4話【星】
「反思想の小娘だ……」
その一言で、周囲の空気がわずかに引いた。
だが――小柄な娘は反応しない。
ただ、真っ直ぐに歩いてくる。
コツッ。
コツッ。
一定のリズム。
この場に似つかわしくないほど、迷いのない足取り。
俯いたままの朔夜と、蔑視を向ける同僚たちの間へ。
その隙間に――自然に割って入る。
まるで、そこに立つのが当然であるかのように。
「チッ。紡か」
同僚が露骨に顔を歪める。
紡は、視線すら向けない。
ただ一点。
朔夜の作業台だけを見ていた。
「貸して」
柔らかい声。
だが、そこに迷いはない。
『……』
朔夜は答えない。
背中は丸まり、
手は小刻みに震えている。
……数秒の沈黙。
紡は急かさない。
責めない。
ただ――待つ。
朔夜の意識が、現実へ戻るのを。
『……』
だが、戻れない。
紡は小さく息を吐いた。
「よいしょっ」
次の瞬間――動いた。
迷いなく。
朔夜の作業台に置かれていた未完成の装置を抱え上げる。
あまりにも自然な動作。
最初から決まっていたかのように。
咎める言葉もない。
振り返ることもない。
そのまま、自分の作業台へと持ち帰っていく。
……それだけだった。
だが、その行動は。
この場の“常識”から、明確に外れていた。
同僚たちは一瞬だけ顔を見合わせる。
だが――すぐに視線を外した。
関わらない方がいい、とでも言うように。
ガタッ。プシュ。
ガタッ。プシュ。
無機質な機械音が、再び空間を満たす。
だが、朔夜には――
その音すら遠く感じられた。
――屋上――
重たい扉を押し開ける。
白い光が、容赦なく視界を満たした。
昼か夜かも分からない空。
雲も、星もない。
ただ――塗り潰された白。
遠くまで続く光の鉄塔群。
規則正しく並ぶ、巨大な柱。
世界そのものを監視する装置のように。
すべてを、白日のもとに晒すための。
屋上の中央では、数人の同僚が談笑している。
誰も空を見上げない。
疑問すら持たない。
それが“正しい”と知っているから。
朔夜は視線を逸らす。
屋上の隅へ。
配管の影にできた、わずかな土の割れ目。
そこに咲く――一輪の花。
……この場所で、唯一“隠れていられる存在”。
その隣に、腰を下ろす。
『……』
指先で、そっと花弁に触れる。
柔らかい。
壊れそうで、それでも、確かに生きている。
かすかな香りが、肺の奥へと広がる。
音が遠のく。
視線が消える。
――ようやく、呼吸ができる。
「その花はタンポポ?」
不意に、頭上から声が落ちた。
はっと目を開ける。
顔を上げる。
紡が、少し身を屈めていた。
顔にかかった髪の毛を耳にかける。
甘い香り。
距離が近い。
「……ああ」
一瞬、言葉が遅れる。
人と話すこと自体、ひどく久しぶりに感じた。
紡は、花を挟むように腰を下ろす。
同じ方向を見る。
沈黙。
……だが。
不思議と、息苦しくない。
「ねえ、朔夜は――星を見たことある?」
紡は、白い空を見上げたまま言う。
その声には、まっすぐな好奇心があった。
「ある」
短く答える。
それ以上語るつもりはなかった。
だが――
紡は、それだけで嬉しそうに笑った。
「いいなぁ……」
ぽつり、と零れる。
少しだけ、目を細める。
「どんなだった?」
間を置く。
考えていなかった質問。
……それでも。
「暗かった」
気づけば、口が動いていた。
「……静かで」
言葉を探す。
「でも――ちゃんと、輝いていた」
紡は、小さく息を呑む。
「そっか……」
空を見上げる。
何もないはずの場所を。
それでも、そこに何かを重ねるように。
「私も、一度でいいから――」
声が、わずかに落ちる。
「本物の、綺麗な星を見てみたいな……」
「ねぇ知ってる? 星座には、いろんな物語があるんだよ」
その言葉は、誰にも聞かれないように抑えられていた。
けれど――消えてはいなかった。
紡の大きな瞳が輝いている。
「そんなこと言ってるから、反思想扱いされるんだ」
軽く嗜める。
責める気持ちはない。
ただ――この世界は、それを許さない。
「あぁ……」
紡は苦笑して、頭をかいた。
でも。
その目は、まだ空を見ていた。
まるで――
そこに“あるはずのもの”を探すように。
「さっきは、ありがとう」
自分でも驚くほど、自然に出た言葉。
紡は、一瞬だけ目を丸くして――
すぐに、柔らかく笑った。
「どういたしまして」
その笑顔は、この白い世界の中で、あまりにも異質だった。
温度があった。
影があった。
――生きていた。
その空気が、二人を包む。
ほんの、わずかな時間だけ。
世界が、優しくなる。
――その瞬間。
ビ――!ビ――!
空気が、引き裂かれた。
無機質な警報音。
光統院の――対魍魎警報器。
一切の余白を許さない、強制的な音。
「助けて――!」
子供の泣き声。
鋭く裂けるような悲鳴。
屋上まで、届いた。
その声は――
“今この瞬間”を、否定するように響いていた。




