7話【酔闇】
――回想――
「これは凄い! また当たった!」
豪奢な部屋。
絨毯は分厚く、壁には無駄に高価な装飾が並ぶ。
だが、空気は腐っていた。
香水と酒精が混じった、むせるような匂い。
歓声。
拍手。
下卑た笑い声。
それらが、天井に張り付いて離れない。
「光統院も金のなる木。いや――金のなる怪人を見つけたものだ」
「さぁ。次は、株の動向を読め!」
首枷で椅子に固定された結月。
背筋を無理やり伸ばされ、逃げ場のない視線の中に晒されている。
見世物。
道具。
金を生むための器。
ここに正義はない。
秩序もない。
あるのは――人間の欲だけだった。
「お願い……これ以上は……」
結月の目は、すでに限界を超えていた。
充血しきり、血が滲み、白目はほとんど残っていない。
焦点は合わない。
眼球の奥が、焼けるように痛む。
呼吸が乱れる。
胸が浅く上下する。
それでも、休ませてもらえない。
「ふざけるなっ! お前にいくら払っていると思っている!」
盃が投げつけられる。
額に当たる。
鈍い音。
酒が、頬を伝って滴り落ちる。
笑い声が重なる。
誰も止めない。
誰も、"人"として見ていない。
唇を噛む。
呼吸を整える。
震える身体を、無理やり押さえ込む。
そして――
「……月読み」
――視る。
未来を、引きずり出す。
無理やり。
眼球の奥から。
脳の底から。
魂の芯から。
――
また、同じ部屋。
同じ匂い。
同じ声。
同じ欲。
時間だけが進み、何も変わらない。
「早く投資先を教えろ!」
「……月読み」
だが――見えない。
未来が、途切れている。
霧の向こうに沈んでいる。
指を伸ばしても、掴めない。
輪郭が、崩れている。
「……もう無理……」
首を横に振る。
一度。
二度。
何度も。
だが、それを許す光ではなかった。
白い光。
逃げ場のない照射。
まぶしいのではない。
刺さるのだ。
怒号が、上から降ってくる。
「仕方ありませんね」
静かな声。
それだけで、場の空気が変わる。
騒がしかった欲の部屋が、一瞬で冷える。
若き頼光。
まだ今ほどの貫禄はない。
だが、その目には、すでに怪人を"人"と見ない冷たさが宿っていた。
指先だけで、合図を送る。
それだけで、扉の向こうから傷だらけの怪人が引きずられてきた。
「あなたっ……!」
ぼやけた視界の中でも、分かった。
夫だ。
血まみれの身体。
折れた呼吸。
立っているのもやっとの身体が、無理やり見せつけられる。
「ぐわぁぁ――!」
刃が、迷いなく突き立てられる。
肉を裂く音。
血が跳ねる。
「やめて!!」
結月の喉が裂けそうになる。
「約束が違うじゃない!」
「何のことですか」
頼光の返答は、あまりに平坦だった。
感情がない。
初めから守る気などなかった、と言わんばかりの声音。
血が、床に広がっていく。
赤が、白を汚していく。
「分かったから……! 傷つけないで!」
「……だめだ……それ以上……使うなっ……」
掠れた声。
弱々しい。
それでも、真っ先に妻を案じる声。
「結月……お前が……壊れる……」
結月は、目を閉じた。
閉じても、何も消えない。
夫の血の匂いだけが、濃くなる。
「月読み」
――視る。
無理やり。
視せられる。
赤黒く塗り潰された未来。
誰の顔も分からない。
救いもない。
祈りも届かない。
ただ、破滅だけが広がっている。
世界そのものが、血で潰されていくような光景。
ブチンッ。
眼球が、内側から弾けた。
「あぁぁぁぁぁぁ――!」
絶叫。
血が、涙と混ざって流れ落ちる。
視界が消える。
光が消える。
世界が消える。
身体が崩れる。
意識が、深い底へ落ちていく。
「あれ、壊れましたか」
頼光が、わずかに口元を歪める。
ほんの少し。
愉快そうに。
「惜しいですね」
その声音には、本当に“惜しい”という程度の感情しかなかった。
怪人が壊れたことへの、何の痛痒もない。
――研究施設の牢獄――
バダンッ!
真っ白な牢獄。
冷たい床。
光しかない部屋。
その雫のすぐ横に、結月の身体が投げ込まれる。
力なく転がる身体。
血の涙。
濡れた頬。
閉じられた瞼。
雫は、這うように近づいた。
焼けただれた手で床を引きずりながら。
皮膚が擦れる。
痛い。
それでも止まれない。
首枷を確かめる。
刻まれた名前。
「……結月……さん」
かすれた声。
それでも、呼ばずにいられなかった。
「大丈夫ですか?」
自分も壊れかけている。
自分だって救われていない。
それでも、他人を気遣う声が出た。
結月は、瞼を閉じたまま口を開く。
「ここは……どこ……」
「牢獄の中」
事実しか言えない。
希望の言葉を持っていない。
「……夫は?」
その一言で、雫の喉が詰まる。
「分からない……」
沈黙。
重い。
空気が、沈み込む。
何も言えない。
何を言っても、救いにならない。
「……成長した我が子を見たかった……」
絶望した声だった。
泣き叫ぶ力すら残っていない。
ただ、ぽつりと零れた本音。
それが、いちばん痛かった。
それきり。
結月は、独り言を言うようになった。
誰かと話すように。
見えない誰かに応えるように。
眠っているのか、起きているのかも分からないまま。
小さな声で。
壊れた夢の続きをなぞるように。
――結月の夢――
闇。
何もない。
上下もない。
左右もない。
果てもない。
ただ、生ぬるい闇の中に沈んでいる。
意識だけが、かろうじて浮いている。
ジャリン。
ジャリン。
鎖の音が、近づく。
距離が分からない。
どこから来るのかも分からない。
だが――“上”から見られている気配だけがある。
逃げられない視線。
けれど、不思議と恐ろしくはない。
もう、それ以上に怖いものを見た後だったから。
「私の血を受け継ぐ者よ」
声が、直接脳に落ちる。
耳ではない。
もっと深い場所に響く。
「……そんなに苦しい思いをして」
優しい声。
責めない声。
否定しない声。
慰めるように、包み込む声。
「……私の何を……知ってるの……」
震える声で、結月は問う。
「全てだよ」
声は近い。
だが、どこにもいない。
姿がない。
輪郭がない。
ただ、闇だけが、そこにいる。
「もう、疲れただろう?」
その言葉が、胸に刺さる。
奥底に押し込めていたものが、堰を切る。
「どうして……」
声が震える。
「怪人も……人間も……同じ……“人”なのに……」
答えのない問い。
何度も飲み込んだ問い。
何度も、心の中で腐らせた問い。
ようやく零れたそれは、ひどく脆かった。
「闇に酔えば、楽になれるぞ」
耳元で囁かれる。
甘い。
拒絶できない。
痛みを知り尽くした者にだけ効く、毒のように。
もう、見なくていい。
もう、耐えなくていい。
もう、失わなくていい。
そう言われている気がした。
「闇に酔う者しか、振るえぬ刀」
ス……
闇の中に、それは現れた。
暗黒の刀。
光を吸い込む、夜そのもののような刃。
見ているだけで、意識が沈む。
美しい。
不気味なほどに。
恐ろしいほどに。
そして、優しい。
「“酔闇”を受け取るか?」
沈黙。
結月の呼吸が震える。
指先が、止まる。
躊躇いか。
恐れか。
それとも、最後に残った善としてのためらいか。
それでも。
ゆっくりと。
指先が伸びる。
もう、誰にも助けてもらえないと知っている手で。
何も守れなかった手で。
それでも何かを掴もうとするように。
縋るように握る。
その瞬間。
黒く渦巻く闇が、柄から手へ流れ込んだ。
ぬるい。
柔らかい。
痛みはない。
拒絶もない。
まるで、最初からそこに在ったものが、戻ってくるように。
闇は手から腕へ。
腕から肩へ。
胸へ。
腹へ。
脚へ。
全身へ。
ゆっくりと満ちていく。
苦痛は、全くなかった。
それどころか――心地良かった。
重かったものが、沈んでいく。
痛みが、遠のく。
悲しみが、輪郭を失う。
酔いが回る。
意識の芯まで。
優しく、深く、逃れられないほどに。
結月は、笑った。
泣く代わりに。
壊れる代わりに。
堕ちることでしか、保てないものを抱えたまま。
――研究施設の牢獄――
雫が、目を覚ます。
白い光。
冷たい床。
息苦しい静けさ。
隣を見る。
誰もいない。
さっきまで結月がいた場所。
その空白だけが、異様に大きい。
そこに残っていたのは――
黒い染み。
じわり。
じわりと、床に広がっている。
液体ではない。
影でもない。
闇そのものが、滲み出たような痕。
ジャリン。
ジャリン。
微かに鎖の音がする。
遠ざかっていく。
ゆっくりと。
確実に。
もう戻らないものが、去っていく音だった。




