
――作業場――
「違うっ!そうじゃないっ!」
「何度言ったら分かるんだっ!」
顎髭を生やす、筋肉質な上司。
金属音を引き裂くように、怒号が叩きつけられた。
常に睨むような目つきで、僕を見下ろす。
白い光。
天井から、容赦なく降り注ぐ。
逃げ場はない。
作業台も。
人の表情も。
すべてを、平等に――無遠慮に暴き出す。
ここに来て、約一年。
誰よりも早く来て、誰よりも遅くまで残った。
手順はすべてメモに書き、何度も、何度も頭の中でなぞった。
それでも――
できる気がしない。
――いや、最初から無理だったのかもしれない。
キューン。
モーターの甲高い回転音が、耳の奥を刺す。
ブォーン。
低い振動が、足元から這い上がる。
わずかなはずの音が、逃げ場なく、頭の内側へと入り込む。
思考が削られる。
焦りが、集中を奪う。
結果――
手に持った工具が、わずかに宙を泳いだ。
『クソッ……』
震える手が、言うことを聞かない。
「だからっ!そうじゃないって言ってるだろっ!」
怒声が、さらに強くなる。
空気が冷える。
視線が刺さる。
呆れ。
苛立ち。
軽蔑。
誰も、それを隠そうとしない。
……慣れているはずなのに。
胸の奥が、軋む。
キーン。コーン。
休憩の鐘が鳴る。
上司は舌打ちを残し、
ぶつぶつと文句を言いながら去っていった。
「朔夜~お前ほんとトロいな~」
「それ新人が初日にやるやつだろ」
笑い声。
僕は、何も言わない。
コトッ。
工具を、静かに置く。
その音だけが、やけに大きく響いた。
誰とも目を合わせない。
ゆっくりと、立ち上がる。
向かう先は――決まっている。
――屋上――
そこは、偶然見つけた場所だった。
配管の隙間。
ひび割れたコンクリート。
その、わずかな土の割れ目に――
一輪の花が咲いていた。
この場所で、唯一、“自然”が残っている場所。
僕は、その隣に腰を下ろす。
白夜の光に晒され、花弁はどこか疲れている。
それでも――折れていない。
踏まれもせず、守られているわけでもない。
それでも、ここで咲いている。
指先で、そっと触れる。
柔らかい。
壊れそうで――
それでも、確かに生きている。
「……どうして、お前はここで生きていられる」
答えは、返ってこない。
それでも――
ここでは、息ができる。
機械油の臭いが薄れ、音が遠のく。
視線が消える。
――その瞬間だけ。
“生きている”と、感じられた。
「……次は、どこに逃げればいい」
ぽつりと、零れる。
これで、何度目だろう。
拳を握る。
目立たず。
逆らわず。
ただ、やり過ごす。
そう決めたはずなのに――
視線の先。
白い光を放つ、巨大な鉄塔群。
規則正しく並ぶ、無機質な柱。
都を覆い尽くすように立ち並ぶそれは――
まるで、世界そのものを監視しているかのようだった。
逃げ場など、最初から存在しないと告げるように。
胸の奥が、軋む。
……花だけが、この場所で“例外”だった。
――作業場――
休憩が終わる。
重い足取りで戻る。
ガタッ。プシュ。
ガタッ。プシュ。
再び始まる機械音。
『……』
手が、動かない。
心が、追いつかない。
その時――
コツッ。
コツッ。
静かな足音が、近づいてくる。
肩にかかる長さの、黒茶色の髪が揺れる。
ざわり、と空気が揺れた。
周囲の視線が、一斉に一点へ集まる。
空気の温度が、変わる。
「反思想の小娘だ……」
誰かが、吐き捨てるように言った。
――場の“常識”から外れた存在。
それだけで、空気は歪む。
だが。
その足音は、止まらない。
まっすぐに。
迷いなく。
一直線に――
僕の前で、止まった。




