8話【未来の光】
――補給所の廊下――
「人間を守る価値なんてあるの?」
突き付けられた、暗黒の切先。
その問いは、刃よりも鋭かった。
雫の胸の奥へ、深く、静かに沈んでいく。
「……」
言葉が、出ない。
即答できるほど、この問いは軽くない。
脳裏に浮かぶのは、白い牢獄。
焼かれた両手。
血の涙を流す結月の顔。
光の名の下に、怪人が壊されていく光景。
あの地獄を知る自分が。
あの痛みを、いまも身体に刻まれている自分が。
“人間を守る”と、迷いなく言えるのか。
胸の奥が、軋む。
両手の傷痕が、じくりと疼いた。
動けない。
身体も。
思考も。
問いそのものに、縫い止められたように。
――その時。
「おらぁぁ――ッ!!」
一鉄が、吠えた。
恐怖を押し潰すための咆哮。
逃げ出したい本能を、力ずくで踏み潰すような声。
大きく踏み込み、ライトを振り抜く。
ビュン――ッ!
収束した光が、細い刃となって奔る。
一直線。
迷いのない一撃。
結月の首を、確かに――捉えた。
――はずだった。
手応えが、ない。
何も、斬っていない。
ただ、通り抜けた。
光の刃は、闇を裂くことすらできず、そのまま虚空を滑った。
「……は?」
一鉄は数歩先で立ち止まり、振り返る。
自分の手の中の光を見る。
結月の首を見る。
もう一度、光を見る。
理解が追いつかない。
結月は、振り向きもしない。
「私は……怪人よ」
静かな声。
嘲りではない。
怒りでもない。
ただ、揺るぎない事実を告げる声。
「そんなものは……効かないわ」
ジャリン。
鎖が、わずかに鳴る。
「クックック……」
低く、濁った笑い。
ゆらり。
結月が歩く。
闇に溶けるように。
だが確実に、一鉄との距離を詰めてくる。
一鉄の身体が、動かない。
足が、床に縫いつけられたようだった。
呼吸が浅くなる。
視界が狭まる。
心臓の音だけが、やけに大きい。
闇が、絡みついてくる。
逃げろ、と本能が叫ぶ。
だが、その命令すら身体に届かない。
酔闇が、ゆっくりと振り上げられる。
遅い。
なのに、避けられないと分かる。
その刃が落ちれば終わると、本能だけが理解していた。
――その瞬間。
ドゴッ!!
「がっ……!」
衝撃。
一鉄の身体が、奥へ弾き飛ばされる。
壁へ叩きつけられ、肺の空気が一気に抜ける。
直後。
ス――ッ。
暗黒の刃が、空を裂いた。
そこにあったはずの首は――ない。
雫が、結月の足元へ滑り込んでいた。
低く、深く。
モップの柄が、結月の脇腹をかすめている。
ほんの紙一重。
間一髪。
一鉄を突き飛ばし、その一撃の軌道から外していた。
シュッ!
振り向きざま、結月が酔闇を横に振るう。
同時に、雫は後方へ跳ぶ。
靴底が床を擦る。
互いの間合いが、再び開く。
「……それでも」
雫の声は、震えていた。
だが――確かに絞り出された言葉だった。
雫と結月が、正面から向き合う。
逃げずに。
逸らさずに。
「設備室を確保して!」
鋭く飛ぶ指示。
「あぁ……!」
一鉄は、ようやく呪縛から解かれたように息を吐く。
歯を食いしばりながら立ち上がる。
肋が軋む。
呼吸が痛い。
それでも、足を止めない。
『適材適所だ……』
拳を握る。
『今は……俺のやることをやる』
悔しさを飲み込む。
正面からでは勝てない。
それでも、やるべきことはある。
廊下の隅。
血に濡れたライトが転がっている。
一鉄はそれを拾う。
べたりとした感触。
『先輩の血か……』
一瞬だけ、思考がよぎる。
だが、振り払う。
いまは走る。
設備室へ。
生きて役目を果たすために。
「それでも?」
結月が、聞き返した。
感情の揺れがない声。
責めるでもない。
ただ、雫の言葉の続きを待つように。
沈黙。
両者、動かない。
空気だけが張り詰めていく。
――その時。
ジジ……
天井の照明が、一つ、また一つと灯り始める。
白い光が、廊下を満たしていく。
途切れていた昼が、無理やり戻ってくる。
結月の姿が、はっきりと浮かび上がる。
盲いた瞳。
首枷に刻まれた名。
揺れる鎖。
血に染まった衣服。
傷んだ肌。
あの時のまま、壊れたままの姿。
――哀しい。
痛々しい。
目を背けたくなるほどに。
だが。
酔闇の周囲だけは、なお黒い。
白い光が、そこだけ吸い込まれている。
まるで、その刀だけが別の世界に属しているように。
雫は、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥の震えを押し込める。
恐怖も。
迷いも。
痛みも。
全部抱えたまま、それでも前を見る。
そして――口を開く。
「それでも……」
一歩、踏み出す。
靴音が、白い廊下に響く。
「未来の光はあるから」
言葉は静かだった。
叫びではない。
理想を振りかざす声でもない。
もっと細くて、弱くて。
それでも折れない声だった。
「……まだ、選べる未来がある」
「怪人も、人間も」
「奪い合うしかない未来じゃなくて……」
「違う未来を、選べるかもしれない」
結月の首が、わずかに傾く。
「どんな光?」
問いは穏やかだった。
怒りも、嘲りもない。
ただ確かめるための声。
本当にそんなものがあるのかと。
かつて信じて、裏切られた者の声で。
雫は、喉を鳴らす。
怖い。
簡単に否定されるかもしれない。
斬られるかもしれない。
それでも、言わなければならなかった。
「誰かを焼くための光じゃない」
「誰かを支配するための光でもない」
「傷ついた人が……やっと息をつけるような」
「朝みたいな光よ」
結月の指先が、わずかに動く。
酔闇の刃先が、ほんの少し揺れた。
――その時。
ドカンッ!!
監視室の扉が、内側から蹴破られる。
破片が飛ぶ。
白い光が流れ込む。
逆光の中に、三つの影。
朔夜。
紡。
そして、隊員。
空気が、止まる。
時間が、凍る。
雫も。
結月も。
その場の全てが、一瞬だけ静止した。
「かっ……!」
朔夜の視界が揺れる。
息が詰まる。
そこに立つ姿を、見間違えるはずがなかった。
忘れられない顔。
思い出の奥に沈めても、消えることのなかった顔。
喉が震える。
言葉が、漏れる。
「……母さん……」
その一言が、静かに落ちた。
結月の身体が、止まる。
ほんのわずか。
本当にわずかに。
酔闇の刃先が、下がる。
ジャリン。
鎖が、かすかに鳴った。
その音はさっきまでの不気味な響きとは違っていた。
まるで、何かを思い出しかけた者の、ためらいのように。




